向島 旧邸通り ほか
向島 旧邸通り
○ 榎本武揚旧邸跡 (記載済)
○ 依田學海旧居跡
○ 成島柳北の住居跡
向島 鳩の街通り
その他
○ 堀辰雄住居跡
○依田學海旧居跡 墨田区向島5-40(言問小学校)
(説明文)
「依田學海旧居跡 12
佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携っている。53歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。
森鴎外の師としても知られ、『ヰタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場。向島の隅田川の土手を臨む須崎村142番地(向島5丁目、言問小学校のあたり)に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている(実際は妾宅で、漢文の直しを乞いにきた鴎外は気がつかなかった)。
鴎外が15歳頃の出会いだが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては『送森軍医遊伯林序』という漢詩を贈っている。
向島百花園にもよく足を運び、明治15年に発行された『墨水二十四景記』には、百花園について記載している。同書は永井荷風著『墨東綺譚』の主人公が持って歩いていたことでも知られている。
また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海日記』には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。」


〇成島柳北の住居跡 墨田区向島5-40(言問小学校)
(説明文)
「成島柳北の住居跡 所在 墨田区向島五丁目四十番 言問小学校
成島柳北(一八三七~一八八四)は、幕府の儒者の家に生まれ、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行を歴任しました。
明治維新後は、新政府の招きを固辞し、「朝野新聞」の主筆として、新聞条例や讒傍律を批判したことで知られました。
明治十七年(一八八四)十一月、海棠園と呼ばれたこの場所で四八年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られましたが、明治四二年(一九○九)に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されました。
明治十八年、長命寺の境内に柳北の記念碑が建てられました。
平成十三年三月 墨田区教育委員会 」

○鳩の街通り
かつての赤線地帯です。

○堀辰雄住居跡 墨田区向島3-36-7
墨田区すみだ福祉保健センターの一角に「堀辰雄住居跡」があります。
(説明板)
「堀辰雄住居跡 所在地 墨田区向島三丁目三十六番
堀辰雄は明治三十七年(一九〇四)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(現在のすみだ福祉保健センター所在地)で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水で新小梅町二ノ四(現在の向島一丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。
牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。
関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四)四月に父松吉が隅田公園裏の新小梅町八番地(現在の向島1丁目七番)に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(一九三八)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。
人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。
平成二十三年二月 墨田区教育委員会」



○ 榎本武揚旧邸跡 (記載済)
○ 依田學海旧居跡
○ 成島柳北の住居跡
向島 鳩の街通り
その他
○ 堀辰雄住居跡
○依田學海旧居跡 墨田区向島5-40(言問小学校)
(説明文)
「依田學海旧居跡 12
佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携っている。53歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。
森鴎外の師としても知られ、『ヰタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場。向島の隅田川の土手を臨む須崎村142番地(向島5丁目、言問小学校のあたり)に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている(実際は妾宅で、漢文の直しを乞いにきた鴎外は気がつかなかった)。
鴎外が15歳頃の出会いだが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては『送森軍医遊伯林序』という漢詩を贈っている。
向島百花園にもよく足を運び、明治15年に発行された『墨水二十四景記』には、百花園について記載している。同書は永井荷風著『墨東綺譚』の主人公が持って歩いていたことでも知られている。
また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海日記』には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。」


〇成島柳北の住居跡 墨田区向島5-40(言問小学校)
(説明文)
「成島柳北の住居跡 所在 墨田区向島五丁目四十番 言問小学校
成島柳北(一八三七~一八八四)は、幕府の儒者の家に生まれ、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行を歴任しました。
明治維新後は、新政府の招きを固辞し、「朝野新聞」の主筆として、新聞条例や讒傍律を批判したことで知られました。
明治十七年(一八八四)十一月、海棠園と呼ばれたこの場所で四八年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られましたが、明治四二年(一九○九)に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されました。
明治十八年、長命寺の境内に柳北の記念碑が建てられました。
平成十三年三月 墨田区教育委員会 」

○鳩の街通り
かつての赤線地帯です。

○堀辰雄住居跡 墨田区向島3-36-7
墨田区すみだ福祉保健センターの一角に「堀辰雄住居跡」があります。
(説明板)
「堀辰雄住居跡 所在地 墨田区向島三丁目三十六番
堀辰雄は明治三十七年(一九〇四)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(現在のすみだ福祉保健センター所在地)で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水で新小梅町二ノ四(現在の向島一丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。
牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。
関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四)四月に父松吉が隅田公園裏の新小梅町八番地(現在の向島1丁目七番)に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(一九三八)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。
人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。
平成二十三年二月 墨田区教育委員会」



テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- カウンター