両国花火組合と篠塚稲荷 花柳界火伏稲荷
○篠塚稲荷神社 台東区柳橋1-5-1
「江戸名所図会 第六天 篠塚稲荷」
挿絵には、「いなり」「本社」「金ひら」とあります。「いなり」が篠塚稲荷で、「本社」が第六天でしょう。

第六天は遷座していますが、篠塚稲荷神社は昔の位置にあります。



<玉垣「両国花火組合」>
両国花火組合は、柳橋料亭組合が運営していました。両国花火大会は、高度経済成長期に至り昭和36(1961)年を最後に終わります。昭和53(1978)年に隅田川花火大会と改称し台東区と墨田区が毎年交互に担当し再開されました。打ち上げ場所は隅田川上流に移っています。
台東区「文化探訪」が参考になります。



<説明文>
詳しい説明が掲示されています。



(説明文)右
「御祭神 倉稲魂命 御神徳 商売繁盛、火伏せ
例大祭 六月第一土曜日、日曜日
毎年、氏子の役員や有志の方々が御奉仕誘導して江戸葛西囃子を先頭に、獅子頭、大太鼓の山車と子供神輿が氏子町内を巡行します。そして氏子の崇敬者が所々に設営した御旅所(おたびしょ、即ち御神輿がお立寄りして休む所)で子供さん達に飲物、菓子、玩具、文房具等を沢山に振舞います。

当神社の創建は非常に古くて確かな事は判りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325年頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったと言う当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事から、いつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保七年版(1836年)『江戸名所図会』に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠塚稲荷神社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと言えり」と記してあります。当時は神仏混交の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の三号を受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、且つ江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋(後に篠塚小学校)を運営し、また福井町にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏棄釈により玉蔵院を廃止し、大正11年には篠塚学校も廃校致しました。

↓左手前が新田義貞公、背後は篠塚伊賀守、 ↓伊賀守が敵の軍船を奪うの絵
篠塚伊賀守重宏については太平記や徳川光圀公の大日本史などに詳しく記述されていますが、大変な強力無双な武将で新田義貞公が福井で戦死した後は、義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の軍船を奪い、現在の魚島を経て関東に向ったとあります。魚島やその他には様々な史跡が残存していますがその没年は不確かです。その豪傑振りは歌舞伎の演目にもなり左図の如き武者絵にもなりました。後年出生地の群馬県邑楽町篠塚の大信寺境内に御廟が建立され、毎年4月は篠塚一門の者が集まりご供養しています。」

(説明文)左
「当神社は小社ですが境内に古跡地としての由来を記した石碑と、宗祇が詠んだ句碑があります。
(句碑)
「代地川岸永住栞 涼風や月雪 はなの隅田川 宗祇」
「(註)
「宗祇」は室町後期の歌人(一四二一~一五○二)
平安末期の「西行法師」(一一一八ー一一九○)及び江戸時代末期の「芭蕉」(一六四四ー一六九四4)と共に漂泊の三歌人として名高い」
(石碑・表面)
「篠塚稲荷神社 社歴
御祭神 倉稲魂命。
例祭日 六月初旬
御由緒
当社の創起年代は詳らかではないが、古記に大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀るとあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり 正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守の子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられた 古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る」
(石碑・裏面)
「をしからぬ 身を東路に めぐり来て 神に誓いを 申しおくなり」
「正平年中(西暦一三四○年頃)篠塚伊賀守重宏神前に詠みて捧げたる一首と伝う」

<境内・社殿>





<篠塚稲荷神社社歴と句の石碑>



<宗祇句碑>



「芳年武者无類 篠塚伊賀守貞綱」(月岡芳年)
篠塚重広は、南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の側近で、新田四天王の一人に数えられました。
北朝方が立てこもる近江三井寺攻略に参戦。三井寺を南朝方が攻めあぐねていた時、篠塚重広が寺の外にあった卒塔婆を持ち上げ、それを堀に渡して橋とし、攻め込んだと言われています。
(刀剣ワールドを参照しました)

「大日本六十余州之内 越前 篠塚伊賀守重広」(一陽斎豊国)

○石塚稲荷神社 台東区柳橋1-1-15
柳橋から柳橋大川端通りを北上すると、右手に石塚稲荷神社があります。
石塚稲荷神社は、かつての柳橋花柳界の火伏として信仰を集めました。



<玉垣>
玉垣には、亀清、柳光亭、柳水、津久松・・・、料亭の屋号等が並びます。
門柱には、左「柳橋料亭組合」、右「柳橋藝妓組合」とあります。



<鳥居>
鳥居の額「火伏神 石塚稲荷神社」

<境内>
境内には「二葉」の石碑。玉垣にも「二葉」とありますが、料亭「二葉」の碑なのでしょうかね?




