素盞雄神社② 瑞光石 富士塚 庚申塔

素盞雄神社②
 蘇民将来子孫也~瑞光石~富士塚~庚申塔~境内社

【蘇民将来子孫也】

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(説明板)
「蘇民将来子孫也
 スサノオノミコトが、遥か遠くの南の海に妻問いに出掛けたときのことです。陽はすでにとっぷりと暮れ、旅に疲れ果てたスサノオノミコトは、蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞いました。
 裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服もよごれた姿を怪しみ惜しんで拒みましたが、兄の蘇民将来は家も小さく貧しい生活をしていたものの、快く歓迎し、粟の飯で精一杯のもてなしをしたのです。
 それから歳月が経ち・・・。スサノオノミコトは再びその土地を訪れました。そして、かつて自分をもてなしてくれた兄の蘇民将来に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅で作った小さな輪を腰につけていなさい。そうすればきっと、その疫病から逃れ、子孫は永く栄えることでしょう。」と伝えて帰りました。
 その後のこと、二人の兄弟が住む村に突然疫病が流行しましたが、茅の輪をつけていた蘇民将来の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまいました。それ以来、村人たちは疫病が流行ると口々に「蘇民将来子孫也」の言葉を唱え、茅の輪を腰につけて疫病から免れるようになったということです。
 この≪蘇民将来子孫也≫は、降りかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく言葉として、また、その腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」

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<茅の輪守>

 参集殿にて「茅の輪守」を授与しています。

(説明板)
「蘇民将来子孫也
 二天の棒先でひときわ光を放つ金具に刻まれた言葉「蘇民将来子孫也」。ふりかかる悪疫災厄から御祭神スサノオノミコトにお護りいただく唱え言葉です。
 遠い遠い神代の昔、長旅に疲れ果てたスサノオノミコトを、貧しいながらも精一杯にもてなした村人《蘇民将来》。スサノオノミコトは再び彼のもとを訪れると、当時の御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)の小さな輪を腰につけていなさい。疫病から逃れ子孫は末永く栄えるでしょう。」と告げ去ります。奇しくもその「もしも」の時は訪れ、多くの村人は疫病に苦しみ倒れましたが、茅の輪をつけた蘇民将来の家族だけは助かりました。それ以来、疫病が流行すると村人たちは口々に「蘇民将来子孫也」と唱え、茅の輪を腰につけ疫病から免れるようになったということです。」
 蘇民将来たちが腰につけた小さな茅の輪は、6月の大祓で天王祭後に御神前に設ける大きな茅の輪神事・茅の輪守となって現在に伝わっています。」

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 6月の大祓
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<素盞烏尊 稲田姫>

 月岡芳年の「大日本名将鑑」から「素盞烏尊 稲田姫」が掲示されています。 祭典の時だけ、期間限定の掲示のようです。

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【瑞光石】

 延暦14(795)年)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたといいます。 そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀ります。

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 「両社古蹟瑞光石」
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 「石祠」
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 「瑞光石」
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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 瑞光石
 瑞光石は、素盞雄神社の祭神が翁に姿をかえて降臨した奇岩といわれ、「瑞光荊石」とも称される。また、この塚を「古塚」と呼んだことから、小塚原の地名の由来をこれにもとめる説もある。
 嘉永四年(一八五一)には周囲に玉垣を築き、元治元年(一八六四)には浅間神社を祀った。
 万延元年(一八六○)に編纂された『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋の際、この石の根が荒川(現隅田川)まで延びていたため、橋脚がうちこめなかったという伝承を紹介している。
  荒川区教育委員会」

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(説明板)
「《瑞光石》
 御祭神すさのお大神・あすか大神が光とともに降臨した小塚の中の奇岩を瑞光石(ずいこうせき)といいます。
 文政12(1829)編集の『江戸近郊道しるべ』には、千住大橋架橋に際して、この瑞光石の根が大川(現・隅田川)まで延びていたために橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 この瑞光石のある小さな塚から「小塚原(こつかはら)」の地名が起こり、『江戸名所図会』には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をもうかがうことができます。元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。
 なお、現在周辺小学校の「第●瑞光小学校」と冠された瑞光もこれに因むものです。」

