将門塚 明治政府と平将門の排斥
○将門塚 千代田区大手町1-2-1
将門塚は、平将門の首を祀る塚です。東京都指定旧跡となっています。
将門塚の改修工事が完了し、2021年4月26日、落慶法要と改修竣工の式典が行われています。
<標識「将門首塚」>
近くの交差点に、標識「将門首塚」が掲示されています。

<故蹟保存碑/都旧跡将門塚>
入口右脇に「故蹟保存碑」「都旧跡将門塚」の2基の石碑があります。
「故蹟保存碑」は、明治39(1906)年5月に大蔵省が建立し、現在の碑は昭和15(1940)年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈の書です。




<ウッドフェンス>
ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
他にも九曜紋が見られます。


(説明板)
石碑2基の裏に、コンパクトな説明パネル板が3枚あります。

<東京都指定旧蹟 将門塚>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
所在地 千代田区大手町一の二
指 定 昭和四六年三月二十六日
平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし九四○年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
徳治二年(一三○七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は、神田明神において祀られ神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建のため崩されました。
幾多の変遷の後、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
令和三年五月 東京都教育委員会」

<保存会/神田明神>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守 神田明神」

<参詣者の皆さまへのお願い>
供物は持ち帰りください、寄進はお控えくださいとのことです。
改修前に寄進されていた「カエル」は神田明神で保管しているようです。

<板石塔婆/石燈籠>
将門塚中央に「板石塔婆」、その後ろに「石燈籠」があります。
昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が起きました。
新しい板石塔婆が、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し同年9月に再建されています。
板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったものです。



表面「平将門 蓮阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
徳治二年」

側面「東京青山 石勝ガーデン刻」
江戸開府のために、徳川家康の命により全国から集められた職人衆に「石勝」がありました。
宝永3(1706)年に創業された「石勝」は、度重なる江戸城の石普請に加わりました。
石勝は、明治から大正にかけて全国至るところで多くの石造建造物を建造しました。
(現j:石勝エクステリアHPを参照しました。)

裏面 経緯が記されています。


<石燈籠/千鳥岩>
埋め立てられた御手洗池にあった石燈籠と千鳥岩が残されています。
石燈籠は板石塔婆の後ろに、千鳥岩は、石段を上がった正面にあります。


「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)
昭和初期に出版の「江戸の今昔」に掲載の将門塚です。

○明治政府と平将門の排斥
平将門は天皇に逆らった朝敵であり、明治政府の命により平将門を祭る神社は祭神から外されました。
神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、明治7(1874)年に平将門を御祭神からはずしています(昭和59(1984)年に復権)。
築土神社では、明治7(1874)年に、皇室とゆかりのある新たな祭神を歓請しています。
平将門を祀る鎧稲荷を合併した兜神社では、明治7(1874)年に新しい御祭神をお祀りしています。
平将門の鎧が埋められたと伝えられる鎧神社では、明治7年(1873)、御祭神の平将門公は末社に遷されています。(戦後になり御祭神に復活しています。)
将門塚は、排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたともされます。大蔵官僚だった織田完之が復権運動に精力を傾け、「将門塚」に古蹟保存碑を建立しています。
「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
月岡芳年のパロディーです。神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前に元祭神としてポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

【平将門像】
「平将門故蹟考」(織田完之 碑文協会 明治40年6月 国会図書館蔵より)

「芳年武者旡類 相模次郎平将門」(明治16年 国会図書館蔵より)

「平将門島広山討死の場」(豊原国周 明治23年 国会図書館蔵より)

「近江八景之内 堅田落雁 平将門」(豊国 嘉永5年 国立国会図書館蔵より)

「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」(芳年 国立国会図書館蔵より)
藤原秀郷(俵藤太)の百足退治が描かれています。

