山岡鉄舟開基の全生庵

○全生庵 台東区谷中5-4-7 HP

 天龍院の前にある全生庵へ参詣。全生庵の開基は山岡鉄舟で、明治維新の際に国事に殉じた人々の菩提を弔うために、明治16(1883)年に建立されました。

<寺号標>

 寺号標「全生」

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<案内板>

 山門に東京都「山岡鉄舟」「三遊亭 圓朝」と台東区「弘田龍太郎」の案内板と、標柱「三遊亭円朝墓」があります。

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 標柱
 「東京都
  史跡 三遊亭円朝墓」

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<三遊亭圓朝翁碑>

 明治39(1906)年、圓朝七回忌に際して建てられた追悼碑で、井上馨の書です。

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(説明板)
「三遊亭圓朝翁碑
 明治三十九年、圓朝七回忌に際して建てられた追悼碑で、生前愛顧を受けていた明治の元老井上馨侯爵の書による。碑文に「挂劍」(死者に対して信を守ることのたとえ)と刻まれていることからも、二人の交情が一方ならぬものであったことがうかがわれる。」

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<山岡鉄舟居士之賛>

 明治23(1890)年に建てられた碑で、篆額は有栖川熾仁親王、碑文は勝海舟の書です。

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(説明板)
「山岡鐡舟居士之賛
 鐡舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
 剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に印可受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐡舟を讃える碑であり、その才智の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐡舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える。」

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<山田良政君碑>

 大正2(1913)年に来日した孫文が、自身の書で建立した記念碑です。

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(碑文)
「山田良政君碑
 山田良政君弘前人也
 康子閏八月革命軍起恵州
 君挺身赴義遂戦死
 鳴呼其人道之犠牲興亜之先覚也
 身雖殞滅而志不朽矣
 民国二年八月廿七日
  孫文 謹撰並書」

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(説明板)
「山田良政君碑
 中国革命党の活動を支援し、一九○○年の恵州蜂起に加わって戦死した山田良政の死を悼んだ孫文が、一九一三年に来日した際に建立した記念碑。孫文自身の書で、同志であった山田良政の、アジアのために捧げたその志は不朽だと記す。」

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<師恩>

 松本楓湖は、幕末から大正時代の日本画家です。大正8(1919)年の建碑です。

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<長谷川尚一君顕彰碑>

 長谷川尚一は、国産石油開発を推進。

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<彰義隊伴貞煕の墓碑>

 幕臣の伴貞懿(ばんさだよし)(伴門五郎)は、彰義隊の主唱者でありまた参謀格でした。上野で戦死したとされます。山岡らにより明治20(1887)年建立。篆額は山岡鐵太郎(鉄舟)です。

 「伴士徳君墓表」

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<谷中大観音>

 観世音菩薩像です。平成3(1991)年4月18日開眼。北村西望作の高さ6メートル30センチの観世音菩薩像です。

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<本堂>

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【墓地】

 「三遊亭圓朝居士の墓」「山岡鉄舟居士の墓」の案内表示があります。

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<山岡鉄舟の墓>

 左「山岡鉄舟の墓」
 右「山岡家累世之墓」
 墓石には「全生庵殿鐡舟高歩大居士」とあります。

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(説明板)
「東京都指定旧跡
 山岡鉄舟墓 
   所在地 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地
   指定  昭和二十八年十一月三日 
 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保七年(一八三六)六月十日幕臣小野朝右衛門の五男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩、字は曠野、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永五年(一八五二)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の中で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内小輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治十三年(一八八○)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治十六年(一六八三)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治二十一年(一八八八)七月十九日五十三歳で死去した。
 山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬、村上政忠の墓がある。
  平成十三年三月三十一日 設置  東京都教育委員会」

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 山岡鉄舟肖像(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
 天保7年6月10日〜明治21年7月19日
 (1836年7月23日〜1888年7月19日)

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<江戸無血開城の立役者>
 江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、山岡鉄舟は徳川慶喜の命を受け、慶応4(1868)年3月7日に、官軍の駐留する駿府で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となりました。3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも立ち会いました。
 明治14(1881)年に新政府が維新の功績調査をした時、勝が提出した勲功録に、全て勝がやったように書かれており、岩倉具視は鉄舟を呼び出し、「手柄は勝に譲るにしても、事実として後世に残さなければならない」と説得し、明治15(1882)年に「西郷との談判記」を執筆させました(ウィキペディア等を参照しました。)

