道灌山(稲付城跡)静勝寺 亀ケ池弁財天

静勝寺 北区赤羽西1-21-17

 静勝寺(稲付城跡)は、赤羽駅西側の高台に位置し、地元では道灌山と呼ばれています。稲付城(いねつけじょう)は太田道灌によって築かれたとも伝わっています。
 1504(永正元)年、道灌の師である雲綱和尚が稲付城に小庵を結んで「道灌寺」と号しました。稲付城には道灌の孫の太田資孝が居城し、後に後北条氏に仕え、その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ケ村を所領しました。1655(明暦元)年、太田資宗が堂舎を建立し「自得山静勝寺」と改めました。
 江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

「江戸名所図会 静勝寺 亀ヶ池 五葉松」
 江戸名所図会に描かれている静勝寺です。位置関係は現在とほぼ変わりありません。

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「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
 「道灌手栽松」と「亀ケ池」が見えます。

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<東参道>

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<稲荷社>

 東参道の石段の途中右に稲荷社。

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<東山門/地蔵尊立像>

 山門左手に地蔵尊。1794(寛政6)年の造立です。

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<発掘調査>

 石段を登った右側に、発掘調査によって出土した遺物が置いてあります。

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<稲付城跡>

(説明板)
「東京都指定文化財(旧跡)
  稲付城跡    北区赤羽西一ー二一ー一七
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(一九八七)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(一五五八?一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
  平成十三年三月  東京都北区教育委員会」

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<静勝寺由縁碑>

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<南門脇説明板>

(説明板)
「東京都指定旧跡
  稲付城跡
   所在地 北区赤羽西一ー二一ー一七 静勝寺
   指 定 昭和三六年一月三十一日
 稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高二一m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌『新編武蔵風土記稿』にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約一二m、深さ約六mの空堀の跡等が検出され、その際に一六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造座像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築造した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を全面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。
  平成二五年三月 建設  東京都教育委員会」

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<道灌堂>

 水鉢や礎石には寺紋が刻されています。
 木造太田道灌坐像の開帳は限られていますが、勝静寺のホームページに画像があります。

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(説明板)
「東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
  木造太田道灌坐像 
      北区赤羽西一ー二一ー一七 静勝寺
 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年 (一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。
 太田道灌(一四三二?一四八六)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(一四五七)四月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(一四七八)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は四四.五センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(一六九五)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(一九八七)四月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(一九八九)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。
  平成八年三月    東京都北区教育委員会」

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「太田道灌像」(東京府史行政篇 第1巻 東京府 昭和10年)
 「東京府史」に掲載の太田道灌木像です。
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<弁天堂>

 寺の背後の谷にあった亀ヶ池から出土した弁財天を祀っています。

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<普門堂>

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<本堂>

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○亀ケ池弁財天 北区赤羽西1-29-17

 「江戸名所図会」に静勝寺が取り上げられ、太田道灌手植えの五葉松と「かめが池」が載っています。この池は稲付城西側の天然の防御でした。

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 現在の亀ヶ池辨財天の池はその亀ヶ池の名残りで、中の島の祠はかつて亀ヶ池にあったもので、中にあった弁天像は静勝寺の辨天堂に祀られていますが、その像を模した木像を分祀して祀っています。 その辨天像は見当たらず「亀ヶ池辨財天」の板が祀ってありました。