【平将門ゆかりの地】
○ 神田明神(外神田)
○ 築土神社(九段北)
○ 鎧神社 (北新宿)
○ 将門塚 (大手町)
○ 鎧の渡し(日本橋兜町)
○ 兜神社 (日本橋兜町)
将門塚は、平将門の首を祀る塚です。東京都指定旧跡となっています。
将門塚の改修工事が完了し、2021年4月26日、落慶法要と改修竣工の式典が行われています。
<標識「将門首塚」>
近くの交差点に、標識「将門首塚」が掲示されています。

<故蹟保存碑/都旧跡将門塚>
入口右脇に「故蹟保存碑」「都旧跡将門塚」の2基の石碑があります。
「故蹟保存碑」は、明治39(1906)年5月に大蔵省が建立し、現在の碑は昭和15(1940)年に再建されたもので、当時の大蔵大臣・河田烈の書です。




<ウッドフェンス>
ウッドフェンスには将門公の九曜紋が入れられています。
他にも九曜紋が見られます。


(説明板)
石碑2基の裏に、コンパクトな説明パネル板が3枚あります。

<東京都指定旧蹟 将門塚>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
所在地 千代田区大手町一の二
指 定 昭和四六年三月二十六日
平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱)を起こし九四○年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。
徳治二年(一三○七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を立てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は、神田明神において祀られ神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建のため崩されました。
幾多の変遷の後、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
令和三年五月 東京都教育委員会」

<保存会/神田明神>
(説明板)
「東京都指定旧蹟 将門塚
史蹟 将門塚保存会
江戸総鎮守 神田明神」

<参詣者の皆さまへのお願い>
供物は持ち帰りください、寄進はお控えくださいとのことです。
改修前に寄進されていた「カエル」は神田明神で保管しているようです。

<板石塔婆/石燈籠>
将門塚中央に「板石塔婆」、その後ろに「石燈籠」があります。
昭和45(1970)年に将門塚の板石塔婆が盗まれ、三つに折られ戻ってくるという事件が起きました。
新しい板石塔婆が、真教上人が将門を供養した徳治2(1307)年の旧状を模し同年9月に再建されています。
板石塔婆の文面は、真教上人が「蓮阿弥陀仏」の諡号を追贈した際に作られた板碑の拓本から取ったものです。



表面「平将門 蓮阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
徳治二年」

側面「東京青山 石勝ガーデン刻」
江戸開府のために、徳川家康の命により全国から集められた職人衆に「石勝」がありました。
宝永3(1706)年に創業された「石勝」は、度重なる江戸城の石普請に加わりました。
石勝は、明治から大正にかけて全国至るところで多くの石造建造物を建造しました。
(現j:石勝エクステリアHPを参照しました。)

裏面 経緯が記されています。


<石燈籠/千鳥岩>
埋め立てられた御手洗池にあった石燈籠と千鳥岩が残されています。
石燈籠は板石塔婆の後ろに、千鳥岩は、石段を上がった正面にあります。


「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)
昭和初期に出版の「江戸の今昔」に掲載の将門塚です。

○明治政府と平将門の排斥
平将門は天皇に逆らった朝敵であり、明治政府の命により平将門を祭る神社は祭神から外されました。
神田明神では、明治天皇が行啓する際、逆心の平将門が祀られているのはあるまじきこととして、明治7(1874)年に平将門を御祭神からはずしています(昭和59(1984)年に復権)。
築土神社では、明治7(1874)年に、皇室とゆかりのある新たな祭神を歓請しています。
平将門を祀る鎧稲荷を合併した兜神社では、明治7(1874)年に新しい御祭神をお祀りしています。
平将門の鎧が埋められたと伝えられる鎧神社では、明治7年(1873)、御祭神の平将門公は末社に遷されています。(戦後になり御祭神に復活しています。)
将門塚は、排斥運動から将門塚を保護するため、将門の怨霊譚が喧伝されたともされます。大蔵官僚だった織田完之が復権運動に精力を傾け、「将門塚」に古蹟保存碑を建立しています。
「東京開化狂画名所 神田明神 写真師の勉強」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)
月岡芳年のパロディーです。神田明神の御祭神からはずされ御神殿を下りた平将門と7人の影武者が、写真師の勉強のために、カメラを前に元祭神としてポーズをきめています。芳年の発想に驚嘆します。

