掃部堤跡碑/源長寺(千住仲町)
○掃部堤跡碑 足立区千住仲町4-1
源長寺掃部宿門(東門)南辺りの墨堤通り歩道にあります。

(正面)「掃部堤跡」

(左) 「元和二年築堤」

(右) 「昭和四十九年十月 足立区」

○源長寺 足立区千住仲町4-1
日光街道と墨堤通りの源長寺前交差点に「源長寺」はあります。
源長寺は、慶長3(1598)年、この地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次の法名にちなむ寺号を付して勧請開基とし、慶長15(1610)年に創建したといいます。
同寺号を持ち、関東郡代伊奈備前守忠次を開基とする赤山源長寺が川口市にあります(こちらで記載)。
<南門>
墨堤通り(旧掃部堤)に面して、南門があります。

(説明板)
「源長寺 千住仲町四−一
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(一五九八)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(一六一○)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。
本尊は、阿弥陀如来である。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。
また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
南門入って左手の石碑です。
(表)

(裏)

<山門>
旧日光街道に面して山門はあります。




仁王像は令和2(2020)年10月に新造されたものです。




<地蔵堂>
山門の外の北側に地蔵堂があり、「子育延命地蔵尊」が祀られています。

手水鉢は、「銭型手水鉢」です。水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。「吾唯足るを知る」となります。

石標「掃部宿門 旧跡延命子育地蔵堂」



【参道左】
<馬頭観世音>
山門をくぐると左手(墨堤通り側)にニ基の馬頭観世音塔が並んでいます。両基とも正面に「馬頭観世音」と刻まれています。左は折れた跡があり、右は左側面に馬持中等の世話人が刻まれています。




<石碑>
読み切れませんが、増上寺八十四世明誉?

<大欅>
空襲で焼けたケヤキの切り株が筒状に残っています。


(説明板)
「大欅
文化文政年間この地帯に多く見られたが、昭和二十年戦火の為最後の一本を焼失、その残りがこの切り株である。」

<多坂梅里先生追悼碑>


(説明板)
「多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(一七一六〜三五)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。
碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居L、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法主て全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。
梅里先生は、天明九年(一七八九)九月二日没した。
平成四年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
多坂梅里先生追悼碑のうしろの石碑です。

<三輪塔>
さらに後ろの三輪塔です。

<女行者心静法尼碑>
心静法尼は、源長寺の孝誉上人の弟子で、大山阿夫利神社で修行を積み、大山の女行者として崇信されました。同法尼は明治3年に没し、その翌年明治4年に心静法尼碑は建てられました。


「大山阿夫利神社 知足庵寂誉心静法尼之碑」
台座の上に、大山阿夫利の行者、心静法尼の青石の碑「知足寂誉心静法尼」が建っています。



<三遊亭円朝寄進の石燈籠>
三遊亭円朝が咽喉を痛めて声が出なくなったのを、大山阿夫利女行者心静法尼の法力によって全快し、心静法尼塚の建立の際に報恩寄進した石燈籠です。


明治4年

「三遊亭圓長建之」と刻まれています。

【参道右】

<寿稲荷社>


<庚申塔>
参道右手の竹林に三基の庚申塔があります。

一番右(山門側)は、青面金剛像の庚申塔です。

中央は寛文4(1664)年銘の笠付角柱型阿弥陀如来坐像の庚申塔(足立区文化財)です。三猿は正面最下部、左右と一猿づつ陽刻されています。



一番左(本堂側)は、元禄9(1696)年銘の青面金剛像の庚申塔です。

<十三輪塔>

<不老門>
本堂の左下に「不老門」の石標があります。

<本堂>
扁額には「源長寺 増上寺八十三世 徹誉法道」とあります。




【墓地】
<石出掃部亮吉胤の墓> 足立区史跡



(説明板)
「石出掃部亮吉胤の墓
石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。その事績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(一五九ニ~九六)本木に移って土地開発をし、慶長三年(一五九八)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。元和ニ年(一六一六)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長ニキロの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。
また『南足立郡誌』(大正五年版)には、大永ニ年(一五ニニ)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正十八年(一五九○)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和四年六月二十ニ日に九十七歳(数え年)で没したと記述している。大正五年(一九一六)、従五位を追贈された。
石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長十五年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和五十八年十ニ月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。
平成十八年四月 足立区教育委員会」
一番左に「石出家の墓」

