護国寺 墓地

護国寺 墓地

○明治維新と護国寺

 護国寺は幕府の祈祷寺で檀家を持たず、修繕費用は幕府が助成していました。幕府は享保2(1717)年に助成を打ち切り、開帳などで自力で費用捻出するようにと方針転換しました。このため、年間を通して集客できる西国札所写三十三所や富士塚の設置と苦労していたようです。
 明治4(1871)年、明治政府の寺社領上知令により、護国寺領は官有とされます。さらに、明治6(1873)年、明治政府は、境内地4万6千坪のうち、東側の1万9,783坪(順次拡大)は宮家の墓所として、西側の5千坪は陸軍省埋葬御用地として上知(接収)させます。
 豊島岡墓地は、明治6(1873)年に1万5千坪、明治16(1883)年に4千坪のを護国寺境内地を上知させ、その後、民有地の買い上げ、交換により総計2万4千坪となります。陸軍省埋葬御用地については後述。
 護国寺の境内は、2万3千坪ほどに縮小しています。(寛永寺と増上寺は、明治6(1873)年の太政官布告により、境内の一部は上野公園と芝公園となりました。)
 明治24(1891)年、太政大臣三條実美の墓所が護国寺に営まれたことが、転換の起因となります。三條実美自らも成立に関わった豊島岡御陵を望むことができる環境にあり、閑静な霊域ゆえのことでした。やがてこの霊域を墓所とする山縣有朋や大隈重信など続出していき、多くの檀家を持つようになっていきます。
 幕府の祈祷寺であった護国寺は、現在では明治時代に名を残した多くの方々が眠っています。
 (以上、護国寺略史及び東京市史稿を参照しました。)


○霊廟

 観音堂の裏に霊廟があります。平成8(1996)年に完成。阿弥陀様の銅像の下は、地下3階建の1672基の納骨堂となっています。

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○松平治郷公の墓

 江戸時代の大茶人、松平不昧公(松江藩第7代藩主松平治郷)の五輪塔です。関東大震災の被害を受け、港区芝の天徳寺から移されました。

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○三條実美公の墓 東京都指定旧跡

 左に三条実美公の墓、右に夫人の墓です。太政大臣(現在の総理大臣)であった三条実美がこの地に墓所を営んだことが、護国寺の檀家が増えていく契機となりました。

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(説明板)
「東京都指定旧跡
 三條實美墓
  所在地 文京区大塚五の四〇の一護国寺墓地内
  標識 昭和一五年二月
  指定 昭和三〇年三月二八日
 三條實美(一八三七ー九一)は幕末・明治前期の公卿・政治家です。贈右大臣三條實萬の第四子として生まれ、安政元年(一八五四)に家督を継ぎます。父の影響もあり尊王攘夷派公卿として活躍します。文久三年(一八六三)八月一八日の政変により京都を追われ、一時長州へ下ります(七卿落ち)。第一次長州征伐後の慶応元年(一八六五)に大宰府に移り、同三年(一八六七)の王政復古により京に戻ります。明治政府の副総裁などの要職に就き、明治四年(一八七一)から廃止されるまでの明治一八年(一八八五)まで太政大臣に任じられます。明治二四年(一八九一)五五歳で病死します。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

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<内大臣正一位大勲位三條公神道碑>
 明治天皇の勅命により、三條実美公の墓所の墓道に建てられた神道碑。

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<感舊之碑>
 三條実美公の墓所の墓道に建てられた感舊之碑。

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<三條実美公(近世名士写真 昭和10年)>(近代日本人の肖像
 天保8年2月8日〜明治24年2月18日(1837年3月14日〜1891年2月18日)

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(参考)
 ○三條実美公の別邸「対鴎荘」(「荒川区説明板」「台東区説明板」)
 ○明治天皇御製碑(隅田公園)
 ○三条実美筆
  「二天門」額(浅草寺)
  「浅草文庫」朱印(浅草文庫跡)


○大隈重信公の墓

 鳥居と手水鉢は、早稲田大学の奉納です。

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<大隈重信公(近世名士写真 昭和10年)>(近代日本人の肖像
  天保9年2月16日〜大正11年1月10日(1838年3月11日〜1922年1月10日)

