元吉原 人形町
○元吉原
かつて人形町にあった、葭原遊廓(後に縁起をかつぎ吉原遊郭)は、元和3(1617)年に葦の繁茂する湿地を埋立てて造成され、掘で囲んだ遊郭は江戸一番の歓楽の地となりました。
明暦3(1657)年の大火で消失した吉原遊廓は、40年の歴史を閉じ、新吉原へ移されました。
<かつてあった元吉原の石碑> 中央区日本橋人形町2-4-3
駅のリニューアル工事を行っていて、「元吉原」の説明碑がありません。工事は令和4年3月31日までです。工事が終わって戻るのかどうか。 ※工事は令和6年6月30日までとなりました。


<人形町界隈の歴史>「隅田川テラス周辺案内図」(清洲橋西詰の南側)
清洲橋西詰にある「隅田川テラス周辺案内図」に、吉原遊郭について説明があります。
「◆人形町界隈の歴史
江戸初期、今の中央区人形町付近は葭(よし)の生い茂る低湿地でしたが、幕府公認の遊里ができると、一帯は一転して歓楽の地となりました。明暦の大火(1657)で吉原遊郭が焼失した後は、中村座、市村座を中心とする芝居町となり、歌舞伎芝居の客で賑わいました。土産の人形を売る店が増えたため、付近の町々を総称して”人形町”と俗称するようになりました。」

「新添江戸之圖」(国立国会図書館蔵書)
明暦の大火の直前に描かれた江戸之図に、吉原遊郭が描かれています。北に1ヶ所だけ橋がかかっているのが見えます。

「江戸名所図会 堺町 葺屋町 劇場」
芝居小屋の賑わいが描かれています。手前に流れているのは東堀留川で、「親父橋」が架かっています。中村座、市村座は、この絵が描かれた直後、天保の改革により、天保13(1842)年に猿若町に移転しました。


「江戸名所百人美女 人形町」
こま絵の店看板には「菊露香」とあります。人形町通りにあった女形の歌舞伎役者、瀬川菊之丞の白粉を売る化粧品店です。瀬川菊之丞は、化粧品店を副業としていました。
美女は、白粉の「寿々女香」を手にしています。床にも化粧品が置いてあります。


○大門通り
「大門(おおもん)通り」のプレートがあるのは、遊郭「元吉原」があったことの名残りです。かつては、遊郭の中央を南北に貫いていました。人形町2丁目はプレートの標識ですが、人形町3丁目からは電柱の表示となっています。
<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-20-3
甘酒横丁との交差点に「大門通り」の標識があります。ここは遊郭の大門通りの水道尻の先で、遊郭の外です。
一方通行の大門通りを進んで、3つ目の交差点から先(末広神社のある通りから先)が遊郭だったようです。


<大門通り>
一方通行のごく一般的な道路です。


<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-7-8
こちらのプレートは、かつての大門内(遊郭内)にあります。



<電柱の標識> 中央区日本橋人形町3丁目
信号の交差点を越えるて人形町3丁目に入ると、電柱での「大門通り」表示となります。2つ目の交差点(人形町3-12)が、「元吉原大門跡」とgoogle mapに表示されています。

「江戸名所図会 大門通」
挿絵には「昔此地に吉原町ありし頃の大門の通りなり しかによりかく名つく 今は銅物屋馬具師多く住り」「鐘ひとつ うれぬ日もなし 江戸の春 其角」とあります。
大門通には、銅物屋、馬具屋が多くありました。右の店では、仏具が売られています。灯篭、燭台、神盃などなど。梵鐘は大きなものから小さなものまで売っています。店内でお茶を出されている客は、僧侶です。
左の菊屋の屋号の店では、馬具、甲冑の武具を売っています。店内の客は刀を差した武士です。
道には、梵鐘を載せた大八車を6人で運んでいます。

○末廣神社 中央区日本橋人形町2-25-20 HP
<末広神社由来>
元和3(1617)年、庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、未開の沼地を開拓し、江戸町一、二丁目・京町一、二丁目を定めました。これが江戸で初めての遊郭「葭原(吉原)」となり、人々は末廣神社を鎮守として信仰しました。明暦2(1656年)年、幕府は葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、遊郭は現在地へ移転し「新吉原」が開かれました。
(掲示の沿革よりHPの由緒がわかりやすかったので、HPを参照しました)