「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草柳橋」
柳橋の東北詰と同じ案内板があります。
「江戸名所図会 第六天 篠塚稲荷」
挿絵には、「いなり」「本社」「金ひら」とあります。「いなり」が篠塚稲荷で、「本社」が第六天でしょう。

第六天は遷座していますが、篠塚稲荷神社は昔の位置にあります。



<玉垣「両国花火組合」>
両国花火組合は、柳橋料亭組合が運営していました。両国花火大会は、高度経済成長期に至り昭和36(1961)年を最後に終わります。昭和53(1978)年に隅田川花火大会と改称し台東区と墨田区が毎年交互に担当し再開されました。打ち上げ場所は隅田川上流に移っています。
台東区「文化探訪」が参考になります。



<説明文>
詳しい説明が掲示されています。



(説明文)右
「御祭神 倉稲魂命 御神徳 商売繁盛、火伏せ
例大祭 六月第一土曜日、日曜日
毎年、氏子の役員や有志の方々が御奉仕誘導して江戸葛西囃子を先頭に、獅子頭、大太鼓の山車と子供神輿が氏子町内を巡行します。そして氏子の崇敬者が所々に設営した御旅所(おたびしょ、即ち御神輿がお立寄りして休む所)で子供さん達に飲物、菓子、玩具、文房具等を沢山に振舞います。

当神社の創建は非常に古くて確かな事は判りませんが、神社に伝わる古文書や伝記などに依れば、正中年間(1325年頃)に新田義貞の四天王の一人であった篠塚伊賀守重宏が、足利尊氏軍との四国での最後の戦いに敗れた後ひそかに東国へ逃れ、現在地近辺の茅原の里にあったと言う当稲荷の祠の傍らにて仏門に入り、日夜主家の再興を祈願していた事から、いつしか里人が篠塚稲荷神社と称する様になったと言われています。古来諸大名や高家及び庶民の崇敬厚く右の図は天保七年版(1836年)『江戸名所図会』に記載されている稲荷社の絵図ですが『篠塚稲荷神社。当地の旧社なり。昔、新田(義貞)の家臣篠塚伊賀守、当社を信仰し、晩年に入道して社の側に庵室を結びて住す。別当玉蔵院はその裔孫なりと言えり」と記してあります。当時は神仏混交の時代で篠塚伊賀守の子孫は京都醍醐寺から篠塚山玉蔵院宗林寺の三号を受けた真言宗の修験僧で稲荷社の別当を務め、且つ江戸期から大正末期までは神社境内に寺子屋(後に篠塚小学校)を運営し、また福井町にも分校を設けていましたが明治維新の際の廃仏棄釈により玉蔵院を廃止し、大正11年には篠塚学校も廃校致しました。

↓左手前が新田義貞公、背後は篠塚伊賀守、 ↓伊賀守が敵の軍船を奪うの絵
篠塚伊賀守重宏については太平記や徳川光圀公の大日本史などに詳しく記述されていますが、大変な強力無双な武将で新田義貞公が福井で戦死した後は、義貞の弟、脇屋義助に従って各地を転戦し、四国で新田一門が滅亡する時、単騎で敵の軍船を奪い、現在の魚島を経て関東に向ったとあります。魚島やその他には様々な史跡が残存していますがその没年は不確かです。その豪傑振りは歌舞伎の演目にもなり左図の如き武者絵にもなりました。後年出生地の群馬県邑楽町篠塚の大信寺境内に御廟が建立され、毎年4月は篠塚一門の者が集まりご供養しています。」

(説明文)左
「当神社は小社ですが境内に古跡地としての由来を記した石碑と、宗祇が詠んだ句碑があります。
(句碑)
「代地川岸永住栞 涼風や月雪 はなの隅田川 宗祇」
「(註)
「宗祇」は室町後期の歌人(一四二一~一五○二)
平安末期の「西行法師」(一一一八ー一一九○)及び江戸時代末期の「芭蕉」(一六四四ー一六九四4)と共に漂泊の三歌人として名高い」
(石碑・表面)
「篠塚稲荷神社 社歴
御祭神 倉稲魂命。
例祭日 六月初旬
御由緒
当社の創起年代は詳らかではないが、古記に大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀るとあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり 正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣、主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ、社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守の子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられた 古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る」
(石碑・裏面)
「をしからぬ 身を東路に めぐり来て 神に誓いを 申しおくなり」
「正平年中(西暦一三四○年頃)篠塚伊賀守重宏神前に詠みて捧げたる一首と伝う」

<境内・社殿>





<篠塚稲荷神社社歴と句の石碑>



<宗祇句碑>



「芳年武者无類 篠塚伊賀守貞綱」(月岡芳年)
篠塚重広は、南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の側近で、新田四天王の一人に数えられました。
北朝方が立てこもる近江三井寺攻略に参戦。三井寺を南朝方が攻めあぐねていた時、篠塚重広が寺の外にあった卒塔婆を持ち上げ、それを堀に渡して橋とし、攻め込んだと言われています。
(刀剣ワールドを参照しました)

「大日本六十余州之内 越前 篠塚伊賀守重広」(一陽斎豊国)

○石塚稲荷神社 台東区柳橋1-1-15
柳橋から柳橋大川端通りを北上すると、右手に石塚稲荷神社があります。
石塚稲荷神社は、かつての柳橋花柳界の火伏として信仰を集めました。



<玉垣>
玉垣には、亀清、柳光亭、柳水、津久松・・・、料亭の屋号等が並びます。
門柱には、左「柳橋料亭組合」、右「柳橋藝妓組合」とあります。



<鳥居>
鳥居の額「火伏神 石塚稲荷神社」

<境内>
境内には「二葉」の石碑。玉垣にも「二葉」とありますが、料亭「二葉」の碑なのでしょうかね?




「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草柳橋」
柳橋の東北詰と同じ案内板があります。

- 関連記事
-
-
隅田川ウォールアート(浜町)
-
両国花火組合と篠塚稲荷 花柳界火伏稲荷
-
消えた花街 柳橋
-
両国広小路
-
薬研堀 元柳橋 矢ノ倉 薬研堀不動院
-
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- カウンター