さらざんまいポスト さらざんまいマンホール

○さらざんまいポスト 台東区西浅草3-3-8

 かっぱ橋本通りの公西会商店街に、緑色の「さらざんまいポスト」があります。令和3(2021)年3月10日に設置。

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○さらざんまいマンホール蓋 台東区松が谷2-25-8

 「かっぱ橋本通り」と「かっぱ橋道具街通り」が交差する合羽橋交差点に、「さらざんまいマンホール蓋」があります。令和3(2021)年4月13日に設置。

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浅草寺 観音裏

浅草寺 観音裏(本堂裏築山)

○市川團十郎「暫」像 台東区浅草2-30-11

 9代目市川團十郎「暫」像があります。

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(銘文)
「銘
 大正八年 江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に 劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました この銅像は 近代彫刻の先駆者新海竹太郎氏の傑作であり 歌舞伎の象徴として全國の人々から親しまれておりました ところが第二次世界大戦中の昭和十九年十一月三十日金属回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 四十余年を経てまいりました
 この度 十二代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり 浅草寺の御理解のもと 多くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました 十一代目並びに十二代市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります
 こののちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本國民はもとより世界の人々からも 幾久しく愛されますことを願ってやみません
  昭和六十一年十一月三日    宇野信夫 撰書
    九代目市川團十郎「暫」銅像復元建設委員会
     十二代市川團十郎
     浅草観光連盟
     松竹株式会社」

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「市川團十郎肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 天保9年10月13日〜明治36年9月13日
 (1838年11月29日〜1903年9月13日)

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○大谷米太郎夫妻像

 宝蔵門の寄進建立をはじめ、浅草寺の復興に尽くした大谷夫妻壽像で、昭和42(1967)年10月造立。夫妻の胸像は、昭和37(1962)年に朝倉文夫により製作されています。

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○消防殉難者表彰碑

 「消防殉難者表彰碑」は、宮内省から200円の下賜金を受け、警視庁消防職員が大正元(1916)年に建立したものです。
 表彰碑の手前の2本の石柱は、昭和36(1961)年に建立された江戸消防記念会の碑です。毎年5月25日の「弥生祭」に、江戸消防記念会により慰霊が行われています。

 「社團法人 江戸消防記念會」
 「市部消防組」

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○諸石仏

「如意輪観音像」左 享保20(1735)年、僧常念が建立
「地蔵菩薩像」中央 延宝5(1677)年、木食阿闍梨安信和尚が建立
「地蔵菩薩像」右  堺町の山城屋萬之助が先祖供養のために建立

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「地蔵菩薩像」

 法華経供養塔です。

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「十万人講供養塔」

 右が「十万人講供養塔」で、十万人講は、享保6(1721)年の観音堂修繕に際し、別当公然僧正が組織した講中です。その時の施主名簿が収納されています。左は墓石のようです。

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「宮古路豊後椽の墓」

 塔身には 「還國院誉本自性居士」とあります。延享3(1746)年の建立。

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「釘供養塔」

 「針」はよく見ますが、こちらは「釘」ですね。裏に回れないので、詳細不詳です。

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「阿弥陀如来像」

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「宝篋印塔」

 寛延2(1749)年に建立の宝篋印塔です。十六羅漢像が陽刻されています。

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○一葉観音

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(説明板)
「一葉観音
 埼玉県の秩父三十四観音札所の第三十二番法性寺の観音像を模して造られた。蓮の一枚の花びらの上に乗り、楫を持ち、笠をかぶったお姿。
 新吉原の「ひで」という女の十二歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなったことを偲び、息子の菩提のため、また今後このようなことのないようにとの、「ひで」の願いによって造立された。
 寛政九年(一七九七)に造立。唐銅製。
  金龍山 浅草寺」

 浅草大百科にはもう少し詳細が記されていて、一部抜粋すると、
「新吉原江戸町の質両替業万字屋の佐野ひで女によって寄進された。ひで女の子である久次郎は当時14歳。ある日、品川沖に遊山へと出かけた際に、不幸にものり船と衝突、水難死してしまう。そこで子の霊を弔おうと思ったひで女は、浅草寺と本所回向院と菩提寺の三ヵ所に数年を費やして一葉観音菩薩像を建立したという、寄進に関する言い伝えがある。」とあります。

