八ツ小路 筋違門跡
○八ツ小路/八ツ広路(やつこうじ) 千代田区神田須田町1丁目
筋違見附の内側が八ツ広路で、ここから八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いていました。
通行量が多く、昼夜を問わず開門していました。火除地には、小菅村に移転するまで飢饉や水害などに備えた籾蔵がありました。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。神田川沿には、柳が植わっています。八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。筋違門に向かう行列が見えます。幕府の行事は描いてはいけないので、行列は短く描いて、将軍の寛永寺墓参は描いていませんと主張しているようです。

「江戸切絵図」
「昌平橋」と「筋違御門」が見えます。「下谷御成街道」が下谷広小路〜三橋へと続いています。

「江戸名所道化尽 十一 下谷御成道」(歌川広景)
下谷御成道の光景です。質屋「佐野屋」が見えます。子どもたちが水鉄砲で遊んでいたら、武士の顔面に鉄砲水がヒットしてしまいました。女性が謝っているようです。

「絵本江戸土産 筋違八ッ小路」(広重)
堤には柳が連なっています。

「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)
筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。
右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます。

「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違見附八辻」(楊洲周延 明治22(1889)年)
これを見た瞬間には、広重を知っている幕臣が、一応敬意を払って笠をとり、将軍の行列を錦絵に描いてはだめだぞと、これから注意をする場面かと思いました。
女性に優しく日陰をつくってもらっている杖をついているご老人は、行列は見ないでそっぽを向いており、「行列は見てない、こっちを見ている」と言い訳するつもりでしょう。楊洲周延の作品には登場しない犬が描かれているのも、広重を想起させます。
楊洲周延は、広重の「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重は安政5年に死去、安政4年の作品)を知っているはずですから、「広重さん、当時は将軍の寛永寺墓参帰りの行列を描けなくて残念でしたね」と語っているようです。(以上、直観だけの感想です)
さて、筋違見附八辻における七夕の光景です。柳原堤の向こう側には、赤い幟が多数ひらめいています。女性は日傘をさし、屋台では白玉水を売っています。暑さが伝わってきます。


「江戸名所道戯尽 三十四 筋違御門うち」(歌川広景)
筋違御門前の八ツ小路が描かれています。柳原堤と柳も見えます。
人相見が女性客に天眼鏡をかざしています。子どもはびっくり、通りがかりの人は振り返っています。

「北斎漫画」(北斎)の「天眼鏡」が元ネタですね。

「江戸名所図会 柳原堤」
太田道灌が、江戸城を造成した際、鬼門の守りのため、土手を築き、水に強い柳の木を植えました。
神田川下流の浅草御門から八ツ小路までの南岸に築かれたのが柳原堤です。

「柳原夜雨」(小林清親)
タイトル名と近景の柳、遠景の消防署から、柳原堤から、江戸時代は火除け地で広場だった八ツ小路を見渡した光景かと思います。あるいは神田川のもう少し下流にこのような広大な広場はあったのでしょうか。

「柳橋夜雨」(井上安治)
タイトルと内容が違っているような気がします。
師匠の小林清親と同様に、柳原堤から八ツ小路を見渡した光景ではないでしょうか。

○筋違門跡 千代田区神田須田町1-25JR神田万世橋ビル
筋違門跡の現在です。広場にモニュメントが建ち、説明パネルが時代を追って展示されています。路面にも歴史が架かれています。

<広瀬武夫および杉野杉野孫七兵曹長の銅像>
GHQの意向を受けて政府から出された通達を受け、東京都では審査委員会設けて検討、この像は戦犯銅像と決定し撤去されています。渡辺長男(広瀬武夫像)と朝倉文夫(杉野杉野孫七兵曹長像)の兄弟での合作でした。


「故広瀬海軍中佐及故杉野兵曹長銅像」(京浜所在銅像写真 諏訪堂 明治43年5月)

<筋違門(江戸時代)>
一番奥の「筋違門」のパネルです。





<筋違橋見附>(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)