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【富士塚】

<富士塚> 荒川区史跡

 元治元(1864)年に、瑞光石のある塚に富士塚が築かれました。山頂に石祠の浅間神社が鎮座しています。

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<荒川区標柱>

「荒川区 指定 記念物・史跡」
「平成二十五年二月八日指定 荒川区教育委員会」
「元治元年(一八六四)、「瑞光石」のある小塚上に浅間大神を祀り富士塚としたと伝え、「お富士さま」と呼ばれている。富士講の一つ、丸瀧講が築造。山肌をクロボウ(溶岩)で覆い、山頂の浅間社、中腹の小御嶽、山裾の石尊、人穴等が設けられている。富士講によって築かれた典型的な形状で当初の形体を良く保っている。幕末から大正期に奉納された富士講等の石碑ニ○基も伝存。近代には「南千住富士」とも呼ばれ、東京七富士廻りの北廻りコースの一つに数えられた。六月朔日(新暦七月一日)の山開きには麦藁の蛇がお守りとして境内で売られたという。地域の民間信仰の姿を今日に伝えるばかりでなく、江戸時代から近代にかけて流行した富士信仰の学術資料としても大変重要である。」

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(説明板)
「素盞雄神社には「瑞光石」が鎮座する塚がある。縁起の中で2柱の神が現れたとする祭祀上重要な場所である。この塚は、ある人の眼には富土塚として映り、“南千住富士”とも呼ばれる。また古墳が富士塚に転用されたと見る人もある。いずれにせよこの場所が聖なる場所であることに違いはない。
 この塚には、「瑞光石」に奉納された石造物以外に、人工の富士山=富士塚としての構造物がある。瑞光石の左側に「浅間神社」の碑①がある。その脇から頂上に登山道が伸び、途中、五合目として小御嶽石尊大権現の碑③、頂上には浅間神社奥宮④がある。塚には、「黒ぼく」という溶岩塊が積まれている。富士講が建てた碑の多くは西側に林立し、北側には人穴も造られている。
 明治28年(1895)の由緒書によれば、元治2年(1865)に、黒ぼくなどの石を積んで塚を築き、浅間大神を祀ったという(但し、元治元年とする説もある)。現存する碑を見ると、造立当初から大正期にかけて、碑が断続的に建てられていったようである。
 その後時期は定かでないが、黒ぼくや碑をコンクリートで固め、土中に埋める措置が施された。幕末につくられた瑞垣が平成7年に取り払われ(一部、塚の脇に保存)、今日の姿に至っている。」

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【地蔵堂】

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<地蔵菩薩像/宝篋印塔>

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<庚申塔三基>

 左から、延宝6(1678)年銘、寛文13(1673)年銘、文化8(1811)年銘の庚申塔です。

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(説明板)
「荒川区指定有形民俗文化財
 庚申塔群三基(寛文十三年銘他) 素盞雄神社
 江戸時代に建てられた3基の庚申塔で、向かって左から、延宝6年(1678)銘、寛文13年(1673)銘、文化8年(1811)銘があります。
 庚申塔とは、60日に一度めぐってくる庚申の日に、寝ずに夜を明かす行事「庚申待」を3年間継続した所願成就の証しとして建てられたものです。
 中央の寛文13年銘の庚申塔は、聖観音が本尊です。聖観音の光背には「庚申講供養」と「念仏講供養」の文字が刻まれ、庚申信仰と阿弥陀信仰の習合が見られます。左の延宝6年銘の庚申塔は、如意輪観音が本尊です。月待信仰に関する勢至菩薩の種子が刻まれていて、庚申信仰と月待信仰との習合がうかがえます。施主として久兵衛、おとらなど男女15人の名が見えます。文化8年銘の庚申塔には「青面金剛」の文字が刻まれています。
 寛文13年銘と延宝6年銘の庚申塔は、造形上も優れており、他の信仰との習合も見られ、また3基の庚申塔から近世の庚申塔の変遷がうかがえ、学術的にも貴重なものであるといえます。
  (平成18年1月13日指定)
 平成20年3月 荒川区教育委員会」

