普門院(伊藤左千夫の歌碑と墓)
○普門院 江東区亀戸3-43-3
「江戸名所図会 普門院」
江戸名所図会に普門院は描かれています。挿絵にある「御腰掛松」は現在はありません。

「絵本江戸土産 普門院境内御腰掛の松」(広重)
御腰掛の松は柵囲いされています。

「江戸切絵図」
亀戸天満宮と比べると大きな寺院です。

<老松の略頌>
三代将軍家光が慶安2年8月24日に訪れ、腰かけた「御腰掛松」の由緒を記した石碑「老松の略頌」があります。明治45年銘です。明治43年の大洪水で枯れ、2世の松を植えたようですが見当たりません。
他、九代将軍家重が、宝暦3年10月29日に訪れています(東京近郊名所図会(明治43年)に記載)。






<江東みちしるべ「普門院」>
(説明板)
「江東みちしるべ
普門院 (開運毘沙門天)
由来
普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現・足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌『絵本江戸土産』には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。」

<山門>
寺号標は「福聚山 普門院」。




<札所碑> 江東区文化財
四国八十八カ所の第四十番、江戸三十三番順礼所の第三十番です。
「四國八十八箇所〜
江戸三十三番順禮所〜」


「南無遍照金剛」「宝暦九年十月吉日 亀戸普門院」

「施主 日本橋 藤木店喜八」

<大島伯鶴の歌碑>
山門脇に、標柱「大島伯鶴之墓」と「大島伯鶴の歌碑」があります。歌碑は平成9年5月建立と新しい碑です。
「辞世の句 伯鶴は永々嘘をつきました いずれあの世で 舌は無いもの」
なお標柱掲示の墓は墓地にあります。




<標柱「伊藤左千夫墓」>
普門院の入り口入ってすぐ左に江東区標柱「伊藤左千夫墓」があります。
(標柱文)
「伊藤左千夫墓
左千夫は元治元年千葉県に生れ今の墨田区錦糸町駅附近で牛乳搾取業を営むかたわら歌道茶道をたしなみ正岡子規の門人となりアララギ派の歌人として知られ小説歌論にも著作を残したが晩年は大島町六丁目に住し大正二年七月三十日五十歳にて死去し普門院に葬られた
昭和三十三年十月一日 江東区第十六号」




<石造宝篋印塔> 江東区文化財
石造宝篋印塔(天明8(1788)年銘)でしょうか、山門右手の雑木の中に建っています。江戸名所図会に描かれている場所から移設されているようです。



<持経観音菩薩像>
参道左手に持経観音があります。昭和53(1978)年11月の造立です。






<毘沙門堂>
亀戸七福神の毘沙門天を祀っています。


【参道右手】
<徳本講碑> 江東区文化財
明治9年銘。

<句碑>
「東京近郊名所図会」(明治43年)に解説がありました。
「散ときのそのやかりは櫻かな
来た道へたつね當りし花野かな」
「他に二句を記す。蓋し四季の詠なり。其の名を逸す。」




