清亮寺と槍掛けの松

○清亮寺 足立区日ノ出町42-1

<山門>

 山門は、旧水戸街道に面してあります。
 「久榮山」の扁額は中村不折の書です(足立区登録有形文化財)。

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<清亮寺>

 山門入って、参道右手手に、令和3年の真新しい説明板「清亮寺」があります。

(説明板)
「清亮寺
 日蓮宗、久榮山清亮寺と号す。元和五年(一六一九)身延山久遠寺末として、運寮院日表上人により、水戸街道入口のこの地に創建された。かつて水戸街道に面して古松が茂り、水戸藩主の徳川光圀公が槍を立てかけたという「槍掛けの松」が有名であった。
 本尊は、一塔両尊四士合掌印、宗祖日蓮説法像を中心に、左に釈迦如来、右に多宝如来、四菩薩、四天王文殊・普賢両菩薩、不動・愛染両明王の十五躯の木像で構成されている。
 本堂は天保四年(一八三三)再建の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残しているすぐれた建造物である。
 墓域には、庚申塔一基(足立区登録有形民俗文化財)や、明治初頭に日本医学発展のために腑分(解剖)された囚人十一名を供養した解剖人塚(足立区登録有形文化財)がある。また、明治五年(一八七二)に千住で生まれ、京都帝国大学教授を務めた著名な歴史学者内田銀蔵博士の墓もある。
 昭和六年再建の山門(薬医門)に掲げる扁額「久榮山」(足立区登録有形文化財)の書は、中国南北朝時代に発展した六朝風の書体を得意とした書家の中村不折によるもので、不折は洋画家とLても知られ、夏目漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を描いた人物でもある。
  令和三年三月  東京都足立区教育委員会」

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<槍掛けの松碑>

 松は枯れてありませんが、参道右手に「槍掛けの松碑」があります。

(碑表)

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(碑裏)
 碑裏にも写真が掲示されています。

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(碑文)
「「槍掛けの松」  久栄山 清亮寺
 清亮寺の門前を通っている幅六メートルの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道 (水戸海道)です。
 江戸時代初期の元和五年(1619年)に開山した清亮寺は、今の千住四丁目で日光街道 (日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向う側にまで枝が達する大きな松の木がありました。
 水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、櫓持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。
 そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、 見事な技振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は『名松を切るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない』と、粋な計らいをしました。
 以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。
 写頁は、水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛けの松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側の道路から、関東大震災以前に撮影されたものです。
 大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられ、水戸街道の向う側にまで勢いよく枝を張り葉を茂らせています。しかし、樹齢三百五十年を数えた名松は、惜しくも昭和二十年ごろに枯れてしまいました。
 南無妙法蓮華経と髭題目が刻まれた樟石や、清亮寺と刻した寺号石は、正面が西向きに置かれており、今の山門前とは向き、場所が共に異なっています。
 後方左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒は、間に水戸街道を挟んだ道路の向う側の家ですので、この写真は、水戸黄門一行が通行した時代を偲ぶことも出来る貴重な資料といえます。
  平成十七年五月 記」

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※旧日光街道沿に「かどやの槍掛け団子」。こちらで記載


<石碑>

 山門入ってすぐ右手の石碑。

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<日朝堂>

 日朝上人を御祀りしています。

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<境内>

 手押し井戸があります。その近くに歌碑があります。

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<本堂>

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【墓地】

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<解剖人墓> 足立区登録有形文化財

 「解剖人墓」が新旧2基あります。古い墓が傷み、1967(昭和42)年に新調されています。
 明治3(1870)年に小塚原の刑場で処刑された後、ここで腑分け(解剖)された11人の罪人の戒名・執刀日・俗名・年齢を刻み供養しています。切腹や斬首で刑死した囚人の戒名には「刃」の字がついています。

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<南無釈迦牟尼佛 十九代日忠>

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<庚申塔> 足立区登録有形民俗文化財

 南無釈迦牟尼佛像の左側背後に、庚申等があります。3つに折れた跡が見えます。

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<文學博士内田銀蔵之墓>

 生家には説明板があります。

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<歌碑を兼ねた筆塚>

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長円寺(千住)

○長円寺 足立区千住4-27-5

 千住氷川神社の南側に、長円寺があります。月松山長円寺は、出羽湯殿山の行者雲海が寛永4(1627)年、当地に庵を結び、後に賢俊が開山したといいます。
 荒川辺八十八ヶ所霊場47番札所、荒綾八十八ヶ所霊場62番札所です。