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<神輿庫>

 「宮元」「通新町」の銘板が見えます。

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<境内社>

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「福徳稲荷神社」
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「菅原神社」
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「稲荷神社」
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※旧記事に加筆せずに、新たに記事にしたので、旧記事は削除します。
関連記事

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素盞雄神社①(南千住)

○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1 HP

「江戸名所図会」

 「江戸名所図会」には「飛鳥社 小塚原天王宮」と紹介されています。
 拝殿・本社は西向きの一社として描かれています。境内への入口は、南と西に見えます。境内に「瑞光石」、「ちそう(地蔵堂)」が見えます。

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「江戸切絵図」

 「牛頭天王社」が見えます

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【境外】

<荒川区説明板>

 素盞雄神社について記載されています。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 素盞雄神社
 小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。
 石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるのもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(七九五)、荊石が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした二神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現した二神を祭神として祀る。
 宝暦年間(一七五一〜六四)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、『東都歳時記』(天保九年)にその勇壮な様が描かれている。
  荒川区教育委員会」

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 英語版に、「千住大橋綱曳」(東都歳事記)が掲示されています。

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「千住大橋綱曳」(東都歳事記)
 6月9日に行われた千住大橋の綱曳神事が描かれています。橋を挟んで北と南で曳き合いました。けんかが絶えず取り止めとなりました。

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<素盞雄神社>

「江戸の社寺や名所旧跡を紹介した『江戸名所図会』では、当社は「飛鳥社 小塚原天王宮」と紹介されでいます。「小塚原」とは御祭神が御姿を現された「瑞光石」のある小高い塚に由来するこの土地の古い地名で、「天王宮」は素盞雄大神の別名「牛頭天王」によるものです。」

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【参道(飛鳥大神)】

 牛頭天王と飛鳥権現は、別々の社殿に祀られていましたが、火災にあい、享保12(1727)年に、社殿再建の際に両社を合祀、二柱を相殿として祀った社殿は「瑞光殿」と称されました。こちらは「飛鳥大神」をお祀りしている側の参道です。

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<石鳥居>

 扁額は「素盞雄大神 飛鳥大神」(東郷元帥書)と御祭神の2柱が記されています。石鳥居は、「御大典記念」として大正4(1915)年11月10日の建立です。

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<提灯>

 大嶋屋提灯店の奉納です。
 「操業明治三十年 大嶋屋提灯店 四代目石井達也」

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(大嶋屋提灯店)
 江戸文字揮毫の提灯の老舗(享保年間創業)「土手・大嶋屋」(台東区東浅草)から暖簾分けを受けて、明治30(1897)年にコツ通りにて創業しています。
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<門柱>

 「帝國在郷軍人會 南千住町分會有志」による大正3(1914)年3月建立の門柱です。

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<瑞光殿華表碑銘>

 東参道右手の「瑞光殿華表碑銘」の漢文碑です。寛保2(1742)年起立の瑞光殿前鳥居が安政の大地震で倒壊し、安政6(1859)年に再建と書かれています。漢文で記されており詳細はわかりません。最後に「安政六年巳未夏四月 霞外山孺書」とあります。

(表)
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(裏)
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 「墓碑史蹟研究 第7巻」(磯ケ谷紫江 国立国会図書館蔵)に「瑞光殿華表碑銘」が記載されており、その抜粋です。

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【考察】
 江戸名所図会に描かれている鳥居です。図会の発行は天保5-7(1834-1836)年なので、この鳥居は安政の大地震で倒壊した寛保2(1742)年起立の鳥居と考えられます。
 現在、同じ場所に建つ鳥居には「几号水準点」が刻まれているので明治初期以前の鳥居です。昭和5(1930)年発行の「墓碑史蹟研究 第7巻」には「瑞光殿華表碑銘」の存立位地を社前左としています。「几号水準点」が刻まれている現在の鳥居は、安政の大地震後の安政6(1859)年に再建された鳥居である可能性が強いと考えます。
 鳥居に紀年や願主等が刻まれていないのも、「瑞光殿華表碑銘」に紀年や願主等が刻まれているので、合点がいきます。

