成覚寺(投込寺)

○成覚寺(投込寺) 新宿区新宿2-15-18

 内藤新宿の遊女(飯盛女、子供ともいう)が亡くなると、成覚寺に葬られたことから、「投げ込み寺」とも呼ばれました。

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<六地蔵>

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<子供合埋碑> 新宿区文化財

 子供とは遊郭の抱主が遊女を呼ぶときの言葉で、投げ込まれた遊女を合葬し供養したもので、万延元(1860)年に楼主たちが建立しました。

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(説明板)
「新宿区指定有形文化財 歴史資料
 子供合埋碑
   所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
   指定年月日 昭和六十年八月二日 
 江戸時代内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(一八六○)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投込むようにして惣墓に葬られたという。
 もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。
 宿場町として栄えた新宿を蔭で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一画を物語る貴重な歴史資料である。
  平成五年十一月  東京都新宿区教育委員会」

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<白糸塚>

 見つけにくい白糸塚です。嘉永5(1852)年、二代目「坂東志うか」が、「鈴木主水と内藤新宿橋本屋の遊女白糸との情死」話に取材した芝居が大当たりし、その御礼として成覚寺に参詣した際に、白糸の供養として自作の句を刻銘した慰霊碑です。

 「白糸塚
   すえの世も結ぶえにしや糸柳
   嘉永子のとし 
   しら糸の供やう建し 二代目志うか」

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<無縁塔>

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<恋川春町の墓> 新宿区史跡

 正面に刻まれた3名の左に戒名「寂静院廓誉湛水居士」、俗名「倉橋寿正 源格」、没年「寛政己酉元年七月七日」が見えます。二基並んでいる墓石のうち右側です。

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<恋川春町の辞世句>

 左側面に辞世の句が刻まれています。

 「生涯苦楽四十六年
  即今脱却浩然帰天
  我も万た身はなきものとおもひしが
  今ハのきハハさ比しかり鳧」

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(説明板)
「新宿区指定史跡
 恋川春町の墓
   所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
   指定年月日 昭和六十年七月五日 
 恋川春町(一七四四〜一七八九)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
 江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
 多くの書に挿絵などを描いていたが、安永四年(一七七五)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。
 墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が
  生涯苦楽四十六年
   即今脱却浩然帰天
    我も万た身はなきものとおもひしが
     今ハのきハハさ比しかり鳧
と記されている。

 新宿区指定有形文化財歴史資料
 旭地蔵
   指定年月日 昭和六十年八月二日
 三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(一八○○)から文化十年(一八一四)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
 別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
 明治十二年(一八七九)七月道路拡張に伴いここに移設された。
 宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一画を物語る貴重な歴史資料である。
  平成五年十一月  東京都新宿区教育委員会」

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<旭地蔵> 新宿区文化財

 もとは旭町(現:新宿四丁目)の玉川上水の北岸にあったため旭地蔵と呼ばれます。寛政12(1800)年の造立です。蓮華座下の台石に18名の戒名が刻まれており、玉川上水への入水自殺者を供養する目的で建立されたものです。そのうち7組は男女一組になっており遊女と客の名であるといいます。
 明治12(1879)年7月に成覚寺に移され、旭地蔵の脇にはその際に建立された旭地蔵移転記念碑が建っています。

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<旭地蔵移転記念碑>

 旭地蔵の脇に建ち、四面にわたり娼妓中・茶屋中・芸妓中など多数の寄進者が刻まれています。

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<塚本明毅の墓碑> 新宿区史跡

 塚本明毅は、明治前期の改暦・地誌編纂等の事業を推進しました。墓所は昭和30年代に整理され、現在は塚本明毅の墓碑と塚本明毅妻の墓石のみが残っています。墓碑の篆額は、榎本武揚によるものです。

