ミルクホールモカ タカラ湯 (千住元町)
千住元町には、レトロな喫茶店「ミルクホールモカ」と、レトロな銭湯「タカラ湯」があります。
○ミルクホールモカ 足立区千住元町38-1 03-3881-1815
北斎顕彰碑の道路反対側に、レトロな「ミルクホールモカ」があります。





○タカラ湯 足立区千住元町27-1
ミルクホールモカから奥に入っていくと、昭和2(1927)年創業、昭和13(1938)年築のレトロ銭湯「タカラ湯」があります。
こちらで記載しています。


○ミルクホールモカ 足立区千住元町38-1 03-3881-1815
北斎顕彰碑の道路反対側に、レトロな「ミルクホールモカ」があります。





○タカラ湯 足立区千住元町27-1
ミルクホールモカから奥に入っていくと、昭和2(1927)年創業、昭和13(1938)年築のレトロ銭湯「タカラ湯」があります。
こちらで記載しています。



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元宿堰稲荷大神 道標 武州千住碑
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元宿堰稲荷神社(千住桜木)
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お化け煙突~隅田川テラス(千住桜木)
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元宿堰稲荷大神 道標 武州千住碑
○元宿堰稲荷大神(元宮) 足立区千住桜木2-1-1
元宿堰稲荷大神の祠が建立されています。南にある元宿堰稲荷神社の元宮です。この傍らには、かつて隅田川につながる元宿堀があり、堀には堰、水門がありました。
ここは葛飾北斎が描いた「冨嶽三十六景 武州千住」の場所で、「顕彰碑」が設置されています。



<土台の煉瓦>



○千住桜木の道標 足立区千住桜木2-1-1
<道標「子育地蔵大菩薩道>
天保11(1840)年の道標です。
(正面) 「弘法大師御作 子育地蔵大菩薩道」
(同左下)「是よ里下道 壹里」


<道標「弘法大師道」>
左は、道標「是より西阿ら井 弘法大師道」、寛政5(1793)年の造立です。
右の石碑は墓石ですかね。
(正面) 「弘法大師道」
(同右上)「是より西阿ら井」
(同左下)「石橋二所建立 万人…」



「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和6年の地図を見ると、現在は千住桜木ですが、ここはかつて西新井町です。

○冨嶽三十六景「武州千住」碑 足立区千住桜木2-1-1
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。NPO法人千住文化普及会による顕彰碑が、平成28(2016)年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。そのうちの一つです。



(説明文)上段
「「武州千住」
千住浮世絵顕彰碑
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ地域でした。
葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」

(説明文)下段
「江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿圦と呼ばれました。
葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。堰の前にネギを運ぶ馬子、水路に釣り糸を垂れる人たち、その先に荒川(後の隅田川)と思われる河川と富士山が描かれています。
昭和十年頃までの元宿堀は、荒川(通称隅田川)への船の出入り口で、付近に十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。
その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和四十五年に水路は埋め立てられ、平成二十二年の道路改良工事等を経て現在の形になりました。
平成二十四年六月 足立区」



「冨嶽三十六景 武州千住」(北斎)
農夫と馬の向こうに、堰枠が見えます。刈った草を運ぶ馬を曳く農夫の手綱には草履が結び付けられており、どこまで行くのでしょうか。元宿圦では釣りをしている2人が見えます。遠景に隅田川が見え、堰枠の向こうに雪化粧の富士山が見えます。

(参考)
「従千住花街眺望ノ不二碑」(北斎)が大橋公園にあります。blog記事
「武州千住碑」(北斎)が千住桜木にあります。blog記事
元宿堰稲荷大神の祠が建立されています。南にある元宿堰稲荷神社の元宮です。この傍らには、かつて隅田川につながる元宿堀があり、堀には堰、水門がありました。
ここは葛飾北斎が描いた「冨嶽三十六景 武州千住」の場所で、「顕彰碑」が設置されています。