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【玉垣沿の石碑群】

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<石鳥居建設の碑>

 鳥居の左手(南側)に「御大禮記念石鳥居建設の碑」があります。「大正五年十一月」の造立です。

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<神社復興記念碑>

 「神社復興記念碑 明治神宮宮司甘露寺受長書」とあります。甘露寺受長は、明治神宮の第6代宮司(1959-1972)です。

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<萬歳樹>

 国道4号線に向いて建っています。表に「萬歳樹」、裏に「大正四年十一月十日」とあります。

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<石碑>

 寄進者の芳名が多く刻まれています。

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【神苑】

 砲弾をかたどった石造の柵柱に囲われた一画があり、石碑群があります。

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<明治神宮鎮座祭紀念碑>

 「子爵澁澤榮一書」とあり、大正10(1921)年8月の建立です。
  明治神宮は、渋沢栄一らが主導して創建され、大正9(1920)年11月1日から3日間、鎮座祭が行われています。

(表)「明治神宮鎮座祭紀念碑 子爵澁澤榮一書」

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(裏)「大正拾年八月建之」

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<明治卅七八年戦役紀念碑>

 明治39(1906)年建立の日露戦争の記念碑で、乃木希典の書です。

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<神苑門柱奉獻誌>

 表題「神苑門柱奉獻誌」とあり、漢文が続きます。
 最後に「大正三年三月日 帝國在郷軍人會 東京府南千住町分會有志」とあります。

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<日露戦役紀念之樹>

 「日露戦役紀念之樹」「明治三十九年七月 凱旋者」とあります。

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<伝統野菜 三河島菜>

 三河島氏子有志による奉納です。

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<厄神祭 桃 圃場>

 「厄神祭 桃 圃場」とあります。

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<大灯籠>

 以前は「宮元 太二講」の台座だけでしたが、白木に銅板葺の大灯籠が平成30(2018)年4月に奉納されています。
 台座は大正7(1918)年竣工、昭和35(1960)年の再建です。

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<参集殿>

 扁額「出羽三山神社 宮司 緒方久信」」とあります。

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<天王社の大銀杏(飛鳥の杜)>

 境内は「飛鳥の杜」と呼ばれ、江戸名所図会に描かれています。イチョウは気根を出しています。

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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 天王社の大銀杏
 素盞雄神社境内は、古来より「あすかの森」と呼ばれ、銀杏などの大木が林立していた。『江戸名所図会』にも、境内に樹木が生い茂っている様が描かれている。
 この大銀杏は、幹の周囲約三・五メートル、高さ約三十メートルである。
 この木の皮を煎じて飲むと、乳の出が良くなるという伝承を持つことから、絵馬を奉納祈願する習わしがあり、現在も続いている。
  荒川区教育委員会」

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「荒川区から荒川が消えた!
 昭和7年10月、南千住・三河島・尾久・日暮里の4町が合併し、区の周りを流れる荒川を区名とした荒川区が誕生しました。
 これは徳川家康公の江戸幕府により最初に架けられた千住の大橋から上流を《荒川》、下流を《隅田川》と呼んでいたことによります。
 文字通りの荒ぶる川ではありましたが、肥沃な土地をもたらし、物資水運の集散や利便性の高い工業地・住宅地として町を成長させました。
 しかしながら、昭和40年3月建設省令により、岩淵水門より下流域の《荒川を隅田川》昭和5年完成の水害対策の為の人工河川《荒川放水路を荒川》と呼ぶように定められ、荒川区から歴史ある《荒川》が消えました。
 「荒川」は、荒川区にとって母なる川であり、素盞雄神社にとっても強い結びつきがあります。このことを心に刻み、絶えず流れる川のたどった歴史を愛おしみ、大切に護り伝えたいものです。
〔荒川区の紋章〕上部半径を中心の字へ連続してアとし、水平平行線と下部半径をラ、中心の縦三本が川で、全体の円形は和を象徴しています。昭和25年5月2日指定」