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○コンドル氏墓 文京区指定史跡

 護国寺にある墓で、説明板があるのは、三條実美墓(東京都指定旧跡)とコンドル墓(文京区指定旧跡)です。

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(説明板)
「コンドル墓  区指定史跡
 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、1852年ロンドンに生まれ、大学で建築学を学び、のち、日本政府の要請により明治10年(1877)来日した。当時、我が国は文明開化政策の中で各国より幾多の文化をとり入れたが、西洋建築に関しては手さぐりの状態であった。
 彼は、工部大学校(東京大学工学部の前身)教授として学生を指導するかたわら、鹿鳴館・ニコライ聖堂・岩崎邸・旧古河邸等多くの建築物をつくり、我が国の近代建築の基礎形成に貢献した。また、辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵ら多くの俊才を育てた。一方、『日本の造園』『日本の華道』著わすなど、日本研究の分野でも活躍し、我が国の文化、芸術を海外に紹介した。日本を愛したコンドルは、日本女性クメ夫人とともにこの地に永眠している。
  文京区教育委員会  昭和61年3月」

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(墓碑)
 コンドルの娘、ヘレン・アイコ・グルート(ハル)(明治13(1880)年〜1974年)による建立です。コンドル死亡時に夫君とバンコクから来日しました。
「IN MEMORY OF
 JOSIAH CONDER F.R.I.B.A.
 BORN SEPT.28.1852. DIED JUNE 21. 1920
 AND OF HIS WIFE
 KUME CONDER
 BORN DEC.16.1854 DIED JUNE 10. 1920
 "LIFE'S WORK WELL DONE"
 " LOVING AND TRUE"
 +
 工學博士ジヨサイヤコンデル之墓
 大正九年六月二十一日
 妻コンデル久米子之墓
 大正九年六月十日
 ERECTED BY THEIR DAUGHTER」

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「ジョサイア・コンドル」
 1852年9月28日〜1920(大正9)年6月21日
 明治10(1877)年に工部省に招かれて来日し、工部大学校(現東大)で建築学を教え、辰野金吾ら多くの建築家を育成しました。

「コンドル博士遺作集」(コンドル博士記念表彰会 昭和7年)

 コンドル肖像と墓(護国寺)
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 博士銅像除幕式(東京大学)
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 コンドル肖像と遺作品展覧会
 大正9(1920)年4月18日、日本建築学会が社団法人15周年を記念し、ジョサイア・コンドルの肖像画(白瀧幾之助作)を寄贈。コンドルの寝室に掲げられていました。
 コンドルのコレクションは、娘のグルート夫人が相続し日本を離れることになり、離日前に遺作品展覧会が開催されました。コレクションは海外に散逸しますが、肖像画はその所在が判明し、遺族から平成4(1992)年に東京大学建築学科へ寄贈されました。
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 日光神橋
 コンドルは来日した明治10(1877)年の夏季休暇に日光を訪れた際に画いた日光神橋の写生画です。コンドル思い入れの作で、常に居室の壁間に掲げていました。現在は所在不明の写生画です。
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「ジヨシア・コンドル 東京帝国大学名誉教師」(東京帝国大学 小川一真 明治37年)
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「ジョサイア・コンドル」(丸ノ内今と昔 富山房 昭和16年)
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(参考)
 「工部大学校阯
 「鹿鳴館跡
 「一丁倫敦
 「訓盲院跡


○大倉喜八郎氏の墓

 大倉財閥創設者、大倉喜八郎氏の墓所。夫人と一緒に大きな宝塔が並んでいます。

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「大倉喜八郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
  天保8年9月24日〜昭和3年4月22日
 (1837年10月23日〜1928年4月22日)
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「ニコニコ写真帖」(大正元年)
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(参考)
 帝国ホテルで。左は帝国ホテル初代会長渋沢栄一翁、右が2代目会長大倉喜八郎翁。渋沢栄一と帝国ホテルで記載
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○山縣有朋公の墓

 大倉喜八郎氏の墓所の右隣に、鳥居のある山縣有朋公の墓所があります。門と鍵はありますが施錠はされていませんでした。お墓は夫人と一緒に並んでいます。

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<公爵山縣家累代墓>
 観音堂の横にある公爵山縣家の墓所です。山縣有朋公のお墓もあるのかと思ったら別なんですね。

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<山縣有朋公(近世名士写真 昭和10年)>(近代日本人の肖像
  天保9年閏4月22日〜大正11年2月1日(1838年6月14日〜1922年2月1日)