<玉垣>
「葭町芸妓芸妓屋組合」奉納の玉垣があります。吉原遊郭が移転した後、この地は花街として繁栄した歴史を語っています。



<手水鉢と参道>
狭い神社で参道も短いのですが、ひととおり揃っています。


<石徳/見番さんのお稲荷>
様々な徳を授け高める力があるといわれる「石徳」と、見番さんのお稲荷さんがあります。


<「は組」の石碑>
火消しの石碑は、よく見るところです。



<拝殿>
「人生草露の如し辛艱 何ぞ虞るるに足らん 吉田松陰」の掲示があります。
末廣酒造と関係が深いようです。福島の末廣酒造ですが、かつて日本橋で商売していた時に氏子だったのでしょうかね。



○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12
人形町通りの説明板を見ていきます。
(説明板)
「人形町の由来
The History of the Name of the Ningyocho
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。」



○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12
(説明板)
「現在の人形町交差点北側一帯には、江戸唯一の歓楽街が在りました。中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので、江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。」


○江戸からの商業地 中央区日本橋人形町1-16-10
(説明板)
「江戸からの商業地
この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる掘り割りが多く在り、物資の大量輸送を容易にし商業が盛んになる基礎をつくりました。
明治に入って武家地の場所は、広く商業地となり、第五国立銀行をはじめ、米穀取引所が設けられ「米屋町」と呼ばれ活気がありました。現在も商業の中心地のひとつとして繁栄しております。
明治に入って人形町通りも確立し、水天宮・明治座・商業地周辺にひかえた商店街として共に繁盛し、現在に続いています。」
「東京自慢人形町通り水天宮繁栄之図」(明治15年 国利)




○水天宮 中央区日本橋人形町2-2-1
水天宮の説明があります。

○からくり櫓「町火消し」 中央区日本橋人形町1-17-4
「は組」の衣裳を着た人形が梯子乗りを披露します。もう1基が2丁目にあります。
(説明板)
「からくり櫓 町火消し
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。
当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。
流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣(きやり)」です。
(社)江戸消防記念会第一区八番「は組」の方々に資料や助言の協力を頂きました。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分 平成21年11月完成」





○からくり櫓「江戸落語」 中央区日本橋人形町2-2
(説明板)
「からくり櫓 江戸落語
下段の緞帳が開くと噺や家の人形が登場。
落語家 立川談幸氏による創作小噺「人形町の由来」が流れます。
上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分 平成21年11月完成」




○谷崎潤一郎生誕の地 中央区日本橋人形町1-7-10
谷崎潤一郎は日本橋区蠣殻町2丁目14番地(現在地)で祖父経営の谷崎活版所で生まれました。


碑文には「松子書」とあり、谷崎潤一郎の3人目で最後の妻、随筆家の谷崎松子(1903年9月24日〜1991年2月1日)による書です。
(碑文)
「谷崎潤一郎生誕の地
1886ー1965
元東京市日本橋區蠣殻町二丁目十四番地
松子書」

(説明板)
「谷崎潤一郎生誕の地
所在地 中央区日本橋人形町一‐七‐十
谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くて文学にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文学界で名を成しました。
のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』『春琴抄』『細雪』『少将滋幹の母』などを遺しています。この間、昭和十二年、芸術会員に推され、同二十四年には文化勲章を受章していました。
平成七年三月 中央区教育委員会」

※日本橋川に架かる兜橋の説明板「鎧橋」に、谷崎潤一郎「幼少時代」の一部が紹介されています。こちらで記載済。
「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・・・(以下略)」
かつて人形町にあった、葭原遊廓(後に縁起をかつぎ吉原遊郭)は、元和3(1617)年に葦の繁茂する湿地を埋立てて造成され、掘で囲んだ遊郭は江戸一番の歓楽の地となりました。
明暦3(1657)年の大火で消失した吉原遊廓は、40年の歴史を閉じ、新吉原へ移されました。
<かつてあった元吉原の石碑> 中央区日本橋人形町2-4-3
駅のリニューアル工事を行っていて、「元吉原」の説明碑がありません。工事は令和4年3月31日までです。工事が終わって戻るのかどうか。 ※工事は令和6年6月30日までとなりました。


<人形町界隈の歴史>「隅田川テラス周辺案内図」(清洲橋西詰の南側)
清洲橋西詰にある「隅田川テラス周辺案内図」に、吉原遊郭について説明があります。
「◆人形町界隈の歴史
江戸初期、今の中央区人形町付近は葭(よし)の生い茂る低湿地でしたが、幕府公認の遊里ができると、一帯は一転して歓楽の地となりました。明暦の大火(1657)で吉原遊郭が焼失した後は、中村座、市村座を中心とする芝居町となり、歌舞伎芝居の客で賑わいました。土産の人形を売る店が増えたため、付近の町々を総称して”人形町”と俗称するようになりました。」

