古隅田川④ 梅若丸と北三谷
こちらは隅田川ではなく、古隅田川での梅若丸の伝説です。
○梅若丸と北三谷 足立区東和2-1-12 北三谷稲荷橋跡
古隅田川の流路の北三谷稲荷橋跡(はま寿司駐車場前)に、説明板「梅若丸と北三谷」があります。
(説明板)
「梅若丸と北三谷
この辺りは、19世紀終わり頃まで北三谷村といわれたところである。慶長19年(1614)の古文書に「淵江之内ふげんじ・さん屋新田間之事」とあり、その頃開拓されたことがわかる。
当時は、古隅田川が利根川流域の氾濫原野の湿地帯であったと想定される。この開拓にまつわり、謡曲や浄瑠璃「隅田川」で名高い梅若丸の物語に由来する伝説がある。その昔、貴族の子梅若丸が人買いに誘拐されて奥州へ向かったことを知った母親が、従者4人を伴って京の都から追ってきた。しかし、隅田川の渡し守から梅若丸が死んだことを聞き、悲嘆にくれて尼となり草堂にこもってしまった。主を失った従者は浅草山谷の地に住んだがやがて安住の地を求めて隅田川を北上し、この地を開いて北三谷と名付けたのだと言う。
「隅田川」の舞台は村上天皇の時代というから10世紀の物語で、開拓年代とは5世紀以上も開きがあるが、これも隅田川の名が生んだ地名伝説の一つとして継承されてきたものであろう。」



○宝蔵寺 足立区東和2-5-24
古隅田川の流路の宝蔵寺橋跡の北に「宝蔵寺」があります。 荒川辺八十八ヶ所霊場55番札所及び荒綾八十八ヶ所霊場31番札所です。

梅若丸の母の四人の従者が土地の守り神として北三谷に一宇を建てたのがはじまりと伝わります。山門は幼稚園入口となっていて、閉じられていて中に入れません。


○北三谷稲荷神社 足立区東和2-5-24
宝蔵寺の隣に北三谷稲荷神社があります。



<水神宮>
本殿横に水神宮が祀られています。

<日露戦役紀念之碑>

○梅若丸と北三谷 足立区東和2-1-12 北三谷稲荷橋跡
古隅田川の流路の北三谷稲荷橋跡(はま寿司駐車場前)に、説明板「梅若丸と北三谷」があります。
(説明板)
「梅若丸と北三谷
この辺りは、19世紀終わり頃まで北三谷村といわれたところである。慶長19年(1614)の古文書に「淵江之内ふげんじ・さん屋新田間之事」とあり、その頃開拓されたことがわかる。
当時は、古隅田川が利根川流域の氾濫原野の湿地帯であったと想定される。この開拓にまつわり、謡曲や浄瑠璃「隅田川」で名高い梅若丸の物語に由来する伝説がある。その昔、貴族の子梅若丸が人買いに誘拐されて奥州へ向かったことを知った母親が、従者4人を伴って京の都から追ってきた。しかし、隅田川の渡し守から梅若丸が死んだことを聞き、悲嘆にくれて尼となり草堂にこもってしまった。主を失った従者は浅草山谷の地に住んだがやがて安住の地を求めて隅田川を北上し、この地を開いて北三谷と名付けたのだと言う。
「隅田川」の舞台は村上天皇の時代というから10世紀の物語で、開拓年代とは5世紀以上も開きがあるが、これも隅田川の名が生んだ地名伝説の一つとして継承されてきたものであろう。」



○宝蔵寺 足立区東和2-5-24
古隅田川の流路の宝蔵寺橋跡の北に「宝蔵寺」があります。 荒川辺八十八ヶ所霊場55番札所及び荒綾八十八ヶ所霊場31番札所です。

梅若丸の母の四人の従者が土地の守り神として北三谷に一宇を建てたのがはじまりと伝わります。山門は幼稚園入口となっていて、閉じられていて中に入れません。


○北三谷稲荷神社 足立区東和2-5-24
宝蔵寺の隣に北三谷稲荷神社があります。



<水神宮>
本殿横に水神宮が祀られています。

<日露戦役紀念之碑>

- 関連記事
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- カウンター