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(参考)
 ○山縣有朋の墓(本頁)
 ○椿山荘(山縣有朋公の邸宅・庭)
 ○山縣有朋の揮毫碑
  「梔園小出翁碑」(護国寺)
  「皇威宣揚」(吹上稲荷神社)
  「櫻痴居士福地君紀功碑」(浅草寺奥山)
  「普國警察大尉ヘーン君表功碑」(三囲神社)
  「霊松保存紀念之碑」(葛西神社)


○安田善次郎氏の墓

 安田善次郎は、安田財閥の創設者です。墓所の周囲は塀で囲まれています。塀の外から、安田家累代墓が見えます。

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(参考)「富士銀行創業の地」(こちらで記載


○大山倍達墓所

 「大山倍達
  空手バカ一代
  雲を得て龍となり
  カラテの父となる」

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○護国寺歴代大僧正の墓

<亮賢僧正墓> 東京都指定旧跡
 亮賢(1611-1687)は護国寺の開山です。桂昌院を祈祷し、綱吉誕生を占ったとされます。綱吉に「生類憐みの令」を勧めたとも言われています。

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<義海大和尚位>
 「長谷寺第六十一世 護国寺第四十三世 大僧正義海大和尚位」
 不老門の横にも大きな感応碑がありますが、こちらも大きな石塔です。

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<地蔵大菩薩>
 表には、地蔵大菩薩が線刻されています。
 裏には、 「奉建立地蔵大菩薩者為山内安全滅罪生善也 大正十五年十一月廿四日 護国寺貫首沙門良行建之」

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<大了和尚塔銘>
 「故大僧正大了和尚塔銘」
 高志大了僧正(1834-1898)は、明治16(1883)年に護国寺第45世住職となった方。

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○音羽陸軍埋葬地

 戦後、陸軍墓地の所有は陸軍省から大蔵省に移され、東京都への移管を経て、昭和24(1949)年に護国寺が権利を得ました。
 埋葬地の改葬により、将校墓地に集約され、音羽陸軍埋葬地が昭和32(1957)年10月に完成しました。
 陸軍墓地は、現在は文京区立青柳小学校と普通の墓地になっています。
 江戸名所図会の挿絵を見ると、旧陸軍墓地は、西国札所写三十三所観音が設置されていた場所のようです。

<入口と説明碑>
 門には、陸軍の徽章だった五芒星があしらえられています。

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 入ってすぐ右手に「音羽陸軍埋葬地 英霊之塔の由来」碑があります。なぜか横に砲弾が転がっています。

(碑文)
「音羽陸軍埋葬地 英霊之塔の由来
 この地は戦前、明治以降の近衛その他の在京部隊に在籍し、幾多の戦役等で身を挺して勇戦敢闘され、国に殉じた二千四百余柱の英霊を埋葬した墓地でしたが、戦後は護国寺が管理しています。
 本英霊之塔は昭和三十二年十一月、護国寺第五十一世岡本教海大僧正の建立によるもで中央に英霊と仏像を安置した英霊之塔、その周囲に有縁墓地四十を配して、現在の姿に改葬され、殉国の英霊の眠る聖地となりました。毎年十一月には、その遺徳を偲び顕彰する慰霊祭が行われ、敬虔な感謝の誠が捧げられております。
  平成七年十一月十一日  社団法人日本郷友連盟東京都支部」

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<音羽陸軍埋葬地英霊之塔>
 埋葬地中央に「音羽陸軍埋葬地 英霊之塔」があります。

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<多宝塔/多宝塔の由来>
 日清戦争の遺骨が多宝塔の下に埋葬されています。
 平成8(1996)年に忠霊堂の裏から音羽陸軍埋葬地に移築されました。

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(碑文)
「護国寺の多宝塔の由来
 この多寶塔はもと当山の薬師堂の西側に、明治二十五年十二月二十一日に建立されたものである。明治二十七・八年の日清戦争で遼東半島の各戦場の野に戦病没した軍人の遺骨を蒐集本国に送還し、一時京都泉涌寺の舎利殿に仮安置された。明治三十五年秋、多寶塔の正面に拝殿としての忠霊堂が完成、同年十一月二日当山に遺骨が移され、塔下に埋葬、慰霊大法要が厳修された。
 その後、この塔は長い年月風雨に曝され、近年破損甚だしく、今般大修理を施し、音羽陸軍埋葬地遺族会の協賛を得て、この地に移築建立したものである。
  平成八年十一月十一日  大本山護國寺」


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