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<句碑>

 現代の俳人の句の寄せ書きです。

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<鈴木俊一句碑>

 「あすかの杜に 悠久の千二弐百年 こころのふるさと此処に在り
   東京都知事 鈴木俊一書」

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<出羽三山供養塔>

 月山(左) 湯殿山(中) 羽黒山(右) 大権現供養塔とあります。文政十(1827)年と刻まれています。台座には「通新甼」とあり、下谷通新町の小林治左右衛門、小林仁右衛門が建立しています。以前より場所が微妙に移動しています。

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<松尾芭蕉の碑> 荒川区文化財

 千住大橋のモニュメント先に、「松尾芭蕉の碑」があります。「千住おおはし」には、綱が渡されています。東都歳事記にも描かれている橋を挟んで北と南で曳き合った綱曳神事を表しているのでしょう。橋の下には、川の主といわれる大亀が棲んでいた伝説を模した石造亀がいます。

【素盞雄神社HP説明】
「千寿といふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別のなみたをそそく
 行はるや鳥啼魚の目ハなみた(行く春や鳥啼き魚の目は泪)
 松尾芭蕉『奥の細道』矢立初め(旅立ち)となった有名な一節です。「矢立」とは、携行用の筆記具のことを意味します。文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晃の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
 建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できないために、平成7年当社御鎮座1200年祭に際し復刻し、これを契機に全国俳句大会をはじめ様々な俳句興隆事業が行われています。」

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<森昌庵追慕の碑> 荒川区文化財

 旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保12(1841)年に建てられた森昌庵追慕の碑です。描かれた絵の担当は、近隣に住んでいた「江戸名所図会」の挿絵を描いた長谷川雪旦です。近時、以前あった標柱が消失しています(画像は存在していた時)。

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<素盞雄神社と文人たち>

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 素盞雄神社と文人たち
 千住宿界隈や墨田川沿岸の社寺には、江戸の文人が残した碑が多くみられる。
 この境内にも、文人が建てた二基の碑がある。文政三年(一八二○)建立の松尾芭蕉の句碑と、旗本池田家の主治医の死を悼んで、天保十二年(一八四一)に建てられた森昌庵追慕の碑である。
 芭蕉の句碑は、谷文晁の弟子で関屋在の建部巣兆・儒学者で書家としても名高い亀田鵬斎らが、森昌庵追慕の碑は、『江戸名所図会』などの挿絵で知られる長谷川雪旦、この近隣に住んでいた俳人・随筆家の加藤雀庵らがそれぞれ建碑にかわった。
 これらの碑は、文人たちの交流を今日に伝えている。
  荒川区教育委員会」

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<天水桶> 荒川区文化財

 天保12(1829)年銘の永瀬源内富広作の鉄製天水桶です。荒川区文化財です。

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<社殿/本殿>

 社殿の右手に本殿の覆屋が見えます。

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「《七歳までは神の子》
 病死という概念がなかったその昔、『もののけ』という死霊が幼い生命を突然奪いにくると考えられていました。医学がまだ発達していない頃の乳幼児の生存率は低く、《七歳までは神の子》という言葉が伝わっています。それほどまでに乳幼児は死と隣合せだったのです。
 医療医学の発達したといわれる現代においても、子は「授かりもの」であり、生命は父母双方の先祖から脈々と流れ受け継ぐ「賜りもの」です。
 初宮詣氏子入りに際し「子育てのイチョウ」に奉納された絵馬は、7年間、御祭神の御加護を願いお供えいたしております。
 御祝いのお子様が七歳となる最後の一年は、御神前に最も近い殿内にお供えします。
 そして七年間が過ぎた11月15日七五三詣の日に〔おかげさま〕の感謝の心をこめて浄火によりお焚き上げいたします。」

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【西参道】

 西参道の鳥居は、寛政元(1789)年の建立です。

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 拝殿・本殿
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【表参道(素盞雄大神)】

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<度数拝禮碑>

 「度数拝禮碑」です。昭和40(1965)年、解脱会浅草支部の建立です。百度石と違うのですかね。

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<手水舎>

(表)
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(裏)
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(説明板)
「御神水
 平安時代延暦十四年創建より悠久の千二百有余年。江戸の文人墨客たちに飛鳥の杜と親しまれたこの境内に、神事ならびに非常時の生活用水として広く地域に供すべく、平成二十六年六月、深井戸(深度百四十メートル)を新設いたしました。
 深井戸掘削により実施した水質試験の結果、【飲料適合】と出ましたので、手水舎の水を天地の恵み〔御神水〕に切替えています。
 お水取りの方は、水鉢後方に蛇口が有ります。」

