羽田の渡し

○羽田の渡し 大田区羽田2-32-30

 川崎大師に参詣する人々は、多くが東海道から分岐する羽田道を利用して、羽田の渡しで多摩川を渡りました。東海道の六郷の渡し先の川崎宿では、商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止してほしいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていました。羽田の渡しは、昭和14(1939)年に大師橋が開通したことにより廃止されました。

<羽田の渡し碑>

(表面)「はねだの渡し 大田区」

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(裏面)
「羽田の渡し
 古くから、羽田漁師町(大田区)と上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が存在していたという(現在の大師橋下流、羽田三丁目で旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは、小島六佐衛門組が営んでいたので、「六佐衛門の渡し」とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は約四○間(約八○m)ぐらいで、「オーイ」と呼ぶと対岸まで聞こえたという。
 その昔、徳川家康が狩りに来た帰りに、お供の者と別れて一人でこの渡し場に来たところ、船頭は家康とは知らずに馬のアブミを取ったという伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は、二○〜三○人の人々が乗れるかなり大きなもので、この船を利用して魚介類、農産物、衣料品など、生活に必要な品々が羽田と川崎の間を行き来していた。
 江戸の末には、穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が、のどかで野梅の多かった大森から糀谷、羽田を通り羽田の渡しを利用するため、対岸の川崎宿では商売に差しつかえるので、この渡しの通行を禁止してほしいと公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また、明治後期から昭和初期にかけて、川遊びをする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく、人々の生活、文化の交流など大きな貢献をしてきた羽田の渡しは、時代の変化とともに多くの人々に利用されたが、昭和十四年に大師橋が開通したことにより廃止された。
  大田区」

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<羽田レンガ堤>

(説明板)
「羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
 羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正17年(1589年)から安政6年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878年)、17年(1884年)、40年(1907年)、43年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)しました。
 「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などがなどが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
 レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして、昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
 昭和48年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。
  出典:羽田レンガ堤調査報告書(大田区教育委員会 平成23年3月より)」

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<レンガ堤防と小階段>

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<大師橋親柱>

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<パネル「多摩川八景」(運輸省関東地方建設局京浜工事事務所)>

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「名所江戸百景 はねたのわたし弁天の社」(広重)

 羽田の渡しから、羽田弁財天社が見えます。その先には常夜灯が見えます。描かれた渡しの場所は、海老取川の渡し、弁天社から川崎大師への渡し、弁天社近くへ迂回と諸説あるようです。
 常夜灯の袂にあった小さな御穴宇賀神が、羽田弁財天社にとってかわって、明治時代に流行神として大ブレイクします。

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「東海道五拾三駅名所・川崎大師河原真景」(広重)

 対岸の川崎側が描かれています。3コマ目は「大師河原平原寺」です。

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弁天橋 漁業碑 五十間鼻 福守稲荷

○弁天橋 大田区羽田5丁目・羽田6丁目〜大田区羽田空港1丁目

 海老取川にかかる弁天橋 です。

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<海苔養殖の工程>

 欄干には海苔の養殖の作業工程がレリーフで飾られています。

「ひび作り」
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「ひび建て」
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「海苔取り」
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「海苔付け」
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<武蔵野の路六郷コース> 大田区羽田6-9

 海老取川右岸に「武蔵野の路六郷コース」の標柱があります。堤防沿に散策路が続きます。

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○羽田の漁業碑 大田区羽田6-11

 堤防から下に降りる階段が柵に囲まれていて、その中に「羽田の漁業碑」があります。羽田は、潮水と真水が混じり合う汽水で、多くの魚介類が生息する魚場でした。水質改善により現在はシジミ漁が行われているようです。

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(碑文)
「羽田の漁業
 羽田浦の漁業は、約八三○年前の平治年間、羽田に七人の落人が住みついたときから始まったと言われている。
 江戸時代になってから、漁船、漁師は、参勤交代のときに六郷川(多摩川の河口部)の船橋や補役として、また大阪城夏の陣には軍船として使用された。
 この羽田浦は、魚貝類の大切な栄養源となる淡水が多摩川より大量に流れ出るため、その周辺は絶好の漁場であった。
 この地で水揚げされた魚貝類の鮮度は高く、徳川将軍家に献上したり、江戸の町に運んでいた事実が伝えられている。特に、羽田洲は、「干潟広大にして諸貝を産し、中でも蛤貝を名産とし、汐吹貝、赤貝多し」と『羽田史誌』に記されており、古くから多くの貝類が漁獲されていた。
 かつて江戸湾内の優良漁場であった羽田浦周辺も、昭和三○年代から始まる東京港の埋め立てと航路づくりのため、昭和三七年に海苔漁場の漁業権の放棄が余儀なくされた。
 その後、空港拡張により浅瀬漁場は減少し、以前のような漁村としての姿は薄れつつあるなかで、多摩川河口の船溜りは、昔をしのばせる貴重な場所となっている。
  大田区」

