山王坂/山王切通坂
○山王坂 千代田区永田町2丁目
衆議院第一議員会館と第二議員会館の間の坂道です。江戸時代は日枝神社の表参道で、坂上に一之鳥居、坂下に二之鳥居がありました。
<標柱「山王坂」> 千代田区永田町2-2
衆議院第一議員会館北側歩道に標柱が建てられています。

(標柱)
「山王坂
江戸時代、山王社(日枝神社)の西側には、外堀の一部である溜池があり、赤坂側から入ることができませんでした。そのため、この坂道は山王社の表参道として利用されたことから名付けられました。坂上には第一鳥居が、坂下には第二鳥居があり、坂の北側には門前町屋が並んでいました。将軍やその名代を務めた大名たちも、この坂道を通って、山王社に参詣していました。 千代田区」


「江戸切絵図」
「星ノ山日吉山王大権現社」とあり、その参道(現在の山王坂)に鳥居が2つ描かれています。

「江戸名所図会」
江戸名所図会の日吉天王社から、二の鳥居部分の抜粋です。

「山王御宮絵図」(江戸城内并芝上野山内其他御成絵図 文政3(1820)年)
参道に鳥居が2つ描かれています。

「江戸名所百人美女 山王御宮」(豊国・国久)
「手古舞(てこまい)」が描かれています。手古舞とは、本来、山王祭や神田祭において、山車を警護した鳶職のことで、その後、手古舞の衣装を着て女性たちは練り歩きました。

駒絵に坂上と坂下に鳥居が描かれています。

「江戸自慢三十六興 日吉山王祭り子」(広重・豊国)
「手古舞」が描かれています。坂上と坂下に鳥居が描かれています。

○山王切通坂 千代田区永田町2丁目
山王坂の坂下から直進し、日枝神社の北から西に回り込む坂です。江戸時代にはなかった坂です。

<社号標>
山王切通坂下にある社業標「元官幣大社日枝神社」です。

東郷平八郎書とあります。

<昭忠碑>
社号標の右に、日露戦役の慰霊顕彰碑があります。「正五位日下部東作書」とあります。


<江戸・東京の農業>
昭魂碑の右手にJAの説明板が設置されています。
(説明板)
「江戸・東京の農業 わが国黎明期の牧場
江戸城内に社があった古い歴史をもつここ日枝神社は、かつては、南は芝、西は麹町、東は霊巌島小網町、北は神田に至る、広大な氏子地域をもっていましたが、それは明治の初め東京の酪農誕生の地域でもありました。
明治6年にはすでに7軒の牧場があり、竹橋には、吉野文蔵が幕府の牧場を引き継ぎ、芝桜川には明治4年、洋式搾乳の先駆者前田留吉が、下谷には旧幕臣辻村義久が、麹町五番町には阪川当晴が、そして木挽町に越前屋守川幸吉が牧場を開きました。
このように殆んどが江戸幕府崩壊による失業武士によるものでしたが、大官、貴族による開設も続出。男爵松尾臣善が飯田町、佐倉藩主堀田子爵が麻布、榎本武揚、大鳥圭介が神田猿楽町、さらに明治8〜9年の頃になると、松方正義が芝三田に、山県有朋が麹町三番町に、由利公正は木挽町に、桑名藩主松平定教は向柳原に、副島種臣は麹町霞ヶ関に、細川潤次郎が駿河台で牧場を開設したほか、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われており、日本の畜産の黎明はこの社の地域からスタートしています。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合施行五十周年記念事業」
衆議院第一議員会館と第二議員会館の間の坂道です。江戸時代は日枝神社の表参道で、坂上に一之鳥居、坂下に二之鳥居がありました。
<標柱「山王坂」> 千代田区永田町2-2
衆議院第一議員会館北側歩道に標柱が建てられています。

(標柱)
「山王坂
江戸時代、山王社(日枝神社)の西側には、外堀の一部である溜池があり、赤坂側から入ることができませんでした。そのため、この坂道は山王社の表参道として利用されたことから名付けられました。坂上には第一鳥居が、坂下には第二鳥居があり、坂の北側には門前町屋が並んでいました。将軍やその名代を務めた大名たちも、この坂道を通って、山王社に参詣していました。 千代田区」


「江戸切絵図」
「星ノ山日吉山王大権現社」とあり、その参道(現在の山王坂)に鳥居が2つ描かれています。

「江戸名所図会」
江戸名所図会の日吉天王社から、二の鳥居部分の抜粋です。

「山王御宮絵図」(江戸城内并芝上野山内其他御成絵図 文政3(1820)年)
参道に鳥居が2つ描かれています。

「江戸名所百人美女 山王御宮」(豊国・国久)
「手古舞(てこまい)」が描かれています。手古舞とは、本来、山王祭や神田祭において、山車を警護した鳶職のことで、その後、手古舞の衣装を着て女性たちは練り歩きました。

駒絵に坂上と坂下に鳥居が描かれています。

「江戸自慢三十六興 日吉山王祭り子」(広重・豊国)
「手古舞」が描かれています。坂上と坂下に鳥居が描かれています。

○山王切通坂 千代田区永田町2丁目
山王坂の坂下から直進し、日枝神社の北から西に回り込む坂です。江戸時代にはなかった坂です。

<社号標>
山王切通坂下にある社業標「元官幣大社日枝神社」です。

東郷平八郎書とあります。

<昭忠碑>
社号標の右に、日露戦役の慰霊顕彰碑があります。「正五位日下部東作書」とあります。


<江戸・東京の農業>
昭魂碑の右手にJAの説明板が設置されています。
(説明板)
「江戸・東京の農業 わが国黎明期の牧場
江戸城内に社があった古い歴史をもつここ日枝神社は、かつては、南は芝、西は麹町、東は霊巌島小網町、北は神田に至る、広大な氏子地域をもっていましたが、それは明治の初め東京の酪農誕生の地域でもありました。
明治6年にはすでに7軒の牧場があり、竹橋には、吉野文蔵が幕府の牧場を引き継ぎ、芝桜川には明治4年、洋式搾乳の先駆者前田留吉が、下谷には旧幕臣辻村義久が、麹町五番町には阪川当晴が、そして木挽町に越前屋守川幸吉が牧場を開きました。
このように殆んどが江戸幕府崩壊による失業武士によるものでしたが、大官、貴族による開設も続出。男爵松尾臣善が飯田町、佐倉藩主堀田子爵が麻布、榎本武揚、大鳥圭介が神田猿楽町、さらに明治8〜9年の頃になると、松方正義が芝三田に、山県有朋が麹町三番町に、由利公正は木挽町に、桑名藩主松平定教は向柳原に、副島種臣は麹町霞ヶ関に、細川潤次郎が駿河台で牧場を開設したほか、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われており、日本の畜産の黎明はこの社の地域からスタートしています。
平成9年度JA東京グループ
農業協同組合施行五十周年記念事業」

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