小塚原刑場跡と首切地蔵(延命寺)
○延命寺 荒川区南千住2-34-5

<小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵> 荒川区史跡
(説明板)
「小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵
小塚原刑場は、火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養、刀の試し斬り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間口は六十間余(約百八メートル)、奥行き三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。
首切地蔵は、寛保元年(一七四一)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。
明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。
荒川区教育委員会」

<題目塔> 荒川区文化財
元禄11(1698)年に寄進され、土中に埋もれていたのを慶応3(1867)年に再設置された題目塔です。「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれています。


(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料 題目塔(元禄十一年二月中浣五日銘」
「元禄十一年(一六九八)ニ月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場等一○○基以上が確認されている。
十九世紀前半には土中に埋もれていたが、慶応三年(一八六七)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵(区指定有形文化財)と並んで安置された。明治二十九年(一八九六)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。」



<馬頭観世音菩薩>
万延元(1860)年銘の馬頭観世音菩薩塔です。

<百度石>
大正5(1916)年銘の百度石です。


<子育て地蔵>

<金光稲荷>
三方に社号がありました。


<小塚原の首切地蔵> 荒川区文化財
寛保元(1741)年銘の首切地蔵です。






(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料
小塚原の首切地蔵
寛保元年(一七四一)に造立された延命地蔵菩薩。花崗岩製。台座に「願主 東都 浄心」、大坂西横堀住 石工 中村屋半六」、施主名の他、「奉納経 天下泰平 国土安穏」とあり、法華経の納経が行われたことが窺える。刑死者や行倒人等の無縁供養のため造られたといわれ、日光道中沿いにあったため、江戸に出入りする多くの人が、この地蔵の前で手を合わせたという。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。平成二十三年三月十一日、東日本大震災で被災して、解体されていたが、荒川区及び公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団の補助を始め、多くの方々の支援を受け、同二十四年修復工事が完了した。
昭和六十一年一月十三月指定 荒川区教育委員会」



「小塚原石地蔵」(「江戸の今昔」歌川広重 昭和7年)
左手に「題目塔」「馬頭観世音菩薩塔」が見えます。


○首切地蔵の修復
首切り地蔵ですが、東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという事態が発生しました。解体し、復元されました。(2012年8月23日修復完了)
<「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い>



<「小塚原の首切地蔵」修復事業のお知らせ>
修復工事は清水建設が担当しています。
「「小塚原の首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の仕置場に建立されました。この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の1つ「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の歴史を今日に伝えてきました。
建立年代 寛保元年(一七四一)
法量 一丈二尺(約三・六m)
願主 東都浄心
石工 大阪西横堀 中村半六
材質等 花崗岩 20数個の石を組み合わせて建立
もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治二十八年(一八九五)、鉄道敷設工事のため現在地に移設されました。地元の南千住の皆様に「延命地蔵尊」と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵尊として親しまれています。
しかしながら、平成二十三年三月十一日午後ニ時四十六分に発生しました東日本大地震により、延命地蔵尊の左腕が落下、また胴体部分も大きくズレが生じ、倒壊の危険性が高くなったことから、三月十七日、荒川区文化財保護条例に基づく文化財修復のための補助を受け、第一期修復工事(解体施行:清水建設株式会社)を実施しました。
(以下、第二期修復工事の予定と寄進について記載)
平成二十三年三月吉日 延命寺住職 水野了尚」


<小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵> 荒川区史跡
(説明板)
「小塚原刑場跡と小塚原の首切地蔵
小塚原刑場は、火罪・磔・獄門などの刑罰、無縁の埋葬・供養、刀の試し斬り、腑分け(解剖)などが行われ、また、徳川家の馬の埋葬地としても利用された。間口は六十間余(約百八メートル)、奥行き三十間余(約五十四メートル)の敷地があったが、明治初年に廃止となり、回向院の境内地や官有墓地、宅地などになっていった。
首切地蔵は、寛保元年(一七四一)に造立された石造の延命地蔵菩薩である。無縁供養のため、建てられたといわれる。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。
明治三十年代から昭和三十年代、毎月五日、十四日、二十七日に地蔵の縁日が行われていた。多くの露店や見世物小屋が出るなど大変な賑わいを見せたという。
荒川区教育委員会」

