三河島の鶴御成御膳所 (観音寺 法界寺)
○観音寺 荒川区荒川4-5-1
江戸時代には、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴御成」と称され、三河島の鶴御成では、観音寺は法界寺と共に将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられ、土地の名産「三河島菜」が献上されました。




(説明板)
「徳川将軍鶴御成り(観音寺)
江戸時代の三河島近辺は鶴の飛来地で、毎年十一月からの農閑期に、竹の囲いを廻らして、鶴の餌付けがおこなわれていた。
将軍家は特に八代吉宗以降、頻繁に鷹狩りを行った。なかでも鶴は珍重され、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしであった。三河島筋の鶴お成りの際には、観音寺か法界寺が御膳所にあてられた。
観音寺にお成りの場合は、将軍は正門からではなく、東側の竹藪を切り開いて出入りしたという。そのつど寺では土地の名産「三河島菜」を献上するのが例であった。
荒川区教育委員会」

<宝篋印塔>

<忠魂碑>
「忠魂碑 陸軍大将一戸兵衛書」


<郵便ポスト>
境内になぜか郵便ポストがあります。

○法界寺 荒川区荒川3-51-3
観音寺とともに、将軍の「鶴御成」の際の御膳所にあてられました。



(説明板)
「延宝八年銘の阿弥陀如来立像(法界寺)
長盛山道慶院という浄土宗の寺。長保年間(九九九〜一○○四)長盛居士開基と伝える。慶長十八年(一六一三)明誉善海によって中興された。本尊の阿弥陀如来に「延宝八歳(一六八○)九月三日、当寺五代海誉」と記されている。
江戸後期~幕末まで、将軍の「鶴お成り」の際の御膳所にあてられた。
境内には、寛永六年(一六ニ九)三月建立の清水外記の墓、眼病に効き目があるという長盛薬師などがある。
なお、荒川区役所裏の「うなぎや墓地(荒川2-18)」出土の応永三十一年(一四ニ四)銘の板碑を所蔵している。
荒川区教育委員会」

<長盛薬師>
眼病に効き目があるという長盛薬師があります。



江戸時代には、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴御成」と称され、三河島の鶴御成では、観音寺は法界寺と共に将軍鷹狩りの際の御膳所にあてられ、土地の名産「三河島菜」が献上されました。




(説明板)
「徳川将軍鶴御成り(観音寺)
江戸時代の三河島近辺は鶴の飛来地で、毎年十一月からの農閑期に、竹の囲いを廻らして、鶴の餌付けがおこなわれていた。
将軍家は特に八代吉宗以降、頻繁に鷹狩りを行った。なかでも鶴は珍重され、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴お成り」と称され、捕らえた鶴は天皇に献上する習わしであった。三河島筋の鶴お成りの際には、観音寺か法界寺が御膳所にあてられた。
観音寺にお成りの場合は、将軍は正門からではなく、東側の竹藪を切り開いて出入りしたという。そのつど寺では土地の名産「三河島菜」を献上するのが例であった。
荒川区教育委員会」

<宝篋印塔>

<忠魂碑>
「忠魂碑 陸軍大将一戸兵衛書」


<郵便ポスト>
境内になぜか郵便ポストがあります。

○法界寺 荒川区荒川3-51-3
観音寺とともに、将軍の「鶴御成」の際の御膳所にあてられました。



(説明板)
「延宝八年銘の阿弥陀如来立像(法界寺)
長盛山道慶院という浄土宗の寺。長保年間(九九九〜一○○四)長盛居士開基と伝える。慶長十八年(一六一三)明誉善海によって中興された。本尊の阿弥陀如来に「延宝八歳(一六八○)九月三日、当寺五代海誉」と記されている。
江戸後期~幕末まで、将軍の「鶴お成り」の際の御膳所にあてられた。
境内には、寛永六年(一六ニ九)三月建立の清水外記の墓、眼病に効き目があるという長盛薬師などがある。
なお、荒川区役所裏の「うなぎや墓地(荒川2-18)」出土の応永三十一年(一四ニ四)銘の板碑を所蔵している。
荒川区教育委員会」

<長盛薬師>
眼病に効き目があるという長盛薬師があります。




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