<山門>

 山門は1869(明治2)年建造。「月松山」の扁額は足立区有形文化財です。
 「荒綾八十八ヶ所霊場六拾二番 長圓寺」の石碑が門前にあります。

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(説明板)
「長円寺
 新義真言宗の当寺は、延享元年(一七四四)の縁起によると、寛永四年(一六二七)に、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶとあり、後に賢俊が開山したという。九代将軍家重の延享年間(一七四四~四八)、十六世栄照の代は殊に栄えた。
 本尊は、木造の薬師如来小立像であり、定朝風の名作である。
 当寺の山号を記した扁額「月照山」(足立区登録有形文化財)は、明治二年(一八六九)、当地の寺子屋「群雀堂」三代の校主、正木健の筆である。「心香尼碣」は、同じく二代校主正木大介(櫟蔭)の撰文で、正木氏の遠戚あたる心香尼の人となりを叙したものである。
 また、石造魚籃観音立像(足立区登録有形文化財)、乳泉石及び箱(足立区登録有形文化財)、貞享三年(一六八六)銘の庚申塔(足立区登録有形文化財)があるほか、享保十七年(一七三二)の宝篋印塔、目やみ地蔵等がある。
 境内の「八十八か所巡り毛彫石碣」は、芸術の香り高い作品であり、民俗信仰を知る上で貴重なものである。
  令和元年十二月  東京都足立区教育委員会」

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<めやみ地蔵>

 山門左脇に「めやみ地蔵」が祀られています。

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<念仏車>

 念仏車があります。世田谷区喜多見の路傍で、古い念仏車を見て以来です。(こちらで記載
 すり減ってだいぶ丸くなっていますが、元は六角形だったような印象を受けます。

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 江戸時代のおもちゃ絵にも念仏車が載っているので、江戸時代はよく目にしたのでしょうね。

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<枳堀跡> 足立区千住4-26

 山門右手に、枳(からたち)堀跡の石碑があります。
 長円寺は、カラタチの生け垣が続いていたことから「からたち寺」の通称があります。

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<布袋尊>

 布袋尊がおられました。

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<魚藍観音> 足立区登録有形文化財

 魚を入れる魚籠を携えるお姿です。

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<弘法大師供養塔>

 本堂右側に建っています。

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<稲荷社>

 子福稲荷でしょうか。

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<四国八十八箇所札所毛彫石碑群> 

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<庚申塔など>

 三基の石仏が並びます。出羽三山供養塔はありませんでしたが、大日如来像がありました。
 左から、
 ・庚申塔    貞享3(1686)年。足立区登録有形文化財。
 ・大日如来像  寛永4(1627)年。
 ・阿弥陀如来像 寛文4(1664)年。

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<宝篋印塔>

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<弘法大師像>

 八十八箇所巡りの中央に安置。お笑いになっている弘法大師像です。

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<心香尼碣>

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<本堂>

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【墓地】

<三界萬霊塔>

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<馬頭観世音>

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<外征将士吊魂碑>

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千住氷川神社

○千住氷川神社 足立区千住4-31-2

 千住追分から旧水戸街道に入り、街道の右手にあるのが千住氷川神社です。

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<手水舎>

 吐水狛犬です

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<正木櫟蔭事績碑> 足立区有形文化財

(説明板)
「正木櫟蔭事績碑
 宝暦元年(一七五一)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主、正木大助の生涯についての碑である。
 父昌房が千住に移住し、地域の子供たちの教育を行うようになった由来を記している。その末子として宝暦十二年(一七六二)元旦に生まれた大助は幼いころから学問に秀で、十二歳にて塾主を継ぎ、母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、これを慕って学ぶものが日に百人余りを越えていたということや、六十六歳で剃髪した後も、多くの人々の尊敬を受け清白とした生活を送っていた様子などが述べられている。
 大助は天保十二年(一八四一)十二月、八十歳にして死去するが、死去間近には幕府代官中村八太夫が、その評判を聞いて見舞い、大助の死後、老妻は扶持米を支給され息子建には銀五錠の褒章が与えられたことも記されている。
 この事績碑は、塾主三代目を継いだ息子正木建の撰文によるもので、嘉永五年(一八五二)に建立されたものである。寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料である。
 平成二年一月足立区有形文化財に登録された。
  平成七年三月  東京都足立区教育委員会」

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<高正天満宮縁起碑> 足立区有形文化財

(説明板)
「高正天満宮縁起碑
 氷川神社内に合祀される高正天満宮の縁起を示す碑である。千住四丁目の名主高梨氏の系譜や、高正天満宮の由来について詳しく述べている。
 千住四丁目の名主高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を譲った。正木氏はそれよりこの像を家神として祀り、子弟教育を家業とするようになった。
 昌房の孫、正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより、氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を、それぞれの一字をとって高正天満宮と号することにしたという。
 正木氏は、昌房以来、代々寺子屋「群雀堂」の経営にあたり、二代目塾主、大助(正木櫟蔭)の代には大いに発展し、来塾するものが毎日百人ほどもいたという。
 元治元年(一八六四)に建立されたこの碑は、三代目正木建の撰文によるものであり、天満宮の由来はもとより、寺子屋開塾に至る経緯が伺われる貴重な資料である。
 平成二年(一九九○)一月、足立区登録有形文化財とした。
  令和二年三月  東京都足立区教育委員会」