一番右に「石出家累世之墓」

一番右「石出家累世之墓」の左隣が「石出掃部亮吉胤の墓」です。



「石出掃部亮吉胤像」(掃部宿憩いのプチテラス掲示より抜粋)

<画家 弥寂庵鯉隠之墓>
建部巣兆の弟子、やっちゃ場の左可和鯉隠の墓です。どれだかわかりません。



<矢野和泉守正倫墓>
大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守正倫の墓です。標柱は、昭和38(1963)年の建立です。
(表)「史蹟 矢野和泉守正倫墓」
(裏)「大阪冬之役陣歿西軍部将当家祖也
昭和三十八年秋三百五十年忌建之 牧野家一門」




台石に載った三基の墓碑の中央が矢野和泉守正倫墓です。



右側面に「矢野和泉守正倫之墓」と刻まれています。

<永代供養塔>

源長寺掃部宿門(東門)南辺りの墨堤通り歩道にあります。

(正面)「掃部堤跡」

(左) 「元和二年築堤」

(右) 「昭和四十九年十月 足立区」

○源長寺 足立区千住仲町4-1
日光街道と墨堤通りの源長寺前交差点に「源長寺」はあります。
源長寺は、慶長3(1598)年、この地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次の法名にちなむ寺号を付して勧請開基とし、慶長15(1610)年に創建したといいます。
同寺号を持ち、関東郡代伊奈備前守忠次を開基とする赤山源長寺が川口市にあります(こちらで記載)。
<南門>
墨堤通り(旧掃部堤)に面して、南門があります。

(説明板)
「源長寺 千住仲町四−一
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(一五九八)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(一六一○)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。
本尊は、阿弥陀如来である。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の部将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。
また、草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚(区登録有形文化財)、一啓斎路川句碑(区登録有形文化財)等がある。
平成五年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
南門入って左手の石碑です。
(表)

(裏)

<山門>
旧日光街道に面して山門はあります。




仁王像は令和2(2020)年10月に新造されたものです。




<地蔵堂>
山門の外の北側に地蔵堂があり、「子育延命地蔵尊」が祀られています。

手水鉢は、「銭型手水鉢」です。水穴の四角を漢字の「口」として合わせて使います。すると「吾」「唯」「足」「知」の四つの漢字となります。「吾唯足るを知る」となります。

石標「掃部宿門 旧跡延命子育地蔵堂」



【参道左】
<馬頭観世音>
山門をくぐると左手(墨堤通り側)にニ基の馬頭観世音塔が並んでいます。両基とも正面に「馬頭観世音」と刻まれています。左は折れた跡があり、右は左側面に馬持中等の世話人が刻まれています。




<石碑>
読み切れませんが、増上寺八十四世明誉?

<大欅>
空襲で焼けたケヤキの切り株が筒状に残っています。


(説明板)
「大欅
文化文政年間この地帯に多く見られたが、昭和二十年戦火の為最後の一本を焼失、その残りがこの切り株である。」

<多坂梅里先生追悼碑>


(説明板)
「多坂梅里先生追悼碑
寺子屋の発祥は享保年中(一七一六〜三五)と伝わるが、この多坂梅里先生の追悼碑は、同時期の寺子屋教育の内容を伝える貴重な教育史資料である。
碑文によれば、梅里先生は信濃上田侯の世臣であったが、享保年中千住駅に寓居L、医を業としながら寺子屋を開いた。以来約五十年間、掃部宿・河原町・小塚原町の男女、少長を問わず教育し、もっとも盛んなときは塾生が数百人に及んだ。その教育法は書法を教えるのみでなく、職のことから掃除、礼儀作法主て全人的教育をし、たいへん厳しかった。しかし、これは慈愛の至誠から出たことであったから、子弟はみな先生を親愛畏敬しその教えに浴したので、千住の風俗が美しくなったとある。
梅里先生は、天明九年(一七八九)九月二日没した。
平成四年三月 東京都足立区教育委員会」