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○案内図 大田区羽田6-11

 五十間鼻に掲示の地図です。「赤レンガの堤防と五十間鼻」の案内文が記載されています。

(案内文)
「赤レンガの堤防と五十間鼻
 羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。
  大田区観光課」

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「赤レンガの堤防」が続いています。

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<鉄道トンネル>

 「東海道貨物線」が海底トンネルで通っています。
 「この河川の下には下記のような埋設物があります。」

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○五十間鼻無縁仏堂 大田区羽田6-11-5

 海に突き出た小さな祠があります。 多摩川と海老取川の合流する場所に、五十間(約90m)に渡って水中に石を敷き詰めたことから名付けられたのが「五十間鼻(ごじゅっけんばな)」です。その上に設けられたのが「五十間鼻無縁仏堂」です。堂内の位牌には「妙法 多摩川五十間端水死横死之諸霊」とあります。

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<五十間鼻無縁仏堂の由来>

(説明板)
「五十間鼻無縁仏堂の由来
 創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
 その方々をお祀りしていると言われております。
 元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが、初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養をしていました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏が、私財を持ち寄り復興致しました。
 又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設 の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
 又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
   合掌  堂守謹書」

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○福守稲荷神社 大田区羽田6-11-8

 玉川弁財天のすぐ近く、堤防から階段を降りた先に「福守稲荷神社」があります。

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羽田の大鳥居

○みんなの羽田平和の大鳥居楽園広場 大田区羽田空港1丁目

 大鳥居は、穴守稲荷神社が羽田穴守町にあった昭和初期に建てられました。GHQによる羽田一帯の強制退去に際し、この大鳥居は撤去できずそのまま残り、羽田空港の日本返還後も駐車場の一角に残されていました。羽田空港の沖合展開事業に際し、平成11(1999)年2月に、現在の位置に移設されました。「穴守稲荷神社」の扁額は、現在は穴守稲荷神社の表参道の鳥居に掲げられています。


<平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)>

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(碑文)
「この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
 しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
 米軍から、施設が日本に返還された昭和二十七年七月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
 昭和五十九年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。
 しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成十一年二月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
 ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。」

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<鈴木弥五右衛門碑>

 平成22(2010)年6月吉日銘の「氏神 鈴木弥五右衛門」の碑です。

(正面)
「氏神 鈴木弥五右衛門」
 平成22年6月の設置です。

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(右側面)
「偉業の大地の由来と歴史(文化十二年)一八一五年
 江戸時代に猟師町の名主鈴木弥五右衛門が羽田村名主石井四郎右衛門に折衝し譲り受け羽田漁師町請負新田として幕府に願い出て干拓の許可を得たものです。浅瀬の要島を中心として新田開発が始められ羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が生まれました。」

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(裏面)
「奉納記念碑
 昭和二十年九月二十一日強制立ち退きを命じられた三千人の銘々を記す。
 強制立ち退きで住む町を追いやられた。弁天橋を渡る母子の銅像。」

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(左側面)
「寄贈
  秋田杉 株式会社エスエイエヌ会長 板倉三男殿
  羽田有志一同 羽田ボランティア推進の会一同
  この地の氏神を奉り候う
  清光 平成二十二年六月吉日 佐奈田法主 義照為」

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<説明パネル)>

 「羽田ボランティア推進の会」(HP)が設置しています。

「此の地の歴史、鈴木新田跡 大田区指定文化財(史跡)」

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「仮の掲示版・東京国際空港記念建造物」

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「皆の羽田平和の大鳥居楽園ひろば」(氏神・鈴木弥五右衛門の碑)

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「多摩川八景」

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<鉄道トンネル>

 「東海道貨物線」が海底トンネルで通っています。

 「この河川の下には下記のような埋設物があります。」

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旧三町顕彰の碑(羽田)