「新添江戸之圖」(国立国会図書館蔵書)
明暦の大火の直前に描かれた江戸之図に、吉原遊郭が描かれています。北に1ヶ所だけ橋がかかっているのが見えます。

「江戸名所図会 堺町 葺屋町 劇場」
芝居小屋の賑わいが描かれています。手前に流れているのは東堀留川で、「親父橋」が架かっています。中村座、市村座は、この絵が描かれた直後、天保の改革により、天保13(1842)年に猿若町に移転しました。


「江戸名所百人美女 人形町」
こま絵の店看板には「菊露香」とあります。人形町通りにあった女形の歌舞伎役者、瀬川菊之丞の白粉を売る化粧品店です。瀬川菊之丞は、化粧品店を副業としていました。
美女は、白粉の「寿々女香」を手にしています。床にも化粧品が置いてあります。


○大門通り
「大門(おおもん)通り」のプレートがあるのは、遊郭「元吉原」があったことの名残りです。かつては、遊郭の中央を南北に貫いていました。人形町2丁目はプレートの標識ですが、人形町3丁目からは電柱の表示となっています。
<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-20-3
甘酒横丁との交差点に「大門通り」の標識があります。ここは遊郭の大門通りの水道尻の先で、遊郭の外です。
一方通行の大門通りを進んで、3つ目の交差点から先(末広神社のある通りから先)が遊郭だったようです。


<大門通り>
一方通行のごく一般的な道路です。


<大門通りの標識> 中央区日本橋人形町2-7-8
こちらのプレートは、かつての大門内(遊郭内)にあります。



<電柱の標識> 中央区日本橋人形町3丁目
信号の交差点を越えるて人形町3丁目に入ると、電柱での「大門通り」表示となります。2つ目の交差点(人形町3-12)が、「元吉原大門跡」とgoogle mapに表示されています。

「江戸名所図会 大門通」
挿絵には「昔此地に吉原町ありし頃の大門の通りなり しかによりかく名つく 今は銅物屋馬具師多く住り」「鐘ひとつ うれぬ日もなし 江戸の春 其角」とあります。
大門通には、銅物屋、馬具屋が多くありました。右の店では、仏具が売られています。灯篭、燭台、神盃などなど。梵鐘は大きなものから小さなものまで売っています。店内でお茶を出されている客は、僧侶です。
左の菊屋の屋号の店では、馬具、甲冑の武具を売っています。店内の客は刀を差した武士です。
道には、梵鐘を載せた大八車を6人で運んでいます。

○末廣神社 中央区日本橋人形町2-25-20 HP
<末広神社由来>
元和3(1617)年、庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、未開の沼地を開拓し、江戸町一、二丁目・京町一、二丁目を定めました。これが江戸で初めての遊郭「葭原(吉原)」となり、人々は末廣神社を鎮守として信仰しました。明暦2(1656年)年、幕府は葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、遊郭は現在地へ移転し「新吉原」が開かれました。
(掲示の沿革よりHPの由緒がわかりやすかったので、HPを参照しました)





<玉垣>
「葭町芸妓芸妓屋組合」奉納の玉垣があります。吉原遊郭が移転した後、この地は花街として繁栄した歴史を語っています。



<手水鉢と参道>
狭い神社で参道も短いのですが、ひととおり揃っています。


<石徳/見番さんのお稲荷>
様々な徳を授け高める力があるといわれる「石徳」と、見番さんのお稲荷さんがあります。


<「は組」の石碑>
火消しの石碑は、よく見るところです。



<拝殿>
「人生草露の如し辛艱 何ぞ虞るるに足らん 吉田松陰」の掲示があります。
末廣酒造と関係が深いようです。福島の末廣酒造ですが、かつて日本橋で商売していた時に氏子だったのでしょうかね。



○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12
人形町通りの説明板を見ていきます。
(説明板)
「人形町の由来
The History of the Name of the Ningyocho
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居、浄瑠璃芝居、見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和8年になってからです。」



○人形町の由来 中央区日本橋人形町1-18-12
(説明板)
「現在の人形町交差点北側一帯には、江戸唯一の歓楽街が在りました。中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので、江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。」