 「寧海塚本先生 寧海塚本先生墓碑銘」

 「塚本家之墓」
 「明治四十三年三月二十九日没 塚本明毅妻俗名満喜子
  明治四十四年三月十九日 明籌謹建」

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(説明板)
「新宿区登録史跡
 塚本明毅の墓碑
   所在地 新宿区新宿二丁目十五番十八号
   指定年月日 平成十二年三月二日 
 幕末から明治前期にかけて、国民生活の近代化に貢献した塚本明毅(一八三三〜八五)の墓碑。墓所は昭和三十年代に整理され、現在は墓碑のみが残る。
 明毅は、江戸下谷に生まれた。幕臣として幕府海軍で重きをなし、沼津兵学校教頭をつとめた。維新後は明治政府に出仕し、兵学大教授などをつとめ、その後は官吏として地誌の編纂するい『皇国地誌』など地誌の編纂にあたり『日本地誌提要』などをまとめた。また、太陽暦への改暦を建白し。明治五年の改暦(五年十二月三日をもって明治六年一月一日とした)にあたっては、詔書の準備など手続きを遂行した。
 碑は高さ一九八センチメートル、幅九五センチメートル。明毅没後十年を経た明治二十八年(一八九五)十月に建立されたもので、篆額を旧幕臣で農商務相の榎本武揚、撰文を儒学者・漢学者の川田剛、書を同じく田辺太一が担当するなど、明治を代表する顕官・学者が携わり、文化史的価値が高い。
  平成三十年三月  新宿区教育委員会」

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<子育地蔵像>

 膝の上に子どもをのせた地蔵菩薩坐像で、元治元(1864)年の建立です。台座側面に建立の経緯が刻まれており、この地蔵は同年流行った疱瘡(天然痘)で死亡した子どもたちを供養するため造られたといいます。(破損激しく、「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)

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<本堂>

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正受院(奪衣婆) 松平容保の墓所跡

○正受院 新宿区新宿2-15-20

 幕末に流行した奪衣婆尊が祀られています。

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<奪衣婆尊> 新宿区文化財

 頭巾状に綿を被っているため通称「綿のおばば」として、嘉永2(1849)年に参詣人が群集し、大いにはやりました。あまりにはやりすぎたため寺社奉行の取締りが行われ、それ以後は正月と7月の16日しか参詣が許されなくなりました。

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(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
 正受院の奪衣婆像
   所在地 新宿区新宿二丁目一五番二○号
   指定年月日 昭和五十九年十一月二日
 木造で像高七○センチ。頭から肩にかけて頭巾状の綿を被っているため、「棉のおばば」とも呼ばれる。咳止めや子どもの虫封じに霊験があるといわれ、綿は咳止めの御礼参りに奉納したと伝えられる。
 同時代の事件や、噂話を記した『藤岡屋日記』によれば、正受院へ押し入った泥棒が、奪衣婆の霊力により捕えられた話や、 錦に引火した灯明の火を、奪衣婆自らもみ消したなどの逸話が評判を呼び、嘉永二年(一八四九)春にかけて江戸中から参詣人が集まったという。
 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。構造や作風から江戸時代初期の作と考えられ、像低のはめ込み版から、元禄年間(一六八八〜一七〇四)には正受院に安置されていたことが分かる。
  平成三十一年三月二十九日  新宿区教育委員会」

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「奪衣婆と翁稲荷の首引」(一勇斎国芳 嘉永2(1849)年)

 内藤新宿の正受院の奪衣婆と日本橋の翁稲荷大明神が首引きをしている場面が描かれています。翁稲荷には狐、奪衣婆には三途の川の渡し馬が、それぞれ応援しています。(※翁稲荷は現在は幸徳稲荷神社に合祀されています。こちらで記載

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<百度箱>

 嘉永2年(1849)造立の百度箱です。百度石以外で初めて見ました。
 後ろにあった針塚と小見外次郎翁胸像は令和元(2019)年に撤去、正受院での針供養は平成30(2018)年で終了したようです。