【平将門像】
「平将門故蹟考」(織田完之 碑文協会 明治40年6月 国会図書館蔵より)

「芳年武者旡類 相模次郎平将門」(明治16年 国会図書館蔵より)

「平将門島広山討死の場」(豊原国周 明治23年 国会図書館蔵より)

「近江八景之内 堅田落雁 平将門」(豊国 嘉永5年 国立国会図書館蔵より)

「新形三十六怪撰 藤原秀郷竜宮城蜈蚣を射るの図」(芳年 国立国会図書館蔵より)
藤原秀郷(俵藤太)の百足退治が描かれています。

【平将門ゆかりの地】
○ 神田明神(外神田)
○ 築土神社(九段北)
○ 鎧神社 (北新宿)
○ 将門塚 (大手町)
○ 鎧の渡し(日本橋兜町)
○ 兜神社 (日本橋兜町)
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築土神社
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築土神社
○築土神社石碑 千代田区九段北1-13-5
靖国通りと平行している中坂の坂下に「築土神社石碑」があります。
築土神社の由来が石碑に刻まれています。
<飯田橋散歩路 築土神社>
「築土神社
天慶三年(九四○)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」



○築土神社 千代田区九段北1-14-21
「江戸名所図会 築土八幡宮 同明神社」
江戸名所図会には、当初鎮座していた地に、築土八幡宮と並んで明神社が描かれています。

<築土神社の変遷>
天慶3(940)年、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明10(1478)年には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇されました。
天文21(1552)年に田安郷に移転、天正17(1589)年に江戸城の拡張により牛込見附へ移転、元和2(1616)年には江戸城外堀拡張のため筑土八幡神社(現:新宿区筑土八幡町)の横に移転し、「築土明神」と改称。
明治7(1874)年、平将門から主祭神がかわり「築土神社」と改称。戦災により全焼。昭和21(1946)年千代田区富士見に移転、昭和29(1954)年、現在地の世継稲荷境内地へ移転。現社殿は平成6(1994)年に建てらています。
<中坂の中腹に社号標>




<千代田区 都市景観賞>
ビルの屋上には剣がそびえています。








<狛犬>
(説明板)
「狛犬
千代田区指定文化財
1996年(平成8年)4月1日指定
1780年(安永9年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。
社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在とを変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所に戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の築土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が厚く信仰していた様子がうかがえます。」






<手水舎>

<拝殿>




<力石>
拝殿右に力石2基祀られています。
開設板によると、船の重しとして利用されたとあり、この説明は初めて見ました。
(説明板)
「力石
千代田区指定文化財
1989年(平成元年)4月1日指定
力石は一定重量の円形または楕円形の石で、一般的には神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。
しかし築土神社の場合は、神社が日本橋掘留橋近くにあったことから江戸時代の交易や運搬手段として主流であった水運との関係が指摘されています。すなわち、この力石は船底に積んで船を安定させるための重しとして利用されたとみられます。」



<平将門の首桶>
平将門の首桶は、戦災で焼失しています。
「東京市史稿 市街篇第貳」(東京市 大正3)に、記録と写真が残っています。


靖国通りと平行している中坂の坂下に「築土神社石碑」があります。
築土神社の由来が石碑に刻まれています。
<飯田橋散歩路 築土神社>
「築土神社
天慶三年(九四○)、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」



○築土神社 千代田区九段北1-14-21
「江戸名所図会 築土八幡宮 同明神社」
江戸名所図会には、当初鎮座していた地に、築土八幡宮と並んで明神社が描かれています。