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<飛鳥の杜 御神水>

 手水舎の裏にある「飛鳥の杜 御神水」と書かれた木小屋の中に井戸ポンプがあり、地下140mから御神水を汲み上げています。

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<吉原 松葉屋半左衛門寄進の狛犬>

 狛犬の台座に「新吉原角町 松葉屋半蔵」とあります。文化5(1808)年6月吉日銘の狛犬です。

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 最下段の台座には「再建」と「昭和十年」の文字が見えます。

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<几号水準点>

 鳥居に明瞭に「几号水準点」が刻まれています。松葉屋蔵の寄進した狛犬(文化5(1808)年6月吉日)のところの石鳥居です。

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<力石>

 力石が三基並んでいます。

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<狛犬>

 社殿前の獅子山の狛犬です。

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 左から読むとすれば「三筋通?」の文字が見えますが他不明です。
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<月桂樹>

 御大典記念として、昭和3(1928)年11月10日の建立です。

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<神楽殿>

 美術鋳金家の菓子満氏制作の「撫で桃〔桃の祓〕が飾られています。令和3(2021)年3月30日に納められました。
 3つの桃の実に「後顧(こうこ)」「中今(なかいま)」「幸先(さいさき)」の祓を託し、「あと・いま・さき」を祓い清めます。

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「三河島山車人形 稲田姫」(荒川区文化財)
 3年に一度の御神幸祭では、稲田姫(幕末人形師・古川長延作)が神楽殿に飾られます。
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<社殿>

 社殿は空襲で焼失したため、昭和32(1957)年に再建されています。

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 拝殿には扁額「素盞雄神社」(有栖川宮殿下書)が掲げられています。
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 拝殿内には扁額「瑞光殿」が掲げられています。
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下谷道(奥州裏街道)

○下谷道 荒川区南千住6-48-12 説明板

 江戸時代は、吉野通り(コツ通り)が奥州街道で、現在の国道4号線(南千住〜上野)は「下谷道」と呼ばれました。
 国道4号線から分かれ素盞雄神社の西に突き当る一方通行の旧下谷道が残っています。

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 素盞雄神社周辺は、江戸時代は小塚原町の菅谷耕地と呼ばれ、電信柱に「菅谷」の名が残っています。
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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 下谷道
 下谷広小路・坂本・三の輪・下谷通新町を通り、素盞雄神社の所で右におれ奥州道中(現コツ通り)に合流する道は、江戸時代、日光道などとも呼ばれ、東叡山門主で日光山門主も兼ねていた輪王寺宮が日光に行く際の道とされていた。周辺には大名屋敷や寺院・町家が軒を連ね賑わったという。
 現在の国道4号線(日光街道)がほぼこの道筋に当たるが、道路の拡張や改修によってその姿は変ってしまった。素盞雄神社に至るこの道は、かろうじて旧道の面影を止どめている。
  荒川区教育委員会」

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<江戸名所図会>

 「江戸名所図会 飛鳥社 小塚原天王宮」から「下谷道」部分の抜粋です。「日光道中」とおなじほど「下谷道」を人々が行き交っています。
 「飛鳥社 小塚原天王宮」の門前にある「茶や」の裏手には、「みたらし」(御手洗池)と池の中に「へん天」(弁天)が見えます。「御手洗池」前の下谷道では、天日干しをしている光景が見えます。

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 下谷道から左に折れる道には「昔の奥州海道」と記されています。

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<江戸切絵図>

 江戸切絵図から「下谷道」部分の抜粋です。下谷道は、上野山下・坂本・御箪笥町・金杉・三ノ輪・通新町・牛頭天王社を経て小塚原で奥州街道に接続する往還です。

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「江戸名所図会 東叡山坂本口」

 下谷道は「坂本通り」と記され、「東叡山坂本口」の「新門」(江戸切絵図に坂下門)に突き当っています。 新門(坂下門)からクランクに曲がって「下寺通り」と並行する道は「車坂下通り」と記されています。