<生徳崇慕碑>



<その他>




【墓地手前右手石碑群】


<水盤> 江東区文化財
元文4(1739)年銘の水盤です。

<五輪塔>
寛文3(1663)年銘の五輪塔です。寛永2(1625)年銘の江東区文化財の五輪塔が別にあるようですがわかりませんでした。


<地蔵供養塔寛文3年在銘> 江東区文化財
寛文3(1663)年銘の地蔵供養塔です。

<地蔵逆修供養塔> 江東区文化財
寛文3(1663)年銘の地蔵逆修供養塔です。

<庚申塔>
庚申塔は、寛文8(1668)年銘です。下部正面、左右面に三猿が一体ずつ刻されています。三面に三猿が分かれて刻されているのは初めて見ました。




<不詳の石碑>
漢文で刻まれていますが、破損激しくよくわかりません。


<戦災殉難者供養之碑>
区画整理で、亀戸駅前からの移設です。

脇に日露戦争の個人のお墓が複数あります。

<無縁墓>
無縁墓が墓地ではなく、戦災殉難者供養之碑の脇にあります。

【本堂前】
<松本魯山歌碑> 江東区文化財
寺務所入口左手に「松本魯山歌碑」と、歌碑背面の説明碑(昭和55年)があります。歌碑背面には、漢文で魯山の事跡と建立年月日が刻まれています。説明碑によると、元文4(1739)年の建碑とのこと。
歌碑は素養なく読めませんが、「東京近郊名所図会」(明治43年)の解説によると以下刻まれているとのこと。
「陽月六日岡氏宅にて即題 落葉
液雨(しぐれ)そと聞きしもあやなまきの戸を
たたく落葉の音寒き夜は 元房」
<江東区HP解説>
「松本魯山歌碑
松本魯山は、延宝8年(1680)に亀戸で生まれ、歌人・書家などとして活躍しました。門人は数千人に及んだといいます。本名は元房、通称は半右衛門で、魯山と号しました。江戸小田原町(現在の中央区)で暮らしていましたが、元文元年(1736)に大坂へ移って医術を生業としました。大坂では大岡幸得と称し、後に卜仙と号しました。元文3年10月16日、59歳で京都にて亡くなりました。
本碑は死後に江戸の門人たちが魯山の出身地を探し出して建立したものです。歌碑の背面には、漢文で魯山の事績と建立年月日(「元文己未正月甲戌日」=元文4年1月27日)が刻まれています。」




<伊藤左千夫歌碑>
普門院の住職が、成東町(現:山武市)から伊藤左千夫の縁者から得た拓本により、昭和59(1984)年、左千夫の命日の7月30日に建碑されています。左千夫の真筆です。
「牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る 左千夫」



牛霊塔が脇にあります。

<寺務所>

<本堂>
本堂の扁額は「福聚山」。



<墓地入口>


<伊藤左千夫の墓> 江東区史跡
墓地に入って右に折れると、案内柱があります。


墓石「伊藤左千夫之墓」は、中村不折の筆です。裏には没年が大きく刻まれています。



「江戸名所図会 普門院」
江戸名所図会に普門院は描かれています。挿絵にある「御腰掛松」は現在はありません。

「絵本江戸土産 普門院境内御腰掛の松」(広重)
御腰掛の松は柵囲いされています。

「江戸切絵図」
亀戸天満宮と比べると大きな寺院です。

<老松の略頌>
三代将軍家光が慶安2年8月24日に訪れ、腰かけた「御腰掛松」の由緒を記した石碑「老松の略頌」があります。明治45年銘です。明治43年の大洪水で枯れ、2世の松を植えたようですが見当たりません。
他、九代将軍家重が、宝暦3年10月29日に訪れています(東京近郊名所図会(明治43年)に記載)。






<江東みちしるべ「普門院」>
(説明板)
「江東みちしるべ
普門院 (開運毘沙門天)
由来
普門院は真言宗の名刹で、福聚山善應寺と号します。大永2年(1522)三股(隅田川・荒川・綾瀬川が落ち合うあたり、現・足立区千住)城中に創建され、元和2年(1616)に現在地に移りました。その時、過って梵鐘を隅田川に沈め、鐘ヶ淵(墨田区)の地名の由来になったといわれています。
江戸時代の地誌『絵本江戸土産』には、将軍が鷹狩の際に立ち寄り腰を掛けた御腰掛の松が描かれています。
亀戸七福神のひとつ(毘沙門天)として親しまれています。」

<山門>
寺号標は「福聚山 普門院」。




<札所碑> 江東区文化財
四国八十八カ所の第四十番、江戸三十三番順礼所の第三十番です。
「四國八十八箇所〜
江戸三十三番順禮所〜」


「南無遍照金剛」「宝暦九年十月吉日 亀戸普門院」

「施主 日本橋 藤木店喜八」

<大島伯鶴の歌碑>
山門脇に、標柱「大島伯鶴之墓」と「大島伯鶴の歌碑」があります。歌碑は平成9年5月建立と新しい碑です。
「辞世の句 伯鶴は永々嘘をつきました いずれあの世で 舌は無いもの」
なお標柱掲示の墓は墓地にあります。