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<梵鐘> 新宿区文化財

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(説明板)
「新宿区登録有形文化財 工芸品
 梵鐘
   所在地 新宿新宿二丁目十五番二○号 正受院
   登録年月日 平成十四年二月一日
 宝永八年(一七一一)、江戸神田の鋳物師河合兵部藤原周徳により鋳造された銅造の梵鐘。
 総高一三五センチメートル、口径七二・八センチメートル。竜頭は中央に宝珠を持つ両頭式、乳(突起)は四区に合計一○八個を配し、撞座は二個設けられている。
 池の間には四区全体に銘文が刻まれている。それによるとこの鐘は、正受院第五世住職の覚誉上人が発願したものを、万人講の助力をえて第八世住職の仰誉が完成させたものであることがわかる。
 なおこの鐘は、太平洋戦争に際し、昭和十七年に金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊にあるのが発見され、昭和三七年十二月に正受院に返還されたという数奇な来歴をもっており、「平和の鐘」と呼ばれる。
 江戸時代の梵鐘は、このような金属供出により現存数が少なく、価値が高い。
  平成十五年三月  新宿区教育委員会」

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<無縁地蔵尊>

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<林學士堀本君之墓>

 碑文には「林學士堀本常太郎君墓碑」とあります。明治31(1898)年9月の建立です。

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<萬霊塔>

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<本堂>

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<松平容保の墓所跡/松平容保終焉の地>

 旧会津藩主松平容保は、明治維新後は、明治13(1880)年に日光東照宮宮司となっています(東照宮に参拝に来た徳川慶喜と会っています)。晩年を小石川区小日向第六天町8番地(現:文京区小日向1-2-3辺)の松平邸で過ごし、明治26(1893)年12月5日に亡くなり、葬儀は神式で行われ、3,200余名の会葬者を数え、先に葬られていた照姫と同じく正受院に葬られました。
 病床にあった容保に英照皇太后(亡き孝明天皇の皇后)より牛乳が遣わされ、医師がコーヒーを加え「服用」したというエピソードがあります(コーヒー牛乳って薬だったの?)。
 容保死後、第六天町の松平邸には、会津会事務局が置かれました。会津からの修学旅行生が訪れることもたびたびありました。会津関係者の拠点となったようです。(以上「文京ふるさと歴史館だより」(平成19年5月1日)を参照し補いました。)
 戊辰50周年の大正6(1917)年6月9日に、正受院の会津松平家関係埋葬者は会津院内御廟に改葬されています。容保の改葬に伴い先に葬られていた照姫も改葬されています。正受院鐘楼の後ろが松平家の墓所跡です。

 松平邸から直線距離にして100mほど東の同じく第六天町に、徳川慶喜は明治34(1901)年12月から晩年を過ごしています。二人が過ごした時期は重なりませんが、同じ第六天町でそれぞれ晩年を過ごしました。
 (※「徳川慶喜終焉の地」については、こちらで記載


「第六天町(昭和41(1966)年までの町名)に見る「松平容保終焉の地」と「徳川慶喜終焉の地」

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「松平容保肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
 天保6年12月29日〜明治26年12月5日
  (1836年2月15日〜1893年12月5日)

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江戸六地蔵

江戸六地蔵

 江戸六地蔵は、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置されました。「東都歳事記」には以下の巡拝順番が示されています。品川寺から時計回りの巡拝です。

○ 一番 品川品川寺
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○ 二番 四谷太宗寺
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○ 三番 巣鴨真性寺
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○ 四番 山谷東禅寺
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○ 五番 深川霊巌寺
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○ 六番 深川永代寺
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 (代仏 浄名院
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「東都歳事記 江戸六地蔵尊」(宝永年間)

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「東都歳事記 最初建立江戸六地蔵尊)(元禄年間)

 東都歳事記には、宝永の「江戸六地蔵」とともに、元禄の「最初建立江戸六地蔵尊」が紹介されています。元禄4(1691)年、空無上人の勧化により江戸東武六か所に六地蔵として開眼されました。元禄の「最初建立江戸六地蔵尊」は、宝永の「江戸六地蔵」と区別するため、現在は「東都六地蔵」と称されています。

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 (参考)三番 日暮里浄光寺(こちらで記載
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太宗寺(江戸六地蔵)

○太宗寺 新宿区新宿2-9-2

<江戸六地蔵> 東京都文化財

 太宗寺の江戸六地蔵は、三番目として正徳2(1712)年に建立されました。
 昭和27(1952)年からの区画整理で、新宿通りに面していた太宗寺の入口は一本北側の不動通りとなり、江戸六地蔵は、昭和32(1957))年に現在の位置に遷座しています。