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○宝篋印塔

 荒澤不動堂の實圓を導師として造立された宝篋印塔とのことで、江戸名所図会の荒澤不動堂を見ると、右手に「宝篋印塔」が見えます(形態が少々異なりますが)。

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(説明板)
「宝篋印塔
 宝篋印塔」とは、『宝筐印陀羅尼』という経典を収めたことに由来する仏塔で、日本では主に石塔婆の一つの形式として盛んに造立された。
 この塔は江戸時代中頃安永四年(一七七五)に、境内にかつてあった荒澤不動堂の實圓を導師として造立され、銘文は江戸深川に住む書家三井親和によって揮毫された。
 塔の四方には、『宝篋印陀羅尼』の経文の一部が刻まれており、「お経を書写して奉安し、礼拝供養する者は、過去の罪障が消滅する」など、計り知れない功徳を得ることが説かれている。
 功徳を得ることを願う人々の祈りの声がきこえる。
  金龍山 浅草寺」

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○山東京伝机塚の碑 台東区文化財

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(説明板)
「山東京伝机塚の碑 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺内
 山東京伝(一七六一〜一八一六)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾誠演の画号で浮世絵もよくした人物。
 この碑は,京伝の弟京山が文化十四年(一八一七)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし五○年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、「耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机なれも老いたり」の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝の撰による京伝の経歴を刻む。
 京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成二年に台東区有形文化財として登載。
  平成六年三月  台東区教育委員会」

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○菅沼定敬の歌碑

 嘉永3(1850)年の建立です。
「敷島のみちにはせきもあらなくになとてこころのとほらざる覧」

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○竹本津賀太夫の碑

 文政10(1827)年の建立です。建台石に百数十名の門下の名が刻まれています。
「大江戸のつよきひいきの力にぞ かゝる千曳のいしぶみはたつ」

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○社会福祉法人 浅草寺病院

 医療法人ではなく社会福祉法人として病院を経営しているところに、歴史が窺えます。

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浅草寺奥山(新奥山)

○浅草寺 奥山(新奥山) 台東区浅草2-7-31

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(説明板)
「奥山(新奥山)
 江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
 奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。
 明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
 現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。
  金龍山 浅草寺」

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<奥山>

  西参道の終端に説明板があります。

(説明板)
「浅草公園史蹟めぐり 第四番札所
 奥山
 奥山の地名には諸説があり、定かではない。享保十八年(一七三三)浅草寺境内のこの地に千本桜が植え継がれた頃より盛場となって栄えはじめ、江戸時代から明治初期にかけ庶民の遊楽で賑わいを呈した。奥山には参詣人の憩の掛茶屋などと並び、既に貞享(一六八四)には宮地芝居が興行されていたという、宝歴(一七五一)では深井志道軒の講談が名高く、下って曲独楽の松井源水と居合抜の長井兵助が人気を集め、異国の珍島奇獣が渡来すれば、いち早く奥山の見世物になったと、安本亀八が生人形と書き技を競い、猿芝居、犬芸、軽業、手妻(奇術)をはじめ、時にはヨーロッパのサーカスの小屋がかかったこともある。矢場女(揚弓場)の嬌声、水茶屋や揚子見世の看板娘は春信、歌麿などの浮世絵になって評判となった。奥山の取締は江戸町火消の頭で有名な新門辰五郎であった。
 明治十七年、浅草公園埋立造成地の第六区に奥山第五区の諸出店、諸興行小屋が移転されることになって、東京一の大衆娯楽の集団地「六区興行街」が誕生するに及んだ。奥山の名は消えても盛場浅草の歴史、いな日本の民俗風物史の変遷を知る上に極めて貴重である。
  昭和五十二年十月  浅草公園町会建札」