<築土神社の変遷>
天慶3(940)年、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸 (現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明10(1478)年には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇されました。
天文21(1552)年に田安郷に移転、天正17(1589)年に江戸城の拡張により牛込見附へ移転、元和2(1616)年には江戸城外堀拡張のため筑土八幡神社(現:新宿区筑土八幡町)の横に移転し、「築土明神」と改称。
明治7(1874)年、平将門から主祭神がかわり「築土神社」と改称。戦災により全焼。昭和21(1946)年千代田区富士見に移転、昭和29(1954)年、現在地の世継稲荷境内地へ移転。現社殿は平成6(1994)年に建てらています。
<中坂の中腹に社号標>




<千代田区 都市景観賞>
ビルの屋上には剣がそびえています。








<狛犬>
(説明板)
「狛犬
千代田区指定文化財
1996年(平成8年)4月1日指定
1780年(安永9年)元飯田町の人たちによって奉納された狛犬で、年代が明らかなものとしては千代田区内で最古となります。元飯田町とは1697年(元禄10年)の火災後の町地整備ののちにできた町名で、現在の富士見一丁目及び九段北一丁目付近にあたります。
社伝によれば築土神社は、940年(天慶3年)に武蔵国豊島郡上平川に祀られたのち、田安、牛込門内、牛込門外の筑土山と所在とを変えて、1954年(昭和29年)に現在の場所に戻ってきました。狛犬が奉納された1780年(安永9年)当時は、牛込門外の築土山(現在の新宿区筑土八幡町2番地)に神社が所在していた時期ですが、離れた場所にあってもなお、旧所在地の元飯田町の人々が厚く信仰していた様子がうかがえます。」






<手水舎>

<拝殿>




<力石>
拝殿右に力石2基祀られています。
開設板によると、船の重しとして利用されたとあり、この説明は初めて見ました。
(説明板)
「力石
千代田区指定文化財
1989年(平成元年)4月1日指定
力石は一定重量の円形または楕円形の石で、一般的には神社の境内や地域の集会を行う場所などにあって、若者たちが力試しに用いたと言われています。
しかし築土神社の場合は、神社が日本橋掘留橋近くにあったことから江戸時代の交易や運搬手段として主流であった水運との関係が指摘されています。すなわち、この力石は船底に積んで船を安定させるための重しとして利用されたとみられます。」



<平将門の首桶>
平将門の首桶は、戦災で焼失しています。
「東京市史稿 市街篇第貳」(東京市 大正3)に、記録と写真が残っています。


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滝沢馬琴宅跡の井戸
○滝沢馬琴宅跡の井戸 千代田区九段北1-5-5東建ニューハイツ九段
中坂の下に滝沢馬琴宅跡があります。
説明板によると、「硯の井戸」は関東大震災で失われたとあります。
現在の井戸枠は昭和初期に復元されたもののようです(それとも震災で井戸枠だけ残った?)。
<都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸>
マンション入口に「都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」碑と、千代田区の説明板があります。




(説明板)
「滝沢馬琴の井戸跡
東京都指定旧蹟
1955年(昭和30年)3月28日指定
滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767-1848)は江戸時代後期に活躍した戯作者で、「南総里見八犬伝」の作者としてよく知られています。
馬琴は1790年(寛政2年)に山東京伝のもとへ入門し、翌年大栄山人の名でデビュー作『尽用而二分狂言』を波票しました。1793年(寛政5年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。「曲亭馬琴」の号を使い始めたのはこの頃で、ほぼ原稿料のみで生計を立てることができたと言われています。
1824年(文政7年)に神田明神下同胞町(現在の外神田三丁目5番地)に住んでいた息子・宗伯の家に移るまで、ここに住み続けました。この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたとされることから、「硯の井戸」と呼ばれていました。井戸は1923年(大正12年)の関東大震災によって失われました。
千代田区」

「瀧澤馬琴宅跡の井戸」(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 東京市公園課 大正11年)
関東大震災で失われた井戸の写真がありました。東京府の説明板が見えます。東京市公園課の本文説明によると、子孫が住んでいるが度重なる火災で、井戸のみ残っているとのこと。