○江戸からの商業地 中央区日本橋人形町1-16-10
(説明板)
「江戸からの商業地
この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる掘り割りが多く在り、物資の大量輸送を容易にし商業が盛んになる基礎をつくりました。
明治に入って武家地の場所は、広く商業地となり、第五国立銀行をはじめ、米穀取引所が設けられ「米屋町」と呼ばれ活気がありました。現在も商業の中心地のひとつとして繁栄しております。
明治に入って人形町通りも確立し、水天宮・明治座・商業地周辺にひかえた商店街として共に繁盛し、現在に続いています。」
「東京自慢人形町通り水天宮繁栄之図」(明治15年 国利)




○水天宮 中央区日本橋人形町2-2-1
水天宮の説明があります。

○からくり櫓「町火消し」 中央区日本橋人形町1-17-4
「は組」の衣裳を着た人形が梯子乗りを披露します。もう1基が2丁目にあります。
(説明板)
「からくり櫓 町火消し
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。
当時の衣装などを再現した人形が「梯子(はしご)乗り」や「纏(まとい)上げ」を披露します。
流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣(きやり)」です。
(社)江戸消防記念会第一区八番「は組」の方々に資料や助言の協力を頂きました。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分 平成21年11月完成」





○からくり櫓「江戸落語」 中央区日本橋人形町2-2
(説明板)
「からくり櫓 江戸落語
下段の緞帳が開くと噺や家の人形が登場。
落語家 立川談幸氏による創作小噺「人形町の由来」が流れます。
上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時 約2分 平成21年11月完成」




○谷崎潤一郎生誕の地 中央区日本橋人形町1-7-10
谷崎潤一郎は日本橋区蠣殻町2丁目14番地(現在地)で祖父経営の谷崎活版所で生まれました。


碑文には「松子書」とあり、谷崎潤一郎の3人目で最後の妻、随筆家の谷崎松子(1903年9月24日〜1991年2月1日)による書です。
(碑文)
「谷崎潤一郎生誕の地
1886ー1965
元東京市日本橋區蠣殻町二丁目十四番地
松子書」

(説明板)
「谷崎潤一郎生誕の地
所在地 中央区日本橋人形町一‐七‐十
谷崎潤一郎(一八八六~一九六五)は、明治十九年七月二十四日、この地にあった祖父経営の谷崎活版所で生まれました。
同二十五年、阪本尋常高等小学校に入学しました。その後、父の事業の失敗により、近くを転々としました。若くて文学にすぐれ、東京帝国大学国文科を家庭の事情で中退したのち、第二次『新思潮』の同人となり、『刺青』『少年』など耽美と背徳の世界を華麗に描いて、文学界で名を成しました。
のち、日本的な伝統美に傾倒し、『蓼喰ふ虫』『春琴抄』『細雪』『少将滋幹の母』などを遺しています。この間、昭和十二年、芸術会員に推され、同二十四年には文化勲章を受章していました。
平成七年三月 中央区教育委員会」

※日本橋川に架かる兜橋の説明板「鎧橋」に、谷崎潤一郎「幼少時代」の一部が紹介されています。こちらで記載済。
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天然温泉 湯舞音 龍ヶ崎店
○天然温泉 湯舞音 龍ヶ崎店 龍ケ崎市中里2-1-2 0297-63-5594
湯舞音は、ショッピングモール「たつのこまち龍ケ崎モール」にある日帰り温泉施設です。2018(平成30)年6月26日にオープン。
じゃらんのポイントを利用して入浴。






<館内>
浴室は2階にあります。浴室入口反対側にはフィットネス。
入浴料金は、平日880円、土日祝980円(2021年11月19日〜)





<源泉>
成分総計16.4gの高張泉です。
源泉名:龍ヶ崎温泉 湯舞音 ナトリウム塩化物強塩温泉(高張性・中性・低温泉)
源泉所在地:龍ヶ崎市中里二丁目1番2
泉温:28.1℃
知覚的試験:無色澄明無臭強塩味ガス発砲有
成分総計:16.4g/kg
影響を与える事項:掲示がありません。加温、循環ろ過、塩素でしょう。加水の有無は不明。


<露天風呂>
露天に入口から手前に温泉浴槽(41℃)、奥に天然温泉炭酸泉浴槽(37℃)があります。両浴槽とも、塩辛い高張泉です。湯の鮮度はいまいちですかね。

<源泉タンク>
駐車場に源泉タンクがあります。
火気厳禁の掲示が周囲に多数掲示。タンク上にはガスセパレーターがあります。知覚的試験に「ガス発砲有」とあったので、天然ガスも含めて湧出しているのでしょう。



