小菅稲荷神社/小菅銭座跡/水戸橋跡

○小菅稲荷神社  葛飾区小菅1-28-11

 東京拘置所の面会所の正面に小菅稲荷神社があります。社殿の後ろに本殿があります。本殿の裏には、小菅御殿から将軍の地下の逃げ道が繋がっているとのこと。本殿には立ち入り出来ないので、確認できず。

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(説明板)
「小菅稲荷神社と「小菅御殿の狐穴」
 小菅稲荷神社は小菅御殿の鎮守として小菅御殿内に祀られていましたが、昭和に入り、現在の地に移されたと伝えられています。稲荷神社の「使い」狐がご神体の両脇を固めています。狐が穀物の神様である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の使いになったのは、一般には宇迦之御魂神の別名を「御饌津神(みけつ)神」であったことから、ミケツの「ケツ」がキツネの古名「ケツ」に想起され、誤って「三狐神」と書かれたためといわれています。そして狐の習性(山から下りて実る稲穂を狙う害獣を食べて子狐を養う。)が古来の日本人の目には、繁殖=豊作として結びつき、狐が田の神の先触れ、五穀豊穣、稲の豊作を知らせる「神のお使い」として人々に定まっていきます。日本の各地に「神の使い」狐の伝説がのこされています。
 小菅稲荷神社には「使い姫」の伝説が残されています。
 本殿の裏、こじんまりした庭の石山の根元には二つの穴があります。
 小菅御殿があった当時、将軍様の御逗留の際に不意の敵襲に備え、無事に御殿外に脱出できるよう空井戸を利用した抜け道があったといいます。
 この抜け道を明治時代に入り不要なものとしてふさいでしまったところ、御殿跡地の政府の施設では事故が相次いで発生しました。ある夜、心痛した偉いお役人の夢枕に、一匹の白狐が現れ「私はいにしえからこの小菅稲荷の「使い姫」として空井戸に棲んでいた狐一族の長老であるが、この程我らの住居を埋められで大変に難渋しておる。速やかに穴を元に戻すように」と言い残して消え都ました。
 そこで速やかに穴を元に戻した結果、ぱったりと事故が起こらなくなったといいます。当時のものを模した「狐の穴」は本殿の裏にちゃんと残されています。」
 平成23年度東京都地域の底力再生事業対象事業 管理者:小菅西自治会広報部

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○小菅銭座跡  葛飾区小菅1-25

 西小菅小学校校門脇に説明板「小菅銭座跡」があります。小菅御籾蔵の一角に、小菅銭座が設けられていました。

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(説明板)
「葛飾区指定史跡
  小菅銭座跡
     所在地 葛飾区小菅一丁目25番1号
          西小菅小学校
    指定年月日 昭和58年2月21日
 小菅銭座は寛政6年(1859)8月江戸金座の直轄で、幕末の財政窮乏と銅相場高騰のため、前例のない鉄小銭を鋳造する場所として設置されました。小菅銭座の中心部は江戸時代初期には伊奈氏の下屋敷、江戸時代中期には鷹狩のための御殿から幕府の所有地・小菅御囲地となり、江戸時代後期には災害に備えての小菅籾蔵と変遷をたどった一角で、現在の西小菅小学校付近にあったとされます。
 万延元年(1840)12月には、前例のない鐚銭といわれる粗悪鐚銭である四文銭を小菅で鋳造しました。最盛期の慶応年間の鋳造職人は232人を数えましたが、慶応3年(1807)にその役割を終えました。
 今その頃の様子を示すものはほとんど残ってはいませんが、昭和25年(1950)5月までは銭座長屋といわれた建物が残っていました。かつて水路があった場所には銭座橋の橋跡が残り、貨幣史関係の史跡として今に伝えています。  葛飾区教育委員会」

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○水戸橋跡地  葛飾区小菅1-9

 旧水戸道の水戸橋の橋台の石組が遺されています。

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(説明板)
「水戸橋跡地

【水戸橋・橋台の石組・綾瀬川】
 ここに積まれた石組は、江戸・明治時代から桁橋の水戸橋を支えてきた橋台を受け継いだものです。この構造は、皇居(旧江戸城)内濠に架かる木造橋である平川橋に名残を見ることができます。
 水戸橋が本格的な機として架橋された年は定かではありませんが、江戸初期の寛永年間(1624~1644)と考えられています。
 水戸橋が架かる綾瀬川の開削については、「西方村旧記付図」(越谷市立図書館蔵)に、寛永年間に内匠橋付近(足立区)から小菅(葛飾区)を経て、隅田川合流地点まで堀替えた記録があります。

【橋名:みとはしの由来】
 地元に伝わる話によると、その昔、水戸黄門(光関)一行が旅の途中、小菅村に出没する妖怪を退治しました。その妖怪は、親をならず者に殺され、敵を討とうとした理でした。子理が退治されそうになった時、近くのお地蔵様が身代わりとなりました。その事実を知った光園は、後の世まで平穏となる」ようにと自ら筆をとり、傍らの橋の親柱に「水戸橋」と書き記したと伝わっています。
 また、水戸橋下流の正覚寺には、身代わりとなったといわれているお地蔵様が安置してあり、お堂前の水舎には元禄10年(1697)の銘があります。

【水戸佐倉道】
 前方に延びる道は、東海道など五街道に付属する水戸佐倉道です。
 この街道は、日本橋を出発点とする日光街道の千住宿(足立区千住)から分かれ、常陸国水戸徳川家の城下をつなぐ道でした。途中、新宿(葛飾区新宿)では、下総国佐倉へ向かう佐倉街道に分かれました。
 これらの街道は、土浦藩や佐倉藩等が参勤交代に使う重要な道でした。
 享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗が、大規模な狩りを小金原(千葉県松戸市)で行った際、水戸橋で下船して水戸佐倉道を通行した記録が残されています。
  監修 葛飾区小菅西自治会 葛飾区」

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○小菅八幡社  葛飾区小菅1-19-11

 水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されています。

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(説明板)
「八幡社とタブの木の大樹について
 小菅の水戸橋付近、綾瀬川沿いに「八幡社」と大きなタブの木がありました。昭和三十年代に造られた「小菅音頭」の歌詞の中にも「月もおぼろの八幡やしろ」と歌われています。この社と大きなタブの木は、綾瀬川のふちに在って舟の往来や行き交う人々を見守ってきました。
 由緒などは不明ですが「水戸佐倉道分間延絵図」に記載されている古い社で、棟札により元禄十三年(一七○○)五月三日第五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保によって、小菅御殿囲内の鎮守として再興されました。第八代将軍吉宗の時代(一七四○年頃)の小菅御殿古図には「八マン」と記載され、鳥居の図が示されています。
 このあたりは、「八幡山」と呼ばれ、小菅一丁目では一番の高台でした。綾瀬川・古隅田川に囲まれた小菅付近は昔からたびたび洪水に見舞われてきましたが、昭和以降の大洪水にも水に浸かることはなかったと言われています。小菅一丁目に大きな被害をもたらした昭和三十四年九月の伊勢湾台風の際にも八幡社に多くの人々が避難したと伝えられています。
 大切に守ってきたこの社は、今般水戸橋の架け替えに伴い、旧社殿は取り壊され、新しい石造りの社として再建されることになりました。
  平成二十二年吉日」

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