<土台の煉瓦>



○千住桜木の道標 足立区千住桜木2-1-1
<道標「子育地蔵大菩薩道>
天保11(1840)年の道標です。
(正面) 「弘法大師御作 子育地蔵大菩薩道」
(同左下)「是よ里下道 壹里」


<道標「弘法大師道」>
左は、道標「是より西阿ら井 弘法大師道」、寛政5(1793)年の造立です。
右の石碑は墓石ですかね。
(正面) 「弘法大師道」
(同右上)「是より西阿ら井」
(同左下)「石橋二所建立 万人…」



「東京府南足立郡千住町全図」(昭和6年1月15日 足立区立郷土博物館蔵)
昭和6年の地図を見ると、現在は千住桜木ですが、ここはかつて西新井町です。

○冨嶽三十六景「武州千住」碑 足立区千住桜木2-1-1
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の中に千住を題材にした作品が三つ含まれています。NPO法人千住文化普及会による顕彰碑が、平成28(2016)年に3ヶ所設置されています(千住仲町、千住橋戸町、千住桜木)。そのうちの一つです。



(説明文)上段
「「武州千住」
千住浮世絵顕彰碑
江戸時代より千住は風光明媚な名所として多くの文人墨客が集まり、文化的にも進んだ地域でした。
葛飾北斎(1760‐1849)は、冨嶽三十六景で「武州千住」「隅田川関屋の里」「従千住花街眺望ノ不二」三枚の作品を、千住地域を題材に描いてます。
富嶽三十六景の題材になった千住を「郷土の誇り」として、次代を担う子供たちに伝えるために、画題の対象地と想定されている付近に顕彰碑を建立しました。」

(説明文)下段
「江戸時代、ここには荒川(後の隅田川)につながる水路があり、元宿圦と呼ばれました。
葛飾北斎の「冨嶽三十六景 武州千住」は、この場所から描かれたと推定されています。堰の前にネギを運ぶ馬子、水路に釣り糸を垂れる人たち、その先に荒川(後の隅田川)と思われる河川と富士山が描かれています。
昭和十年頃までの元宿堀は、荒川(通称隅田川)への船の出入り口で、付近に十数人の船頭衆が住み、小さな港のようでした。
その後、公共下水道が整備されたことにより元宿堀はその役割を終え、昭和四十五年に水路は埋め立てられ、平成二十二年の道路改良工事等を経て現在の形になりました。
平成二十四年六月 足立区」



「冨嶽三十六景 武州千住」(北斎)
農夫と馬の向こうに、堰枠が見えます。刈った草を運ぶ馬を曳く農夫の手綱には草履が結び付けられており、どこまで行くのでしょうか。元宿圦では釣りをしている2人が見えます。遠景に隅田川が見え、堰枠の向こうに雪化粧の富士山が見えます。

(参考)
「従千住花街眺望ノ不二碑」(北斎)が大橋公園にあります。blog記事
「武州千住碑」(北斎)が千住桜木にあります。blog記事
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元宿堰稲荷神社(千住桜木)
○元宿堰稲荷神社 足立区千住桜木1-15-5
元宿堰稲荷神社は、墨堤通りに面してあります。
「旧千住四本煙突守護社」と「『いつでも夢を』ストーリーの町」の標柱があります。


<参道>
短い参道の左手に大きな社号標と保存樹のいちょうがあります。
4つ!の鳥居をくぐって、拝殿です。




<水神社>
拝殿左手奥に「水神社」。


<拝殿>




「元宿堰稲荷神社」

「由緒略記」

「四本煙突「足立の今昔」より」

<本殿>
本殿は、煉瓦造です。
「Vol.1 煉瓦と足立」佐藤貴浩(「足立史談605号」)によると、明治のはじめ頃、元宿堀に堰を設けることになり、宮城村の下川氏が工事を請け負うことになりました。工事は難航、怪我人が続出し、夢枕に現れた狐のお告げにより、堰に使っている煉瓦と同じ煉瓦を使って小さな御堂を造り、土中から見つかった田中稲荷の石を祀ったところ、工事が順調に進み、元宿堰が完成したそうです。
なお、明治のはじめに、下川馬次郎氏が宮城村に下川煉化工場を創設しています。
元宿堰稲荷神社は、墨堤通りに面してあります。
「旧千住四本煙突守護社」と「『いつでも夢を』ストーリーの町」の標柱があります。