○ご当地買い物
湯舞音のあるショッピングモールで買い物。
<マイルドコーヒー 関東乳業>
龍ヶ崎市の関東乳業のマイルドコーヒーを購入。



<大粒納豆 ひげた食品>
ひげた食品(茨城県土浦市)の大粒納豆(茨城産大豆使用)を購入。大豆がとても大粒で、大豆を食べているようです。




<スペースアポロ>
茨城産ではありませんが、レトロな「スペースアポロ」があったので購入。

湯舞音は、ショッピングモール「たつのこまち龍ケ崎モール」にある日帰り温泉施設です。2018(平成30)年6月26日にオープン。
じゃらんのポイントを利用して入浴。






<館内>
浴室は2階にあります。浴室入口反対側にはフィットネス。
入浴料金は、平日880円、土日祝980円(2021年11月19日〜)





<源泉>
成分総計16.4gの高張泉です。
源泉名:龍ヶ崎温泉 湯舞音 ナトリウム塩化物強塩温泉(高張性・中性・低温泉)
源泉所在地:龍ヶ崎市中里二丁目1番2
泉温:28.1℃
知覚的試験:無色澄明無臭強塩味ガス発砲有
成分総計:16.4g/kg
影響を与える事項:掲示がありません。加温、循環ろ過、塩素でしょう。加水の有無は不明。


<露天風呂>
露天に入口から手前に温泉浴槽(41℃)、奥に天然温泉炭酸泉浴槽(37℃)があります。両浴槽とも、塩辛い高張泉です。湯の鮮度はいまいちですかね。

<源泉タンク>
駐車場に源泉タンクがあります。
火気厳禁の掲示が周囲に多数掲示。タンク上にはガスセパレーターがあります。知覚的試験に「ガス発砲有」とあったので、天然ガスも含めて湧出しているのでしょう。



○ご当地買い物
湯舞音のあるショッピングモールで買い物。
<マイルドコーヒー 関東乳業>
龍ヶ崎市の関東乳業のマイルドコーヒーを購入。



<大粒納豆 ひげた食品>
ひげた食品(茨城県土浦市)の大粒納豆(茨城産大豆使用)を購入。大豆がとても大粒で、大豆を食べているようです。




<スペースアポロ>
茨城産ではありませんが、レトロな「スペースアポロ」があったので購入。


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伝馬町処刑場跡(大安楽寺)と身延別院
○大安楽寺 中央区日本橋小伝馬町3-5
小伝馬町牢屋敷は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、十思スクエア辺りとされており、大安楽寺は処刑場のあった場所とされています。
大安楽寺は、明治8(1875)年に大倉喜八郎と安田善次郎の所有地に、両氏等の発願により創建されました。寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来します。




<縁起等>
外壁に「縁起」と「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。
「江戸伝馬町処刑場跡」碑の裏面は「百度石」となっています。



<江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡>
江戸伝馬町牢井戸跡の石垣の一部があります。


<延命地蔵尊>
かつての処刑場の場所に延命地蔵尊が祀られています。
台座に「為戦歿殉難諸霊菩提」と刻まれています。
さらに下に「為囚死群霊離苦得脱」(山岡鉄舟筆による陽物額)と刻まれています。
「子育 息災
延命地蔵尊
真言 おん かかかび さんまえい そわか
安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、
処刑場跡を供養するために建立された。
製作者 日展審査委員横江嘉純
御縁日は二十四日」



表面「江戸傳馬町牢御椓場跡」
裏面「刑場のあと」


<辯財天使神>


<宝安稲荷大明神>


<江戸八臂辯財天>



○身延別院 中央区日本橋小伝馬町3-2




<御題目供養塔>
日薩上人が吉田松陰・橋本左内等小伝馬牢の獄死者追善のため建立したもの。


裏にあるのは、誰かの供養塔でしょうか。

<本堂>

<油かけ大黒天神>



<光明稲荷>

<鰻塚>
日本橋蒲焼商組合による鰻の供養塔です。昭和58(1983)年4月3日の建立です。



小伝馬町牢屋敷は、現在の大安楽寺や身延別院、十思公園、十思スクエア辺りとされており、大安楽寺は処刑場のあった場所とされています。
大安楽寺は、明治8(1875)年に大倉喜八郎と安田善次郎の所有地に、両氏等の発願により創建されました。寺名の大安楽寺の「大」は大倉、「安」は安田の名に由来します。