<標柱「伊藤左千夫墓」>
普門院の入り口入ってすぐ左に江東区標柱「伊藤左千夫墓」があります。
(標柱文)
「伊藤左千夫墓
左千夫は元治元年千葉県に生れ今の墨田区錦糸町駅附近で牛乳搾取業を営むかたわら歌道茶道をたしなみ正岡子規の門人となりアララギ派の歌人として知られ小説歌論にも著作を残したが晩年は大島町六丁目に住し大正二年七月三十日五十歳にて死去し普門院に葬られた
昭和三十三年十月一日 江東区第十六号」




<石造宝篋印塔> 江東区文化財
石造宝篋印塔(天明8(1788)年銘)でしょうか、山門右手の雑木の中に建っています。江戸名所図会に描かれている場所から移設されているようです。



<持経観音菩薩像>
参道左手に持経観音があります。昭和53(1978)年11月の造立です。






<毘沙門堂>
亀戸七福神の毘沙門天を祀っています。


【参道右手】
<徳本講碑> 江東区文化財
明治9年銘。

<句碑>
「東京近郊名所図会」(明治43年)に解説がありました。
「散ときのそのやかりは櫻かな
来た道へたつね當りし花野かな」
「他に二句を記す。蓋し四季の詠なり。其の名を逸す。」




<生徳崇慕碑>



<その他>




【墓地手前右手石碑群】


<水盤> 江東区文化財
元文4(1739)年銘の水盤です。

<五輪塔>
寛文3(1663)年銘の五輪塔です。寛永2(1625)年銘の江東区文化財の五輪塔が別にあるようですがわかりませんでした。


<地蔵供養塔寛文3年在銘> 江東区文化財
寛文3(1663)年銘の地蔵供養塔です。

<地蔵逆修供養塔> 江東区文化財
寛文3(1663)年銘の地蔵逆修供養塔です。

<庚申塔>
庚申塔は、寛文8(1668)年銘です。下部正面、左右面に三猿が一体ずつ刻されています。三面に三猿が分かれて刻されているのは初めて見ました。




<不詳の石碑>
漢文で刻まれていますが、破損激しくよくわかりません。


<戦災殉難者供養之碑>
区画整理で、亀戸駅前からの移設です。

脇に日露戦争の個人のお墓が複数あります。

<無縁墓>
無縁墓が墓地ではなく、戦災殉難者供養之碑の脇にあります。

【本堂前】
<松本魯山歌碑> 江東区文化財
寺務所入口左手に「松本魯山歌碑」と、歌碑背面の説明碑(昭和55年)があります。歌碑背面には、漢文で魯山の事跡と建立年月日が刻まれています。説明碑によると、元文4(1739)年の建碑とのこと。
歌碑は素養なく読めませんが、「東京近郊名所図会」(明治43年)の解説によると以下刻まれているとのこと。
「陽月六日岡氏宅にて即題 落葉
液雨(しぐれ)そと聞きしもあやなまきの戸を
たたく落葉の音寒き夜は 元房」
<江東区HP解説>
「松本魯山歌碑
松本魯山は、延宝8年(1680)に亀戸で生まれ、歌人・書家などとして活躍しました。門人は数千人に及んだといいます。本名は元房、通称は半右衛門で、魯山と号しました。江戸小田原町(現在の中央区)で暮らしていましたが、元文元年(1736)に大坂へ移って医術を生業としました。大坂では大岡幸得と称し、後に卜仙と号しました。元文3年10月16日、59歳で京都にて亡くなりました。
本碑は死後に江戸の門人たちが魯山の出身地を探し出して建立したものです。歌碑の背面には、漢文で魯山の事績と建立年月日(「元文己未正月甲戌日」=元文4年1月27日)が刻まれています。」




