西福寺
○西福寺 川口市大字西立野420



<庚申塔2基>
山門脇に西南戦争時の墓碑と庚申塔2基があります。

<参道>
参道両側に石造の金剛力士。





<講中の石造物3基>
参道左手に、講中の石造物3基。


一番端に出羽三山供養塔があります。
「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」「天下泰平」「「日月清明」「講中」




「大先達 大乗院」

文政2(1819)年の造立です。

他2基は、「聖徳太子」「普門品供養」

<三重塔>
三重塔は徳川家光の長女千代姫が元禄6(1693)年に建立したといいます。
第1層には十二支の彫刻が施されています。
(説明板)
「西福寺
所在地 川口市大字西立野
西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(八一○?八二四)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。寺内には、三重塔と観音堂がある。
ここの三重塔は、三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約二十三メートルあり、県下では一番高い木造の建造物である。棟札銘文によると、この塔は、元禄六年(一六九三)三月二十七日に建立完成されたもので、かつては、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた時もあったが、現在では廃止されている。塔は、鉄製の釘を一本もつかわず細工によって作りあげてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井近くにある「蟇股」には、十二支を表わす動物の彫刻が刻まれ、方向を示している。
また、入口正面にある観音堂には、西国、坂東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂に参詣すれば、百ヵ所の観音霊場を参詣したと同じだけの功徳(御利益)があるとされ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑うところである。
昭和五十八年三月 埼玉県 」






<力石>
三重塔の前には力石が3つ置かれています。


<荒神社/百観音供養塔/鐘楼堂/地蔵菩薩>







<地蔵堂>
延命地蔵菩薩、閻魔王像、奪衣婆の3像が祀られています。

<台徳院殿尊前>石燈籠
寛永9(1632)年の「台徳院殿尊前」石灯篭が1基、地蔵堂の横にあります。
「奉拜進石燈籠」(奉拜は石が剥がれていて推定)右
「台徳院殿 尊前」中央
「寛永九年七月廿四日 松平丹波守源朝臣康長」左
寛永9年7月と刻まれているので、徳川2代将軍秀忠が逝去した年の奉献です。
奉献者は、寛永9年に丹波守の職にあった「松平丹波守源朝臣康長」。
芝増上寺の秀忠の霊廟に奉献した燈籠でしょう。
上野の林光寺や竹ノ塚の延命寺、高野台の長命寺、越谷の迎攝院の台徳院燈籠と同様の様式です。







<百観音堂>
参道正面にあるのが立派な百観音堂です。
西福寺は新西国観音霊場の第26番札所です。
観音堂裏手の題目塔道標には四国88箇所の第54番と刻まれています。


<本堂>
本堂は参道右手にあります。




<地蔵と石碑4基>
観音堂の裏手にも地蔵と古い石碑があります。

「題目塔道標」
文化6(1809)年7月の造立。
(正面)「四國八十八箇處徒 第五十四番 補陀落山 西福寺」
(右面)「東 越ヶ谷 南 江戸 道」


<川口市教育委員会説明板>
(説明板)
「江戸の日帰り行楽圏
荒川を渡ってすぐの川口宿は江戸から約3里5丁(12.5km)、西福寺のある西立野まで足をのばしても、江戸人の足なら日帰りも可能な距離だった。途中の川口宿や鳩ヶ谷宿で1泊することもでき、当時の庶民の行楽の場としては手頃だったと思われる。
また、江戸から近いわりに山里の風情を残す西福寺周辺は、江戸の文人たちをひきつけていた。文化11年(1814)から刊行された『遊歴雑記』の著者・津田大浄も、西立野を訪れて百観音に参詣し、野点や連句を楽しんでいる。
西福寺周辺の路傍を注意してみると、当時の人々の往来を偲ばせるような、道しるべや庚申塔の類を多く見つけることができる。」
(説明板)
「西福寺をめぐる庶民信仰
西福寺が地域の庶民の信仰生活と深く関わっていたことは観音信仰以外からも読みとることができる。
境内には、寺周辺地域の守り神であった地荒神の社、地蔵・閻魔・奪衣婆の三像をまつる地蔵堂、講中という字が見える石造物、西南戦争で戦死した兵士の石碑などがあり、境内から少し離れたところには西福寺が管理している稲荷社もある。昭和30年頃までは、住職による加持祈祷も行われていたという。
江戸から現代に至る庶民の信仰の諸相を知る格好の材料が、ここ西福寺には豊富に残されている。」




〇谷総稲荷神社 川口市西立野400
谷総稲荷神社は、西福寺の旧境内社です。
赤山街道から西福寺に向かう道の右手にあります。
かつてはここも境内だったとのこと。




<庚申塔2基>
山門脇に西南戦争時の墓碑と庚申塔2基があります。

<参道>
参道両側に石造の金剛力士。





<講中の石造物3基>
参道左手に、講中の石造物3基。


一番端に出羽三山供養塔があります。
「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」「天下泰平」「「日月清明」「講中」