<縁起等>
外壁に「縁起」と「江戸伝馬町処刑場跡」碑があります。
「江戸伝馬町処刑場跡」碑の裏面は「百度石」となっています。



<江戸伝馬町牢石垣之一部 江戸伝馬町牢井戸跡>
江戸伝馬町牢井戸跡の石垣の一部があります。


<延命地蔵尊>
かつての処刑場の場所に延命地蔵尊が祀られています。
台座に「為戦歿殉難諸霊菩提」と刻まれています。
さらに下に「為囚死群霊離苦得脱」(山岡鉄舟筆による陽物額)と刻まれています。
「子育 息災
延命地蔵尊
真言 おん かかかび さんまえい そわか
安政の大獄で名高い吉田松陰を始めとする人々の伝馬町牢、
処刑場跡を供養するために建立された。
製作者 日展審査委員横江嘉純
御縁日は二十四日」



表面「江戸傳馬町牢御椓場跡」
裏面「刑場のあと」


<辯財天使神>


<宝安稲荷大明神>


<江戸八臂辯財天>



○身延別院 中央区日本橋小伝馬町3-2




<御題目供養塔>
日薩上人が吉田松陰・橋本左内等小伝馬牢の獄死者追善のため建立したもの。


裏にあるのは、誰かの供養塔でしょうか。

<本堂>

<油かけ大黒天神>



<光明稲荷>

<鰻塚>
日本橋蒲焼商組合による鰻の供養塔です。昭和58(1983)年4月3日の建立です。




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伝馬町牢屋敷跡遺跡
○小伝馬町牢屋敷展示館 中央区日本橋小伝馬町5-19
旧十思小学校の校舎が十思スクエアとなり、小学校の体育館とプールが解体され、十思スクエア別館が建っています。
「十思スクエア別館」の2階は銭湯で、1階のエレベーターホールに「小伝馬町牢屋敷展示館」があります。小伝馬町牢屋敷の模型とパネル数枚、外の地下に牢屋敷の井戸と水道管があり、展示館というより展示スペースといった印象です。





(説明掲示)
「小伝馬町牢屋敷展示館
まちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。
小伝馬町牢屋敷模型
牢屋敷は、慶長年間(1596年~1615年)に常盤橋際から移って、現在の日本橋小伝馬町の十思小学校、講演、大安楽寺、見延別院などがある一帯の地域にありました。その面積2,618坪(8,637平方メートル)。周辺に土手を築いて堀をめぐらし、土塀に囲まれた場内に模型の諸施設がありました。
明治8年(1875年)市ヶ谷監獄ができるまでの約270年間に入獄した者は数十万人を数えたといいますが、幕末にいたり、蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英が投獄され、また安政の大獄の際、吉田松陰、橋本左内ら多くの志士たちが斬首の刑に処せられた痛ましい歴史を残しました。なお、磔や火刑に処せられる大罪人は、江戸市中引廻しのうえ、小塚原や鈴ヶ森へ送られました。
中央区まちかど展示館」
(文中の「講演」は「公園」、「見延別院」は、「身延別院」の誤記です。)



「主な施設の説明」

「伝馬町牢屋敷に収監された有名人①」
収監されていた人物の説明。
吉田松陰、高野長英、橋本左内、頼三樹三郎、渡辺崋山


「伝馬町牢屋敷に収監された有名人②」
八百屋お七、鼠小僧次郎吉、平賀源内

<出土した牢屋敷の井戸と水道管>
建物の外には、牢屋敷内のために使われていた上水井戸と上水木桶(水道管)を見ることができます。




(説明板)
「出土した牢屋敷の井戸と水道管
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康公が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1613)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した井戸や水道管をはじめとして、多数の水道施設が発見されました。半ば外部と遮断された牢屋敷内において、水の確保がとても重要であったことを物語っています。この井戸は上水井戸、水道管は上水木樋と呼びます。上水井戸は上水木樋とつながって、水が中に溜まる仕組みになっています。上水木樋は木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある、神田上水から引き込まれたものと思われます。いずれも「舟釘」と呼ばれる大形の釘でしっかりと固定、密閉されており、水が外に漏れ出さない工夫がされています。
このほか、複数の石垣が連なるように見つかりました。牢屋敷の内部も石垣で仕切られていたことがわかった貴重な発見です。
平成26年 中央区教育委員会」


○十思スクエア別館 牢屋敷の石垣


<地下から現れた牢屋敷の石垣>
十思公園に面した十思スクエア別館の壁際に、牢屋敷の石垣の一部が移築復元されています。
(説明板)
「地下より現れた牢屋敷の石垣
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正18年(1590)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長18年(1618)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治8年(1875)に市ヶ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。
平成24年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀でかこわれていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。
このほか、多数の上水木樋が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。
ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錘に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
平成26年 中央区教育委員会」