(説明板)
「ご案内
 亀ヶ池辨財天は、地元住民で組織されている、後援団体辨天講の皆様方のご協力に依って維持管理をしております。
 亀ヶ池辨財天は、宗教法人静勝寺の鎮守として、同寺の辨天堂に安置されてある亀ヶ池辨財天を勧請して祀っています。
 毎年四月初旬の辨天例大祭には、静勝寺住職が祈願尊師を勤め、家内安全諸願成就の祈祷札を講中及び奉納の皆様に配布しています。
 元旦初詣、二月の節分会等、地元の繁栄と平和のための諸行事を執り行います。
 昭和五十五年、静勝寺のご後援ご指導のもと辨天講及び地元の関係者の誠意ある信仰心により、本寺静勝寺の辨天堂に安置しております尊像を写した木彫りの分体を、斯道の大家「西山如拙翁」に依頼して、昭和五十五年四月一日辨天例大祭に御遷祀開眼の法要を営み、地元繁栄と家内安全諸願成就御守護の神辨財天様佛像を御堂に祀ってます。
 地元の守り神様として皆々様の家内安全・商売繁盛・交通安全・良縁・安産息災・入試合格等ご参拝の上、御祈願ください。
 特に昭和五十八年十月吉日、亀ヶ池の中には長寿の亀子宝安産辨天様を安置致しました。
 どうぞお願いが成就するようにご参拝ください。
 辨天講は今後も一層積極的に管理御守護に努めて参る所存であります。
 皆様方のご理解と御支援御愛護宜しくお願い申し上げます。
  平成二十七年十一月吉日    辨天講」

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<亀子宝安産亀辨天>

 やたらにたくさん亀がいます。その中に亀子宝安産亀辨天がおられます。昭和58年10月安置。

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○「東京近郊一日の行楽 太田道灌の木像」(田山花袋)

 田山花袋が、「東京近郊一日の行楽」で、太田道灌の木像を取り上げています。
 「あそこだよ。太田道灌の木像のあるところは?」

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法恩寺 史蹟太田道灌開基之寺

法恩寺 墨田区太平1-26

 蔵前橋通りに山門があり、参道が70mほど続きます。参道正面に本堂。
 参道入口に「江戸十大祖師」「史蹟 太田道灌開基之寺」(昭和33年4月)

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<山内寺院案内>

「日蓮宗 平河山 山内寺院案内
  法恩寺 千栄院 陽運院 法泉院 善行院
〔沿革〕
法恩寺 開山本住院日住上人 開基 太田道灌公
 道灌公は長禄二年(一四五八年)凡そ五四○年前、江戸城(現在の皇居)築城の折、城内鎮護の祈願所として、当山を平川村(現在の皇居・平川門付近)に建立、京より日住上人を迎え、開山とする。建立の地をとって、山号を平河山(平川)と号す。
 時移り、徳川家康公江戸幕府を開くにあたり、慶長十年(一六○五年)神田柳原へ移転。その後、慶安二年(一六四九年)谷中清水町へ移り、元禄八年(一六九五年)幕府の命により、現在地に移された。
 現在塔中は四ヶ寺であるが、元禄当時は、二十ケ寺を擁したと伝えられる。
 当地を太平町と称するのは、太田道灌公の 太 及び平河山の 平 を合わせたものである。
 大正大震災、昭和二十年三月十日の戦災に遭遇、ニ度焼失、昭和二十九年十月現在の堂宇が建立された。
    維時平成十年三月彼岸の佳日」

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<参道>

 道路を横切って参道は続きます。

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<子院>

 「善行院」「陽運院」「千栄院」「法泉院」と参道に面して4つの子院があります。

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 千栄院
  千栄院は裏門が参道に面してたので、表に廻りました。

  「たんぜんそく千日咳守護
   たんぼとけ」

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<鬼平情景 法恩寺> 

 参道に墨田区説明板「鬼平情景 法恩寺」

(説明板)
「鬼平情景 法恩寺
 長禄二(一四五八)年、太田道灌が江戸城築城にあたり、丑寅の方角である江戸平河に城内鎮護の祈願所を設けたことに始まるとされます。開山は本住院日住上人です。大永四(一五二四年)道灌の孫の資高が父資康追善のために堂塔を再建、資康の法名をもって本住院から法恩寺と改めました。家康入府後は、数回の移転を重ね、元禄元(一六八八)年に現在の地に定められました。
 鬼平犯科帳では数作品に登場します。「本所・桜屋敷」には平蔵と左馬之助が門前の茶店(ひしや)で湯豆腐と熱燗で二十余年振りに旧交を暖める場面が登場します。「尻毛の長右衛門」では、冒頭に寺裏手の木立の中で布目の半太郎と引き込み役のおすみが逢引する様子が描かれています。  墨田区」

