勝海舟生誕の地
〇両国公園 墨田区両国4-25-3
<勝海舟生誕の地>
両国公園は、平成27年度に「勝海舟生誕の地」の公園として整備されました。



(説明板)
「勝海舟生誕の地 所在地 墨田区両国四丁目二十五番
勝海舟は、文政六年(一八二三)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八○八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は旗本天野左京の自宅二階(現亀沢二丁目三番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。(以下略)
昭和二十三年三月 墨田区教育委員会」



「万延元年遣米使節図録 咸臨丸烈風航行の圖」(田中一貞 1920)
説明板に掲載の「咸臨丸」の絵です。

<勝海舟幕末絵巻>
勝海舟の歩みと、様々な出会い~以下読み応えのある長文が続きます。




(碑表)
「勝海舟生誕之地
法務大臣西郷吉之助書」

(碑裏)
「勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政六年一月晦日この地男谷家邸内に生る剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政七年咸臨丸艦長として渡米す明治元年三月十三日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり明治三十二年一月十九日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
昭和四十三年十二月吉日 秀魚書」

<由来碑>
「勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政六年(一八二三)一月三十日、この地男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六○)咸臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。
慶応四年(一八六八)三月十三日高輪薩摩邸において、大総督府参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治三十二年(一八九九)一月二十一日赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年七十五歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年十月 墨田区
(幕府講武所剣術師範役 男谷邸跡)」

○勝海舟(勝安芳)像 墨田区吾妻橋1-23-20
勝海舟の銅像が墨田区役所の脇にあります。
(碑文)
「建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(一八二三年)一月三十日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(一八九九)一月十九日(発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕百八十年
平成十五年(二○○三年)七月二十一日(海の日)
墨田区長 山崎 昇」









<すみだリバーウォーク>
スカイツリーライン隅田川橋梁の横に架かる歩道橋「すみだリバーウォーク」が6月18日開通します。4月13日に開通予定でしたが、コロナの影響で延期となっていました。
入口は柵が設けられていましたが、歩いて渡っている人がいますが、関係者かな。 水上バスは出発間近でも乗客はいませんでした。
(参考)東京ミズマチ



<アサヒビール本社>
墨田区役所の隣りはアサヒビール本社。巨大オブジェは近いと見えないですね。


○能勢妙見山別院 墨田区本所4-6-14
勝海舟の胸像があります。
「勝海舟翁之像
勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた
昭和四十九年五月十二日」





<寺紋>
能勢妙見堂の寺紋は、能勢氏の「切り竹矢筈十字」紋に由来していますが、寺紋を十字架とみなして隠れ切支丹の人々が拝むようになったとも。



<山門、狛犬、本殿>








<鴎稲荷大善神>

<水神堂>

○勝海舟邸跡(赤坂)
こちらで記載済
○江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地 港区芝5-33-8
ビル解体建設工事に伴って、碑は保管中です。
「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。」






「勝安房、西郷吉之助會見」(実写奠都五十年史 日本仏教協会 大正6年)
会見が行われた薩摩藩屋敷の写真がありました。


<勝海舟生誕の地>
両国公園は、平成27年度に「勝海舟生誕の地」の公園として整備されました。



(説明板)
「勝海舟生誕の地 所在地 墨田区両国四丁目二十五番
勝海舟は、文政六年(一八二三)正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八○八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は旗本天野左京の自宅二階(現亀沢二丁目三番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田寅之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと伝えられています。(以下略)
昭和二十三年三月 墨田区教育委員会」



「万延元年遣米使節図録 咸臨丸烈風航行の圖」(田中一貞 1920)
説明板に掲載の「咸臨丸」の絵です。

<勝海舟幕末絵巻>
勝海舟の歩みと、様々な出会い~以下読み応えのある長文が続きます。




(碑表)
「勝海舟生誕之地
法務大臣西郷吉之助書」

(碑裏)
「勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政六年一月晦日この地男谷家邸内に生る剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政七年咸臨丸艦長として渡米す明治元年三月十三日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり明治三十二年一月十九日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
昭和四十三年十二月吉日 秀魚書」

<由来碑>
「勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政六年(一八二三)一月三十日、この地男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六○)咸臨丸艦長として太平洋を横断渡米した。
慶応四年(一八六八)三月十三日高輪薩摩邸において、大総督府参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治三十二年(一八九九)一月二十一日赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、行年七十五歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年十月 墨田区
(幕府講武所剣術師範役 男谷邸跡)」

○勝海舟(勝安芳)像 墨田区吾妻橋1-23-20
勝海舟の銅像が墨田区役所の脇にあります。
(碑文)
「建立の記
勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政六年(一八二三年)一月三十日、江戸本所亀沢町(両国四丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治三十二年(一八九九)一月十九日(発表は二十一日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
海舟生誕百八十年
平成十五年(二○○三年)七月二十一日(海の日)
墨田区長 山崎 昇」









<すみだリバーウォーク>
スカイツリーライン隅田川橋梁の横に架かる歩道橋「すみだリバーウォーク」が6月18日開通します。4月13日に開通予定でしたが、コロナの影響で延期となっていました。
入口は柵が設けられていましたが、歩いて渡っている人がいますが、関係者かな。 水上バスは出発間近でも乗客はいませんでした。
(参考)東京ミズマチ



<アサヒビール本社>
墨田区役所の隣りはアサヒビール本社。巨大オブジェは近いと見えないですね。


○能勢妙見山別院 墨田区本所4-6-14
勝海舟の胸像があります。
「勝海舟翁之像
勝海舟九才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎へ海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた
昭和四十九年五月十二日」





<寺紋>
能勢妙見堂の寺紋は、能勢氏の「切り竹矢筈十字」紋に由来していますが、寺紋を十字架とみなして隠れ切支丹の人々が拝むようになったとも。



<山門、狛犬、本殿>








<鴎稲荷大善神>

<水神堂>

○勝海舟邸跡(赤坂)
こちらで記載済
○江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見の地 港区芝5-33-8
ビル解体建設工事に伴って、碑は保管中です。
「田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情話で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。」






「勝安房、西郷吉之助會見」(実写奠都五十年史 日本仏教協会 大正6年)
会見が行われた薩摩藩屋敷の写真がありました。


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