素盞雄神社② 瑞光石 富士塚 庚申塔

素盞雄神社②
 蘇民将来子孫也~瑞光石~富士塚~庚申塔~境内社

【蘇民将来子孫也】

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(説明板)
「蘇民将来子孫也
 スサノオノミコトが、遥か遠くの南の海に妻問いに出掛けたときのことです。陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは、蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。
 裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服もよごれた姿を怪しみ惜しんで拒みましたが、兄の蘇民将来は家も小さく貧しい生活をしていたものの、快く歓迎し、粟の飯で精一杯のもてなしをしたのです。
 それから歳月が経ち・・・。スサノオノミコトは再びその土地を訪れました。そして、かつて自分をもてなしてくれた兄の蘇民将来に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅で作った小さな輪を腰につけていなさい。そうすればきっと、その疫病から逃れ、子孫は永く栄えることでしょう。」と伝えて帰りました。
 その後のこと、二人の兄弟が住む村に突然疫病が流行しましたが、茅の輪をつけていた蘇民将来の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人たちは疫病が流行ると口々に「蘇民将来子孫也」の言葉を唱え、茅の輪を腰につけて疫病から免れるようになったということです。
 この≪蘇民将来子孫也≫は、降りかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく言葉として、また、その腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」

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<茅の輪守>

 参集殿にて「茅の輪守」を授与しています。

(説明板)
「蘇民将来子孫也
 二天の棒先でひときわ光を放つ金具に刻まれた言葉「蘇民将来子孫也」。ふりかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく唱え言葉です。
 遠い遠い神代の昔、長旅に疲れ果てたスサノオノミコトを、貧しいながらも精一杯にもてなした村人《蘇民将来》。スサノオノミコトは再び彼のもとを訪れると、当時の御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)の小さな輪を腰につけていなさい。疫病から逃れ子孫は末永く栄えるでしょう。」と告げ去ります。奇しくもその「もしも」の時は訪れ、多くの村人は疫病に苦しみ倒れましたが、茅の輪をつけた蘇民将来の家族だけは助かりました。それ以来、疫病が流行すると村人たちは口々に「蘇民将来子孫也」と唱え、茅の輪を腰につけ疫病から免れるようになったということです。」
 蘇民将来たちが腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓で天王祭後に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」

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 6月の大祓
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<素盞烏尊 稲田姫>

 月岡芳年の「大日本名将鑑」から「素盞烏尊 稲田姫」が掲示されています。 祭典の時だけ、期間限定の掲示のようです。

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【瑞光石】

 延暦14(795)年)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたといいます。 そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀ります。

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 「両社古蹟瑞光石」
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 「石祠」
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 「瑞光石」
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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 瑞光石
 瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
 嘉永四年(一八五一)には周囲に玉垣を築き、元治元年(一八六四)には浅間神社を祀った。
 万延元年(一八六○)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
  荒川区教育委員会」

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(説明板)
「《瑞光石》
 御祭神すさのお大神・あすか大神が光とともに降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石(ずいこうせき)といいます。
 文政12(1829)編集の『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が大川(現・隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 この瑞光石のある小さな塚から「小塚原(こつかはら)」の地名が起こり、『江戸名所図会』には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をもうかがうことができます。元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。
 なお、現在周辺小学校の「第●瑞光小学校」と冠された瑞光もこれに因むものです。」

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【富士塚】

<富士塚> 荒川区史跡

 元治元(1864)年に、瑞光石のある塚に富士塚が築かれました。山頂に石祠の浅間神社が鎮座しています。

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<荒川区標柱>

「荒川区 指定 記念物・史跡」
「平成二十五年二月八日指定 荒川区教育委員会」
「元治元年(一八六四)、「瑞光石」のある小塚上に浅間大神を祀り富士塚としたと伝え、「お富士さま」と呼ばれている。富士講の一つ、丸瀧講が築造。山肌をクロボウ(溶岩)で覆い、山頂の浅間社、中腹の小御嶽、山裾の石尊、人穴等が設けられている。富士講によって築かれた典型的な形状で当初の形体を良く保っている。幕末から大正期に奉納された富士講等の石碑ニ○基も伝存。近代には「南千住富士」とも呼ばれ、東京七富士廻りの北廻りコースの一つに数えられた。六月朔日(新暦七月一日)の山開きには麦藁の蛇がお守りとして境内で売られたという。地域の民間信仰の姿を今日に伝えるばかりでなく、江戸時代から近代にかけて流行した富士信仰の学術資料としても大変重要である。」

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(説明板)
「素盞雄神社には「瑞光石」が鎮座する塚がある。縁起の中で2柱の神が現れたとする祭祀上重要な場所である。この塚は、ある人の眼には富土塚として映り、“南千住富士”とも呼ばれる。また古墳が富士塚に転用されたと見る人もある。いずれにせよこの場所が聖なる場所であることに違いはない。
 この塚には、「瑞光石」に奉納された石造物以外に、人工の富士山=富士塚としての構造物がある。瑞光石の左側に「浅間神社」の碑①がある。その脇から頂上に登山道が伸び、途中、五合目として小御嶽石尊大権現の碑③、頂上には浅間神社奥宮④がある。塚には、「黒ぼく」という溶岩塊が積まれている。富士講が建てた碑の多くは西側に林立し、北側には人穴も造られている。
 明治28年(1895)の由緒書によれば、元治2年(1865)に、黒ぼくなどの石を積んで塚を築き、浅間大神を祀ったという(但し、元治元年とする説もある)。現存する碑を見ると、造立当初から大正期にかけて、碑が断続的に建てられていったようである。
 その後時期は定かでないが、黒ぼくや碑をコンクリートで固め、土中に埋める措置が施された。幕末につくられた瑞垣が平成7年に取り払われ(一部、塚の脇に保存)、今日の姿に至っている。」

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【地蔵堂】

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<地蔵菩薩像/宝篋印塔>

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<庚申塔三基>

 左から、延宝6(1678)年銘、寛文13(1673)年銘、文化8(1811)年銘の庚申塔です。

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(説明板)
「荒川区指定有形民俗文化財
 庚申塔群三基(寛文十三年銘他) 素盞雄神社
 江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。
 庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証しとして建てられたものです。
 中央の寛文13年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。
 寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。
  (平成18年1月13日指定)
 平成20年3月 荒川区教育委員会」

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<神輿庫>

 「宮元」「通新町」の銘板が見えます。

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<境内社>

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「福徳稲荷神社」
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「菅原神社」
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「稲荷神社」
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※旧記事に加筆せずに、新たに記事にしたので、旧記事は削除します。
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