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<平河山法恩寺燈籠>

 参道の終端に石燈籠が2基あります。
 「奉献石燈籠一基 天保十二年辛丑閏正月晦日」
 養育院や喜多院で見た奉献石燈籠「文恭院殿 尊前」と酷似しています。
 寛永寺の徳川11代将軍徳川家斉の墓前にあった「文恭院殿 尊前」の石燈籠を転用したものでしょう。
 「文恭院殿 尊前」の文字の場所には、深彫で「平河山法恩寺」と刻まれています。
 東叡山の文字は削られています。葵の紋は削られず残っています。

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<山門>

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<東門>

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<墨田区説明板>

 山門入ってすぐ左手に墨田区の説明板があります。

(説明板)
「日蓮宗 平河山法恩寺
 寺伝によれば、古来法恩寺は、平河村(後の江戸城平河口付近にあった村)にあった小さな草庵で、長禄元年(一四五九)に太田道灌の助成により、一寺造営を果たしました。当初は道灌が帰依した学徳兼備の日住上人の院号をとって本住院と号しましたが、大永四年(一五二四)に法恩寺に改めたと伝えられております。寺号は道灌の子資康の法号「法恩斎日恵」にちなだもので、資康の子資高が父の追善供養のため堂塔を再建したのが改号の機縁になったとされています。そして慶長十年(一六○五)頃に神田柳原へ移転し、慶安二年(一六四九)頃には再び所在を替えて谷中の清水坂に落ち着きました。また元禄二年(一六八九)閏正月二日には幕府の命により当地へ移転し、以後は寺内に二十もの塔頭を擁する寺院として栄えることになりました。天保七年(一八三六)に出版された『江戸名所図会』にはそうした当寺の景観が見え、往時の盛栄が偲ばれます。
  平成二十四年八月
    墨田区教育委員会
    法恩寺 第五十六世 日元代」

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<花塚/はさみ塚>

 山門から入ってすぐ左手に、花の供養塚と花はさみの供養塚があります。

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<境内>

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<道灌公記念碑>

 山門先右手に「道灌公記念碑」があります。
 太田道灌が江戸城を築きはじめたのが1456年で、東京都は、1956(昭和31)年に開都500年行事を開催しました。
 道灌公記念碑は、開都500年を記念して建てられています。
 「七重八重~」の山吹の古歌と、道灌と紅皿の像のレリーフが彫られています。

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<太田道灌歌碑>

 太田道灌の歌が刻まれています。
 「露おかぬかたもありけり夕立の 空より広き武蔵野の原」

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<奉献石燈籠>

 本堂前に、寛永寺の11代将軍徳川家斉の墓前「文恭院殿 尊前」石燈籠が2基あります。
 参道にある2基を含めて、4基すべて将軍徳川家斉への奉献石灯籠です。
 両基とも「天保十二年辛丑閏正月晦日」の銘で、左の燈籠は「従五位下丹波守南部信誉」 陸奥国七戸藩2代藩主による奉献です。
 右の燈籠は「奉献石燈籠両基」「岸和田城主従五位下内膳正岡部藤原長和」と刻まれています。岸和田藩10代藩主による奉献です。

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<本堂>

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<平川清水稲荷>

(説明板)
「平川清水稲荷縁起
 当山開基太田道灌公築城の江戸城内に平川と言はるゝ清流あって人呼んで小川の清水と云い太田道灌公も是を愛でゝ
 武蔵野の
  小川の清水絶えやらで
  岸のねせりを洗いことすれ
と詠まれている 当時のその小川の畔本住院(当時の旧称)の側に稲荷の詞が祭られていて 平川清水稲荷を称えられていた 現在法恩寺境内に其の碑柱が伝わって由緒を物語っている」

 千代田区町名由来板「小川町二丁目(北部)」によると、以下記しています。
「小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹(ねぜり)をあらひこそすれ」と詠んでいます。」

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<太田氏七代供養塔>(墨田区登録文化財)