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<三管塚>

 雅楽の楽器である三管(龍笛・篳篥・笙)を納めた塚です。

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<高正天満宮ほか>

 三管塚の後ろには、猿田彦大神、稲荷神社、高正天満宮の三社が祀られています。

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旧水戸街道(千住追分〜荒川土手)

○旧水戸街道(千住追分〜荒川土手)

<旧水戸街道>

 やっちゃば緑道に掲示の「千住案内図」から、追分道標から荒川までの旧水戸街道部分を抜粋。

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 掃部宿プチテラスに掲示の「千住図会」から抜粋。

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<追分道標> 足立区千住5-24

 千住4丁目と5丁目の間の水戸街道との追分に道標があります。
 「北へ 旧日光道中」(左)、「東へ 旧水戸佐倉道」(右)
 この道標は新しく、江戸時代の道標は「足立区郷土博物館」の庭に移設・展示されています。現在の道標は5丁目24番地にありますが、本来の道標は4丁目30-1の角にありました。本来の道標には水戸海道と刻まれています。

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<水戸海道道標>

 千住宿の旧碑が足立区立郷土博物館(足立区大谷田5-20-1)に集められています。

(解説板)
「もと千住四丁目30-1角、旧日光道中より分岐する旧水戸海道入口に建てられていた道標である。
 年代不詳だが、街道でなく海道とあり、往時の表記がわかる。
 現地は道幅が狭いうえ交通量も多く破損のおそれがあるので、ここに移した。」
    
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<旧水戸街道をたどって>

 追分道標から東に進みます。右手の千住氷川神社を越えると、千代田線・JR・つくばEXの高架橋の手前に「旧水戸街道」の表示があります。

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 東武線の高架橋手前の清亮寺で、千住四丁目から日ノ出町となります。昭和5(1930)年に荒川放水路が開削され、綾瀬村の一部だった日ノ出町は足立区に移管され、千住地区と一体となりました。このため千住地区の地名の中で、「日ノ出町」は千住の文字はつきません。
 清亮寺の先で、東武線の高架橋をくぐります。煉瓦の橋脚がありました。

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 右手の日ノ出神社の神輿庫を越えると、荒川土手の手前に「旧水戸街道」の表示があります。

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柳森神社(おたぬき様)

○柳森神社(おたぬき様) 千代田区神田須田町2-25-1

 太田道灌公が江戸城の東北の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の「伏見稲荷大社」を勧請して創建したとされています。 境内の福寿神は「お狸さん」とよばれ、桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。江戸三森、江戸七森の一つです。

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「江戸名所図会 柳原堤」

 「江戸名所図会 柳原堤」の中で「柳森稲荷」が描かれています。通りを行く人に、車いすの人や視覚障害者が見えます。

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「江戸切絵図」

 和泉橋上流の柳原堤に、「籾蔵」と「イナリ」が見えます。

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「絵本江戸土産 柳原 河岸通」 (広重)

 神田川の和泉橋辺りから上流を描いています。左手の神田川右岸が柳原堤で、柳森稲荷が見えます。
 挿絵には 「浅草御門より西の方 これを神田川といひて江戸川の末流也 大川へ出るにより川舟左右に競ひ 旦より暮に至るまで盧櫂のおと引きもきらず 賑はひの地なり」 とあります。

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<一の鳥居/社号標>

 神田川の南側「柳原通り」沿いに神社入口があります。石鳥居と社号標「柳森神社」があります。鳥居より低い位置に境内がある「下り宮」です。

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<富士塚・富士講石碑群> 千代田区有形民俗文化財

 鳥居をくぐり階段を降りると右手に千代田区指定有形民俗文化財「富士講関係石碑群」があります。かつての富士塚の溶岩や碑などが積み上げられています。一番上には「三桂乃大神」、下に「富士宮浅間大社神」が祀られています。

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(説明板)
「富士講関係石碑群
 千代田区指定文化財
 1998年(平成10年)4月1日指定
 5つの石碑群は、柳森神社周辺に存在した富士講の名残を今日に伝える石碑群です。富士講とは、富士山信仰をもとに成立した民間信仰の一種で、江戸時代特に町民や農民の間で流行しました。
 柳森神社は、1680年(延宝8年)に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を、合殿・合祀した経緯から、富士講と深い関わりを持つ場所でした。『東都歳事記』には、天保年間(1830〜1844年)頃の「富士参」(富士浅間神社への参詣)の例として柳森神社のことが取り上げられています。
 1930年(昭和5年)には、境内に富士塚と呼ばれる、富士の溶岩石を積み上げて富士山に模した塚も築かれましたが、1960年(昭和35年)に取り壊され現存していません。
 石碑群の銘文には、富士塚が築かれた時期に近い、大正や昭和の文字があり、このころに富士講を再興させようという動きがあったことがわかります。」