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<東京都標柱>

(表)「都重宝 銅造地蔵菩薩坐像」

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(裏)「昭和四十五年八月三日指定
    昭和四十七年三月三十日建設
    東京都教育委員会」

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(説明板)
「東京都指定有形文化財(彫刻) 銅像地蔵菩薩坐像
   所在地 新宿区新宿二‐九‐二
   指定 大正一○年三月
 江戸六地蔵の由来は、本像内部に奉納されていた判本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永三年(一七○六)建立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋町鋳物師太田駿河守正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第六番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、五躯が残っています。
 六地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、三番目として正徳二年(一七一二)に建立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで二六七cmです。本体には、かつて鍍金が施されていました。
 江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました。
  平成二三年三月 建設 東京都教育委員会」

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<夏目漱石と江戸六地蔵> (再掲)

 夏目漱石は、新宿の名主であった塩原昌之助に養子に出されました(漱石の居住地 内藤新宿北町裏16 明治元年11月〜2年3月、内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃〜6年3月)。自伝的小説「道草」に、その時の思い出として、江戸六地蔵のことが書かれています。幼少期の夏目漱石は、この地蔵によじ登って錫杖の柄へ捉まったりして遊んでいます。
 映画「セーラー服と機関銃」(1981年)で薬師丸ひろ子もこの地蔵に登っています。

「道草 三十八(抜粋)」
 彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」


○境内

<圓光大師霊場石標>

 圓光大師(浄土宗開祖の法然上人)二十五ヶ所霊場の第十二番の札所碑です。

 (正面)「圓光大師霊場」
 (左面)「第十二番」
 (右面)「太宗寺」

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<百度石>

 明治38(1905)年7月銘の百度石です。

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○閻魔堂

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<閻魔像> 新宿区文化財

 ボタンを押すと、暗闇から閻魔像が一分間浮かび上がります。関東大震災で破損し、製作当初の部分は首から上だけで、文化11(1814)年に安置されたとされています。体は昭和8(1933)年に現在の閻魔堂が再建された際に製作されたようです。

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(説明板)
「太宗寺の文化財②
 新宿区指定有形民族文化財
 閻魔像  指定年月日 昭和六十一年三月七日
 木造彩色、総高五五○cmにも及ぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子どものしつけのため参拝されたりしました。
 文化十一年(一八一四)に安置されたとされ、製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。
 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては薮入り(一月と七月の十六日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。
 また、弘化四年(一八四七)三月五日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。
 なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永三年(一八五○)に奉納したものです。
 現在は、お盆の七月十五日・十六日に御開扉されています。」

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「四ツ谷新宿太宗寺(えんま大王八仏師)」(歌川国輝 弘化4(1847)年3月)ボストン美術館)

 弘化4(1847)年3月5日に、泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。

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<奪衣婆像> 新宿区文化財

 一分間浮かび上がる「奪衣婆」。明治3(1870)年製作の「奪衣婆」で、正受院の「奪衣婆」人気にあやかって置かれたのかと思います?

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(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
 奪衣婆像(だつえばぞう)  指定年月日 昭和六十一年三月七日
 閻魔堂内左手に安置されている坐像です。
 木造彩色で総高は二四○cm、明治三年(一八七○)の製作と伝えられます。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。
 また、衣を剥ぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。」

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<句歌碑>

 表裏に三句歌が刻まれています。 (「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)

 (表面)
  「雪見れば 降休ても 居さりけり」乙芽
  「明日や流がるる水も銀河 わなはばき一木にのこり朝朗」十世湖十

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 (裏面)
  「飛く句千代 能なるもちよの松かな」八拾翁清遊

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<竹本呂角斎辞世歌碑>

 明治3(1870)年、竹本呂角斎の辞世の句「ふみなしも 跡なく消えて行先は 法里の光をあかしにして」が刻まれています。 「温故知しん!じゅく散歩」を参照しました。)

