延命院 七面坂
〇延命院 荒川区西日暮里3-10-1
御殿坂沿の寺院、延命院、経王寺、本行寺を順に取り上げます。
寛永17(1640)年、日長が三代将軍家光から安産の祈祷を命じられ、翌年家綱が誕生したことを受けて、慶安元(1648)年、徳川家綱の乳母、三沢局が開基となり、七面大明神を守護する別当寺として日長により延命院は開創されました。
社殿等は大奥から寄進されたとされています。家綱の将軍就任後、徳川家の永代祈願所となり、庇護されました。
延命院の七面大明神は江戸の中でも最も古い七面大明神の一つであり、江戸名所の一つとして多くの参詣者を集めました。 特に江戸城大奥から信仰を集め、正室の代参や、女中の祈願が盛んに行われたことで知られています。
(延命院HPと荒川区説明板を参照しました)
<本堂/七面堂>





(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
七面大明神と延命院の大椎
日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出産の際に、安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神を勧請、慶安元年(一六四八)別当寺として延命院を開創したという。
七面大明神には、胎内に慶安三年(一六五○)法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。
境内には樹齢六百年を越えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。 荒川区教育委員会」

<江戸名所図会>
江戸名所図会「日暮里惣図」の七面堂部分の拡大です。大きな木が描かれています。階段坂の隣に、七面坂が描かれています。現在の「夕やけだんだん」は、昔も階段坂だったようです。

<谷中騒動>
第十一代将軍徳川家斉の時、大奥でおきた延命院事件の舞台となった寺です。本堂の右に日潤の供養塔があります。
延命院事件は歌舞伎に取り上げられ、明治11年5代目尾上菊五郎の日当(歌舞伎では日潤は日当)で初演されました。その上演にあたり、日潤上人追善のため5代目尾上菊五郎と12代守田勘弥によって供養塔が建てられました。
供養塔には「行硯院日潤聖人」と刻まれています。線香立てには、尾上菊五郎と守田勘弥の名前が刻まれています。
(説明板)
「1878年(明治11)第5世尾上菊五郎と第12世守田勘弥が東京・新富座において歌舞伎「延命院日当」を上演するのにあたり延命院第16世行硯院日潤上人(=通称『日当』)追善のためこれを建碑した。1803(享和3)年の延命院事件を題材にし、後に河竹黙阿弥の「日月星享和政談」によって脚色劇化された。
「延命院事件」は日潤上人が幕府権力とつながった女犯の容疑で処刑とされるが、正しくは江戸城内の御本丸大奥と西丸大奥の権力紛争によって捏造された事件だという。」







「新撰東錦絵 延命院日当話」(歌川(月岡)芳年 明治18年 国立国会図書館デジタルコレクション)
2枚の画を1枚に合成しました。

「延命院実記 : 谷中騒動」(鶴声社等 明治20年6月)
日當と柳全が描かれています。

<延命院の大シイ>
(説明板)
「東京都指定天然記念物
延命院のシイ
所在地 荒川区西日暮里三の一○の一延命院内
指 定 昭和五年三月
延命院は慶安元年(一六四八)、慧照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。
天保七年(一八三六)開板の『江戸名所図会』巻五の「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政二年(一八五五)の江戸の大地震によって『江戸名所図会』に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高一六.二m、幹周り五.五mの巨樹でしたが、平成十四年(二00二)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
半分、南側部分がもげているのに、この樹勢です。すごい生命力です。




<牙角彫刻 左刀一派紀念之碑>
「左刀一派紀念之碑」であるとともに、「徳蔵翁霊」「山田潮月大人霊」2名の顕彰碑も兼ねています。
明治26(1893)年8月建碑。
「日本左刃彫刻会」(牙角彫刻や根付の作家の会)のホームページによると、伊勢生まれで大阪の住人「徳蔵」が、牙角彫刻の刀法を江戸の「山田潮月」に伝えたと刻んであるそうです。
「荒川ふるさと文化館だより」(平成22年3月26日)に裏面の銘文の詳細な解説があります。



○七面坂
延命院門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂道。七面堂に因んで名づけられました。坂の両側に荒川区と台東区の説明板があります。
(説明板) 荒川区西日暮里3-14
「あらかわの史跡・文化財
七面坂
殿坂坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。 荒川区教育委員会」



(説明板) 台東区谷中5-11
「七面坂
宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中三ー十)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里三ー十)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
坂は『御府内備考』の文政九年(一八二六)の書上によれば、幅二間(約三・六メートル)ほど、長さ五十間(約九十メートル)高さ二丈(約六メートル)ほどあった。
なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
平成六年三月 台東区教育委員会」

御殿坂沿の寺院、延命院、経王寺、本行寺を順に取り上げます。
寛永17(1640)年、日長が三代将軍家光から安産の祈祷を命じられ、翌年家綱が誕生したことを受けて、慶安元(1648)年、徳川家綱の乳母、三沢局が開基となり、七面大明神を守護する別当寺として日長により延命院は開創されました。
社殿等は大奥から寄進されたとされています。家綱の将軍就任後、徳川家の永代祈願所となり、庇護されました。
延命院の七面大明神は江戸の中でも最も古い七面大明神の一つであり、江戸名所の一つとして多くの参詣者を集めました。 特に江戸城大奥から信仰を集め、正室の代参や、女中の祈願が盛んに行われたことで知られています。
(延命院HPと荒川区説明板を参照しました)
<本堂/七面堂>