○十思之疏 十思スクエア別館 中央区日本橋小伝馬町5-19
十思スクエア別館の外壁に掲示されている「十思之疏」。
「旧十思小学校「十思之疏」の由来
旧十思小学校の前身となる「第一大区第一中学区第十六番小学十思小学校」は、明治10年(1877)に大伝馬塩町の地で創立されました。明治初年の行政区画(大区・小区制度)では「第十四小区」の学校として開校し、明治末年に大伝馬上町22番地(旧十思小学校の敷地)へ移転した後は、平成2年(1994)に閉校するまで多くの卒業生を輩出してきました。
なお、現存ずる旧十思小学校校舎(明治4年竣工)は、閉校後の改修を経て十思スクエア(複合施設)として活用されています。
開校以来の校名として用いられてきた「十思」の名は、中国・北宋時代の歴史書「資治通鑑」(1084年完成、司馬光著)に記されている「十思之疏」(天子がわきまえるべき十カ条の戒め<同百九十四巻>)の「十思」と、開校時の所在区画の「十四」が同音好字であることにちなんで名づけられたといわれています。
校訓でもある「十思之疏」の教えは、学び者なき芋もなお、人が生きていく上での大切な教えや智恵の道標として掲げられています。
平成29年3月」
「ー原文ー
見可欲則思知足
将興繕則思知止
処高危則思謙降
臨満盈則思?損
遇逸楽則思?節
在宴安則思後患
防壅敝則思延納
疾讒邪則思正己
行爵賞則思因喜而僣
施刑罰則思因怒而濫」
「ー意約ー
欲しいものがあっても、多くを望まないことを思う。
物事を行う時には、度をこさないようにすることを思う。
立場や地位が高くても、控えめな態度をとることを思う。
十分満足な時には、むしろ減らすようにすることを思う。
楽しみを味わうときには、程よく控えめにすることを思う。
遊び暮らしていると、身を滅ぼしてしまうことを思う。
正確な情報を得るには、周囲の意見を良く聞くことを思う。
悪口を憎むより、自分の言動を正しくすることを思う。
優れた功績をあげても、必要以上に褒めないことを思う。
過ちを罰する時には、感情的にとがめないことを思う。」




○十思スクエア(旧中央区立十思小学校) 中央区日本橋小伝馬町5-1
福祉や医療の在宅支援の複合施設となっています。



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小伝馬町 時の鐘 吉田松陰終焉の地
○十思公園 中央区日本橋小伝馬町5-2
<十思公園ご案内>
文字の多い案内板です。説明文は省略。
「江戸三縁史蹟
東京都指定有形文化財 鐘楼石町時の鐘 一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町
所有者 中央区
銅鐘 高さ一・七米口径九三糎 宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
昭和二十八年十一月三日 東京都教育委員会」
「東京都指定旧跡 傳馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町五 所有者 東京都(中央區管理)
地積 一三・四五坪(二二尺四方)
昭和二十九年十一月三日 東京都教育委員会」
「吉田松陰先生終焉之地」
「平成二十六年八月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
(昭和二十九年十一月「江戸史跡保存協賛会の江戸三縁史蹟」より作成)
中央区環境土木部水と緑の課」






<時の鐘>
オランダ商館長と随員一行の江戸参府の際の江戸での宿所が本石町の長崎屋で、長崎屋の裏の北側には石町の時の鐘があったことから、「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれました。
(説明板)
「東京都指定有形文化財
銅鐘 石町時の鐘 所在地 中央区日本橋小伝馬町五 十思公園
江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(一六二六)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(一七一一)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(一九三○)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
平成十七年三月 中央区教育委員会」



<吉田松陰終焉の地>
石燈籠両基と石碑が三基建っています。


・中央の石碑
「吉田松陰辞世の歌碑」
「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士」

・右の石碑
「吉田松陰終焉の地碑」
表「松陰先生終焉之地 文部大臣荒木貞夫書」
裏「萩城址の東麓 宮﨑八幡宮の附近より 掘り出したる石
昭和十四年六月 萩市有志者寄贈」


・左の石碑
「吉田松陰先生畧歴」


<吉田松陰像>
文政13年8月4日〜安政6年10月27日(1830年9月20日〜1859年11月21日)
「近世名士写真 其2」(近世名士写真頒布会 昭和10年)

(吉田松陰関連)
○吉田松陰終焉の地(十思公園) 本頁
・吉田松陰辞世の歌碑
・吉田松陰終焉の地碑
・吉田松陰先生畧歴
○伝馬町牢屋敷
○延命地蔵尊 (大安楽寺)/御題目供養塔(身延別院)
○吉田松陰の墓(回向院)
○正松神社(乃木神社境内摂社)
<杵屋勝三郎歴代記念碑>
杵屋は江戸長唄三味線の家名です。
長唄の碑は、上野不忍池の弁天堂の境内にもありました。