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<三匠句碑>

 人丸堂から、明治27(1894)年に移しています。宗因、芭蕉、其角の句が刻まれています。
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(説明板)
「三匠句碑  台東区浅草二丁目三番 浅草寺
 ながむとて花にもいたし頸の骨 宗因
 花の雲鐘は上野か浅草か    芭蕉
 ゆく水や何にとどまるのりの味 其角
 江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。
 西山宗因 慶長十年(一六○五)肥後(熊本県)の生まれ。後、大阪に住み談林の俳風を開く。この句は「新古今集」にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく・・・」からとった句。天和二年(一六八二)没。
 松尾芭蕉 正保元年(一六四四)伊賀(三重県)の生まれ。数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄七年(一六九四)大坂で没。
 榎本其角 寛文元年(一六六一)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永四年(一七○七)の没。 
 碑は文化六年(一八○九)の建立。台石には明治二十七年(一八九四)春の移築の由来が記されている。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

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<正岡子規句碑>

 こちらで記載


<狂歌三十六歌仙碑(亀趺)>

 狂歌三十六歌仙碑は、1817(文化14)年の建立、碑を支えるのは、亀趺です。
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 狂歌三十六歌仙碑の左右に、2人の和算学者の顕彰碑があります。

<五瀬植松先生明数碑>

 五瀬氏、後に植松家を継いた和算学者の顕彰碑で、安政5(1858)年の建立。

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<会田先生算子塚銘>

 和算学者の會田安明の顕彰碑。文政2(1819)年に亀田鵬斎や門人によって立てられました。撰文は亀田鵬斎です。

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<戸田茂睡墓> 東京都旧跡

 墓はこちらですが、句碑が東陽寺(こちらで記載)と待乳山聖天(こちらで記載)にあります。

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(説明板)
「東京都指定旧跡 戸田茂睡墓
   所在地 台東区浅草二の三の一 浅草寺内
   標識 大正八年一○月
   指定 昭和三○年三月二十八日 
 戸田茂睡(一六二九ー一七○六)は元禄期の歌人です。渡辺監物忠の六男として駿府城内で生まれ、父の死後伯父戸田政次の養子になります。名は馮、後に恭光、通称は茂右衛門、茂睡のほか露寒軒などと号しました。一時岡崎藩本多家に仕えましたが出家し、浅草寺近くに居を構えました。「梨本集」「紫の一本」「若葉」などを著し、形骸化した伝統歌学の積極的批判者としての文学的意義が認められています。
 自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順に配されており、茂睡自身が生前に自らの後世を供養した逆修塔です。
  平成二四年三月 建設  東京都教育委員会」

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<瓜生岩子女子の銅像>

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(説明板)
「瓜生岩子女子の銅像  台東区浅草二丁目七番
 岩子は通称。正しくは“岩”という。文政十二年(一八二九)二月十五日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、九歳の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。十四歳の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。十七歳で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治二十二年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
 明治三十年四月十九日、福島で没す。享年六十九。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同三十四年四月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
  平成八年七月  台東区教育委員会」

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「故瓜生岩子之銅像」(人見幾三郎 諏訪堂 明治43年)

 造立されて間もない頃の銅像です。

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<高橋石斎碑>

 「故瓜生岩子之銅像」の2つ左隣。明治12(1879)年1月建碑。

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<一葉観音像碑>

 「故瓜生岩子之銅像」の左にある、一葉観音が線刻されている碑です。 文政9(1826)年の建碑。

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<力石>

 力石が複数あります。

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(説明板)
「力石
 力石、または「さし石」ともいう。江戸後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
 正面の「力石・熊遊の碑」は、明治七年(一八七四)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約三七五キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。
  金龍山 浅草寺」

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<庚申塔>

 力石の右にはおむすび形の庚申塔があります。

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<半七塚碑と青蛙神像>

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・青蛙神像

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(説明板)
「青蛙神像
 半七塚碑に対面するように、一匹の丸々としたカエルがいる。
 よく見ると変わった姿をしており、前足は二本、後足の代わりに尻尾の足が一本伸びている。これは中国の霊獣「青蛙神」であり、福をもたらす存在として特に道教で信仰された。『青蛙堂鬼談』シリーズがあるように、綺堂は青蛙神に大きな関心を寄せていた。
 この像は半七塚を静かに見守っているようである。
  金龍山 浅草寺」

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<櫻痴居士福地君紀功碑>

 入口にあるおおきな福地源一郎(福地桜痴)(『東京日日新聞』を主宰)の顕彰碑です。山縣有朋の揮毫です。大正2(1913)年に碑の彫工を終えましたが、故あって天女池に建てることができず、大正8(1919)年に浅草公園に建てられました(碑文より)。
 渋沢栄一が除幕式に出席しています。「大正8年11月28日(1919年) 是日、浅草公園ニ於テ、福地桜痴居士紀功碑ノ除幕式挙行セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。」

