上野広小路遺跡三橋遺構
○上野広小路遺跡三橋遺構 台東区上野公園2-1 下町風俗資料館
令和5(2023)年1月19日に「上野広小路遺跡三橋遺構」完成記念式典が行われ、1月20日から一般公開されています。
上野広小路遺跡から出土した石材・木材を使い、江戸時代に上野広小路から寛永寺へ渡るための橋であった「三橋」の下部構造となる石組について、その半面を再現して整備されています。



(説明板)
「上野広小路遺跡三橋遺構(台東区有形文化財) 台東区上野公園二番
上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で、構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
この遺構は、三橋の株構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷きを有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。
令和五年一月 台東区教育委員会」


<石組/底板>



底板の寛永通宝


<パネル>












「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 国立国会図書館蔵)

「温故東の花 旧諸侯上野初御仏参之図」(楊洲周延 都立図書館蔵)

※三橋については、こちらで記載済です
○龍門橋碑 台東区上野公園2-1
上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に、石碑「龍門橋」があります。

「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)
地図を見ると、不忍池から忍川へ流れ出す水路に「龍門橋」が架かっています。

○「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧上野恩賜公園」 台東区上野公園2-1
上野公園は広いですからね、旧町名由来案内が龍門橋碑の正面にもありました。
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 台東区」
令和5(2023)年1月19日に「上野広小路遺跡三橋遺構」完成記念式典が行われ、1月20日から一般公開されています。
上野広小路遺跡から出土した石材・木材を使い、江戸時代に上野広小路から寛永寺へ渡るための橋であった「三橋」の下部構造となる石組について、その半面を再現して整備されています。



(説明板)
「上野広小路遺跡三橋遺構(台東区有形文化財) 台東区上野公園二番
上野広小路遺跡三橋遺構は、台東区立上野中央通り地下駐車場を建設する際の敷地内発掘調査により、平成十七年度に発見された石組水路の遺構で、構築年代は十七世紀後半頃と推測される。
江戸時代には、不忍池の南東角から広小路を横切るように東へ水路(忍川)が流れており、忍川には寛永寺に参詣するための三つの橋(中央に将軍が参詣する時に使用した大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていたことから、「三橋」と呼ばれていた。
この遺構は、三橋の株構造(橋台)の一部を構成する石組水路であると考えられている。
発掘時、石組水路は深い部分で上幅三メートル、下幅一メートル、高さ三メートルあり、石垣は「間知石」を積上げ、底面の砂層の上には板材が組み合わせて敷かれていた。
本遺構は遺存が良好であり、底面に類例の知られていない板敷きを有するなど貴重である。また忍川と上野広小路の歴史を解明し、寛永寺と三橋の関係を考える上でも重要である。
ここでは、上野広小路遺跡三橋遺構から実際に出土した石材・木材を使い、石組の半面を再現して設置・展示している。
令和五年一月 台東区教育委員会」


<石組/底板>



底板の寛永通宝


<パネル>












「温古東錦正月十日諸侯上野霊廟へ参詣之図」(小島勝月 国立国会図書館蔵)

「温故東の花 旧諸侯上野初御仏参之図」(楊洲周延 都立図書館蔵)

※三橋については、こちらで記載済です
○龍門橋碑 台東区上野公園2-1
上野恩賜公園内の下町風俗資料館に近い植え込みの中に、石碑「龍門橋」があります。

「上野公園之図」(東京案内 明治40(1907)年)
地図を見ると、不忍池から忍川へ流れ出す水路に「龍門橋」が架かっています。

○「旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧上野恩賜公園」 台東区上野公園2-1
上野公園は広いですからね、旧町名由来案内が龍門橋碑の正面にもありました。
「旧町名由来案内 下町まちしるべ
旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(一六二五)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(一八六八)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。 台東区」

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