<伊藤左千夫歌碑>
普門院の住職が、成東町(現:山武市)から伊藤左千夫の縁者から得た拓本により、昭和59(1984)年、左千夫の命日の7月30日に建碑されています。左千夫の真筆です。
「牛飼がうたよむ時に世の中のあらたしき歌おほいに起る 左千夫」



牛霊塔が脇にあります。

<寺務所>

<本堂>
本堂の扁額は「福聚山」。



<墓地入口>


<伊藤左千夫の墓> 江東区史跡
墓地に入って右に折れると、案内柱があります。


墓石「伊藤左千夫之墓」は、中村不折の筆です。裏には没年が大きく刻まれています。



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伊藤左千夫牧舎兼住居跡と歌碑
○伊藤左千夫牧舎兼住居跡と歌碑 墨田区江東橋3-14-6
錦糸町駅南口のロータリーに、説明板「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」と「伊藤左千夫歌碑」があります。

(説明板)
「伊藤左千夫牧舎兼住居跡 所在地 墨田区江東橋3-13
この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月 墨田区教育委員会」

「左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)」

「本所茅場町の牛舎」

<伊藤左千夫歌碑>
「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 左千夫」

錦糸町駅南口のロータリーに、説明板「伊藤左千夫牧舎兼住居跡」と「伊藤左千夫歌碑」があります。

(説明板)
「伊藤左千夫牧舎兼住居跡 所在地 墨田区江東橋3-13
この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。
左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(一八六四)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(一八八五)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想『家庭小言』には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。
左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌『馬酔木』を創刊。明治四十一年には後継誌『阿羅々木』(のちに『アララギ』と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある『野菊の墓』が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。
この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文『水害雑録』には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(一九一三)七月三十日五十歳で没しました。
隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(一九八三)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は明治四十一年十月『阿羅々木第一巻第一號』の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。
平成二十四年三月 墨田区教育委員会」

「左千夫と牛(本所茅場町牧社にて)」

「本所茅場町の牛舎」

<伊藤左千夫歌碑>
「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも 左千夫」


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tag : 伊藤左千夫
伊藤左千夫宅跡(終焉の地) 史跡
○伊藤左千夫宅跡(終焉の地)江東区史跡 江東区大島6-1
UR大島6丁目団地は、伊藤左千夫終焉の地です。中央広場の時計塔の下部に伊藤左千夫の歌碑がはめられています。伊藤左千夫終焉の地を記念して左千夫記念会が、昭和55(1980)年7月に建てました。左千夫の門人の土屋文明の揮毫です。






<歌碑>
「 左千夫
朝起きてまだ飯前のしばらくを
小庭に出でて春の土踏む
大正二年七月三十日
伊藤左千夫この地に没す
左千夫記念會」
『アララギ』(大正2年3月1日)に掲載された歌です。



○伊藤左千夫歌碑 江東区大島3-22-1
都立城東高等学校の北の歩道に面して伊藤左千夫の歌碑(昭和54(1979)年建立)があります。竪川人道橋南詰のすぐ近くです。






<歌碑>
(碑表)
「竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
左千夫作 門人文明しるす」


(碑陰)
「伊藤左千夫先生
先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治二十二年より、本所茅場町(現錦糸町駅前)にて牛乳搾取業を営む。明治三十三年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
大正元年五月、府下大島町字亀戸九○二(現大島六丁目一番)に牛舎を移し、翌二年三月には住居も移したが、同年七月三十日に急逝した。享年五十歳。
碑の歌は明治四十年発表の「勾王日記、四月十七日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、土屋文明先生の御支援を得て完成した。