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<瀧沢世古先生之碑>

 江戸時代の書家、瀧沢世古の碑。弘化2(1845)年門人が建立。

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<浅草観光纉緒の碑>

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<喜劇人の碑>

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<石井漠「山を登る」記念碑>

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<映画弁士塚>

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<曽我廼家五九郎顕彰碑>

 左に久保田万太郎の句「浅草の茶の木ばたけの雪解かな」が刻まれています。

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「浅草金竜山奥山花屋敷」(広重)

 桜の名所でした。

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「浅草寺奥山群集の図」(一勇斎国芳)

 現在は浅草神社に移設されている「花塚」の碑が見えます。

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「浅草奥山桜花盛之図」(梅蝶楼国貞 安政4)

 「正観世音菩薩碑」が描かれています。現在は浅草寺参道脇に建っています。

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浅草寺西境内

○浅草寺 西境内

 浅草寺西境内には多くの堂宇や石碑があり、一部のみのアップです。

<西境内案内図 >

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「東都金龍山浅草寺図」(魚屋北渓)

 西境内部分の一部抜粋です。

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<銅像阿弥陀如来座像> 台東区有形文化財

(台東区HP説明)説明板よりHP説明が詳しいのでこちらを掲載します。
「本阿弥陀如来坐像は銅製、鋳造で、総高が294.5センチメートル。像高は186センチメートルあります。
 本像は銘文によると、元禄6年(1693)4月に理性院宗海が三界萬霊、六親眷属、七世父、親類兄弟、有縁無縁の逆修と追善のために千日供養仏の造立を発願し、神田鍛冶町の鋳物師いもじ今井いまい藤治郎とうじろう藤原ふじわらの吉次よしつぐが制作して、浅草寺の境内に安置したものです。のち、同15年6月に両脇侍像(観音、勢至)が完成し、阿弥陀三尊像として造立されました。この両脇侍像を制作した鋳物師は、『浅草寺志』に記された銘文により、小伝馬町3丁目の鋳物師、宇田川善兵衛重賢でした。両脇侍像は勢至菩薩像の台座を除いて、現存しません。
 本像の制作者である今井藤治郎藤原吉次は、蓮華座に刻まれた銘文から神田鍛冶町2丁目(現千代田区鍛冶町2丁目)の鋳物師でした。しかし、作例については本像以外に知られていません。
 願主の理性院宗海は、浅草三間町(現駒形1丁目、雷門1丁目から2丁目、寿4丁目付近)の僧侶で、本像の造立に際して近隣地で勧募活動を行い、結縁者を募りました。結縁した人々は職人や商人等の町人が多く、さまざまな職種が見られます。また念仏行者や、念仏講中も結縁していることを考えると、宗海の勧進活動には念仏講が協力し、地縁的な繋がりの中で結縁したと考えられます。
 本像は、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつです。さらに台座に刻まれた銘文は、江戸時代前期の信仰、宗教活動を知る上で貴重な資料です。」

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<銅像観音菩薩坐像(千日参供養仏)> 台東区文化財

(説明板)
「銅像観音菩薩坐像
  台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
 本像は銅製、鋳造、鍍金で、大きさは総高が一六九・五センチメートル、像高は九九・五センチメートルである。
 本像は享保五年(一七二○)に尾張国知多郡北方村(愛知県美浜町)出身で諸国を遊行した廻国聖、孝山義道が発願し、神田の鋳物師、小沼播磨守藤原長政が制作した。なお造立に際しては、近在の人々はもちろん、遠隔地からも多くの寄進を受け、その寄進者名が刻まれた。
 また本像の蓮華座は、元禄十五年(一七○二)造立の阿弥陀三尊像の脇侍(勢至菩薩)のものとして、小伝馬町三丁目の鋳物師、宇田川善兵衛が制作したものであるが、後に本像の蓮華座へ転用された(勢至菩薩像は失われている)。
 本観音菩薩坐像を制作した小沼播磨守藤原長政は、江戸時代前期に活躍した鋳物師であるが作例は少なく、本像は長政の作例として新たに確認されたものである。
 江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつであり、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品である。また、像や台座に刻まれた銘文は、江戸時代前期の信仰、宗教活動を知る上で貴重な資料である。
 平成二十五年三月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財台帳に登載された。
  平成二十八年三月  台東区教育委員会」