(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
七面大明神と延命院の大椎
日蓮宗の寺院で宝珠山と号する。開基は四代将軍徳川家綱の乳母三沢局。家綱出産の際に、安産を祈祷した慧照院日長が、三沢局の信施を受け、甲州(山梨県)身延山の七面大明神を勧請、慶安元年(一六四八)別当寺として延命院を開創したという。
七面大明神には、胎内に慶安三年(一六五○)法寿院日命が願主となり、仏師弥兵衛の手で作られたことを記した銘文がある。秘仏とされ、七面堂に祀られている。これにちなんで、門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂は七面坂と呼ばれる。
境内には樹齢六百年を越えるといわれる大椎(都指定天然記念物)がある。 荒川区教育委員会」

<江戸名所図会>
江戸名所図会「日暮里惣図」の七面堂部分の拡大です。大きな木が描かれています。階段坂の隣に、七面坂が描かれています。現在の「夕やけだんだん」は、昔も階段坂だったようです。

<谷中騒動>
第十一代将軍徳川家斉の時、大奥でおきた延命院事件の舞台となった寺です。本堂の右に日潤の供養塔があります。
延命院事件は歌舞伎に取り上げられ、明治11年5代目尾上菊五郎の日当(歌舞伎では日潤は日当)で初演されました。その上演にあたり、日潤上人追善のため5代目尾上菊五郎と12代守田勘弥によって供養塔が建てられました。
供養塔には「行硯院日潤聖人」と刻まれています。線香立てには、尾上菊五郎と守田勘弥の名前が刻まれています。
(説明板)
「1878年(明治11)第5世尾上菊五郎と第12世守田勘弥が東京・新富座において歌舞伎「延命院日当」を上演するのにあたり延命院第16世行硯院日潤上人(=通称『日当』)追善のためこれを建碑した。1803(享和3)年の延命院事件を題材にし、後に河竹黙阿弥の「日月星享和政談」によって脚色劇化された。
「延命院事件」は日潤上人が幕府権力とつながった女犯の容疑で処刑とされるが、正しくは江戸城内の御本丸大奥と西丸大奥の権力紛争によって捏造された事件だという。」







「新撰東錦絵 延命院日当話」(歌川(月岡)芳年 明治18年 国立国会図書館デジタルコレクション)
2枚の画を1枚に合成しました。

「延命院実記 : 谷中騒動」(鶴声社等 明治20年6月)
日當と柳全が描かれています。

<延命院の大シイ>
(説明板)
「東京都指定天然記念物
延命院のシイ
所在地 荒川区西日暮里三の一○の一延命院内
指 定 昭和五年三月
延命院は慶安元年(一六四八)、慧照院日長上人の開山による宝珠山延命院と号す日蓮宗の寺院です。
天保七年(一八三六)開板の『江戸名所図会』巻五の「日暮里惣図(ひぐらしのさとそうず)」には、現在地と思われる位置にシイの姿が描かれています。延命院は七面大明神を祀る江戸庶民の祈願所でもあり、たくさんの人々が参詣に訪れたといわれ、境内にあるシイも当時から地域の人々に親しまれた老樹であることが伺われます。安政二年(一八五五)の江戸の大地震によって『江戸名所図会』に描かれた堂宇は倒壊してしまいましたが、延命院のシイは生き残り、現在に至るまで都市化の進む日暮里の姿を見つめ続けています。かつては樹高一六.二m、幹周り五.五mの巨樹でしたが、平成十四年(二00二)五月に幹内部の腐朽が原因で南側の大枝が崩落し、安全のため現在の樹形に保っています。
平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」
半分、南側部分がもげているのに、この樹勢です。すごい生命力です。




<牙角彫刻 左刀一派紀念之碑>
「左刀一派紀念之碑」であるとともに、「徳蔵翁霊」「山田潮月大人霊」2名の顕彰碑も兼ねています。
明治26(1893)年8月建碑。
「日本左刃彫刻会」(牙角彫刻や根付の作家の会)のホームページによると、伊勢生まれで大阪の住人「徳蔵」が、牙角彫刻の刀法を江戸の「山田潮月」に伝えたと刻んであるそうです。
「荒川ふるさと文化館だより」(平成22年3月26日)に裏面の銘文の詳細な解説があります。



○七面坂
延命院門前から宗林寺(台東区)方面に下る坂道。七面堂に因んで名づけられました。坂の両側に荒川区と台東区の説明板があります。
(説明板) 荒川区西日暮里3-14
「あらかわの史跡・文化財
七面坂
殿坂坂上から台東区長命寺の墓地裏を経て、宗林寺(通称萩寺)の前へ下る坂道をいう。坂名の由来は、坂上北側の宝珠山延命院の七面堂にちなむ。 荒川区教育委員会」



(説明板) 台東区谷中5-11
「七面坂
宝暦年間の『再校江戸砂子』に「宗林寺前より七面へゆく坂」とある。宗林寺(台東区谷中三ー十)は坂下にあるもと日蓮宗の寺、七面は坂上の北側にある日蓮宗延命院(荒川区西日暮里三ー十)の七面堂を指す。七面堂は甲斐国(山梨県)身延山久遠寺の西方、七面山から勧請した日蓮宗の守護神七面天女を祀る堂である。
坂は『御府内備考』の文政九年(一八二六)の書上によれば、幅二間(約三・六メートル)ほど、長さ五十間(約九十メートル)高さ二丈(約六メートル)ほどあった。
なお宗林寺は『再校江戸砂子』に、蛍の所在地とし、そのホタルは他より大きく、光もよいと記され、のちには、境内にハギが多かったので、萩寺と呼ばれた。
平成六年三月 台東区教育委員会」

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