<参道>
短い参道の左手に大きな社号標と保存樹のいちょうがあります。
4つ!の鳥居をくぐって、拝殿です。




<水神社>
拝殿左手奥に「水神社」。


<拝殿>




「元宿堰稲荷神社」

「由緒略記」

「四本煙突「足立の今昔」より」

<本殿>
本殿は、煉瓦造です。
「Vol.1 煉瓦と足立」佐藤貴浩(「足立史談605号」)によると、明治のはじめ頃、元宿堀に堰を設けることになり、宮城村の下川氏が工事を請け負うことになりました。工事は難航、怪我人が続出し、夢枕に現れた狐のお告げにより、堰に使っている煉瓦と同じ煉瓦を使って小さな御堂を造り、土中から見つかった田中稲荷の石を祀ったところ、工事が順調に進み、元宿堰が完成したそうです。
なお、明治のはじめに、下川馬次郎氏が宮城村に下川煉化工場を創設しています。

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お化け煙突~隅田川テラス(千住桜木)
○隅田川テラス(千住桜木地区) 足立区千住桜木2丁目~1丁目
尾竹橋(足立区千住桜木2丁目~荒川区町屋6丁目・7丁目)と、隅田川左岸の隅田川テラス(千住桜木地区)です。
尾竹橋東詰

隅田川上流右岸から尾竹橋

隅田川下流から尾竹橋

尾竹橋下流お化け煙突付近

千住桜木町公園際

浚渫工事

千住桜木公園際から上流方面

千住桜木1丁目行き止まり

○お化け煙突モニュメント 足立区千住桜木2-2-1
お化け煙突の筒身部分の半分と、お化け煙突4本のモニュメントが展示されています。



(説明板)
「『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、昭和39年1月に解体され、その後、煙突の一部が元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。」


(説明板)
「『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和28年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率の良い発電所が建設されたことから、昭和38年3月に現役を退きました。
千住火力発電所は、昭和39年1月に解体され、その後、煙突の一部が元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。」





<煙突筒身部分の半分>



<煙突モニュメント>

○千住桜木町公園 足立区千住桜木1-7
実物大のお化け煙突のゲート、お化け煙突の登り棒、説明板「お化け煙突の由来」があります。

<おばけ煙突の由来>
ひび割れた説明板「おばけ煙突の由来」ですが、かろうじて読めます。
(説明板)
「おばけ煙突の由来
おばけ煙突を知っていますか。
昭和30年代当時、東京の下町でシンボル的存在だった千住火力発電所の煙突、それが通称「おばけ煙突」です。
4本の煙突は菱形に配置されていたため、見る角度によって4本だったり、3本だったり、2本や1本にも見え、そんな名前がついたそうです。また、時々思い出したように煙を吐く煙突を見て、いつしか近所の人々がつけたという話もあります。とにかく場所によって本数が変わり、いつ煙を吐くかわかららないこの煙突のことを、いつしか「おばけ煙突」とい呼ぶようになったのです。
公園入口のゲートで当時のおばけ煙突の大きさを体感できます。
ゲート天井には煙突の配置を模した天窓があります。
登り棒はおばけ煙突の配置となっています。
見え方が変化する地点を探してみましょう。」

<おばけ煙突ゲート>
おばけ煙突の筒身部分の半分の実物大のゲートがあります。




ゲート天井には煙突の配置を模した4つの天窓があります。

<登り棒>
おばけ煙突の配置を模した登り棒があります。



○お化け煙突と工業化 足立区立郷土博物館展示
千住火力発電所は、大正15(1926)年1月に建設されました。昭和38(1963)年に発電所は解散され、煙突は昭和39(1964)年秋から取壊され11月末には姿を消しました。五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」(昭和28(1953)年)でも全国的に知られるようになりました。

