安藤昌益ゆかりの地(千住)

○『自然真営道』発見の地(西) 足立区千住仲町21-1

 司馬遼太郎が「日本が世界に誇りうる唯一の社会思想家」と評した江戸時代の医師・安藤昌益の著作『自然真営道』が、千住仲町の橋本家から発見され、その説明板が掲示されています。

「千住宿「自然真営道」説明板横にあります↑」

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(説明板)
「『自然真営道』発見の地
 作家・司馬遼太郎さんが「日本における唯一の独創的な社会思想家」として絶賛した江戸時代の医者、安藤昌益が書き残した『自然真営道』の原稿本百一巻を、この地(本褐示板の北側一画)にあった穀物問屋薬屋橋本家が所有していました。橋本家の明治期の当主は橋本律蔵*、橋本知宣で、中組の戸長、千住町長を務めていました。
 稿本『自然真営道』が明治中頃に第一高等学校校長、初代の京都帝国大学文科大学長になる狩野亨吉によって見出され、世に紹介されて以来、今日では国内はもとより中国・韓国をはじめ欧米諸国でも研究の輪が広がっています。そうした意味で、千住の地は安藤昌益研究の原点と言えます。
 安藤昌益のすべてとも言うべき 『自然真営道』は、江戸時代中期にあって、常識を覆す破天荒な社会思想、科学的な自然観、生命尊重の医学の書で、膨大かつ体系的に集大成されたものでした。とりわけその平和思想は、人類の知的遺産の一つと見なされてきています。
 大館(秋田県)で生まれ、京都で学び、八戸(青森県)の地で活躍した安藤昌益の未刊の原稿本を、なぜ、千住の橋本家が所有していたのか、これまで長い間不明でした。その時間の空白を埋めるべく、ニ○○四年五月、「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」を発足させ、昌益の思想に共感する人々とその謎を解明するため、未公開資料の解読を進めるなど、この間調査研究を進めてきました。
 千住の出身で京都大学史学科の基礎を築いた文学博士内田銀蔵**が所蔵していた未開資料の中から、一八五○(嘉永三)年当時の橋本家の家人と思われる「橋栄徳」をペンネームとした医者が著した『静谿謾筆(せいけいまんぴつ)』を発見し、橋栄徳が昌益の本を書き写し「予、真営道ノ説二従フ也」と昌益思想を支持することを書き残していたことがわかりました。
 また、明治一○年代に千住で森鴎外に漢詩を教授していた医師で漢詩人の佐藤元萇(鷹渠)の日記・遺稿書が発見されました。日記によると、足立区立郷土博物館所蔵の千住古地図に記載のある薬屋橋本家敷地内に住む医者橋本玄益を、佐藤元萇が一八五一(嘉永四)年より頻繁に訪ねています。五五(安政二)年からは千住の人々を治療していることもわかってきました。佐藤元蓑は明治維新を経ても千住の人々の治療を続け、医学や文芸知識を門人に授けていたことが判明してきました。
 安藤昌益の思想はまだまだ未解明の部分があるように、安藤昌益と千住宿の関係についてもわからない部分がたくさん残されていますが、「調べる会」の活動で、謎の一端が解明できるようになってきました。
  *橋本律蔵 この掲示板より徒歩三分ほどの慈眼寺(千住一丁目ニー九)に墓所があり、説明板掲示。
 **内田銀蔵 この掲示板より日光道中南方向一○○メートル先の川魚問屋鮒与(千住仲町十一ー十一)に説明板掲示。
 ニ○○六年五月設置、ニ○一四年十一月再改訂
    安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」

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○『自然真営道』発見の地(東) 足立区千住仲町21-8

 旧橋本家の西側、旧日光街道沿の説明板を見て、旧橋本家の東側にもある掲示板を見に行きます。
 江戸時代は、家の間口の広さで税金を決めていました。そのため大店の豪商などは節税対策として間口を極端に狭くして奥に長い構造としました。やっちゃ場の問屋も同様です。
 細い路地に沿って東へ向かうと、ようやくミリオン通り商店街に突き当りました。かつての「千住御殿」は、まさに鰻の寝床です。鰻の寝床のアタマとシッポに同じ説明板があります。