※伊東左千夫の墓は普門院(亀戸)にあり、こちらで記載。
UR大島6丁目団地は、伊藤左千夫終焉の地です。中央広場の時計塔の下部に伊藤左千夫の歌碑がはめられています。伊藤左千夫終焉の地を記念して左千夫記念会が、昭和55(1980)年7月に建てました。左千夫の門人の土屋文明の揮毫です。






<歌碑>
「 左千夫
朝起きてまだ飯前のしばらくを
小庭に出でて春の土踏む
大正二年七月三十日
伊藤左千夫この地に没す
左千夫記念會」
『アララギ』(大正2年3月1日)に掲載された歌です。



○伊藤左千夫歌碑 江東区大島3-22-1
都立城東高等学校の北の歩道に面して伊藤左千夫の歌碑(昭和54(1979)年建立)があります。竪川人道橋南詰のすぐ近くです。






<歌碑>
(碑表)
「竪川に牛飼ふ家や楓萌え木蓮花咲き児牛遊べり
左千夫作 門人文明しるす」


(碑陰)
「伊藤左千夫先生
先生は元治元年千葉県成東町の生まれ、本名幸次郎、明治二十二年より、本所茅場町(現錦糸町駅前)にて牛乳搾取業を営む。明治三十三年子規に入門し、その没後根岸短歌会の中心として活躍、その歌柄は大きく独自の万葉調を樹立、赤彦・茂吉・千樫・文明らを育て、アララギ派興隆の基礎を作る。万葉集研究・歌論のほか小説の筆をとり、『野菊の墓』ほかの作品がある。
大正元年五月、府下大島町字亀戸九○二(現大島六丁目一番)に牛舎を移し、翌二年三月には住居も移したが、同年七月三十日に急逝した。享年五十歳。
碑の歌は明治四十年発表の「勾王日記、四月十七日」の中にあり、牝牛の誕生を「家こそりてほき悦ふ」という文に続いている。
先生終焉の地の近くに城東高校が創設され、これを機に歌碑建立の話が進み、全国にわたる多くの方々の協力、土屋文明先生の御支援を得て完成した。

※伊東左千夫の墓は普門院(亀戸)にあり、こちらで記載。
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五之橋(竪川)
○五之橋(江東区史跡) 江東区亀戸1・6丁目〜大島2・3丁目
暗渠となっている竪川に架かる明治通りの「五之橋」です。

<五の橋親柱>


<五之橋> 江東区亀戸6-1
五之橋北詰に五之橋の説明プレート(逆三角形)があります。
(プレート文)
「五之橋
五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659年)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。
堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。
御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684年)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。
元禄8年(1695年)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
その後、明治12年(1879年)に本橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。
震災復興により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。
戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年再度架け替えられた。
親柱は震災復興記念として現在も残されている。
亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定された。
平成4年3月」



<石のベンチにプレート> 江東区亀戸6-1
石のベンチに3つのプレートがあります。

<本所猿江亀戸村辺繪図>
嘉永4(1851)年の地図が掲示されています。〇の所が現在の五之橋です。「五ツ目渡シ場」とあります。右手に「五百羅漢寺」があります。小名木川河口に「中川御番所」とあります。


<江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂>
「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」の抜粋を掲示しています。

「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」から、プレート掲示部分の抜粋です。

「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」(3枚連結の全体)

<伊藤左千夫歌碑> 江東区亀戸6-1
伊藤左千夫の短歌のプレートがあります。
「竪川の野菊の宿は初芽すぎ二の芽摘むべく群れ生ひにけり 伊藤左千夫」
伊藤左千夫は、乳業店で働いた後、明治22(1889)年独立して、錦糸町に牛舎を建て牛乳の製造販売を始めています。

<旧千葉街道道標> 江東区亀戸6-1
「五之橋」北詰に「旧千葉街道」道標があります。
(石碑文)
「旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより現在の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。
昭和三十三年十月一日 江東区第十七号」