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<力石>

 見つけにくいところに力石があります。

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○稲荷社/地蔵堂

 不動堂の左手に「稲荷社」と「地蔵堂」があります。

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<稲荷社>

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<塩かけ地蔵尊>

 地蔵堂には「塩かけ地蔵尊」が鎮座しています。頭以外は塩で埋まり雪だるま状態です。地蔵堂は平成23年改修とあります。

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○不動堂

 戦災で本堂や庫裡は焼失しましたが、不動堂と閻魔堂は焼失を免れました。不動堂には「三日月不動像」(新宿区文化財)と「新宿山の手七福神・布袋尊像」が祀られています。

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(説明板)
「太宗寺の文化財⑤
 新宿区指定有形文化財 彫刻
 三日月不動像  指定年月日 昭和五十九年十一月二日
 額の上に銀製の三日月を持つため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。
 銅造で、像高は一九四cm、火炎光背の総高は二四三cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。
 寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、磐石の如く動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。
 なお、額上の三日月は、「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取付けられ、空を望むことができます。

 新宿山の手七福神・布袋尊像
 新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺(布袋尊)・鬼王神社(恵比寿神)・永福寺(福禄寿)・厳島神社(弁財天)・法善寺(寿老人)・経王寺(大黒天)・善国寺(毘沙門天)の七ヶ所となっています。
 布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護神です。」

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<破損石燈籠>

 不動堂の左手に、下半分だけの破損石燈籠があります。

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<大震災紀念碑> 新宿区文化財

 不動堂の右手に二碑が並んでいます。
 こちらは、新聞社を発起人に、四谷区内の町会・区議会・商業組合など103の賛助者・賛助団体によって昭和4(1929)年に建立されました。揮毫は増上寺第79世法主の道重信教です。

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<木下吉五郎君碑>

 昭和2(1927)年5月銘。憲政会の東京支部役員を務められたお方のようです。

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○切支丹灯籠 新宿区文化財

 寺務所前に、内藤家墓所から出土した「切支丹灯籠」があります。

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(説明板)
「太宗寺の文化財③
 新宿区登録有形文化財 歴史資料
 切支丹灯籠  登録年月日 昭和六十年三月一日
 昭和二十七年(一九五二)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。
 石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンが密かにに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸時代初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれています。」

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○本堂

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○内藤正勝の墓(内藤家墓所) 新宿区史跡

 標柱「太宗寺の文化財 順路④
    内藤正勝の墓(内藤家墓所)」 

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 左から内藤家累代の墓塔、五代内藤正勝の墓塔、十三代内藤頼直の墓塔、墓誌と並んでいます。

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(説明板)
「太宗寺の文化財④
 新宿区指定史跡
 内藤正勝の墓(内藤家墓所)  指定年月日 平成七年二月三日
 江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄四年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
 現在の墓所は、昭和二十七年(一九五二)東京都の区画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約三百坪・五十七基の墓塔を現存の三基に改葬し、改装記念碑を建立しました。
 墓塔は三基とも法篋院塔で、中央が五代内藤正勝(寛永六年造立)、右側が十三代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっておりこのうち正勝の墓は区指定史跡に指定されています。
 太宗寺は、寛永六年(一六二八)にこの正勝が葬られ、六代重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳四年(一七一四)七代清枚が葬られて以後ここを歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬られました。」

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<三界萬霊供養塔>

 一般的に三界萬霊塔の中央には地蔵が座していますが、ここは中央が宝篋印塔で珍しいです。

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内藤新宿と文人

○斉藤茂吉終焉の地 新宿区大京町22-2

 四谷四丁目交差点近くに、新宿区史跡の斎藤茂吉終焉の地があります。大京町PJビルの壁と柱に、プレート碑文と新宿教育委員会の説明板があります。

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<斉藤茂吉終焉の地> 新宿区史跡

(プレート碑文)
 「新宿の大京町と
  いふとほり
  わが足よわり
  住みつかんとす。
       茂吉

 父斎藤茂吉は、空襲で南青山の自宅を喪ったあと
 昭和二十五年十一月十四日この場所の新居に住み、
 昭和二十八年二月二十五日に没した。
 右の歌は最後の歌集「つきかげ」に収められている。
 平成元年十一月  齋藤茂太」