<旧万世橋駅(明治・大正時代)>




<交通博物館(昭和・平成時代)>



<万世橋駅のにぎわい>



「筋違通夜景」(井上安治)
筋違通の光線画です。

筋違見附の内側が八ツ広路で、ここから八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いていました。
通行量が多く、昼夜を問わず開門していました。火除地には、小菅村に移転するまで飢饉や水害などに備えた籾蔵がありました。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。神田川沿には、柳が植わっています。八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。筋違門に向かう行列が見えます。幕府の行事は描いてはいけないので、行列は短く描いて、将軍の寛永寺墓参は描いていませんと主張しているようです。

「江戸切絵図」
「昌平橋」と「筋違御門」が見えます。「下谷御成街道」が下谷広小路〜三橋へと続いています。

「江戸名所道化尽 十一 下谷御成道」(歌川広景)
下谷御成道の光景です。質屋「佐野屋」が見えます。子どもたちが水鉄砲で遊んでいたら、武士の顔面に鉄砲水がヒットしてしまいました。女性が謝っているようです。

「絵本江戸土産 筋違八ッ小路」(広重)
堤には柳が連なっています。

「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)
筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。
右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます。

「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違見附八辻」(楊洲周延 明治22(1889)年)
これを見た瞬間には、広重を知っている幕臣が、一応敬意を払って笠をとり、将軍の行列を錦絵に描いてはだめだぞと、これから注意をする場面かと思いました。
女性に優しく日陰をつくってもらっている杖をついているご老人は、行列は見ないでそっぽを向いており、「行列は見てない、こっちを見ている」と言い訳するつもりでしょう。楊洲周延の作品には登場しない犬が描かれているのも、広重を想起させます。
楊洲周延は、広重の「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重は安政5年に死去、安政4年の作品)を知っているはずですから、「広重さん、当時は将軍の寛永寺墓参帰りの行列を描けなくて残念でしたね」と語っているようです。(以上、直観だけの感想です)
さて、筋違見附八辻における七夕の光景です。柳原堤の向こう側には、赤い幟が多数ひらめいています。女性は日傘をさし、屋台では白玉水を売っています。暑さが伝わってきます。


「江戸名所道戯尽 三十四 筋違御門うち」(歌川広景)
筋違御門前の八ツ小路が描かれています。柳原堤と柳も見えます。
人相見が女性客に天眼鏡をかざしています。子どもはびっくり、通りがかりの人は振り返っています。

「北斎漫画」(北斎)の「天眼鏡」が元ネタですね。

「江戸名所図会 柳原堤」
太田道灌が、江戸城を造成した際、鬼門の守りのため、土手を築き、水に強い柳の木を植えました。
神田川下流の浅草御門から八ツ小路までの南岸に築かれたのが柳原堤です。

「柳原夜雨」(小林清親)
タイトル名と近景の柳、遠景の消防署から、柳原堤から、江戸時代は火除け地で広場だった八ツ小路を見渡した光景かと思います。あるいは神田川のもう少し下流にこのような広大な広場はあったのでしょうか。

「柳橋夜雨」(井上安治)
タイトルと内容が違っているような気がします。
師匠の小林清親と同様に、柳原堤から八ツ小路を見渡した光景ではないでしょうか。

○筋違門跡 千代田区神田須田町1-25JR神田万世橋ビル
筋違門跡の現在です。広場にモニュメントが建ち、説明パネルが時代を追って展示されています。路面にも歴史が架かれています。

<広瀬武夫および杉野杉野孫七兵曹長の銅像>
GHQの意向を受けて政府から出された通達を受け、東京都では審査委員会設けて検討、この像は戦犯銅像と決定し撤去されています。渡辺長男(広瀬武夫像)と朝倉文夫(杉野杉野孫七兵曹長像)の兄弟での合作でした。


「故広瀬海軍中佐及故杉野兵曹長銅像」(京浜所在銅像写真 諏訪堂 明治43年5月)

<筋違門(江戸時代)>
一番奥の「筋違門」のパネルです。





<筋違橋見附>(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)

<旧万世橋駅(明治・大正時代)>




<交通博物館(昭和・平成時代)>



<万世橋駅のにぎわい>



「筋違通夜景」(井上安治)
筋違通の光線画です。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
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