 歴代住職の供養塔、開基日上上人供養塔に並んで、右に太田氏七代供養塔があります。

(説明板)
「墨田区登録有形文化財
 太田氏七代供養塔
 太田氏七代供養塔は、法恩寺が設けたものと考えられています。既存の五輪塔を転用したと思われるもので、地輪に太田資清、資長(道灌)、資康、資高、康資、重正、資宗(初代浜松藩主)ら名族太田氏七代の法号と忌日が刻まれています。太田氏歴代のうち、とくに資清から資宗まで七名の法号を刻む点が、次のような寺伝との関連を想わせます。
 太田氏は元来、道灌開基の法恩寺を菩提寺とした。しかし、北条氏に仇を返すが否かをめぐって住持と対立した康資が寺を変え、本行寺(現荒川区)を菩提寺とした。だが後に康資の怒りも晴れ、以後、資宗の代まで道灌霊像への参詣が続いた(『寺誌取調書上』)。
 法恩寺は、太田道灌開基と言われています。太田氏七代供養塔は、その法恩寺が太田氏との関係継続の歴史を意識して設けた記念物であったと思われます。平成十二年三月二十三日に墨田区登録文化財となりました(同三十年三月二十二日に種別及び名称を変更しました)。
  平成三十年五月 墨田区教育委員会」

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 「埋木の花」に所載の墓石です。(国立国会図書館デジタルコレクション)

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<旗本太田資同墓碑>(墨田区登録文化財)

 文政元(1818)年の造立と推定されている、旗本 太田氏の第5代・太田資同の墓碑です。

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「江戸名所図会 押上 法恩寺 霊山寺」

 江戸名所図会に描かれている法恩寺です。

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ホテルニューオータニ日本庭園

○ホテルニューオータニ日本庭園 千代田区紀尾井町4-1

 ホテルニューオータニ日本庭園に、寛永寺の奉献石燈籠5基を見に行きました。

<弁慶濠と弁慶橋>

 「弁慶豪」に面した鬱蒼とした森がホテルニューオータニ日本庭園です。
 弁慶堀に架かるのが「弁慶橋」です。弁慶橋は、かつて藍染川に架かっていた「江戸名所図会」に載る名橋でしたが、明治18(1885)年に藍染川が埋立てられ、弁慶橋の廃材が転用され江戸城外堀に新たに弁慶橋が架橋されました。昭和60(1985)年に改架されました。

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(参考)「藍染橋と弁慶橋


<オータニ庭園の由来>

(説明板)
「オータニ庭園の由来
 四季折々の美しさを誇る四万平方米のこの庭園は、もと伏見宮邸でありましたが戦後外国人の手に渡ろうとしたのを、当ホテル創業者故大谷米太郎がこの由緒ある地を失う事を惜しみ、又、当時の行政府の要請もあり昭和二十一年、これを譲り受け荒れはてた庭を改修して名石、樹木を配し、今日のオータニ庭園としたものです。
 この地は井伊掃部頭、更にさかのぼって、加藤清正公の江戸屋敷でありました。庭園に残る数々の石灯籠は、その当時の古い面影を偲ばせる貴重なものであります。又、庭園に点在する赤褐色の石は主に佐渡の赤玉石でありますが、その高雅な独特の色彩で庭石として珍重されています。これらの数多くの奇石、名石はその種類、規模に於いて他に例のないものです。
  何卒、都心の中の花と緑のオータニ庭園をごゆっくりご鑑賞ください。  ホテルニューオータニ」

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<近江彦根藩井伊家屋敷跡>

 庭園の入口に「近江彦根藩井伊家屋敷跡」碑と説明板があります。

(説明板)
「近江彦根藩井伊家屋敷跡
 この地には、江戸時代に近江彦根藩井伊家の麹町邸があり、井伊家は外桜田にあった永田町邸(国会前庭一帯)を上屋敷として使用していましたので、ここは中屋敷として使われました。
 井伊家は、武勇の誉れが高い家柄で、藩祖直政は、関ヶ原の戦いで徳川家康の軍奉行として活躍しました。慶長5年(1600)近江佐和山に18万石で封ぜられ、慶長9年(1604)直政の子直勝の時代に彦根藩主となり近江国等を領地とし、以後、16代にわたって明治維新まで続きました。石高はほぼ35万石でした。井伊家は、譜代大名の筆頭であり、大老職に任じられる名家でもありました。幕末に幕政を動かした井伊直弼は、特に有名です。
 明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。」