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(説明板)
「新宿区指定史跡
 斎藤茂吉終焉の地
   所在地 新宿区大京町二十二番二号
   指定年月日 平成二十五年三月二十七日
 この地は、歌人・精神科医の斎藤茂吉(一八八二〜一九五三)が昭和二十五年から亡くなるまでの約二年間を過ごした場所である。
 茂吉は、現在の山形県上山市の農家の三男として生まれ、十四歳で上京後、医師斎藤紀一が開く浅草医院に間借りし、第一高等学校に学んだ。
 明治三十八年(一九○五)斎藤家の女婿となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正十三年(一九二四)に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽くした。
 歌人としては、大学入学前後より作歌をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ」の創刊に参加、その後「赤光」・「あらたま」・「つゆじも」など多数の歌集を発表した。
 この地は、長男の茂太(精神科医・随筆家)が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉(小説家北杜夫)ら、文学に縁の深い一家がともに過ごした場所であった。茂吉は既に最晩年であり、体調が優れなかったが、歌集『石泉』・『霜』を刊行し、文化勲章も受賞した。当時の家屋は昭和六十三年(一九八八)に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている。
  平成二十五年三月  新宿区教育委員会」

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「斎藤茂吉肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館より縮小加工)
 明治15(1882)年5月14日〜昭和28(1953)年2月25日

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(参考)斎藤茂吉と塩原温泉(PCサイトで記載


○田山花袋居住の地 新宿区内藤町1

 田山花袋は明治26(1893)年9月(花袋23歳)に、牛込から四谷区内藤町1番地(大木戸)に転居し、明治29(1896)年1月まで居住しました。

「東京の三十年 川そひの路」(田山花袋 大正6年 抜粋)

 田山花袋が内藤新宿(大木戸)に住んでいた時の周辺の様子が記述されています。

「丁度其頃、私は毎日新宿の先の角筈新町の裏を流れる玉川上水の細い河岸に添つて歩いて行った。私は小遣取りに、一日二十銭の日給で、さる歴史家の二階に行つて、毎日午後三時まで写字をした。
 私の家はその時分、四谷の大木戸に移つて住んでゐた。私は毎朝そこから出かけて、新宿の通りの大宗寺の筋向うから入つて、それから長い間細い綺麗な玉川上水に添つて歩いた。
 検査日には、女郎のいやに蒼白い顔をした群などのぞろぞろやつて來るのに逢った。」

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○夏目漱石と江戸六地蔵

 夏目漱石は、新宿の名主であった塩原昌之助に養子に出されました(漱石の居住地 内藤新宿北町裏16 明治元年11月〜2年3月、内藤新宿仲町 明治4年6・7月頃〜6年3月)。
 自伝的小説「道草」に、その時の思い出として、太宗寺の江戸六地蔵のことが書かれています。幼少期の夏目漱石は、この地蔵によじ登って、錫杖の柄へつかまったりして遊んでいます。
 映画「セーラー服と機関銃」(1981年)で薬師丸ひろ子もこの地蔵に登っています。

「道草 三十八(抜粋)
 彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。そ
の仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。
 健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたりて、後から肩に手が届くか、
または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」

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○芥川龍之介

 芥川龍之介は生後間もなく母が病に冒され、母の実家である芥川家に引き取られて養育されました。実父の新原敏三は、牛乳搾取販売業「耕牧舎」の支配人で、各所に支店を設け、内藤新宿(現:新宿2丁目)に牧場を営んでいました。芥川家は、明治43(1910)年から大正3(1914)年まで、牧場の一角にある実父の借家に住んでいたことがあり、芥川龍之介は、第一高等学校時代、寮から毎週土曜日に帰宅して過ごしていました。 「点鬼簿」(大正15年)にその時のことが記述されています。

「点鬼簿」(大正15年 抜粋)
「僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新しかった果物や飲料を教えたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナァップル、ラム酒、―まだその外にも
あったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黄色を帯びた飲料だった。」

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○若山牧水

 若山牧水は、明治45(1912)年5月から、内藤新宿(現:新宿2丁目)の森本酒店の2階の借家で、喜志子との新婚生活を送っています。

 ※(参考)「若山牧水と草履」(こちらで記載

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