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<銅造宝篋印塔> 台東区有形文化財

(説明板)
「銅造宝篋印塔  台東区浅草二丁目三番一号
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。
 宝篋印塔は、高さ約八メートル。西村和泉守藤原政時が宝暦十一年(一七六一)に鋳造した。西村和泉守は、代々和泉守を名乗る江戸を代表する鋳物師で、多くの作例を残している。なかでも本塔は区内に現存する銅造宝篋印塔の中でも最大のもので、近世中期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。また本塔の造立に際しては、台座に刻まれた銘文から、様々な職種や地域からの寄進が確認でき、浅草寺に対する信仰の広がりが示される。
 安政二年(一八五五)の地震で本塔は被災したが、明治四十年(一九○七)に日露戦争凱旋記念として修復されたもので、区の歴史を知る上でも貴重である。
 平成二十三年に台東区有形文化財(工芸品)として台東区区民文化財台帳に登載された。
  平成二十四年三月  台東区教育委員会」

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<石橋>

 東照宮への参道にかかっていた「石橋」で、現存する都内最古の石橋です。東照宮は火災により江戸城紅葉山に移設されましたが、随身門(二天門)と石橋は旧地に残されました。

(説明板)

「石橋
 現存する都内最古とされるこの石橋は、元和四年(一六一八)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された際、参詣のための神橋として造られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。
 この石橋は昭和二十三年、文部省より重要美術品に認定されている。
  金龍山 浅草寺」

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「江戸名所図会 金龍山浅草寺」

 石橋部分の抜粋です。宝篋印塔も見えます。

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<西仏板碑> 東京都文化財

(説明板)
「東京都指定有形文化財(歴史資料)
 西仏板碑
  所在地 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
  指定 昭和十七年九月 旧跡
     昭和五十六年三月十二日 種別変更
 建立者の西仏(さいぶつ)については明らかではないが、この板碑は彼が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期かと思われる。
 上部が破損しているが、製作時には三メートル近くあったものと思われる。寛保二年(一七四二)暴風雨によって倒れ破損、文化十一年(一八一四)に有志が側柱を立てて支えたという。材質は秩父粘板岩(青石)。
 現存の板碑の大きさは高さ二一七・九センチメートル、幅四八・○センチメートル、厚さ四・七センチメートル。
 中世の信仰を知るうえで貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。
  平成八年三月二十五日 建設  東京都教育委員会」

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<六地蔵石燈籠> 東京都旧跡

 屋根付き建物と金網で保護されています。江戸名所図会でさえ文字剥落して鮮明ならずとあり、江戸時代以前の古い石造物です。

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(説明板)
「東京都指定旧跡 六地蔵石燈籠
  所在地 台東区浅草二の三の一 浅草寺内
  仮指定 大正一三年二月五日
  指定 昭和三○年三月二八日
 この石燈籠はかつて元花川戸町にあったものが、明治二三年(一八九○)に現在地に移転されたものです。高さ約二三五センチメートル余り、龕部六面に地蔵を彫りつけてあります。石燈籠と呼ばれていますが「火袋(灯明部)」はありません。詳細は不明ですが、伝承では久安二年(一一四六)、久安六年(一一七○)あるいは応安元(一三六八)建立ともいわれます。現在では風化や火災
の影響により、竿石に刻まれた文字などの判読は困難です。
 多くの文献に取り上げられている燈籠ですが、「江戸名所図会」などでもすでに印刻の判読が困難であったようです。そのため、都内でも古い時代の製作のものと考えられます。
  平成二四年三月  東京都教育委員会」

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「江戸名所図会 鎌田政清造立六地蔵石燈籠」

 辻に立つ「六地蔵石燈籠」が描かれています。明治23(1890)年に現在地に移設されており、旧地は花川戸一丁目辺りです。

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「浅草公園六地藏の石燈籠」(東京府史蹟 東京府 大正8年)

