地図御用所跡(伊能忠敬終焉の地)
○地図御用所跡(伊能忠敬終焉の地) 中央区日本橋茅場町2-12(旧八丁堀亀島町)
東京メトロ茅場町駅の1番出口先の新大橋通り歩道に、地図御用所の跡地を示す案内板があります。
伊能忠敬は、文化11(1814)年に深川黒江町から八丁堀亀島町に転居しました。ここは地図御用所としても利用されました。忠敬は文政元(1818)年に死去し、ここが終焉の地となりました。
忠敬の死去後も、その居宅は地図御用所として使用され、文政4(1821)年に門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。




(説明板)
「地図御用所跡
所在地 中央区日本橋茅場町二丁目十二番付近
地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(一七四五〜一八一八)の住居に設けられていました。
伊能忠敬は、五十一歳の時に下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。
寛政十二年(一八○○)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降十七年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約四万キロメートルにも及んだといいます。
文化十一年(一八一四)、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていました。
忠敬は地図が完成する前の文政元年(一八一八)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も伊能忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政四年(一八ニ一)門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。
平成十七年三月 中央区教育委員会」

<江戸切絵図>
「亀島丁」の記載が見えます。亀島町と霊厳島の間の亀島川に架かる亀島橋が見えます。

(参考)「亀島橋」(こちらで記載)
東京メトロ茅場町駅の1番出口先の新大橋通り歩道に、地図御用所の跡地を示す案内板があります。
伊能忠敬は、文化11(1814)年に深川黒江町から八丁堀亀島町に転居しました。ここは地図御用所としても利用されました。忠敬は文政元(1818)年に死去し、ここが終焉の地となりました。
忠敬の死去後も、その居宅は地図御用所として使用され、文政4(1821)年に門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。




(説明板)
「地図御用所跡
所在地 中央区日本橋茅場町二丁目十二番付近
地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(一七四五〜一八一八)の住居に設けられていました。
伊能忠敬は、五十一歳の時に下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。
寛政十二年(一八○○)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降十七年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約四万キロメートルにも及んだといいます。
文化十一年(一八一四)、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は150坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていました。
忠敬は地図が完成する前の文政元年(一八一八)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も伊能忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政四年(一八ニ一)門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海與地全図」が完成しました。
平成十七年三月 中央区教育委員会」

<江戸切絵図>
「亀島丁」の記載が見えます。亀島町と霊厳島の間の亀島川に架かる亀島橋が見えます。

(参考)「亀島橋」(こちらで記載)
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