天龍院 (伊東玄朴の墓)
○天龍院 台東区谷中4-4-33 HP
幕末期の蘭方医である伊東玄朴の墓は天龍院にあります。




(説明板)
「伊東玄朴墓(都指定旧跡)
伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。寛政十二年(一八○○)、肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。
文政十一年(一八二八)、江戸に出て、本所番場町(現、墨田区東駒形一丁目)で開業、翌年下谷長者町(現、台東区上野三丁目)に転居し医療を施し、天保二年(一八三一)には、佐賀藩医となった。同四年、移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東一丁目)の家は、象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。
玄朴は、嘉永二年(一八四九)、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため、私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。安政五年(一八五八)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は、翌年火災による焼失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(一八六○)には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。
玄朴は、明治四年、七十二歳で没し、ここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳『医療正始』は、現在でも高く評価されている。
なお、台東一丁目三十番には、種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の説明板が建っています。
平成十四年三月 台東区教育委員会」


(参考)「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡」(こちらで記載)
<墓地>
本堂裏の墓地にある伊東玄朴墓へ向かいます。伊東玄朴墓は樹木墓地の奥にあります。

<手水鉢>
墓地入口にある手水鉢は、「銭型手水鉢」です。水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。「吾唯足るを知る」となります。

<伊東家墓所>
一番手前右手に「伊東家之墓」、続いて「伊東方成夫妻之墓」、最奥に「伊東玄朴先生之墓」はあります。



「伊東方成夫妻之墓」
婿養子の伊東方成は、明治天皇の侍医も務めました。昭和天皇の侍医を務めその死を看取った伊東貞三も伊東玄朴のご子孫です。



「伊東玄朴百年諱供養塔」(昭和46年)


左「伊東玄朴先生配猪俟孺人之墓」、右「伊東玄朴先生之墓」(東京都旧跡)です。



幕末期の蘭方医である伊東玄朴の墓は天龍院にあります。




(説明板)
「伊東玄朴墓(都指定旧跡)
伊東玄朴は、近世後期の蘭方医。寛政十二年(一八○○)、肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)の農家に生まれる。医学を志し、長崎では通詞猪股伝右衛門とドイツ人フォン・シーボルトに師事してオランダ語、西洋医学を学んだ。
文政十一年(一八二八)、江戸に出て、本所番場町(現、墨田区東駒形一丁目)で開業、翌年下谷長者町(現、台東区上野三丁目)に転居し医療を施し、天保二年(一八三一)には、佐賀藩医となった。同四年、移転した下谷和泉橋通(現、台東区台東一丁目)の家は、象先堂と称し、訪れる者が列をなしたという。
玄朴は、嘉永二年(一八四九)、幕府が発した蘭方禁止令、蘭書翻訳取締令に対抗するため、私設種痘所の建設を企画、同士に呼び掛けた。安政五年(一八五八)、神田お玉が池(現、千代田区岩本町)に設立され、これが蘭方医学を幕府に認めさせる突破口となった。種痘所は、翌年火災による焼失のため、玄朴宅の隣地である下谷和泉橋通に移転、再建された。万延元年(一八六○)には、幕府直轄となり翌年西洋医学所と改称、玄朴はその取り締まりに任命された。その後は明治政府に引き継がれ、現在の東京大学医学部の前身となった。
玄朴は、明治四年、七十二歳で没し、ここ天龍院に葬られた。ドイツ人ビショップの著書の翻訳『医療正始』は、現在でも高く評価されている。
なお、台東一丁目三十番には、種痘所跡・伊東玄朴居宅跡の説明板が建っています。
平成十四年三月 台東区教育委員会」


(参考)「伊東玄朴居宅跡・種痘所跡」(こちらで記載)
<墓地>
本堂裏の墓地にある伊東玄朴墓へ向かいます。伊東玄朴墓は樹木墓地の奥にあります。

<手水鉢>
墓地入口にある手水鉢は、「銭型手水鉢」です。水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。「吾唯足るを知る」となります。

<伊東家墓所>
一番手前右手に「伊東家之墓」、続いて「伊東方成夫妻之墓」、最奥に「伊東玄朴先生之墓」はあります。



「伊東方成夫妻之墓」
婿養子の伊東方成は、明治天皇の侍医も務めました。昭和天皇の侍医を務めその死を看取った伊東貞三も伊東玄朴のご子孫です。



「伊東玄朴百年諱供養塔」(昭和46年)


左「伊東玄朴先生配猪俟孺人之墓」、右「伊東玄朴先生之墓」(東京都旧跡)です。




- 関連記事
-
-
旧谷中真島町 真島稲荷神社
-
山岡鉄舟開基の全生庵
-
天龍院 (伊東玄朴の墓)
-
望湖山玉林寺の小経と谷中富士
-
望湖山玉林寺の墓地
-
望湖山玉林寺のシイ
-
望湖山玉林寺
-
コメント
コメントの投稿
トラックバック
- カウンター