<千住火力発電所の1/200の模型>

「煙突の見える場所」(五所平之助監督作品。昭和28年公開)

「お化け煙突(1本〜4本)」(昭和29(1954)年 足立区郷土博物館データベースより)




「取壊し中の4本煙突」(昭和39(1964)年 足立区郷土博物館データベースより)

尾竹橋(足立区千住桜木2丁目~荒川区町屋6丁目・7丁目)と、隅田川左岸の隅田川テラス(千住桜木地区)です。
尾竹橋東詰

隅田川上流右岸から尾竹橋

隅田川下流から尾竹橋

尾竹橋下流お化け煙突付近

千住桜木町公園際

浚渫工事

千住桜木公園際から上流方面

千住桜木1丁目行き止まり

○お化け煙突モニュメント 足立区千住桜木2-2-1
お化け煙突の筒身部分の半分と、お化け煙突4本のモニュメントが展示されています。



(説明板)
「『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、左図のように薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、昭和39年1月に解体され、その後、煙突の一部が元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。」


(説明板)
「『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、燃料に石炭を使用していましたが、発電所自体の老朽化も進んだことから、昭和28年に一部を重油で発電するように変更されました。さらに技術革新が進み、より大型で効率の良い発電所が建設されたことから、昭和38年3月に現役を退きました。
千住火力発電所は、昭和39年1月に解体され、その後、煙突の一部が元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
縮尺20分の1のモデルで煙突の見え方を体験して下さい。」





<煙突筒身部分の半分>



<煙突モニュメント>

○千住桜木町公園 足立区千住桜木1-7
実物大のお化け煙突のゲート、お化け煙突の登り棒、説明板「お化け煙突の由来」があります。

<おばけ煙突の由来>
ひび割れた説明板「おばけ煙突の由来」ですが、かろうじて読めます。
(説明板)
「おばけ煙突の由来
おばけ煙突を知っていますか。
昭和30年代当時、東京の下町でシンボル的存在だった千住火力発電所の煙突、それが通称「おばけ煙突」です。
4本の煙突は菱形に配置されていたため、見る角度によって4本だったり、3本だったり、2本や1本にも見え、そんな名前がついたそうです。また、時々思い出したように煙を吐く煙突を見て、いつしか近所の人々がつけたという話もあります。とにかく場所によって本数が変わり、いつ煙を吐くかわかららないこの煙突のことを、いつしか「おばけ煙突」とい呼ぶようになったのです。
公園入口のゲートで当時のおばけ煙突の大きさを体感できます。
ゲート天井には煙突の配置を模した天窓があります。
登り棒はおばけ煙突の配置となっています。
見え方が変化する地点を探してみましょう。」

<おばけ煙突ゲート>
おばけ煙突の筒身部分の半分の実物大のゲートがあります。




ゲート天井には煙突の配置を模した4つの天窓があります。

<登り棒>
おばけ煙突の配置を模した登り棒があります。



○お化け煙突と工業化 足立区立郷土博物館展示
千住火力発電所は、大正15(1926)年1月に建設されました。昭和38(1963)年に発電所は解散され、煙突は昭和39(1964)年秋から取壊され11月末には姿を消しました。五所平之助監督の映画「煙突の見える場所」(昭和28(1953)年)でも全国的に知られるようになりました。

<千住火力発電所の1/200の模型>

「煙突の見える場所」(五所平之助監督作品。昭和28年公開)

「お化け煙突(1本〜4本)」(昭和29(1954)年 足立区郷土博物館データベースより)




「取壊し中の4本煙突」(昭和39(1964)年 足立区郷土博物館データベースより)

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仲町氷川神社(千住仲町)
○仲町氷川神社 足立区千住仲町48-2
平安時代の延喜年間(901-23年)に現在地より南東の牛田寄の元宮に創建し、江戸初期の元和2(1616)年に現在地に遷座。