<亀戸大根銘鈑> 江東区亀戸6-1
「亀」の形をした「亀の字」と「大根」の形をした「戸の字」を組み合わせた亀戸大根の銘鈑が、街路灯の柱にあります。

<寛永通宝のベンチ> 江東区亀戸1-27
石のベンチの背もたれに「寛永通宝」のオブジェが埋め込まれています。ベンチの反対側には、「寛永通宝」の裏面が埋め込まれています。
江戸時代、今の亀戸3丁目にあった「銭座」では「寛永通宝」が鋳造されていました。これにちなんで寛永通宝をかたどったベンチでしょう。ちなみに五渡亭園の噴水も寛永通宝をかたどっています。


<大田区の電柱> 江東区亀戸1-27
「車は急に止まれない 交通安全宣言 大田区」
なぜか電柱に大田区の掲示です。

<五之橋南詰公衆トイレ> 江東区大島2-31-1
トイレの壁には「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国)



「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国 国立国会図書館蔵)

<三代・歌川豊国(五渡亭国貞)生誕の地・浮世絵ギャラリー>
五の橋を歩いて見るギャラリーです。五渡亭国貞の役者絵と美人画が14枚掲示されています。




暗渠となっている竪川に架かる明治通りの「五之橋」です。

<五の橋親柱>


<五之橋> 江東区亀戸6-1
五之橋北詰に五之橋の説明プレート(逆三角形)があります。
(プレート文)
「五之橋
五之橋の下を流れる堅川は、万治2年(1659年)本所築立奉公であった徳山五兵衛重政及び山崎四郎左衛門が、大横川、横十間川と共に新田開発を目的として開削した用水路であった。
堅川の開削に合わせ西の方から、一之橋を始めとして五つの橋が架けられた。当時この付近は、畑地が多く人の往来も少なかった。
御府内備考によれば、「御人用無益之場所」として、貞享元年(1684年)本橋は取り払われ船渡しとなったと言われている。
元禄8年(1695年)五百羅漢寺が建立されたため、この渡しを利用する者も多くなり、「羅漢の渡し」や「五ツ目の渡し」と呼ばれ人々に親しまれてきた。
その後、明治12年(1879年)に本橋が架けられたが大正12年の大震災により落橋した。
震災復興により昭和3年本橋は鋼橋に架け替えられた。
戦災にも耐えた本橋は老朽化により、昭和50年再度架け替えられた。
親柱は震災復興記念として現在も残されている。
亀戸、大島地域の発展に大きな役割を果たしたこの橋は、昭和63年東京都著名橋に指定された。
平成4年3月」



<石のベンチにプレート> 江東区亀戸6-1
石のベンチに3つのプレートがあります。

<本所猿江亀戸村辺繪図>
嘉永4(1851)年の地図が掲示されています。〇の所が現在の五之橋です。「五ツ目渡シ場」とあります。右手に「五百羅漢寺」があります。小名木川河口に「中川御番所」とあります。


<江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂>
「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」の抜粋を掲示しています。

「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」から、プレート掲示部分の抜粋です。

「江戸名所図会 五百羅漢さざゐ堂」(3枚連結の全体)

<伊藤左千夫歌碑> 江東区亀戸6-1
伊藤左千夫の短歌のプレートがあります。
「竪川の野菊の宿は初芽すぎ二の芽摘むべく群れ生ひにけり 伊藤左千夫」
伊藤左千夫は、乳業店で働いた後、明治22(1889)年独立して、錦糸町に牛舎を建て牛乳の製造販売を始めています。

<旧千葉街道道標> 江東区亀戸6-1
「五之橋」北詰に「旧千葉街道」道標があります。
(石碑文)
「旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じ千葉方面にいたり江戸時代から佐倉道と称し江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であったが明治時代からの市区改正事業などにより現在の国鉄総武線に沿った新しい千葉街道が建設されるにいたった。
昭和三十三年十月一日 江東区第十七号」