<忠魂碑・表忠碑>
「忠魂碑 明治丙午夏希典書」明治39(1906)年夏の建立、乃木希典書です。
「表忠碑 陸軍大将鈴木壮六書」昭和7(1932)年11月の建立。




<十思公園裏門と園内>


<十思公園ご案内>
文字の多い案内板です。説明文は省略。
「江戸三縁史蹟
東京都指定有形文化財 鐘楼石町時の鐘 一口
所在地 中央区日本橋小伝馬町
所有者 中央区
銅鐘 高さ一・七米口径九三糎 宝永辛卯四月推名伊予藤原重休
昭和二十八年十一月三日 東京都教育委員会」
「東京都指定旧跡 傳馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町五 所有者 東京都(中央區管理)
地積 一三・四五坪(二二尺四方)
昭和二十九年十一月三日 東京都教育委員会」
「吉田松陰先生終焉之地」
「平成二十六年八月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
(昭和二十九年十一月「江戸史跡保存協賛会の江戸三縁史蹟」より作成)
中央区環境土木部水と緑の課」






<時の鐘>
オランダ商館長と随員一行の江戸参府の際の江戸での宿所が本石町の長崎屋で、長崎屋の裏の北側には石町の時の鐘があったことから、「石町の鐘は紅毛(オランダ)まで聞こえ」と川柳に詠まれました。
(説明板)
「東京都指定有形文化財
銅鐘 石町時の鐘 所在地 中央区日本橋小伝馬町五 十思公園
江戸で最初の時の鐘は、本石町三丁目(現在の本町四丁目・室町四丁目の一部)に設置された石町の時の鐘であるといわれています。江戸市中に時刻を知らせた時の鐘は、市街地の拡大にともない、浅草・本所・上野・芝・市谷・目白・赤坂・四谷などにも設けられました。
石町時の鐘は、鐘撞き役であった辻源七の書上によると、寛永三年(一六二六)に本石町三丁目へ鐘楼堂を建てて鐘を撞いたことが記されており、鐘の音が聞こえる範囲の町からは「鐘楼銭」を集めて維持・運営が図られていました。
本石町に設置された時の鐘は、何度か火災にあって破損したために修理や改鋳が行われました。現在の銅鐘には「寛永辛卯四月中浣 鋳物御大工 椎名伊豫藤原重休」の銘文が刻まれており、宝永八年(一七一一)に鋳造されたことがわかります。
「石町は江戸を寝せたり起こしたり」と川柳にも詠まれた石町時の鐘は、明治をむかえて廃止されましたが、昭和五年(一九三○)に本石町から十思公園内に完成した鉄筋コンクリート造の鐘楼へ移設されて現在に至っています。
平成十七年三月 中央区教育委員会」



<吉田松陰終焉の地>
石燈籠両基と石碑が三基建っています。


・中央の石碑
「吉田松陰辞世の歌碑」
「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置かまし大和魂
十月念五日 二十一回猛士」

・右の石碑
「吉田松陰終焉の地碑」
表「松陰先生終焉之地 文部大臣荒木貞夫書」
裏「萩城址の東麓 宮﨑八幡宮の附近より 掘り出したる石
昭和十四年六月 萩市有志者寄贈」


・左の石碑
「吉田松陰先生畧歴」


<吉田松陰像>
文政13年8月4日〜安政6年10月27日(1830年9月20日〜1859年11月21日)
「近世名士写真 其2」(近世名士写真頒布会 昭和10年)

(吉田松陰関連)
○吉田松陰終焉の地(十思公園) 本頁
・吉田松陰辞世の歌碑
・吉田松陰終焉の地碑
・吉田松陰先生畧歴
○伝馬町牢屋敷
○延命地蔵尊 (大安楽寺)/御題目供養塔(身延別院)
○吉田松陰の墓(回向院)
○正松神社(乃木神社境内摂社)
<杵屋勝三郎歴代記念碑>
杵屋は江戸長唄三味線の家名です。
長唄の碑は、上野不忍池の弁天堂の境内にもありました。



<忠魂碑・表忠碑>
「忠魂碑 明治丙午夏希典書」明治39(1906)年夏の建立、乃木希典書です。
「表忠碑 陸軍大将鈴木壮六書」昭和7(1932)年11月の建立。




<十思公園裏門と園内>



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