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○橋本律蔵の墓(慈眼寺) 足立区千住1-2-9

 慈眼寺に橋本律蔵墓はあります。「安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」が設置された、石碑「橋本家の墓」が設置されており、すぐわかりました。
 説明石碑の左手に西に面して「橋本家之墓」があり、説明板碑の奥に西に南に面して墓石が3基並んで建っています。中央の墓石前に小さな石碑「橋本律蔵の墓」があり、これまた分かりやすいです。墓石左側面に戒名と没年が刻まれています。

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○内田銀蔵博士の生家 足立区千住仲町11-11

 掃部宿プチテラスから、旧日光街道を少し北に行くと、ビルの壁に説明板「内田銀蔵博士の生家」があります。この場所は、日本経済史学の先駆者であった内田銀蔵博士の生家とのことです。
 内田銀蔵博士の墓は、清亮寺にあります(こちらで記載)。

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(説明板)
「内田銀蔵博士の生家
 明治・大正期の一時代を画した日本経済史学の先駆者、内田銀蔵は明治五年(一八七二) 正月二十五日、ここ千住仲町で江戸時代初期から続く川魚問屋の老舗「鮒与」内田与兵衛の長男として生まれました。銀蔵は家業を継ぐ立場にありましたが幼少の頃から学問好きで、千寿小学校での成績も抜群でした。そして学問の道を熱望したため父親も許し、地方裁判所に願い出て弟善蔵に与兵衛の名跡を相続させ、学者の道に進みました。
 明治二十二年、東京専門学校(後の早稲田大学)政治科に進学して経済学を学び、さらに東京大学文科大学国史科に進んで二十六年に卒業、「日本経済史及び史学と経済学との教育的価値」を課題として大学院で研究し、学会誌『史学雑誌』に日本の古代・中世・近世における経済史関係の論文を次々と発表しました。これが認められて大学院卒業後は東京大学の講師となり、わが国最初の日本経済史を講義しました。経済史学の創始者と後々までも称えられる所以はここにあります。
 三十五年十月、二十九歳の若さで文学博士となり、翌年一月には文部省の外国留学生として三年半の長きにわたりヨーロッパの歴史学・経済学を学び、その間、主著『日本近世史』を刊行しました。
 また、海外留学中にもかかわらず広島高等師範の教授に任命され、帰国後は京都大学文科大学の教授も兼任して史学の道を切り開きました。史学といえば現在も京都大学が一目おかれるのは、銀蔵が築いた研究室の在り方が伝統になっているからだと言われています。かくして四十年五月、三十六歳の時、京都大学の専任教授となり、五年後には経済史のバイブル的存在『経済史総論』を刊行しています。
 第一次世界大戦後の大正七年(一九一八)、欧米各国に出張して翌年帰国しましたが、間もなく発病し、七月二十日、四十七歳の若さで他界しました。 戒名は「文教院智顕日明居士」、墓は日ノ出町四ニノーの清亮寺墓地にあります。
 なお、銀蔵は幼い日、生家の向かいにある橋本家で、稿本『自然真営道』の旧蔵書・橋本律蔵の薫陶を受けていたと言われ、銀蔵の死後、京都大学に寄贈された遺品資料の中からは、〇六年九月、調べる会の調査によって、安藤昌益の医学や自然哲学を受け継ぐ川村真斎の『老子解真斎先生草稿』や橋栄徳の『静谿謾筆』、橋本律蔵の『雑記』等といった貴重な資料が見出されました。
 長いあいだ昌益研究史上の謎とされてきた、安藤昌益と千住宿を結ぶ医師たちの系譜が、他ならぬ内田銀蔵の仲介によって解明されつつあるのです。
  二○○六年五月設置、二○○九年二月増補
    安藤昌益と千住宿の関係を調べる会」

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