<亀戸大根銘鈑> 江東区亀戸6-1
「亀」の形をした「亀の字」と「大根」の形をした「戸の字」を組み合わせた亀戸大根の銘鈑が、街路灯の柱にあります。

<寛永通宝のベンチ> 江東区亀戸1-27
石のベンチの背もたれに「寛永通宝」のオブジェが埋め込まれています。ベンチの反対側には、「寛永通宝」の裏面が埋め込まれています。
江戸時代、今の亀戸3丁目にあった「銭座」では「寛永通宝」が鋳造されていました。これにちなんで寛永通宝をかたどったベンチでしょう。ちなみに五渡亭園の噴水も寛永通宝をかたどっています。


<大田区の電柱> 江東区亀戸1-27
「車は急に止まれない 交通安全宣言 大田区」
なぜか電柱に大田区の掲示です。

<五之橋南詰公衆トイレ> 江東区大島2-31-1
トイレの壁には「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国)



「亀戸藤乃景」(香蝶楼豊国 国立国会図書館蔵)

<三代・歌川豊国(五渡亭国貞)生誕の地・浮世絵ギャラリー>
五の橋を歩いて見るギャラリーです。五渡亭国貞の役者絵と美人画が14枚掲示されています。





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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
三代豊国五渡亭園
○竪川河川敷公園 江東区大島〜亀戸 HP
竪川河川敷公園は、首都高速道路7号線の高架下にある延長2.4kmの江東区立の公園です。竪川河川敷公園の中に、「三代豊国 五渡亭園」があります。


<東屋と人力車>
東屋の脇に「人力車」が展示されています。
(説明板)
「人力車
五の橋豊国通り商店会が、地域振興のために、平成24年に職人に製作を依頼したものです。」


○三代豊国五渡亭園 江東区亀戸6 五ノ橋豊国通り商店会 HP
三代歌川豊国が五ノ橋際に住んでいたことにちなんで作られた庭園です。浮世絵ギャラリーや「朱塗りの太鼓橋」、「かわらぬ恋の池」などがあります。


<三代目歌川豊国の生地>
(説明板)
「三代目 歌川豊国の生地
三代目歌川豊国は江戸時代後期の浮世絵師。初代豊国の高弟ではじめは国貞と名乗り、のちに豊国を襲名する。本名を角田庄五郎と称し、天明六年(一七八六)に本所五ッ目(亀戸五・六丁目付近)で生まれる。五渡亭、一雄斉、香蝶楼など多くの画号があり、とくに五渡亭を一番長く愛用した。その名の由来は、本所五ッ目に居を構え、竪川にかかる五ッ目の渡し船の株をもっていたことに因んで、天明期を代表する狂歌師大田南畝(蜀山人)から贈られたという。のち亀戸町に転居し、生涯を亀戸周辺で過ごした。
豊国は文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)を代表する浮世絵師として、美人画・役者絵など多彩なジャンルで活躍した。なかでも柳亭種彦の合本『偐紫田舍源氏』では、挿絵を担当し大人気を得る。この作品をきっかけに源氏物語の世界観を描く「源氏絵」のジャンルを確立し、当時の歌舞伎にも影響を与えた。
その活躍期間は長く、江戸時代の浮世絵師のなかでも最多の作品数をほこる。元治元年(一八六四)に七九歳で死去。墓所は亀戸光明寺(亀戸三‐四ニ‐一)にある。
(歌川豊国「江戸名所 百人美女 五百羅かん」を掲示) 江東区」
(※墓所のある光明寺について、こちらで記載)


「江戸名所 百人美女 五百羅かん」(歌川豊国 国立国会図書館蔵)

※「歌川豊国翁之碑」(江東区文化財)が亀戸天神にあります。こちらで記載。
<朱塗りの太鼓橋>



<かわらぬ恋の池(鯉の池)>
江戸時代、亀戸あたりでは江戸城の瓦を造っていました。と鯉をかけて「かわらぬ恋の池」と名付けられています。
(説明板)
「「竪川と瓦」
この竪川沿いでは良い粘土が採れたことから、瓦職人が多く住み、江戸城の瓦も焼かれました。
その名残として亀戸の一部地区では「上瓦」と染めた祭り半纏を着用しています。
地元の方々は、池に棲む鯉とかけて「かわらぬ恋の池」と呼んでいます。」



