伊藤左千夫宅跡(終焉の地) 史跡
○伊藤左千夫宅跡(終焉の地)江東区史跡 江東区大島6-1
UR大島6丁目団地は、伊藤左千夫終焉の地です。中央広場の時計塔の下部に伊藤左千夫の歌碑がはめられています。伊藤左千夫終焉の地を記念して左千夫記念会が、昭和55(1980)年7月に建てました。左千夫の門人の土屋文明の揮毫です。






<歌碑>
「 左千夫
朝起きてまだ飯前のしばらくを
小庭に出でて春の土踏む
大正二年七月三十日
伊藤左千夫この地に没す
左千夫記念會」
『アララギ』(大正2年3月1日)に掲載された歌です。



○伊藤左千夫歌碑 江東区大島3-22-1
都立城東高等学校の北の歩道に面して伊藤左千夫の歌碑(昭和54(1979)年建立)があります。竪川人道橋南詰のすぐ近くです。






<歌碑>
(碑表)
「竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
左千夫作 門人文明しるす」


(碑陰)
「伊藤左千夫先生
先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治二十二年より、本所茅場町(現錦糸町駅前)にて牛乳搾取業を営む。明治三十三年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
大正元年五月、府下大島町字亀戸九○二(現大島六丁目一番)に牛舎を移し、翌二年三月には住居も移したが、同年七月三十日に急逝した。享年五十歳。
碑の歌は明治四十年発表の「勾王日記、四月十七日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、土屋文明先生の御支援を得て完成した。

※伊東左千夫の墓は普門院(亀戸)にあり、こちらで記載。
UR大島6丁目団地は、伊藤左千夫終焉の地です。中央広場の時計塔の下部に伊藤左千夫の歌碑がはめられています。伊藤左千夫終焉の地を記念して左千夫記念会が、昭和55(1980)年7月に建てました。左千夫の門人の土屋文明の揮毫です。






<歌碑>
「 左千夫
朝起きてまだ飯前のしばらくを
小庭に出でて春の土踏む
大正二年七月三十日
伊藤左千夫この地に没す
左千夫記念會」
『アララギ』(大正2年3月1日)に掲載された歌です。



○伊藤左千夫歌碑 江東区大島3-22-1
都立城東高等学校の北の歩道に面して伊藤左千夫の歌碑(昭和54(1979)年建立)があります。竪川人道橋南詰のすぐ近くです。






<歌碑>
(碑表)
「竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
左千夫作 門人文明しるす」


(碑陰)
「伊藤左千夫先生
先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治二十二年より、本所茅場町(現錦糸町駅前)にて牛乳搾取業を営む。明治三十三年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
大正元年五月、府下大島町字亀戸九○二(現大島六丁目一番)に牛舎を移し、翌二年三月には住居も移したが、同年七月三十日に急逝した。享年五十歳。
碑の歌は明治四十年発表の「勾王日記、四月十七日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、土屋文明先生の御支援を得て完成した。

※伊東左千夫の墓は普門院(亀戸)にあり、こちらで記載。
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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