 「六地藏の石燈籠」の全体像の写真が掲載されていました。東京府の解説によると、棹石に兵衛の文字が見え蒲田兵衛政清(源義朝の重臣)の建立説を紹介しています。

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<六角堂> 東京都有形文化財

 「都重宝 浅草寺六角堂」の石標があります。六角堂は元和4(1618)年の建立で、浅草寺内で最古の遺構です。

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(説明板)
「東京都指定有形文化財(建造物)
 浅草寺六角堂 一棟
  所在地 台東区浅草二丁目三番一号 浅草寺
  指 定 昭和二十七年十一月三日
 六角堂は『浅草寺誌』(文化十年編)に元和四年(一六一八)の建立とあり、江戸時代初期の建立と考えられ、浅草寺内で最古の遺構である。
 木造で単層の六角造り瓦ぶき形式で、建物中央の直径は一・八二メートルあり、一面の柱真々は○・九一メートルである。
 建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に十一段の石積みをした一・五メートル余りの井戸状の穴が掘られている。
 六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
 もとは東方二一・八メートルの場所(現・影向堂の南基壇上に元位置の表示あり)に建っていたが、平成六年十月境内整備のためここに移された。
 東京都文化財保護条例(昭和五十一年三月三十一日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。
  平成八年三月二十五日  東京都教育委員会」

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<恵比寿天・大黒堂>

 石標「恵日寿 大黒天 弘法大師作」
 扁額は「恵日寿 弘法大師 大黒天」
 右に恵比寿天、左に大黒天。

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 「江戸名所図会 浅草寺 其四」に「えびす 大こく」「銭塚弁天」が見えます。

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(説明板)
「恵日寿・大黒天堂
 堂内向かって右側の恵日寿(恵比寿)左側の大黒天はともに七福神の神として広く信仰を集めている。江戸時代前期の延宝三年(一六七五)に浅草寺に奉納されたこれらの石像も、参詣の方々に穏やかな顔を見せてくれる(お堂は戦後の建立)。
 また天保十五年(一八四四)にお堂脇に建立された石碑などによると、これらの像は真言宗を開いた弘法大師空海(七七四?八三五)が造ったと伝えられている。当時天台宗であっ浅草寺においても、宗派を超えた弘法大師への信仰が見られる点は、非常に興味深い。
  金龍山 浅草寺」

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<銭塚弁財天>

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(説明板)
「銭塚弁財天
 弁財天さまは、七福神のお一人で仏教をお守りする善神である。芸能や学問の上達、財宝や福徳の神とされる。
 この銭塚弁財天さまは、福徳財運の弁財天さまとして、特に信仰が篤い。
  金龍山 浅草寺」

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<仏頂尊勝陀羅尼碑>

 元治元(1864)年の建立。

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(説明板)
「仏頂尊勝陀羅尼碑(ぶっちょそんしょうだらにひ)
「仏頂尊勝陀羅尼」とは、唱える人に息災延命などのご利益を授けるとされる、古くから信奉されてきた尊いお経である。碑の正面上部には「仏頂尊勝陀羅尼碑」と題字が、その下に梵字で陀羅尼が刻まれている。背面には漢字で陀羅尼の功徳について、末尾には造立年代である元治元年(一八六四)と制作者の名を見ることができる。
 この碑を奉納した海如(一八三七?七三)は、奈良の長谷寺などで修行した真言宗の僧侶である。碑の背面に「浅草大悲閣の下に建てた」という旨が記され、当時天台宗であった浅草寺に碑を建立した経緯は不明であるが、当寺が宗派を超えて信仰されていたことを物語る。
  金龍山 浅草寺」

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<三峰神社>

 扁額は「三峰神社」、説明板は「三峯社」。 秩父の三峯神社より勧請。

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(説明板)
「三峯社
 三峯神社とは、秩父の森厳な聖地に社殿を構える古社である。天台修験の関東総本山とされ、殊に江戸時代には「三峯講」が各地に設けられ、盛んに参詣された。
 文化十年(一八一三)に編纂された『浅草寺志』をひもとくと、境内各所に様々な神社が勧請され、三峯社も弁天山に建立されていたことがわかる(戦災により焼失も再建)。本社は三峯に寄せる経験な信心とともに、明治初年の神仏分離令以前の信仰の様子を現在に伝えているのである。
  金龍山 浅草寺」