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<江戸切絵図 外桜田永田町絵図>

 江戸切絵図から、桜田門近くの井伊家上屋敷と、赤坂御門近くの井伊家中屋敷部分を拡大。
 また、「紀尾井町」の語源となった、紀伊殿・尾張殿・井伊掃部頭の屋敷部分を拡大。
 弁慶橋はまだ架かっていません。すでに紀尾井坂の文字が見えます。

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<イヌマキとカヤ>

 「イヌマキ」と「カヤ」の2本は、天明年間(1780年代)からこの地に生育していたものと考えられ、千代田区の天然記念物に指定されています。

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<清泉池/太鼓橋>

 大きなコイが悠々と泳いでいます。

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<大滝>

 清泉池から流れ落ちます。

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<トレーダーヴィックス創始者バージェロン石碑>

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<紀尾井窯>

 宿泊客を対象に陶芸教室が開かれます。

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<鹿像>

 石心亭の裏にいる鹿です。

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<奉献石燈籠>(寛永寺)

 奉献石燈籠が、大猷院殿(3代将軍徳川家光)1基、文恭院殿(11代将軍徳川家斉)4基ありました。
 ホテル創始者の大谷米太郎が戦後、寛永寺最後の放出時に買い求めたものです。


① 文恭院殿尊前
  斜面にあり近寄れず、奉献者等詳細確認できず。

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② 文恭院殿尊前

  奉献石燈籠一基
  武州 東叡山
  文恭院殿尊前
  天保十二辛丑年閏正月晦日
  従五位下豊後守藤原朝臣内藤正縄

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③ 文恭院殿尊前

  奉献者は、原姓~。所々剥がれており、詳細には読みとれず。

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④ 大猷院殿 尊前

  奉献石燈籠両基
  武州 東叡山
  大猷院殿 尊前
  従五位下井伊兵部少輔
  慶安五年壬辰四月
  藤原直之
  (直之は、井伊直好直の初名。上野安中藩主→三河西尾藩主→遠江掛川藩主)

  徳川家光の奉献石燈籠ですが、保存状態良く読みとれます。

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⑤ 文恭院殿尊前

  奉献石燈籠一基
  武州 東叡山
  文恭院殿 尊前
  天保十二辛丑年閏正月晦日
  従五位下保科弾正忠源正益
  (保科弾正忠正益は上総飯野藩の第10代藩主)

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<春日燈籠/四角大層坊塔(十三重の塔)>

 春日燈籠には十二支の動物が刻まれそれぞれの方角に向いて設置されています。

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四角大層坊塔(十三重の塔)

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tag : 奉献石燈籠銅像加藤清正赤坂

泊船軒 山吹の塚

○泊船軒 荒川区荒川7-17-2

 泊船軒は寛永4(1627)年、湯島の妻恋に創立したと伝わります。
 大正12(1923)年の関東大震災の後、現在地に移転してきました。

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<山吹の塚>

 境内には、太田道灌の故事による「山吹の塚」があります。
 道路拡張工事のため、山吹の塚は泊船軒に移転し、泊船軒が継承したようです。

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tag : 太田道灌

水稲荷神社 高田富士(冨塚古墳)

○水稲荷神社 新宿区西早稲田3-5-43 HP

<裏門>

 都電面影橋駅のある新目白通りからテニスコートの横の道を上ると裏門に出ます。

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<表門>

 新目白通りと早稲田通りを結ぶ道に面して、表門があります。

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<高田稲荷→水稲荷>

 平将門を討った藤原秀郷が、天慶4(941)年に冨塚の地に稲荷神社を勧請して創建され、江戸時代は、富塚稲荷や高田稲荷と称していましたが、元禄15(1702)年、神木の椋のもとから水か湧き出るようになり、目を患う人がこの水で目を漱ぐと治ったことから水稲荷と呼ばれるようになりました。昭和38(1963)年、早稲田大学との土地交換により、現在地に遷座しています。


