浄正寺(三河島事故慰霊)
○浄正寺 荒川区荒川3-53-1
江戸期には、3,500坪の広大な境内地を有していました。
「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
三河島村の田圃の中に、「観音寺」「浄正寺」「イナリ」と固まって見えます。「浄正寺」の広い寺域がうかがえます。

<山門>
山門前に、標柱が2つあり、右に寺号標「宗教法人浄土宗浄正寺」左に「三河島事故慰霊聖観音安置」。昭和37(1962)年5月3日の国電(現JR)三河島事故の惨事を今日に伝える三河島観音が安置され、犠牲者の供養をしています。




(説明板)
「文安六年銘板碑(浄正寺)
清国山快楽院という浄土宗の寺。文亀三年(一五○三)の開創と伝える。江戸期は三千五百坪の広大な境内地を有した。
室町期文安六年(一四四九)銘の板碑を所蔵。境内南側の池の底から出土したもので、中世の三河島を知る上で貴重である。この他、寛文六年(一六六六)銘の庚申待供養塔など多くの石仏・石碑が境内にある。本堂前の三河島観音は、昭和三十七年(一九六ニ)の国電三河島事故の惨事を今日に伝えている。
荒川教育委員会」

<地蔵尊(庚申待供養碑)> 荒川区文化財
山門の先右手に、寛文6(1666)年銘の地蔵尊を主尊とする庚申待供養塔があります。荒川区文化財です。

<水子地蔵尊>


<三河島観音(三河島事故慰霊碑)>
昭和37(1962)年5月3日の国電(現JR)三河島事故の惨事を今日に伝える三河島観音が安置され、犠牲者の供養をしています。



「三河島事故に捧ぐ
安らかに 眠れとは 如何に悲しき 言の葉か
つま待つ 家の帰り路を 知るよしもなき
此の惨事 あゝ たれぞ知る此の惨事」

<本堂>


江戸期には、3,500坪の広大な境内地を有していました。
「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
三河島村の田圃の中に、「観音寺」「浄正寺」「イナリ」と固まって見えます。「浄正寺」の広い寺域がうかがえます。

<山門>
山門前に、標柱が2つあり、右に寺号標「宗教法人浄土宗浄正寺」左に「三河島事故慰霊聖観音安置」。昭和37(1962)年5月3日の国電(現JR)三河島事故の惨事を今日に伝える三河島観音が安置され、犠牲者の供養をしています。




(説明板)
「文安六年銘板碑(浄正寺)
清国山快楽院という浄土宗の寺。文亀三年(一五○三)の開創と伝える。江戸期は三千五百坪の広大な境内地を有した。
室町期文安六年(一四四九)銘の板碑を所蔵。境内南側の池の底から出土したもので、中世の三河島を知る上で貴重である。この他、寛文六年(一六六六)銘の庚申待供養塔など多くの石仏・石碑が境内にある。本堂前の三河島観音は、昭和三十七年(一九六ニ)の国電三河島事故の惨事を今日に伝えている。
荒川教育委員会」

<地蔵尊(庚申待供養碑)> 荒川区文化財
山門の先右手に、寛文6(1666)年銘の地蔵尊を主尊とする庚申待供養塔があります。荒川区文化財です。

<水子地蔵尊>


<三河島観音(三河島事故慰霊碑)>
昭和37(1962)年5月3日の国電(現JR)三河島事故の惨事を今日に伝える三河島観音が安置され、犠牲者の供養をしています。



「三河島事故に捧ぐ
安らかに 眠れとは 如何に悲しき 言の葉か
つま待つ 家の帰り路を 知るよしもなき
此の惨事 あゝ たれぞ知る此の惨事」

<本堂>


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tag : 三河島
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