<題目塔> 荒川区文化財
元禄11(1698)年に寄進され、土中に埋もれていたのを慶応3(1867)年に再設置された題目塔です。「南無妙法蓮華経」と題目が刻まれています。


(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料 題目塔(元禄十一年二月中浣五日銘」
「元禄十一年(一六九八)ニ月十五日に京都三条の商人、八幡屋谷口氏と法春比丘尼により造立された題目塔。十七世紀後半、法華信者の谷口氏が全国の街道筋の仕置場等に、一切衆生の救済のため造立した題目塔のひとつであり、品川の仕置場等一○○基以上が確認されている。
十九世紀前半には土中に埋もれていたが、慶応三年(一八六七)、江戸の法華信者らによって再設置された。その際に小塚原の仕置場南端の日光道中沿いに移設し、小塚原の首切地蔵(区指定有形文化財)と並んで安置された。明治二十九年(一八九六)、土浦線・隅田川線開通時に線路の南側から現在地に移動した。近代以降、小塚原の仕置場跡を象徴する石造物として紹介され、広く知られるようになった。」



<馬頭観世音菩薩>
万延元(1860)年銘の馬頭観世音菩薩塔です。

<百度石>
大正5(1916)年銘の百度石です。


<子育て地蔵>

<金光稲荷>
三方に社号がありました。


<小塚原の首切地蔵> 荒川区文化財
寛保元(1741)年銘の首切地蔵です。






(標柱)
「荒川区指定 有形文化財・歴史資料
小塚原の首切地蔵
寛保元年(一七四一)に造立された延命地蔵菩薩。花崗岩製。台座に「願主 東都 浄心」、大坂西横堀住 石工 中村屋半六」、施主名の他、「奉納経 天下泰平 国土安穏」とあり、法華経の納経が行われたことが窺える。刑死者や行倒人等の無縁供養のため造られたといわれ、日光道中沿いにあったため、江戸に出入りする多くの人が、この地蔵の前で手を合わせたという。明治二十九年(一八九六)に開業した隅田川線の敷設予定地に安置されていたため、工事に伴い移された。平成二十三年三月十一日、東日本大震災で被災して、解体されていたが、荒川区及び公益財団法人文化財保護・芸術研究助成財団の補助を始め、多くの方々の支援を受け、同二十四年修復工事が完了した。
昭和六十一年一月十三月指定 荒川区教育委員会」



「小塚原石地蔵」(「江戸の今昔」歌川広重 昭和7年)
左手に「題目塔」「馬頭観世音菩薩塔」が見えます。


○首切地蔵の修復
首切り地蔵ですが、東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという事態が発生しました。解体し、復元されました。(2012年8月23日修復完了)
<「小塚原の首切地蔵」修復寄付募集のお願い>



<「小塚原の首切地蔵」修復事業のお知らせ>
修復工事は清水建設が担当しています。
「「小塚原の首切地蔵」は、江戸の刑死者をはじめとする無縁の供養のために小塚原の仕置場に建立されました。この地蔵尊は、鈴ヶ森と並び称された江戸の二大刑場の1つ「小塚原の仕置場」の象徴であり、柔和なお顔で時の流れを静かに見守り、江戸の歴史を今日に伝えてきました。
建立年代 寛保元年(一七四一)
法量 一丈二尺(約三・六m)
願主 東都浄心
石工 大阪西横堀 中村半六
材質等 花崗岩 20数個の石を組み合わせて建立
もとは、隅田川貨物線の南側に安置されていましたが、明治二十八年(一八九五)、鉄道敷設工事のため現在地に移設されました。地元の南千住の皆様に「延命地蔵尊」と呼ばれ、暮らしの安穏を見守る地蔵尊として親しまれています。
しかしながら、平成二十三年三月十一日午後ニ時四十六分に発生しました東日本大地震により、延命地蔵尊の左腕が落下、また胴体部分も大きくズレが生じ、倒壊の危険性が高くなったことから、三月十七日、荒川区文化財保護条例に基づく文化財修復のための補助を受け、第一期修復工事(解体施行:清水建設株式会社)を実施しました。
(以下、第二期修復工事の予定と寄進について記載)
平成二十三年三月吉日 延命寺住職 水野了尚」

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tag : 南千住
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