「江戸名所図会 高田稲荷 毘沙門堂 富士山 神泉 守宮池 宝泉寺」

 江戸名所図会では、高田稲荷として描かれています。神池が、「イモリの池(守宮池)」につながって描かれています。

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<堀部武庸加功遺跡之碑>

 水稲荷神社の大鳥居を潜ると左手にあります。武庸は安兵衛の本名で、加功は助太刀のこと。碑は1910(明治43)年に、行田久蔵が私費で自所に建立したもの。篆額は西園寺公望です。

(説明板)
「新宿区指定有形文化財 歴史資料
 堀部武庸加功遺跡之碑
    所 在 地 西早稲田三丁目五四十三号
    指定年月日 平成二十八年三月四日
 この記念碑は、「忠臣蔵」における代表的説話であり、地域の伝承として知られる「高田馬場の決闘」(元禄七年)における赤穂浪士・堀部安兵衛(一六七○~一七○三)の事蹟を顕彰する記念碑である。江戸時代に高田馬場の管理を委託されていた甲州屋の子孫・行田久蔵が、明治四十三年(一九一○)に建立した。篆額は西園寺公望、撰文は信夫恕軒、書は日下部東作、鐫は堀部忠蔵の手になる。また賛助者には頭山満・犬養毅・大隈重信・三田村鳶魚など当時の名士が名を連ねている。当初は茶屋町通りにある忠蔵の植木園に建てられたが、昭和四十六年(一九七一)に現在地に移された。総高は約三五○cmである。
 この記念碑が建てられた当時は、日露戦争後の国家主義の高揚を背景とし、「忠臣蔵」の再評価が高まった時代であった。また、明治から大正にかけて全国的に建碑ブームが巻き起こり歴史上の事象や人物に関する顕彰運動が盛んな時代でもあった。
  平成二十八年三月二十五日    新宿区教育委員会」

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<甘泉園>

 参道途中右手に「甘泉園」入口があります。

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<社務所>

 馬と山羊がいます。定番の二宮尊徳もいます。

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<二の鳥居>

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<手水舎>

 手水舎の支柱には「清水建設株式会社」

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<大国社>

 鳥居を潜った右手にあります。

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<太田道灌駒繋松>

 社殿手前に「太田道灌駒繋松」

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<社殿>

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<主因なし>

 「朱印は一切いたしません」の掲示

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<御輿庫/神楽殿>

 御輿庫に水稲荷神社の御由縁掲示。

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<遷座之碑>
 
 境内階段上がって右手に「遷座之碑」があります。
 表「遷座之碑」裏「遷座の記」

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<耳欠け神稲荷>

 神稲荷は2体おられます。そのうち1体が耳欠神稲荷。

(掲示板)
 「耳欠け神狐
  身体の痛い所と神狐と交互になでると痛みがやわらぐといわれます」

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<水稲荷神社裏手の各社>

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・高木神社
 元々早稲田大学構内にあったものを移しています。

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・三島神社
 甘泉園の旧所有者徳川御三卿清水家下屋敷の屋敷神で、邸内社だったのが三島神社です。

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・北野天神社
 牛込天神町から遍座。大隈重信は日々拝礼し信奉厚かった社です。

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<高田富士(冨塚古墳)>

 高田富士(冨塚古墳)も移設されてきています。驚き。
 日本初の「江戸の富士山」で、大先達藤四郎が築山。
 古墳の穴や、古墳の上にも稲荷が祀られています。

(掲示板)
 「戸塚の町名の起源になった
  富塚古墳」

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<手水鉢>

 ・天神宮御宝前 貞享3(1686)年3月に奉納。「天神宮御宝前 牛込天竜山真定院 貞享三年三月廿五日」
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 ・御宝前 宝暦11(1761)年2月に奉納。
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 ・奉納 安永3(1774)年2月に奉納。
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 ・戸塚稲荷 天和2(1682)年9月に平井権兵衛ら3名が奉納。「戸塚稲荷」
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「江戸切絵図」

 上に清水殿の屋敷と姿見橋が見えます。
 下にすでに水稲荷社と記載され、富士がしっかりと描かれています。

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「江戸名所図会」

 高田稲荷部分を拡大。富士山が大きく描かれています。麓には浅間社。
 稲荷社の境内下に神水が湧いています。いもり池に連なります。

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