<硯の井戸枠>
マンションの庭に、硯の井戸枠があります。




<江戸名所図会と江戸切絵図>
滝沢馬琴が住んでいた中坂下の履物屋の場所を、江戸名所図会と江戸切絵図で確認すると以下の場所。
世継稲荷が近くにあり、滝沢馬琴は頻繁に参詣し、神社には馬琴ゆかりの品々がありましたが、戦災ですべて焼失しています。


<現在の地図と滝沢馬琴硯の井戸跡>
中坂の下に滝沢馬琴宅跡があります。
説明板によると、「硯の井戸」は関東大震災で失われたとあります。
現在の井戸枠は昭和初期に復元されたもののようです(それとも震災で井戸枠だけ残った?)。
<都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸>
マンション入口に「都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」碑と、千代田区の説明板があります。




(説明板)
「滝沢馬琴の井戸跡
東京都指定旧蹟
1955年(昭和30年)3月28日指定
滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767-1848)は江戸時代後期に活躍した戯作者で、「南総里見八犬伝」の作者としてよく知られています。
馬琴は1790年(寛政2年)に山東京伝のもとへ入門し、翌年大栄山人の名でデビュー作『尽用而二分狂言』を波票しました。1793年(寛政5年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。「曲亭馬琴」の号を使い始めたのはこの頃で、ほぼ原稿料のみで生計を立てることができたと言われています。
1824年(文政7年)に神田明神下同胞町(現在の外神田三丁目5番地)に住んでいた息子・宗伯の家に移るまで、ここに住み続けました。この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたとされることから、「硯の井戸」と呼ばれていました。井戸は1923年(大正12年)の関東大震災によって失われました。
千代田区」

「瀧澤馬琴宅跡の井戸」(東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 東京市公園課 大正11年)
関東大震災で失われた井戸の写真がありました。東京府の説明板が見えます。東京市公園課の本文説明によると、子孫が住んでいるが度重なる火災で、井戸のみ残っているとのこと。

<硯の井戸枠>
マンションの庭に、硯の井戸枠があります。




<江戸名所図会と江戸切絵図>
滝沢馬琴が住んでいた中坂下の履物屋の場所を、江戸名所図会と江戸切絵図で確認すると以下の場所。
世継稲荷が近くにあり、滝沢馬琴は頻繁に参詣し、神社には馬琴ゆかりの品々がありましたが、戦災ですべて焼失しています。


<現在の地図と滝沢馬琴硯の井戸跡>

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世継稲荷神社(田安稲荷)
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世継稲荷神社(田安稲荷)
○世継稲荷神社(田安稲荷) 千代田区九段北1-14-21
世継稲荷は、嘉吉元(1441)年、飯田町(現・九段坂~中坂付近)に創建されました。別名を田安稲荷(旧田安家敷地)と言います。
徳川秀忠が参詣した際、橙(ダイダイ)の木があるのを見て、「代々」と同音であることから 「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛しました。以来、世継稲荷と言われるようになったとのこと。
明和6(1769)年の2月7日の開帳には、笠森お仙が自分の人形を作って奉納するほど賑わっていたようです。また、文久2(1862)年には、和宮様が御拝祈願あらせられたとのこと(以上、麹町区史より)。
<戦災焼失前の世継稲荷社殿>
「麹町区史(東京市麹町区 昭和10年)」(国会図書館蔵より)

