馬喰町

○馬喰町

 奥州街道の出発地であり、問屋街に近く、関東郡代の役宅もあったため、旅人宿や公事宿が多く、訴訟・商用・見物の者で賑わいました。
 名前の由来は馬市が立ち、牛馬の売買や治療を行う博労が多く住んだため、または、近くにあった初音馬場を博労頭の高木源兵衛や富田半七が管理を任されていたためと言われます。


「江戸名所図会 馬喰町馬場/馬場 追廻し」

 江戸名所図会の挿絵「馬喰町馬場」では、子どもたちが遊んでいます。遠景には「浅草御殿」と記されています。

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  本文に記載の図「馬場 追廻し」です。

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「絵本江戸土産 馬喰町初音馬場」(広重)

 挿絵には「馬喰町二丁めと三丁目の間の横丁斯の如き火見あり 夫につづきて馬場あり是を初音の馬場といふ 両縁に柳数株を植る 常に馬術の稽古をなせり」とあります。「柳原封疆(どて)」が記されています。
 右手に反物が横に干されているのが見えます。

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「名所江戸百景 馬喰町初音乃馬場」(広重)

 紺屋町の染職人が干した反物が描かれています。

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「江戸名所道化盡 初音の馬場」(広景 都立図書館蔵)

 干している反物に首を引っ掛けてしまいました。銭がバラバラ落ちています。染職人の羽織には「初音」「初」とあります。

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「江戸切絵図」

「紺屋町」と「初音馬場」部分の抜粋です。広重は紺屋町と初音馬場で干している反物を描いています。

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 「初音馬場」部分の抜粋です。 「浅草御門」「馬場」「郡代屋敷」などが見えます。浅草御門建設にあたり、初音稲荷の境内地の半分ほどが削られています。馬場は、天文20(1551)年に初音稲荷の社前に設けられました。郡代屋敷は、明暦三年の大火後、初音稲荷の別当地がその敷地となりました。

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<現在の地図>

 初音の馬場跡の現在地は、中央区日本橋馬喰町1-8-10です。跡地に痕跡や説明板の類など、何もありません。

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○郡代屋敷跡 中央区日本橋馬喰町2-7-2

 浅草橋の南の袂に中央区の説明板「郡代屋敷跡」が建っています。いわゆる関東郡代は、伊奈忠次を代官頭に任じたことを端緒とし、寛永19(1642)年に伊奈忠治が関東諸代官の統括を命じられたことにより事実上始まり、その後10代150年間に渡って伊奈氏が世襲しました。

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(説明板)
「郡代屋敷跡  所在地 中央区日本橋馬喰町二丁目地域
 江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東群代 の役宅があった場所です。
 関東郡代は、天正十八年(一五九〇)徳川家康 から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(一六四二)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(一六八八〜一七〇四)には関東群代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。
 その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(一六五七)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。
 寛政四年(一七九二)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東群代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(一八〇六)に関東群代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く群代屋敷 と呼んでいました。
 平成二十年三月  中央区教育委員会」

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(参考)
 杉浦陣屋跡 赤山陣屋敷址 小菅御殿 伊奈家歴代御墓所


○出土した江戸時代の石垣石 中央区日本橋馬喰町2-7-2

 東日本橋交番横に「出土した江戸時代の石垣石」と説明板があります。

(説明板)
「出土した江戸時代の石垣石
 この石が出土した場所は、ここから西へ約5、60m行ったところになります。そこは、江戸時代を通じて神田川に沿った柳原土手という土手でした。神田川は江戸城の防御のための堀の役割を果し、浅草橋の南側には、江戸城の最も北東にある浅草橋御門と呼ばれる城門があり、この一帯は江戸城内でも重要な位置にあたります。
 この石は、平成19年12月から平成20年5月にかけて行なわれた発掘調査において、地下1mほどで発見されました。伊豆半島辺りから運ばれてきた安山岩質の石です。こうした石が6段前後、高さ3〜4mに数十個積まれた状態で見つかりました。これは江戸城の防御を固める石垣です。土手の南側を補強する意味もあったのかもしれません。土手の形に沿って東西に長く築かれていました。
 今回の発掘調査で、はじめてここに石垣が築かれていたことがわかった新発見の資料で、まさにこの一帯が江戸城の一角を成していたことがわかる貴重な出土遺物です。
  開智日本橋学園中学・高等学校」

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○馬喰横山駅名由来像 中央区東日本橋3-8 A3出入口改札内

 都営新宿線の馬喰横山駅構内に馬のオブジェと「駅名由来」板、タイル画があります。

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○初音森神社【儀式殿】 中央区東日本橋2-27-9 HP

 中央区東日本橋に儀式殿、墨田区千歳に本社が鎮座しています。創建時は小さな祠だった当社は、文明3(1471)年に太田道灌により社殿が造営されています。天文20(1551)年、社前に馬場が整備され、「初音稲荷」にちなみ「初音の馬場」と称されました。昭和48(1973)年、13階建ての「初音森ビル」が竣工し、二階部分が儀式殿となっています。 江戸七森の一つです。


<ビル2階にある神社>

 ビル2階に幟が並んでいます。

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<外宮>

 儀式殿は2階に置かれていますが、1階にも外宮があります。

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<由緒>

(掲示)
「初音森神社由緒
当神社は元弘年間(一三三○年頃)に創祀され、豊受比売命(宇迦之魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と稱え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文二○年(一五五一)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦三年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺)も関東郡代屋敷用地となり、現在本社のある墨田区千歳に替え地を拝領し遷宮。今日に及ぶ。昭和二十三年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和四十八年一二月新殿及び儀式殿を近代建築とした。」

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<名馬 三日月>

 平成15(2003)年10月の奉納です。

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<井戸由緒>

 「家康」「名馬三日月」「三日月の井戸」の挿絵と井戸由緒が掲示されています。

(掲示)
「名井三日月の井戸由緒
慶長五年(一六○○年)関ヶ原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し初音の馬場に勢揃いし木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月と命名したと伝えられている。明暦三年(一六五七年)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区に遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。
 此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿が紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により仝二十年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和三年の区割整理迄保存され、むらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている」

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<外宮>

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<儀式殿>

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