<石碑>
多坂梅里先生追悼碑のうしろの石碑です。

<三輪塔>
さらに後ろの三輪塔です。

<女行者心静法尼碑>
心静法尼は、源長寺の孝誉上人の弟子で、大山阿夫利神社で修行を積み、大山の女行者として崇信されました。同法尼は明治3年に没し、その翌年明治4年に心静法尼碑は建てられました。


「大山阿夫利神社 知足庵寂誉心静法尼之碑」
台座の上に、大山阿夫利の行者、心静法尼の青石の碑「知足寂誉心静法尼」が建っています。



<三遊亭円朝寄進の石燈籠>
三遊亭円朝が咽喉を痛めて声が出なくなったのを、大山阿夫利女行者心静法尼の法力によって全快し、心静法尼塚の建立の際に報恩寄進した石燈籠です。


明治4年

「三遊亭圓長建之」と刻まれています。

【参道右】

<寿稲荷社>


<庚申塔>
参道右手の竹林に三基の庚申塔があります。

一番右(山門側)は、青面金剛像の庚申塔です。

中央は寛文4(1664)年銘の笠付角柱型阿弥陀如来坐像の庚申塔(足立区文化財)です。三猿は正面最下部、左右と一猿づつ陽刻されています。



一番左(本堂側)は、元禄9(1696)年銘の青面金剛像の庚申塔です。

<十三輪塔>

<不老門>
本堂の左下に「不老門」の石標があります。

<本堂>
扁額には「源長寺 増上寺八十三世 徹誉法道」とあります。




【墓地】
<石出掃部亮吉胤の墓> 足立区史跡



(説明板)
「石出掃部亮吉胤の墓
石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)は江戸時代初期、千住大橋架橋や掃部堤築堤等に尽力した地域の先駆者として語り継がれている。その事績は江戸時代後期に江戸幕府が編さんした「新編武蔵風土記」に記されている。これによると、吉胤は千葉氏一族で、遠江国(静岡県)石出の出身とされる。のち下総国千葉(千葉県千葉市)を経て文禄年間(一五九ニ~九六)本木に移って土地開発をし、慶長三年(一五九八)には掃部宿に移住して開拓に当たったという。元和ニ年(一六一六)、鷹狩りに来訪した徳川家康にこの地に延長ニキロの荒川水除堤(掃部堤)を築くことを願い出たと記されている。
また『南足立郡誌』(大正五年版)には、大永ニ年(一五ニニ)に千葉日向守幸胤の長子として小田原に生まれたとある。北条氏家臣であったが、天正十八年(一五九○)の同氏滅亡後は家臣原七郎を頼って遠江国に住んだとされる。文禄元年、弟覚原法印が本木吉祥院住職であった縁で一族で本木村に移住、翌年から千住大橋架橋工事にも参加し功績があったとし、元和四年六月二十ニ日に九十七歳(数え年)で没したと記述している。大正五年(一九一六)、従五位を追贈された。
石出掃部亮吉胤の墓がある源長寺は、本来吉胤が慶長十五年に創建したが、伊奈備前守忠次に開基の名を譲ったと「新編武蔵風土記」は記している。現在の墓石は、後年子孫が建立したものである。昭和五十八年十ニ月、足立区指定文化財記念物(史跡)とした。
平成十八年四月 足立区教育委員会」
一番左に「石出家の墓」

一番右に「石出家累世之墓」

一番右「石出家累世之墓」の左隣が「石出掃部亮吉胤の墓」です。



「石出掃部亮吉胤像」(掃部宿憩いのプチテラス掲示より抜粋)

<画家 弥寂庵鯉隠之墓>
建部巣兆の弟子、やっちゃ場の左可和鯉隠の墓です。どれだかわかりません。



<矢野和泉守正倫墓>
大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守正倫の墓です。標柱は、昭和38(1963)年の建立です。
(表)「史蹟 矢野和泉守正倫墓」
(裏)「大阪冬之役陣歿西軍部将当家祖也
昭和三十八年秋三百五十年忌建之 牧野家一門」




台石に載った三基の墓碑の中央が矢野和泉守正倫墓です。



右側面に「矢野和泉守正倫之墓」と刻まれています。

<永代供養塔>


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