世継稲荷は戦災で焼失、同じく戦災で焼失した築土神社が昭和29(1954)年に、世継稲荷神社の境内に遷座するに伴い、世継稲荷の社殿が再建されました。





<石祠>
社殿の右横に、狐像と石祠があります。

<山本社司之碑>
「昭和二十年三月十日 戦災に
御神体を抱持も此の地に歿す
十年祭に建立 世継稲荷講
総理大臣 鳩山一郎書
世継稲荷は、嘉吉元(1441)年、飯田町(現・九段坂~中坂付近)に創建されました。別名を田安稲荷(旧田安家敷地)と言います。
徳川秀忠が参詣した際、橙(ダイダイ)の木があるのを見て、「代々」と同音であることから 「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛しました。以来、世継稲荷と言われるようになったとのこと。
明和6(1769)年の2月7日の開帳には、笠森お仙が自分の人形を作って奉納するほど賑わっていたようです。また、文久2(1862)年には、和宮様が御拝祈願あらせられたとのこと(以上、麹町区史より)。
<戦災焼失前の世継稲荷社殿>
「麹町区史(東京市麹町区 昭和10年)」(国会図書館蔵より)

世継稲荷は戦災で焼失、同じく戦災で焼失した築土神社が昭和29(1954)年に、世継稲荷神社の境内に遷座するに伴い、世継稲荷の社殿が再建されました。





<石祠>
社殿の右横に、狐像と石祠があります。

<山本社司之碑>
「昭和二十年三月十日 戦災に
御神体を抱持も此の地に歿す
十年祭に建立 世継稲荷講
総理大臣 鳩山一郎書

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tag : 邸内社
中坂・九段坂・冬青木坂
○中坂・九段坂・冬青木坂
「江戸名所図会 飯田町 中坂 九段坂」
左に「九段坂」、北に「中坂」、さらに北に「もちのき坂」(冬青木坂)が描かれています。
江戸名所図会の挿絵をみると、九段坂は、石階が九段に仕切られています。 九段坂は、御用屋敷の長屋が九段に建っていました。
大八車は石階のない中坂を通行しているのが見えます。神田祭の山車も、石階のない中坂を通りました。
通行人の数も九段坂よりも中坂の方が多く描かれています。

中坂の中腹に「よつぎいなり」が見えます。

「廣重東都坂盡 飯田町九段坂之図」(広重)
九段坂が描かれています。通行人は武士がほとんどです。 坂の性格をよく表しています。坂の左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。

「江戸名所百人美女 いひ田まち」(豊国・国久)
こま絵には、九段坂、その左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。通行人は武士が多く見えます。
元飯田町の土地柄から、高貴なお嬢さんがお点前の準備をしています。


○中坂(飯田坂) 千代田区九段北一丁目
中坂の中腹に千代田区の真新しい標識が建っています。
(説明柱)
「中坂
江戸時代初期に徳川家康が視察に来た時、付近の農民である飯田喜兵衛が案内役を務め、それ以降喜兵衛が名主となったことから、この地域を飯田町と呼ぶようになりました。元禄十年(一六九七)の大火の後、付近の武家屋敷が移転した際、新たにこの坂が作られ、飯田坂と呼ばれました。その後、南にある九段坂と北にある冬青坂(もちのきざか)の中間に位置することから中坂といわれるようになりました。現在では九段坂(靖国通り)が交通の中心ですが、江戸時代には中坂が重要な交通路であり、多数の商店が軒を並べていました。また、神田祭の山車などはみな中坂を通りました。 千代田区」




○九段坂
こちらも真新しい説明板です。江戸時代、九段坂上は月見の名所(二十六夜待)でした。
(説明板)
「九段坂
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。 千代田区」



<九段坂の現在の地図>

○冬青木坂 千代田区九段北一丁目・飯田橋一丁目・富士見一丁目
三坂のうち、一番北の坂です。

現在も坂道の北側には武家屋敷の石垣が残っています(現:フィリピン大使館)。
(説明柱)
「冬青木坂
元禄十年(一六九七)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側は元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東門には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた雨宮啓次郎の邸宅がありました。 千代田区」



「江戸切絵図 飯田町 駿河台 小川町 絵図」
江戸切絵図からの抜粋です。
「九段坂」「田安イナリ」「飯田町中坂通」「モチノキ坂」の記載が見えます。
「九段坂」の坂下には「俎板橋」、「冬青木坂」の坂下には「コウロギバシ」が見えます。
三坂の坂下には「堀留」が見えます。