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「江戸名所図会 山下」

 新門(坂下門)から山内に入る道は「下寺通り」と記されています。山下には、大道芸や見世物小屋などの盛り場が見えます。

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<江戸切絵図>

 上記の江戸切絵図から該当部分の抜粋です。

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「江戸名所百人美女 上野山下」

 「上野山下」は遊興の地として大きな賑わいを見せていました。こま絵には、二階建の料理茶屋と2つの水茶屋が描かれています。美人は、上野山下の料理茶屋に出入りする芸者と思われます。

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<下谷御成道>

 筋違御門(現万世橋)から下谷広小路までは、将軍が寛永寺への参拝に利用した道で、「下谷御成道」と呼ばれました。(筋違御門について、こちらで記載

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「東都花暦名所案内」

 江戸時代の「東都花暦名所案内」に記されている下谷道と奥州街道部分の抜粋です。下谷道は江戸御城の筋違御門から、奥州街道は浅草御門から延びているのがわかります。
 江戸時代の観光マップだけあって、町名と名所・行事が記されており、わかりやすいです。

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○下谷通新町 荒川区南千住1-15-6 説明板

 「立喰生そば 長寿庵」の横に、説明板「下谷通新町」があります。

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 下谷通新町
 下谷道(現国道4号線)の両側に発達した町。南は下谷三ノ輪町に続き、北は千住小塚原町に接続していた。町の広さは東西四五間(約八一メートル)、南北六町余(約六五四メートル)、『御府内備孝』によれば、寛文元年(一六六一)の割付に「小塚原新町」、元禄九年(一六九六)の割付に「下谷通新町」と見えるとされ、北隣の小塚原町から分かれて新町として成立したと推定される。町名が下谷通新町に変わった時期は元禄八年(一六九五)頃とされている。町奉行と代官の両方の支配であった。明治一一年(一八七八)には下谷区に属し、翌一二年に下谷真正寺町を吸収した。同二二年に南千住の一部となった。
  荒川区教育委員会」

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<江戸切絵図>

 江戸切絵図から「下谷通新町」部分の抜粋です。通新町は下谷道の両側の細長い町です。真正寺の前だけ通新町に囲まれて「門前町」がポツンとあります。

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川越夜舟と橋戸河岸/川蒸気

○川越夜舟と橋戸河岸

 千住宿の橋戸河岸は、川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、鮮魚を運んだ「川越夜舟」の中継地として水運で江戸の繁栄を支えました。やがて、大正3(1914)年の東上線の開通を経て鉄道輸送が台頭し、水運は衰退していきました。
 「川越夜舟」は、川越を夕方出発し、翌朝に千住、昼に浅草花川戸に到着しました。このため川越街道の宿場は客足が減少したようです。

「名所江戸百景 千住の大はし」(広重)
 「川越夜舟」は、屋根にアシの葉で編んだ苫(雨おおい)をかぶせて雨や寒さを防きました。「名所江戸百景 千住の大はし」に、橋戸河岸に苫をかぶせた川越夜舟らしきものが描かれています。

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 日帰り温泉施設「小江戸温泉 KASHIBA」の施設名は、新河岸川の河岸場にちなんでいます。壁面イラストに江戸までの水運ルートが描かれています。イメージが少々異なる「川越夜舟」も描かれています。

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<千住節(川越舟歌>

 川越夜舟の船頭達などにより歌われていたのが、千住節(川越舟歌)です。千住宿の飯盛旅籠から流行ったようです。
 「千住大橋際歴史資料空館」(千住大橋橋詰テラス)に掲示の「千住の橋戸河岸」から「千住節(川越舟歌)」を抜粋します。

(説明板)
「千住節(川越舟唄)」
〽富士下離れりや荒川までは竿も櫓かいも手につかぬ
〽千住出てから牧の野までは雨もふらぬにそでしぼる
〽千住川さえ竿さしや届くまして届かぬ主の胸
 江戸と小江戸と呼ばれた川越を結んだ川越夜舟の船頭達などにより謳われていた。」