<江戸名所図会>
其二「牛田薬師堂関屋里」と其三「関屋天満宮」を繋げています。
手前に千住川(隅田川)、右から奥に綾瀬川が流れています。

其二下の隅田川沿いに「元天神」が見えます。

其三「関屋天満宮」に、「関や天神」「氷川」が見えます。右手に「此辺を関屋の里といふ」とあります。

<仲町氷川神社>
(説明板)
「仲町氷川神社
仲町氷川神社は素戔嗚尊を祭神とし、社伝によれば元和二年(一六一六)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から五丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理していたと記されている。この神社には、つぎのような文化財が伝えられている。
関屋天満宮碑 関屋天満宮は、神社本殿左側に社殿がある境内社のひとつである。「新編武蔵風土記」に「天神社小名関屋ニアリシ社ヲ移セリ。故ニ鳥居ニ関屋天満宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」とある。関屋から移転した時代は不明である。文化四年(一八〇七)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川の門人たちが建立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には、月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(歴史資料)となった。
金銅装神輿 総高二二四・五cm、胴部幅六三・五cm、基部幅一一六cmの大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔絵で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
弁天像供養庚申塔 境内の岩の祠の中に安置される。元禄二年(一六八九)重陽(旧暦九月)二十八日の日付を持ち、十名の建立者の名が刻まれている。庚申塔には珍しく、弁財天を主尊として陽刻している。その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表わされている。昭和五十八年十二月に区登録有形民俗文化財となった。
四神紋鏡(天保戊戌年在銘) 天保九年(一八三八)制作で、鏡背に青海波に秋津(蜻蛉)の和風文様が鋳出されている。付属する鏡立は、嘉永七年(一八五四=安政元年)に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和六十年十一月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
平成二十二年三月 足立区教育委員会」

<鳥居>
鳥居には「明治三十七八年日露戦捷紀念」とあります。別途「日露戦捷紀念碑」もあります。

<石燈籠>
石燈籠は文政2年銘。

<本殿>
拝殿は、味のある柱のある洋風の柵で囲まれています。







<境内/社務所>



<関屋天満宮>
江戸名所図会に描かれている関屋天満宮です。石碑は足立区有形文化財です。






(説明板)
「関屋天満宮(足立区有形文化財 関屋天満宮碑)
御祭神 菅原道真
由緒
鎮座のはじめは、村上天皇の時代、天暦三年の二月(九四九年)で御神体は菅公の自作百体彫刻の内の一体であると伝わり、元関屋の里に在って、関屋天神と申しました。
新編武蔵風土記 文政十一年(一八二八年)の編纂によれば、源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより、関屋の地名が起きたといわれ、この地はその昔、名主庄左ェ門の所有地で、この辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により、天明七年八月(一七八七年)当社内に御遷宮されました。
その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」と詠まれたのはこの辺りと思われます。
また塚の周囲の葦がみな片葉であった為に、片葉の天神ともいわれていました。
古くから学業成就の神として里人に親しまれています。
例祭日 四月二十五日」

<江島神社弁財天>
石の鳥居扁額には、龍の彫刻が施されています。




<弁財天供養庚申塔>
小さな池で囲まれた小岩窟に、弁財天供養庚申塔が祀られています。元禄2(1689)年の造立。弁財天像は、台座に「三猿」が彫られており、庚申塔も兼ねる珍しい弁財天像です。



(説明板)
「千寿弁財天 (千住七福神)
祭神 市杵島比売命
弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福徳・知恵・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています。
この弁天像は供養庚申塔として元禄二年(一六八九年)に造塔されたもので右手に剣を握り左手に宝珠を持っています。
塔の上部には日月、中ほどには二鶏、下部には三猿がそれぞれに刻まれています。
弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています。
(足立区登録有形民俗文化財)」