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<九頭龍権現/金龍権現>

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<一言不動尊>

 堂前左手には「百度石」があります。

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(説明板)
「一言不動尊
 怒りのお姿をした不動明王さまは、そのお姿をして教化し難い者を導き、その力でわれわれの迷いの心を打ち切ってくださる仏さま。
 この一言不動尊は、何か願い事を一つに限って祈願すると、その願いがかなうとされ、古来より霊験が著しいといわれている。
 享保十年(一七二五)造立。
  金龍山 浅草寺」

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<橋本薬師堂>

 徳川家光が慶安(1649)年に再建、二天門や六角堂に次ぐ古建築です。

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(説明板)
「橋本薬師堂
  台東区浅草二丁目三番 浅草寺
 当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。慶安二年(一六四九)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀に架かる橋の傍らにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成六年、現在の場所に移転した。
 現在の建物は、桁行三間(約五・三五メートル)、梁間三間(焼く五・一○メートル)、屋根は入母屋造、瓦葺。外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

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<影向堂>

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(説明板)
「影向堂(ようごうどう)
 影向堂はもと本堂南東にあったものを、平成六年に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご生誕千二百年を記念して、現在地に再建されたもので、観音さまのお説法やご活躍に不断に讃嘆協力されている仏さま方「影向衆(ようごうしゅう)」をおまつりしているお堂である。
 堂内には、中央に聖観音菩薩さま、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊さま八体がおまつりされている。
 お堂の上、棟飾りには、火伏の咒いとされる金箔押しの鴟尾を置く。鴟尾を取り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成六年夏の建立時も記録的な日照りであったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。
  金龍山 浅草寺」

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<淡島堂>

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(説明板)
「淡島堂は、元禄年間(一六八八〜一七○三)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
 淡島明神は江戸時代より女性の守り神として、信仰を集めた。現在も毎年二月八日、ここで針供養が行なわれ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

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<針供養>

 淡島堂では毎年2月8日に「針供養会」が行われています。淡島堂の針供養の古くは漁師が釣り針を持ち寄りました。近年は、裁縫用の古針のほか、釣り針、畳針、注射針、レコード針と多様に針が持ち込まれたようですが、平成25(2013)年から裁縫用の古針のみに限定されているようです。
 入谷鬼子母神には「畳針供養塔」があります。
 どこの情景を詠んだのか不詳ですが、高浜虚子に針供養の句があります。
 「色さめし 針山並ぶ 供養かな」(高浜虚子)


<魂針供養之搭>

 昭和57(1982)年建立の大きな針供養塔があります。
 「魂針供養之塔」

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<胎内くぐりの灯籠>

 説明板によると、子供の虫封じにくぐらせる灯籠で、造立年代は不明ですが、江戸時代から有名だったとのことです。

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○銭塚地蔵堂

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<カンカン地蔵尊>

 地蔵堂の右手奥に「カンカン地蔵尊」があります。

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(説明板)
「カンカン地蔵尊
 このお地蔵さまは、お姿の原型をほとんど残していない。古来よりお参りの方が、附随の「小石」で御身をごく軽く「たたき」お願いごとをする。
 石で軽く打ち祈ると「カンカン」という音が鳴るので俗にこのように称されている。(刃物や他の石などで御身を「削る」ことは、固くお断りしている)
  金龍山 浅草寺」

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<石仏群>

 銭塚地蔵堂の隣に、柵に囲まれた石仏群があります。柵の外からズームで拝観。

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<大日如来庚申塔>

 大日如来を主尊とする庚申塔です。猿と鶏が向かい合っています。柵の外からでも見やすい場所にあります。

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<庚申塔>

 台東区HPには浅草寺の庚申塔は8基とあるので、柵の外から見えない場所にあと2基あるようです?

