乙女稲荷神社
○乙女稲荷神社 文京区根津1-28-9 根津神社境内
乙女稲荷神社は、西参道から向かうと、駒込稲荷神社の先にあります。根津神社の社殿西門前にも、鳥居と階段参道があります。表参道から向かうと、つつじ苑の先にあります。
根津遊郭の遊女達が詣でていたようです。
<社殿>
神狐の先の千本鳥居をくぐると、すぐに社殿です。
社殿の奥に岩窟(風穴)があります。乙女の由来は、ここからきているようです。
(説明板)
「乙女稲荷神社 祭神 倉稲魂命
宝永三年(一七〇六)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」の中腹に穿たれた洞に祀られた社で、古記録には「穴稲荷」とある。霊験あらたかと崇敬者多く、参道には鳥居の献納が絶えない。
現在の社殿は昭和三十一年に奉建されたものである。」
きつねが蕪の廻りに群れている木彫り彫刻の額がはめ込まれています。
浅草の待乳山聖天は大根を奉納しますが(こちらで記載)、乙女稲荷神社は蕪を奉納するのでしょうか?
<百度石>
乙女稲荷講の奉納です。
<六代将軍家宣胞衣塚と胞衣塚碑> 文京区指定文化財
千本鳥居の終端にあるのが「徳川家宣胞衣塚」と「胞衣塚碑」。階段参道からだと、登ってすぐ左手にあります。
胞衣塚には、六代将軍家宣公の胎盤が納められています。塚と碑は、両方とも文京区指定文化財です。
<胞衣塚碑> 文京区指定文化財
「徳川将軍文昭公胞衣塚碑」
明治14年の建立で、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えています。
(説明板)
「徳川家宣胞衣塚 文京区指定有形民族文化財
昭和49年11月1日 指定
六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月25日ここで生まれた。
胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
塚正面には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」があり、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えている。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
文京区教育委員会 令和2年2月」
<千本鳥居>
北から南に通り抜けると邪気が払われると各HPで言及されていますが根拠な何でしょう?南から北に通り抜けると邪気を吸収してしまうのかもしれません(そんなことはないと思います)。
乙女稲荷神社は、西参道から向かうと、駒込稲荷神社の先にあります。根津神社の社殿西門前にも、鳥居と階段参道があります。表参道から向かうと、つつじ苑の先にあります。
根津遊郭の遊女達が詣でていたようです。
<社殿>
神狐の先の千本鳥居をくぐると、すぐに社殿です。
社殿の奥に岩窟(風穴)があります。乙女の由来は、ここからきているようです。
(説明板)
「乙女稲荷神社 祭神 倉稲魂命
宝永三年(一七〇六)根津神社がこの地に遷座した後、「つつじが岡」の中腹に穿たれた洞に祀られた社で、古記録には「穴稲荷」とある。霊験あらたかと崇敬者多く、参道には鳥居の献納が絶えない。
現在の社殿は昭和三十一年に奉建されたものである。」
きつねが蕪の廻りに群れている木彫り彫刻の額がはめ込まれています。
浅草の待乳山聖天は大根を奉納しますが(こちらで記載)、乙女稲荷神社は蕪を奉納するのでしょうか?
<百度石>
乙女稲荷講の奉納です。
<六代将軍家宣胞衣塚と胞衣塚碑> 文京区指定文化財
千本鳥居の終端にあるのが「徳川家宣胞衣塚」と「胞衣塚碑」。階段参道からだと、登ってすぐ左手にあります。
胞衣塚には、六代将軍家宣公の胎盤が納められています。塚と碑は、両方とも文京区指定文化財です。
<胞衣塚碑> 文京区指定文化財
「徳川将軍文昭公胞衣塚碑」
明治14年の建立で、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えています。
(説明板)
「徳川家宣胞衣塚 文京区指定有形民族文化財
昭和49年11月1日 指定
六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662)4月25日ここで生まれた。
胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
塚正面には、明治14年に建てられた「胞衣塚碑」があり、徳川家宣胞衣塚の由緒を伝えている。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
文京区教育委員会 令和2年2月」
<千本鳥居>
北から南に通り抜けると邪気が払われると各HPで言及されていますが根拠な何でしょう?南から北に通り抜けると邪気を吸収してしまうのかもしれません(そんなことはないと思います)。
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