○堀留
舟が通行できたのは堀留までで、さらに先の上流は武家屋敷からの下水路が北へ続いています。
堀留の西岸には、俎河岸がありました。江戸切絵図は北を上に回転させています。

<「俎橋」「どんどん橋(こうろぎ橋)」>
・俎橋(まないた橋)
九段坂を下りてくると、俎河岸のある堀留に架かる「俎橋」が描かれています。立派な橋で、往来も多いです。
日本橋川最上流の荷揚げ場である俎河岸があり、積荷を積んだ船も多く行きかっています。
九段坂下は一段と幅が広くなっており、荷物がまだ積まれていない大八車が多く描かれています。
千代田区観光協会によると、
「俎橋の名の由来は、はっきりしませんが、江戸時代に御台所町が近くにあったことが関係するといわれています。」とのこと。
江戸時代は、俎橋から先へ直進する道路はありませんでした。明治になって神保町へと続く道路が設けられました(現在の靖国通り)。

・どんどん橋(こうろぎ橋)
冬青木坂の坂下、掘留の北端にかかっていたのが「どんどん橋」です。現在の南堀留橋と堀留橋め間に架かっていましたが、現在はありません。
江戸名所図会では「とんとんはし」とありますが、江戸切絵図では「コウロギバシ」とあります。「きりぎりす橋」とも呼ばれていたようです。踏むとどんどんと音のする木造のそり橋がどんどん橋ですが、江戸名所図会では石橋にも見えます。


○現在の「俎橋」「南堀留橋」「堀留橋」
・俎橋
俎橋は現在も残っています。俎河岸の痕跡はありません。
2枚目は俎橋から北方向を見たところ、左手がかつての俎河岸。
3枚目は南堀留橋から南方向の俎橋を見たところ、右手がかつての俎河岸。



(参考)俎橋児童遊園
俎橋の歴史と全く関係ありませんが、俎橋遊園にハレー彗星接近を記念した「寿人遊星」があります。こちらで紹介済。

・南堀留橋
江戸時代の中坂下にはなかった「南堀留橋」です。「昭和三年八月完成」とあります。



南堀留橋から、かつて堀留橋がかかっていた場所を見る

・堀留橋
江戸時代はこの地は陸地で、堀留橋は、もう少々南の、堀留端と下水路に架かっていました。


○傳蔵地蔵尊 千代田区西神田3-6
堀留橋袂に「傳蔵地蔵尊」が祀られています。元の地蔵尊と新しく造れた地蔵尊の2体があります。


「江戸名所図会 飯田町 中坂 九段坂」
左に「九段坂」、北に「中坂」、さらに北に「もちのき坂」(冬青木坂)が描かれています。
江戸名所図会の挿絵をみると、九段坂は、石階が九段に仕切られています。 九段坂は、御用屋敷の長屋が九段に建っていました。
大八車は石階のない中坂を通行しているのが見えます。神田祭の山車も、石階のない中坂を通りました。
通行人の数も九段坂よりも中坂の方が多く描かれています。

中坂の中腹に「よつぎいなり」が見えます。

「廣重東都坂盡 飯田町九段坂之図」(広重)
九段坂が描かれています。通行人は武士がほとんどです。 坂の性格をよく表しています。坂の左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。

「江戸名所百人美女 いひ田まち」(豊国・国久)
こま絵には、九段坂、その左手に牛ヶ淵、坂上に田安門が見えます。通行人は武士が多く見えます。
元飯田町の土地柄から、高貴なお嬢さんがお点前の準備をしています。