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浅草寺弁天堂

○浅草寺 弁天堂 台東区浅草2-3-1

 小高い丘(弁天山)に、弁天堂が建っています。南の石階を下りたところは、池が埋め立てられ弁天山児童公園(浅草寺が管理)となっています。

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(説明板)
「弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和五十八年に再建されたもの。
 ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川県江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
 境内の鐘楼の鐘は、元禄五年(一六九二)五代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句『花の雲 鐘は上野か浅草か』で有名。現在は、毎朝六時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。
 弁財天さまのご縁日は、「巳の日」で、堂内にてお参りができる。
  金龍山 浅草寺」

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「江戸名所図会 金龍山浅草寺」

 「銭瓶弁天」が描かれている部分の抜粋です。「時の鐘」も見えます。

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「江戸名所之内 浅草金竜山弁天山之図」(広重)

 左手に仁王門と観音堂、中央に五重塔、右手に弁天山が見えます。弁天山には銭瓶弁天、鐘楼が見えます。弁天池の畔の桜が映えます。

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「浅草金竜山弁天山雪中之図」(国芳)

 左手に仁王門と観音堂、中央に五重塔、右手に弁天山が見えます。弁天山には銭瓶弁天、鐘楼が見えます。藍一色の弁天池が冴えます。

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「東都金龍山浅草寺図」(魚屋北渓)

 「東都金龍山浅草寺図」から、弁天堂部分の抜粋です。「老女弁天」「時の鐘」とあります。

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<時の鐘>

 弁天堂に向かって右手に鐘楼と時の鐘があります。

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(説明板)
「時の鐘(浅草寺)  台東区浅草二丁目三番
 江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九個所でも時を知らせた。
 鐘の大きさは、高さ二・一二メートル、直径一・五二メートル。
 鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄五年(一六九二)八月、五代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金二百両を寄進した。
 この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松雄芭蕉の句、
  花の雲 鐘は上野か 浅草か
は、あまりにも著名である。
 昭和二十年三月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和二十五年五月再建されたものである。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

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<芭蕉句碑>

 石階左手に芭蕉句碑があります。芭蕉の座像が線刻されています。
 「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲  はせを」

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(説明板)
「松尾芭蕉の句碑
 くわんをんの いらか見やりつ 花の雲  はせを
 俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永二十一年(一六四四)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。
 芭蕉という俳号は、深川の小名木川ほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松雄芭蕉は、元禄七年(一六九四)十月十二日、大坂の旅舎で五十一年の生涯を閉じました。
 この句碑は寛永八年(一七九六)十月十二日、芭蕉の一○三回忌に建立され、元は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
 八十三歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした、佐脇嵩雪が描いた芭蕉の坐像が線刻してありますが、二百年の風雪を経て、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっております。
 奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、寄しくも『花の雲』という季語が詠みこまれております。
  平成二年四月吉日  浅草観光連盟」

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<扇塚>

 二代花柳徳太郎による初代花柳徳太郎顕彰碑で、昭和39(1964)年の建立です。

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<添田唖蝉坊碑/文士添田知道筆塚>

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 左は演歌師の「添田唖蝉坊碑」(昭和30(1955)年)です。「つきいだす鐘は上野か浅草か 往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋 誰を待つやら恨むやら 身をば欄干に投げ島田 チョイトネ」

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 右は唖蝉坊の長男の「文士添田知道筆塚」(昭和57(1982)年)です。

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<都々逸塚>

 「歌二六号 都々逸塚 亀屋忠兵衛」 昭和42年(1967)の建立です。

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<普閑の歌碑>

 「かかるとはおもひさだめし・・・」の歌を刻んでいます(浅草大百科より)。嘉永5(1852)年の建立です。

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<聖観音真言梵字の碑>

 新吉原の山口巴屋が天保8(1837)年に奉納した碑があります。「上部に聖観音の種字「サの字」。中部にオン・アロリ・キヤ・ソワカ・ボロン。下部に弥陀の種字キリーク」(浅草大百科より引用)

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(裏面)
 「書写観音 経一四句 偈以希願 ニ世悉地
  吉原 仲の町 山口巴屋 とえ建立
  天保八年七月」

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 「新吉原江戸町壱丁目和泉屋内」

  山口巴屋は吉原大門を入ってすぐ右手にあった引手茶屋です。背景に山口巴屋が見えます。

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<鳩塚>

 他の碑とは離れて、弁天山児童公園からの階段脇に「鳩塚」があります。かつて境内にあった「鳩豆屋」(願主:小柳津)が、鳩の慰霊のため昭和35(1960)年に建立しています。

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