(山岡鉄舟関連)
 ○三ノ輪橋
   慶応四年に水戸へ去る徳川慶喜は、三ノ輪のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けました。
 ○躍金楼
   名付け親は、山岡鉄舟です。
 ○山岡鉄舟の題字
   「為囚死群霊離苦得脱」(延命地蔵尊) 大安楽寺(中央区)
   「弔魂之碑」(西南の役)   増上寺(港区)
   「神変大菩薩」(役行者追悼碑) 大聖院(新宿区)
   「戦死之墓」(彰義隊の墓)  上野公園(台東区)
   「三遊塚」          木母寺(墨田区)
   「累卵塔碑」(山岡鉄舟画賛) 亀戸天神社(江東区)
   「彰義隊顕彰之碑」      鬼子母神堂(豊島区)


<三遊亭円朝の墓>

 標柱「三遊亭圓朝居士の墓」
 墓石には「三遊亭圓朝無舌居士」とあり、山岡鉄舟書です。鉄舟は円朝より先に亡くなっていますが、生前に円朝のために揮毫しています。墓石右側面に辞世の句「耳志ひて聞定めけり露乃音」が刻まれています。

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(説明板)
「東京都指定旧跡
 三遊亭円朝墓
   所在地 台東区谷中五丁目四番七号 全生庵墓地
   指定  昭和二十八年十一月三日 
 初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保十年(一八三九)四月一日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。二代目三遊亭円生の門人となり、安政二年(一八五五)十六歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し『真景累ケ淵』や『怪談牡丹燈籠』『塩原多助一代記』などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数奇屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余の枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公案を喝破して居士号を授けられた。更に書画古美術品に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治三十三年(一九〇〇)八月十一日六十二歳で死去した。墓石には、山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
  平成十三年三月三十一日 設置  東京都教育委員会」

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 三遊亭円朝肖像(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
 天保10年4月1日〜明治33年8月11日
 (1839年5月13日〜1900年8月11日)

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<弘田龍太郎の墓>

 「作曲家 弘田龍太郎先生の墓」の標柱があり、「弘田家之墓」とあります。

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 墓石右脇に「叱られて」の楽譜、歌詞の曲碑が建っています。下段は松村禎三による撰文です。この曲碑は親族により平成元(1889)年に建てられました。

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(説明板)
「弘田龍太郎墓・曲碑
  台東区谷中五丁目四番七号 全生庵
 春よ来い」「叱られて」などの作曲家。明治二十五年、高知県に生まれる。大正三年、東京音楽学校(現、東京藝術大学)を卒業、さらに研究科を修了し母校で教えた。昭和三年、ドイツに留学、翌年に帰国し七月、同校教授に任命されたが、九月には作曲活動に専念するため職を辞した。
 弘田龍太郎は、作曲や合唱指導など音楽活動に大きな足跡を残した。さらに晩年には、幼稚園を設立、園長となり幼児の音楽指導にあたった。特に中山晋平らとともに多くの童謡を作曲したことはよく知られている。その活動は幅広く作品は千数百曲にも及ぶという。主な作品には、「くつが鳴る」「雀の学校」「雨」「鯉のぼり」「お山のお猿」などの童謡、「浜千鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」などの歌曲があり、今なお愛唱されている。このほか歌劇、合唱曲、仏教音楽、舞踊曲など多方面にわたる作曲活動を行った。
 昭和二十七年、文京区本郷の自宅でなくなり、ここ全生庵に葬られた。享年六十歳。平成元年春、親族によって、龍太郎夫妻が眠る墓のかたわらに、「叱られて」(清水かつら作詞)の譜面と、作曲家松村禎三の撰文が浮き彫りされる碑が建立された。
  平成十四年三月  台東区教育委員会」

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<竹本住之助墓>

 竹本住之助は、浄瑠璃女流義太夫(明治11(1878)年2月〜明治27(1894)年9月)です。

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「女義太夫の裏面」(葛城天華 大学館 明治35年9月)

 ドースル連の後向総傍聴の挿絵です。浄瑠璃女流義太夫の熱狂的な追っかけは「堂摺連(どうするれん)」と呼ばれました。曲のクライマックスで、一斉に「ドースル、ドースル」と絶叫したことに由来します。
 慶応は竹本綾之助、明治は竹本小土佐、早稲田は竹本住之助を推しました。
 ※竹本綾之助の墓はこちらで記載

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