<三峯神社/稲荷神社>



<日露戦捷紀念碑>
駐車場入口に「日露戦捷紀念碑」があります。側面「海軍大将東郷平八郎題」とあります。出征軍人の名が刻まれています。



平安時代の延喜年間(901-23年)に現在地より南東の牛田寄の元宮に創建し、江戸初期の元和2(1616)年に現在地に遷座。


<江戸名所図会>
其二「牛田薬師堂関屋里」と其三「関屋天満宮」を繋げています。
手前に千住川(隅田川)、右から奥に綾瀬川が流れています。

其二下の隅田川沿いに「元天神」が見えます。

其三「関屋天満宮」に、「関や天神」「氷川」が見えます。右手に「此辺を関屋の里といふ」とあります。

<仲町氷川神社>
(説明板)
「仲町氷川神社
仲町氷川神社は素戔嗚尊を祭神とし、社伝によれば元和二年(一六一六)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から五丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理していたと記されている。この神社には、つぎのような文化財が伝えられている。
関屋天満宮碑 関屋天満宮は、神社本殿左側に社殿がある境内社のひとつである。「新編武蔵風土記」に「天神社小名関屋ニアリシ社ヲ移セリ。故ニ鳥居ニ関屋天満宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」とある。関屋から移転した時代は不明である。文化四年(一八〇七)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川の門人たちが建立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には、月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(歴史資料)となった。
金銅装神輿 総高二二四・五cm、胴部幅六三・五cm、基部幅一一六cmの大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔絵で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
弁天像供養庚申塔 境内の岩の祠の中に安置される。元禄二年(一六八九)重陽(旧暦九月)二十八日の日付を持ち、十名の建立者の名が刻まれている。庚申塔には珍しく、弁財天を主尊として陽刻している。その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表わされている。昭和五十八年十二月に区登録有形民俗文化財となった。
四神紋鏡(天保戊戌年在銘) 天保九年(一八三八)制作で、鏡背に青海波に秋津(蜻蛉)の和風文様が鋳出されている。付属する鏡立は、嘉永七年(一八五四=安政元年)に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和六十年十一月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
平成二十二年三月 足立区教育委員会」

<鳥居>
鳥居には「明治三十七八年日露戦捷紀念」とあります。別途「日露戦捷紀念碑」もあります。

<石燈籠>
石燈籠は文政2年銘。

<本殿>
拝殿は、味のある柱のある洋風の柵で囲まれています。







<境内/社務所>



<関屋天満宮>
江戸名所図会に描かれている関屋天満宮です。石碑は足立区有形文化財です。






(説明板)
「関屋天満宮(足立区有形文化財 関屋天満宮碑)
御祭神 菅原道真
由緒
鎮座のはじめは、村上天皇の時代、天暦三年の二月(九四九年)で御神体は菅公の自作百体彫刻の内の一体であると伝わり、元関屋の里に在って、関屋天神と申しました。
新編武蔵風土記 文政十一年(一八二八年)の編纂によれば、源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより、関屋の地名が起きたといわれ、この地はその昔、名主庄左ェ門の所有地で、この辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により、天明七年八月(一七八七年)当社内に御遷宮されました。
その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」と詠まれたのはこの辺りと思われます。
また塚の周囲の葦がみな片葉であった為に、片葉の天神ともいわれていました。
古くから学業成就の神として里人に親しまれています。
例祭日 四月二十五日」

<江島神社弁財天>
石の鳥居扁額には、龍の彫刻が施されています。




<弁財天供養庚申塔>
小さな池で囲まれた小岩窟に、弁財天供養庚申塔が祀られています。元禄2(1689)年の造立。弁財天像は、台座に「三猿」が彫られており、庚申塔も兼ねる珍しい弁財天像です。



(説明板)
「千寿弁財天 (千住七福神)
祭神 市杵島比売命
弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福徳・知恵・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています。
この弁天像は供養庚申塔として元禄二年(一六八九年)に造塔されたもので右手に剣を握り左手に宝珠を持っています。
塔の上部には日月、中ほどには二鶏、下部には三猿がそれぞれに刻まれています。
弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています。
(足立区登録有形民俗文化財)」

<三峯神社/稲荷神社>



<日露戦捷紀念碑>
駐車場入口に「日露戦捷紀念碑」があります。側面「海軍大将東郷平八郎題」とあります。出征軍人の名が刻まれています。




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