「大先達 大乗院」

文政2(1819)年の造立です。

他2基は、「聖徳太子」「普門品供養」

<三重塔>
三重塔は徳川家光の長女千代姫が元禄6(1693)年に建立したといいます。
第1層には十二支の彫刻が施されています。
(説明板)
「西福寺
所在地 川口市大字西立野
西福寺は、真言宗豊山派の寺で、弘仁年間(八一○?八二四)に弘法大師が国家鎮護のため創建したと伝えられる古刹である。寺内には、三重塔と観音堂がある。
ここの三重塔は、三代将軍家光公の長女千代姫が奉建したもので、高さ約二十三メートルあり、県下では一番高い木造の建造物である。棟札銘文によると、この塔は、元禄六年(一六九三)三月二十七日に建立完成されたもので、かつては、櫓を組んで塔の頂上まで参詣者に登らせた時もあったが、現在では廃止されている。塔は、鉄製の釘を一本もつかわず細工によって作りあげてあり、構造は方三間で、一層の天井から真上に一本の柱をたて、その柱から二層・三層の屋根に梁を渡しバランスをとって、風にも地震にも耐えるように工夫されている。一層の天井近くにある「蟇股」には、十二支を表わす動物の彫刻が刻まれ、方向を示している。
また、入口正面にある観音堂には、西国、坂東、秩父札所の百の観音像が安置され、この一堂に参詣すれば、百ヵ所の観音霊場を参詣したと同じだけの功徳(御利益)があるとされ、春秋の行楽シーズンには、多くの参詣者で賑うところである。
昭和五十八年三月 埼玉県 」






<力石>
三重塔の前には力石が3つ置かれています。


<荒神社/百観音供養塔/鐘楼堂/地蔵菩薩>







<地蔵堂>
延命地蔵菩薩、閻魔王像、奪衣婆の3像が祀られています。


<台徳院殿尊前>石燈籠
寛永9(1632)年の「台徳院殿尊前」石灯篭が1基、地蔵堂の横にあります。
「奉拜進石燈籠」(奉拜は石が剥がれていて推定)右
「台徳院殿 尊前」中央
「寛永九年七月廿四日 松平丹波守源朝臣康長」左
寛永9年7月と刻まれているので、徳川2代将軍秀忠が逝去した年の奉献です。
奉献者は、寛永9年に丹波守の職にあった「松平丹波守源朝臣康長」。
芝増上寺の秀忠の霊廟に奉献した燈籠でしょう。
上野の林光寺や竹ノ塚の延命寺、高野台の長命寺、越谷の迎攝院の台徳院燈籠と同様の様式です。







<百観音堂>
参道正面にあるのが立派な百観音堂です。
西福寺は新西国観音霊場の第26番札所です。
観音堂裏手の題目塔道標には四国88箇所の第54番と刻まれています。


<本堂>
本堂は参道右手にあります。




<地蔵と石碑4基>
観音堂の裏手にも地蔵と古い石碑があります。

「題目塔道標」
文化6(1809)年7月の造立。
(正面)「四國八十八箇處徒 第五十四番 補陀落山 西福寺」
(右面)「東 越ヶ谷 南 江戸 道」


<川口市教育委員会説明板>
(説明板)
「江戸の日帰り行楽圏
荒川を渡ってすぐの川口宿は江戸から約3里5丁(12.5km)、西福寺のある西立野まで足をのばしても、江戸人の足なら日帰りも可能な距離だった。途中の川口宿や鳩ヶ谷宿で1泊することもでき、当時の庶民の行楽の場としては手頃だったと思われる。
また、江戸から近いわりに山里の風情を残す西福寺周辺は、江戸の文人たちをひきつけていた。文化11年(1814)から刊行された『遊歴雑記』の著者・津田大浄も、西立野を訪れて百観音に参詣し、野点や連句を楽しんでいる。
西福寺周辺の路傍を注意してみると、当時の人々の往来を偲ばせるような、道しるべや庚申塔の類を多く見つけることができる。」
(説明板)
「西福寺をめぐる庶民信仰
西福寺が地域の庶民の信仰生活と深く関わっていたことは観音信仰以外からも読みとることができる。
境内には、寺周辺地域の守り神であった地荒神の社、地蔵・閻魔・奪衣婆の三像をまつる地蔵堂、講中という字が見える石造物、西南戦争で戦死した兵士の石碑などがあり、境内から少し離れたところには西福寺が管理している稲荷社もある。昭和30年頃までは、住職による加持祈祷も行われていたという。
江戸から現代に至る庶民の信仰の諸相を知る格好の材料が、ここ西福寺には豊富に残されている。」




〇谷総稲荷神社 川口市西立野400
谷総稲荷神社は、西福寺の旧境内社です。
赤山街道から西福寺に向かう道の右手にあります。
かつてはここも境内だったとのこと。

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