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○川蒸気

 「千住大橋際歴史資料空館」(千住大橋橋詰テラス)に掲示の「千住の橋戸河岸」から「川蒸気の登場)」を抜粋します。

(説明板)
「川蒸氣の登場
江戸時代以来、江戸との交通には舟運も利用されていたが、明治に入り川蒸氣が登場した。
明治八年には、千住大橋と両国橋間に川蒸氣船が開通。船賃は六銭であった。
吾妻橋から千住大橋間は二銭、川蒸氣はその後も路線が拡大した。
俗に一銭蒸氣と言う言葉がありますが、これは運賃が一銭であったことに因む。」

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「吾妻汽船千住大橋發着場」(荒川区史 東京市荒川区 昭和11年)

 「荒川区史」の記述によると、「一銭蒸気」と呼ばれた隅田川汽船(現在の東京都観光汽船株式会社:こちらで記載)は、千住大橋と吾妻橋間も営業しており、開花の季節には江北まで遡ったとあります。
 また吾妻急行汽船は千住大橋と吾妻橋間を往復し、南千住町汐入と学校前に停船場を置いているとあります。
 千住汽船は千住大橋と王子を往復しているとあります。

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「千住渡船場」(足立区立郷土博物館蔵)

 解説によると(引用)、「千住大橋上流の橋戸町岸にあり、浅草吾妻橋まで定期船が出ていた。所要時間1時間、昭和初期の運賃5銭。明治18(1885)年の開通で「一銭蒸気」ともいった。」

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○京浜間蒸気船

 明治初年の京浜間では多くの蒸気船が就航しています。

「東京築地ホテル館」(三代歌川広重 明治3(1870)年 築地よりみち館掲示より)

 蒸気外車船「シティ・オブ・エド号」が描かれています。

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○通運丸

 隅田川の「一銭蒸気」より先行していたのが、明治10(1877)年に就航した内国通運会社(現在の日本通運株式会社)の「通運丸」です。利根川水系を代表する長距離航路の定期貨客船でした。田山花袋や森鴎外等も乗船しています。

「東京両国通運会社 川蒸気往復盛栄真景之図」(歌川重清 明治15年 足立区立郷土博物館蔵)

 内国通運会社の通運丸乗船所と外車式汽船通運丸が描かれてます。乗船所入口には「郵便御用蒸気通運丸乗船所」と書かれた看板と、寄港地の河岸名を描いた木札が掛けてあります。

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千住宿(下宿)

○千住宿(下宿) 荒川区南千住7-16-3 説明板

 日慶寺の参道入口に、荒川区説明板「千住宿」があります。
 千住宿は、万治元(1658)年に「掃部新田」、万治3(1660)年に千住大橋を越えて「小塚原町」「中村町」が加えられ宿場町は拡大しました。小塚原町・中村町の宿場町は「千住下宿」と呼ばれました。

 下宿には飯盛旅籠が並び、新吉原や千住五か町から訴えられるほど飯盛旅籠は繁昌しました。
 近くには、江戸で最大規模の火葬場である火葬寺(現在の荒川区南千住5丁目21番地及び22番地)があり、江戸時代の川柳に「焼場から往生させてこつヘ連れ」「焼場からなぐれてこつの大一座」とあるように、荼毘に付した後、葬礼帰りの人々が精進落ちと、小塚原の飯盛旅籠に登楼する実情もありました。小塚原と火葬寺のコツ(骨)を洒落て、小塚原に遊びに行くことを「コツに行く」と言っていました。

 明治に入り、千住宿のうち一〜五丁目が千住宿北組、掃部宿が千住宿中組、小塚原町・中村町が千住宿南組に改称されました。千住宿南組は、現在の南千住の地名の由来となっています。

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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 千住宿
 慶長九年(一六○四)日本橋を起点として五街道が定められた。奥州同中の第一の宿場が千住宿である。
 大橋南側から「コツ通り」にいたるこのあたりに小塚原町・中村町があって下宿と呼ばれ問屋・各種商店・旅籠などがたち並んでいた。江戸の宿場のなかでは、この千住宿(本宿と下宿)が最も長い宿場通りであった。
  荒川区教育委員会」

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