千住宿(下宿)

○千住宿(下宿) 荒川区南千住7-16-3 説明板

 日慶寺の参道入口に、荒川区説明板「千住宿」があります。
 千住宿は、万治元(1658)年に「掃部新田」、万治3(1660)年に千住大橋を越えて「小塚原町」「中村町」が加えられ宿場町は拡大しました。小塚原町・中村町の宿場町は「千住下宿」と呼ばれました。

 下宿には飯盛旅籠が並び、新吉原や千住五か町から訴えられるほど飯盛旅籠は繁昌しました。
 近くには、江戸で最大規模の火葬場である火葬寺(現在の荒川区南千住5丁目21番地及び22番地)があり、江戸時代の川柳に「焼場から往生させてこつヘ連れ」「焼場からなぐれてこつの大一座」とあるように、荼毘に付した後、葬礼帰りの人々が精進落ちと、小塚原の飯盛旅籠に登楼する実情もありました。小塚原と火葬寺のコツ(骨)を洒落て、小塚原に遊びに行くことを「コツに行く」と言っていました。

 明治に入り、千住宿のうち一〜五丁目が千住宿北組、掃部宿が千住宿中組、小塚原町・中村町が千住宿南組に改称されました。千住宿南組は、現在の南千住の地名の由来となっています。

(説明板)
「千住宿
 慶長九年(一六○四)日本橋を起点として五街道が定められた。奥州同中の第一の宿場が千住宿である。
 大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町・中村町があって下宿と呼ばれ問屋・各種商店・旅籠などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかでは、この千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。
  荒川区教育委員会」

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