○旧三町顕彰の碑 大田区羽田空港1-1-4 天空橋駅前交通広場 HP

 旧三町顕彰の碑が建立され、碑の周りに解説板が設置されています。

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<顕彰碑1面>

 「旧三町顕彰の碑」
 3つの町の名前(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)が記されています。

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 解説板
 「旧三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の成り立ち」

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<顕彰碑2面>

 「きみといたふるさとの匂い」
 旧三町での生活・景色などの想いが表現されています。

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 解説板
 「戦争と旧三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の強制退去」

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<顕彰碑3面>

 「海と 空と 祈り 羽ばたき」
 平和と、羽田のまちと新しいまち(跡地)が発展し続けることが表現されています。

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 解説板
 「羽田空港の歴史と発展」

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○旧三町復元タイル

 旧三町の地図を記したタイル(平板ブロック)が設置されています。昭和11年頃の国土地理院の空中写真を使用し作成したタイルです。京浜電気鉄道、穴守神社や海水浴場、浄化海水プール、競馬場などがあり、旧三町一帯が行楽地として賑わいを見せていたことがうかがえます。

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○羽田イノベーションシティ(HICity) 大田区羽田空港1-1-4 HP

 羽田イノベーションシティ内1階のインフォメーションセンターに、「大田区歴史資料コーナー」が設置されています。

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明治・大正の名所⑤ 穴守鉱泉

○鈴木新田

 江戸後期、鈴木弥五右衛門が羽田浦浅瀬の「要島」を中心として開墾し、鈴木新田と呼ばれるようになりました。羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の三つの町が生まれました。
 海岸に堤防を巡らし、「要島」の堤防の上に新田開発の守護神として「穴守稲荷神社」を祀りました。「穴守」という社名から、遊女からの信仰も篤かったといいます。また、競馬・競輪・宝くじなどのファンからの信仰も集めるようになりました。
 GHQは昭和20(1945)年9月21日、三町の3000人に強制立ち退きを命じ、穴守稲荷神社の大鳥居を除きすべての建物は壊されました。昭和27(1952)年7月に日本に返還され、東京国際空港として再出発しました。

 (羽田の大鳥居の脇に建つ「鈴木弥五右衛門」の碑)

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○穴守鉱泉

 明治27(1894)年 、和泉茂八が穴守稲荷神社の境内そばで、ナトリウム冷鉱泉を発見し、泉館という温泉旅館を起こしました。以後、鉱泉宿や料理屋、芸妓置屋などが軒を並べていきました。

(「旧三町顕彰の碑」の解説板より)
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「一日の行楽」(田山花袋 博文館 大正7年)

 田山花袋が穴守鉱泉について、記載しています。

「川崎大師と穴守稲荷(抜粋)
 その他穴森には、鉱泉をわかして客を待つ旅館兼料理屋が二二軒ある。中で、羽田館と言ふのが一番大きい。つれ込み宿としてもきこえてゐる。」

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「武蔵國荏原郡羽田穴守神社全圖」(Wikipedia 明治34年)

 本社の横に、「鉱泉場」の大きな幟が三本建っています。手前から「泉館」「羽田館」「要館」「西本」と見えます。羽田館の手前には「水行場」が見えます。

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 また、「鉱泉倶楽部」があります、日帰り館でしょうか?

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「穴守神社」(最新東京名所写真帖 小島又市 明治42年)

 写真下の解説文を見ると、とても賑わっていた様子が伺えます。
 「荏原郡羽田町鈴木新田にあり 近時の建社たりと雖も霊験灼々たるを以て〜。此地海魚に富み加ふるに鉱泉の温浴あり 一夜の族眠を貪ぼるに足れり〜。」

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<京浜電気鉄道>

 京浜電気鉄道(現:京急)は、穴守稲荷神社への参拝者を運ぶため、明治35(1902)年に蒲田〜穴守間を開業しました。大正2(1913)年には神社の前まで延伸され、門前は一大歓楽街として栄えました。

 (旧三町復元タイルのタイル写真、大鳥居掲示抜粋、旧三町の解説板抜粋 )

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○「天然温泉 泉天空の湯 羽田空港」が、2022年12月21日(水)に開業します。HP
 【源泉名】羽田空港 泉天空温泉
 【泉質】含よう素-ナトリウム塩化物強温泉(高張性・弱アルカリ性)
 【入浴料】4800円
 塩辛い高張泉ですね、穴守鉱泉も塩辛かったようです。
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