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<力石群> 千代田区有形民俗文化財

 13個の力石が集められ壮観です。

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(説明板)
「力石群
 江戸時代には、若者たちの間で、重量のある石を持ち上げて力自慢を競うことが流行しました。明治時代の中頃から次第に衰退しましたが、大正時代になると再び盛り上がりをみせます。
 柳森神社の境内にあるカ石の一群は、当時のカ士で大関として名を上げた神田川徳蔵こと飯田徳蔵と、その一派が生前使った石の一部で、彼らの業績を記念し後世に伝えるために集められたものです。」

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<明徳稲荷神社>

 商人からの信仰を集めた明徳稲荷神社です。

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<秋葉大神>

 火防・火伏せの神として信仰を集めた「秋葉大神」です。

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<水神厳島大明神・江島大明神>

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<金比羅宮>

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<福寿社(おたぬきさま)>

 桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。

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<福寿 たぬき尊像>

 親子狸が鳥居の前におわします。

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<鳥居(福寿神)>

 鳥居の両側には親子の狸の像が座しています。鳥居の裏に説明板。

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<おたぬきさん 福寿神御由来>

(説明板)
「おたぬきさん 福寿神御由来
 江戸開府以来、年と共に諸制度も完備して、漸く泰平の世を迎えた五代将軍綱吉公の御代、将軍のご生母桂昌院様によって江戸城内に福寿いなりとして創建された。
 桂昌院様は京都堀川の生まれ、八百屋の娘が春日局に見込まれて、三代将軍徳川家光の側室となり、五代将軍徳川家綱吉公の生母となる。
 大奥の御女中衆は、他を抜いて(たぬき)玉の輿に乗った院の幸運にあやかりたいとこぞってお狸さまを崇拝したという。
 後世、元倉前甚内橋際 向柳原の御旗本、瓦林邸内に祠を移し祭祀される様になり、明治二年現在の柳森神社に合祀されました。
 開運、諸願成就の福寿神として、殊に近年は他を抜いて受験、勝運、出世運、金運向上などにご利益があると信奉されております。
 なお当社において頒与する、“おたぬきさん”と呼ばれる土製の親子狸のお守りは、素朴で、たいへん愛されております。」

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<幸神社>

 お稲荷様が祀られてる幸神社です。

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<神楽殿>

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<柳森神社由来>

 神楽殿の道路側に「柳森神社由来」が掲げられています。

(掲額文)
「柳森神社由来
 今を去る五百余年の昔この東京が武蔵野の原と称し足利時代の頃長禄ニ年太田道灌公江戸築城の時その東北方即ち此所に城郭鎮護鬼門除けとして京都伏見稲荷大明神を勧請して御祀り申し上げ神田川土堤一帯に柳の木を多数植え繁茂したるに依り柳原の名と共に柳森神社の起源となった其の後江戸城を中心に年を追って江戸八百八町は繁栄しこの柳森神社も商売繁昌の神として非常に殷賑を極めたのである元禄と文政の頃には徳川家より社殿造営の寄進があり其の造営物は大正十二年九月の関東大震災にて惜しくも烏有に帰した尚其頃迄この周辺には柳町小柳町元柳町向柳町柳原河岸などと柳に因んだ町名の有ったことも此の柳の森より起因したものである。
 昭和三十年が当神社創建五百年祭に相当するので崇敬者の発願に依って記念事業として此の神楽殿を建立し同年五月十五日楽慶大祭を執行した次第である。
 例大祭は毎年五月十四日十五日
  昭和三十六年五月吉日」


<手水舎>

 元禄6(1693)年の銘です。

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<天水桶>

 昭和5(1930)年奉納の鉄製天水桶です。川口町の浅倉庄吉の鋳造です。
 「川口町 「多」(社章) 浅倉庄吉製 昭和五年八月吉日」「山寅作」の印影です。

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<神狐>

 左の神狐は、子狐が親狐を見上げています。
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 右の神狐は赤い前掛けです。
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<拝殿>

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<本殿>

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<天水桶>

 文政3(1820)年銘の「江戸深川 釜屋」による製作の天水桶です。社務所前にあります。「柳原岩井町」の多くの人々による奉納です。現在の拝殿前にある天水桶は昭和5(1930)年の奉納なので、こちらは役目を終えた先代の天水桶なのでしょう。

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<庚申塔>

 正徳5(1715)年銘の庚申塔です。千代田区内に2基ある庚申塔のうちの一つです。社務所前にあります。

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