○中坂(飯田坂) 千代田区九段北一丁目
中坂の中腹に千代田区の真新しい標識が建っています。
(説明柱)
「中坂
江戸時代初期に徳川家康が視察に来た時、付近の農民である飯田喜兵衛が案内役を務め、それ以降喜兵衛が名主となったことから、この地域を飯田町と呼ぶようになりました。元禄十年(一六九七)の大火の後、付近の武家屋敷が移転した際、新たにこの坂が作られ、飯田坂と呼ばれました。その後、南にある九段坂と北にある冬青坂(もちのきざか)の中間に位置することから中坂といわれるようになりました。現在では九段坂(靖国通り)が交通の中心ですが、江戸時代には中坂が重要な交通路であり、多数の商店が軒を並べていました。また、神田祭の山車などはみな中坂を通りました。 千代田区」




○九段坂
こちらも真新しい説明板です。江戸時代、九段坂上は月見の名所(二十六夜待)でした。
(説明板)
「九段坂
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。1871(明治4年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。
関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。 千代田区」



<九段坂の現在の地図>

○冬青木坂 千代田区九段北一丁目・飯田橋一丁目・富士見一丁目
三坂のうち、一番北の坂です。

現在も坂道の北側には武家屋敷の石垣が残っています(現:フィリピン大使館)。
(説明柱)
「冬青木坂
元禄十年(一六九七)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側は元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東門には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた雨宮啓次郎の邸宅がありました。 千代田区」



「江戸切絵図 飯田町 駿河台 小川町 絵図」
江戸切絵図からの抜粋です。
「九段坂」「田安イナリ」「飯田町中坂通」「モチノキ坂」の記載が見えます。
「九段坂」の坂下には「俎板橋」、「冬青木坂」の坂下には「コウロギバシ」が見えます。
三坂の坂下には「堀留」が見えます。

○堀留
舟が通行できたのは堀留までで、さらに先の上流は武家屋敷からの下水路が北へ続いています。
堀留の西岸には、俎河岸がありました。江戸切絵図は北を上に回転させています。

<「俎橋」「どんどん橋(こうろぎ橋)」>
・俎橋(まないた橋)
九段坂を下りてくると、俎河岸のある堀留に架かる「俎橋」が描かれています。立派な橋で、往来も多いです。
日本橋川最上流の荷揚げ場である俎河岸があり、積荷を積んだ船も多く行きかっています。
九段坂下は一段と幅が広くなっており、荷物がまだ積まれていない大八車が多く描かれています。
千代田区観光協会によると、
「俎橋の名の由来は、はっきりしませんが、江戸時代に御台所町が近くにあったことが関係するといわれています。」とのこと。
江戸時代は、俎橋から先へ直進する道路はありませんでした。明治になって神保町へと続く道路が設けられました(現在の靖国通り)。

・どんどん橋(こうろぎ橋)
冬青木坂の坂下、掘留の北端にかかっていたのが「どんどん橋」です。現在の南堀留橋と堀留橋め間に架かっていましたが、現在はありません。
江戸名所図会では「とんとんはし」とありますが、江戸切絵図では「コウロギバシ」とあります。「きりぎりす橋」とも呼ばれていたようです。踏むとどんどんと音のする木造のそり橋がどんどん橋ですが、江戸名所図会では石橋にも見えます。


○現在の「俎橋」「南堀留橋」「堀留橋」
・俎橋
俎橋は現在も残っています。俎河岸の痕跡はありません。
2枚目は俎橋から北方向を見たところ、左手がかつての俎河岸。
3枚目は南堀留橋から南方向の俎橋を見たところ、右手がかつての俎河岸。



(参考)俎橋児童遊園
俎橋の歴史と全く関係ありませんが、俎橋遊園にハレー彗星接近を記念した「寿人遊星」があります。こちらで紹介済。

・南堀留橋
江戸時代の中坂下にはなかった「南堀留橋」です。「昭和三年八月完成」とあります。



南堀留橋から、かつて堀留橋がかかっていた場所を見る

・堀留橋
江戸時代はこの地は陸地で、堀留橋は、もう少々南の、堀留端と下水路に架かっていました。


○傳蔵地蔵尊 千代田区西神田3-6
堀留橋袂に「傳蔵地蔵尊」が祀られています。元の地蔵尊と新しく造れた地蔵尊の2体があります。


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