三河島の鶴御成
○鶴御成(三河島)
江戸時代の三河島(現・荒川区東日暮里)は鶴の飛来地で、毎年11月からの農閑期に、竹の囲いをめぐらして、鶴の餌付けが行われていました。
鷹狩りでは鶴は珍重され、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴御成」と称され、捕えた鶴は天皇に献上する習わしでした。
鶴御成の際には、観音寺か法界寺が御膳所にあてられ、土地の名産「三河島菜」が献上されました。元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺(南千住)が御膳所にあてられました。
<飼付場>
鶴の「飼付場」は、東日暮里1丁目の商業施設の西側から、東日暮里3丁目辺りまでの広大な敷地で、大きな沼もありました。
鶴の世話をするのが「網差」で、三河島村の植木屋伊藤安兵衛が命じられていました。毎日鶴に餌を3回やり人に慣れさせることが役目でした。(あらかわ区報「三河島の鶴御成」を参照しました。)
「名所江戸百景 箕輪金杉三河しま」(広重)
「鶴御成」の箕輪金杉三河島辺りの光景が描かれています。餌まきの「網差」が天秤棒をかついで仕事をしているのが見えます。遠景の中央やや左手に大きな松が見えます。公春院の松かもしれません。
歴代将軍が鶴御成の際に、鷹が鶴を捕えて落下したのが、たいてい公春院の松の辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました。また、将軍秀忠が鷹狩りをした時、鷹が梢にとまったので「鷹止り松」ともいわれていました。
なお、将軍家光が鷹がりをした時は、鷹は円通寺の松にとまり「鷹見の松」と名付けました。
遠景の松が公春院の松だとすれば、「飼付場」の西(現在の東日暮里3丁目の日暮里公園辺り)から、下谷道の左手に箕輪、右手に金杉を見ている光景と考えました。

「絵本江戸土産 三河島」(広重)
「鶴の啼し かたからとけて 薄こほり 煙浦」

「千代田之御表 鶴御成」(楊洲周延 明治30(1897)年)
将軍が放った鷹と鷹匠が鶴を捕えている光景が描かれています。

「御鷹野図巻」(国立国会図書館蔵)
「御鷹野図巻」から「高札場」の抜粋です。注意書きが記されているのでしょう。

鶴を捕えている場面の抜粋です。


「東都花暦名所案内」(国立国会図書館蔵)
「東都花暦名所案内」から「三ノ輪」「金杉」「三河島」部分の抜粋です。御膳所となった観音寺も描かれています。

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
三河島村部分の抜粋です。御膳所となった「観音寺」が見えます。近くに「浄正寺」と「イナリ」(現在の三河島稲荷神社と思われます)が見えます。
公春院の松は、将軍秀忠公が鷹狩りをした時、鷹が梢にとまったので「鷹止り松」といわれていました。また、歴代将軍が鶴御成の際に、鷹が鶴を捕えて落下したのが大抵この辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました。

○常磐線第3三河島ガード
<東日暮里側> 荒川区東日暮里1-10
江戸時代の将軍鷹狩りでは、三河島村の農民は鶴の餌付けを務めとするとともに、御膳所では三河島菜を献上していました。
鶴や、鷹狩りに臨む将軍の姿とともに、三河島菜や荒木田大根についても描かれています。平成26(2014)年の制作です。







江戸時代の三河島(現・荒川区東日暮里)は鶴の飛来地で、毎年11月からの農閑期に、竹の囲いをめぐらして、鶴の餌付けが行われていました。
鷹狩りでは鶴は珍重され、鶴の捕獲を目的とする将軍放鷹は「鶴御成」と称され、捕えた鶴は天皇に献上する習わしでした。
鶴御成の際には、観音寺か法界寺が御膳所にあてられ、土地の名産「三河島菜」が献上されました。元文元(1736)年、九代将軍家重が三河島で鶴御成を行った際には、日慶寺(南千住)が御膳所にあてられました。
<飼付場>
鶴の「飼付場」は、東日暮里1丁目の商業施設の西側から、東日暮里3丁目辺りまでの広大な敷地で、大きな沼もありました。
鶴の世話をするのが「網差」で、三河島村の植木屋伊藤安兵衛が命じられていました。毎日鶴に餌を3回やり人に慣れさせることが役目でした。(あらかわ区報「三河島の鶴御成」を参照しました。)
「名所江戸百景 箕輪金杉三河しま」(広重)
「鶴御成」の箕輪金杉三河島辺りの光景が描かれています。餌まきの「網差」が天秤棒をかついで仕事をしているのが見えます。遠景の中央やや左手に大きな松が見えます。公春院の松かもしれません。
歴代将軍が鶴御成の際に、鷹が鶴を捕えて落下したのが、たいてい公春院の松の辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました。また、将軍秀忠が鷹狩りをした時、鷹が梢にとまったので「鷹止り松」ともいわれていました。
なお、将軍家光が鷹がりをした時は、鷹は円通寺の松にとまり「鷹見の松」と名付けました。
遠景の松が公春院の松だとすれば、「飼付場」の西(現在の東日暮里3丁目の日暮里公園辺り)から、下谷道の左手に箕輪、右手に金杉を見ている光景と考えました。

「絵本江戸土産 三河島」(広重)
「鶴の啼し かたからとけて 薄こほり 煙浦」

「千代田之御表 鶴御成」(楊洲周延 明治30(1897)年)
将軍が放った鷹と鷹匠が鶴を捕えている光景が描かれています。

「御鷹野図巻」(国立国会図書館蔵)
「御鷹野図巻」から「高札場」の抜粋です。注意書きが記されているのでしょう。

鶴を捕えている場面の抜粋です。


「東都花暦名所案内」(国立国会図書館蔵)
「東都花暦名所案内」から「三ノ輪」「金杉」「三河島」部分の抜粋です。御膳所となった観音寺も描かれています。

「安政改正御江戸大絵図」(安政5(1858)年 国立国会図書館蔵)
三河島村部分の抜粋です。御膳所となった「観音寺」が見えます。近くに「浄正寺」と「イナリ」(現在の三河島稲荷神社と思われます)が見えます。
公春院の松は、将軍秀忠公が鷹狩りをした時、鷹が梢にとまったので「鷹止り松」といわれていました。また、歴代将軍が鶴御成の際に、鷹が鶴を捕えて落下したのが大抵この辺で、この松を頼りに捜索したといわれ「目当ての松」といわれていました。

○常磐線第3三河島ガード
<東日暮里側> 荒川区東日暮里1-10
江戸時代の将軍鷹狩りでは、三河島村の農民は鶴の餌付けを務めとするとともに、御膳所では三河島菜を献上していました。
鶴や、鷹狩りに臨む将軍の姿とともに、三河島菜や荒木田大根についても描かれています。平成26(2014)年の制作です。








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