<寛永通宝噴水>
寛永通宝をかたどった噴水があります。



○五之橋下浮世絵ギャラりー(三代豊国ギャラリー)
橋げたの下に、三代豊国(五渡亭国貞)の役者絵と美人画が掲示されています。常時22枚の浮世絵が展示され、随時、浮世絵が変更されるようです。









竪川河川敷公園は、首都高速道路7号線の高架下にある延長2.4kmの江東区立の公園です。竪川河川敷公園の中に、「三代豊国 五渡亭園」があります。


<東屋と人力車>
東屋の脇に「人力車」が展示されています。
(説明板)
「人力車
五の橋豊国通り商店会が、地域振興のために、平成24年に職人に製作を依頼したものです。」


○三代豊国五渡亭園 江東区亀戸6 五ノ橋豊国通り商店会 HP
三代歌川豊国が五ノ橋際に住んでいたことにちなんで作られた庭園です。浮世絵ギャラリーや「朱塗りの太鼓橋」、「かわらぬ恋の池」などがあります。


<三代目歌川豊国の生地>
(説明板)
「三代目 歌川豊国の生地
三代目歌川豊国は江戸時代後期の浮世絵師。初代豊国の高弟ではじめは国貞と名乗り、のちに豊国を襲名する。本名を角田庄五郎と称し、天明六年(一七八六)に本所五ッ目(亀戸五・六丁目付近)で生まれる。五渡亭、一雄斉、香蝶楼など多くの画号があり、とくに五渡亭を一番長く愛用した。その名の由来は、本所五ッ目に居を構え、竪川にかかる五ッ目の渡し船の株をもっていたことに因んで、天明期を代表する狂歌師大田南畝(蜀山人)から贈られたという。のち亀戸町に転居し、生涯を亀戸周辺で過ごした。
豊国は文化・文政期(一八〇四〜一八三〇)を代表する浮世絵師として、美人画・役者絵など多彩なジャンルで活躍した。なかでも柳亭種彦の合本『偐紫田舍源氏』では、挿絵を担当し大人気を得る。この作品をきっかけに源氏物語の世界観を描く「源氏絵」のジャンルを確立し、当時の歌舞伎にも影響を与えた。
その活躍期間は長く、江戸時代の浮世絵師のなかでも最多の作品数をほこる。元治元年(一八六四)に七九歳で死去。墓所は亀戸光明寺(亀戸三‐四ニ‐一)にある。
(歌川豊国「江戸名所 百人美女 五百羅かん」を掲示) 江東区」
(※墓所のある光明寺について、こちらで記載)


「江戸名所 百人美女 五百羅かん」(歌川豊国 国立国会図書館蔵)

※「歌川豊国翁之碑」(江東区文化財)が亀戸天神にあります。こちらで記載。
<朱塗りの太鼓橋>



<かわらぬ恋の池(鯉の池)>
江戸時代、亀戸あたりでは江戸城の瓦を造っていました。と鯉をかけて「かわらぬ恋の池」と名付けられています。
(説明板)
「「竪川と瓦」
この竪川沿いでは良い粘土が採れたことから、瓦職人が多く住み、江戸城の瓦も焼かれました。
その名残として亀戸の一部地区では「上瓦」と染めた祭り半纏を着用しています。
地元の方々は、池に棲む鯉とかけて「かわらぬ恋の池」と呼んでいます。」



<寛永通宝噴水>
寛永通宝をかたどった噴水があります。



○五之橋下浮世絵ギャラりー(三代豊国ギャラリー)
橋げたの下に、三代豊国(五渡亭国貞)の役者絵と美人画が掲示されています。常時22枚の浮世絵が展示され、随時、浮世絵が変更されるようです。










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