清水観音堂 秋色桜
○秋色桜 台東区上野公園1-29
<東叡山寛永寺其二 清水観音堂 秋色桜(江戸名所図会)>
「秋色桜は清水堂の御供所構の内、井のかたわらにあり。花は一種にして虎尾と称するもの是なり。中頃江府の商戸某の女秋色といえるもの、花のころここに来たり、「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」といえる秀句ありしより名づくるとなん」
「木のもとに 汁も鱠も さくらかな 芭蕉」


<秋色桜(八重紅枝垂)>
清水観音堂の脇に、秋色桜(ヤエベニシダレ)があります。2本植わっており、手前はライオンズクラブの植樹によるものです。





(説明板)
「秋色桜(しゅうしきざくら) 台東区上野公園一番
上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。
井戸ばたの
桜あぶなし
酒の酔
この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。
お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(一七二五)没と伝えられる。
碑は、昭和十五年十月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。
平成八年七月 台東区教育委員会」

※秋色庵大坂家(しゅうしきあん おおさかや)
お秋の菓子屋は、現在も三田で営業しています。
<秋色の短冊>
「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)

<句碑>
・秋色桜句碑。「秋色」は女流俳人・菊后亭秋色
「井戸はたの 桜あふなし 酒の酔」




・翠影句碑
「鶴の檻 さくら吹雪の 中にあり 翠影」

・寒心斎句碑(反対側の柵の中)
「惜春賦 花三日 みころはきのふ 阿喜みやげ」

<東叡山寛永寺其二 清水観音堂 秋色桜(江戸名所図会)>
「秋色桜は清水堂の御供所構の内、井のかたわらにあり。花は一種にして虎尾と称するもの是なり。中頃江府の商戸某の女秋色といえるもの、花のころここに来たり、「井戸ばたの 桜あぶなし 酒の酔」といえる秀句ありしより名づくるとなん」
「木のもとに 汁も鱠も さくらかな 芭蕉」


<秋色桜(八重紅枝垂)>
清水観音堂の脇に、秋色桜(ヤエベニシダレ)があります。2本植わっており、手前はライオンズクラブの植樹によるものです。





(説明板)
「秋色桜(しゅうしきざくら) 台東区上野公園一番
上野は、江戸のはじめから桜の名所として知られていた。数多くの桜樹の中には、固有の名を付せられた樹も何本かあり、その代表的なものが、この「秋色桜」である。
井戸ばたの
桜あぶなし
酒の酔
この句は元禄の頃、日本橋小網町の菓子屋の娘お秋が、花見客で賑わう井戸端の様子を詠んだものである。桜の枝に結ばれたこの句は、輪王寺宮に賞せられ、一躍江戸中の大評判となった。お秋は当時十三歳だったと伝えられている。俳号を菊后亭秋色と号した。以来この桜は、「秋色桜」と呼ばれている。ただし、当時の井戸は摺鉢山の所ともいい正確な位置については定かでない。
お秋は、九歳で宝井其角の門に入り、其角没後はその点印を預かる程の才媛であった。享保十年(一七二五)没と伝えられる。
碑は、昭和十五年十月、聴鴬荘主人により建てられた。現在の桜は、昭和五十三年に植え接いだもので、およそ九代目にあたると想像される。
平成八年七月 台東区教育委員会」

※秋色庵大坂家(しゅうしきあん おおさかや)
お秋の菓子屋は、現在も三田で営業しています。
<秋色の短冊>
「江戸の今昔」(歌川広重 昭和7年)

<句碑>
・秋色桜句碑。「秋色」は女流俳人・菊后亭秋色
「井戸はたの 桜あふなし 酒の酔」




・翠影句碑
「鶴の檻 さくら吹雪の 中にあり 翠影」

・寒心斎句碑(反対側の柵の中)
「惜春賦 花三日 みころはきのふ 阿喜みやげ」

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清水観音堂 月の松(国重文)
○清水観音堂 台東区上野公園1-29
<清水堂 花見図(江戸名所図会)>
「上野清水堂にて
鐘かけて しかもさかりの 桜かな 室井其角」

<観音堂>






(説明板)
「清水観音堂(国指定重要文化財) 台東区上野公園一番二十九号
清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永八年(一六三一)に創建した。当初現在地より一○○メートル余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(一六九四)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、木瓦葺、とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。
近年老朽化が目立ち、平成二年より全面的な解体・修復工事を実施、平成八年五月に完成した。この間、移築年代を元禄九年とする定説を覆す元禄七年の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
本尊は千手観音座像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年二月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年九月二十五日には、奉納された人形を供養する行事がある。
平成十年三月 台東区教育委員会」

<清水の舞台からの眺望/月の松>
2013年12月17日除幕式で月の松が復活しています。足立区の造園職人によって3年がかりで満月を作ることに成功。






2本は輪にならずに失敗、1本は予備で少し離れたところにあるとのことですが、2本ある松の枝は輪になっておらず、該当の予備の松は見当たりませんでした。






<名所江戸百景(広重)>
「上野清水堂不忍ノ池」(安政3)

「上野山内月のまつ」(安政4)

<しのぶ川>
江戸時代から明治初期まで、不忍池から流れ出る忍川には、三橋が架かっていたことで有名でした。
こちらの「しのぶ川」碑の脇にある水源は、京成電鉄上野駅トンネル内の地下水で、不忍池に注いでいます。


<黒門の由来>
黒門は南千住の円通寺にありますが、復元された黒門が昭和39年にここに建てられましたが、朽ち果て撤去され、黒門の由来碑が残ります。




<清水観音堂舞台下>




<石階段>
石段の脇に「浚明院殿尊前」(十代家治公)石燈籠(天明6年)が複数基あります。







柵の向こうにも近寄れず誰の尊前か不明の石燈籠が3基あります。


<清水坂>
石段の脇に「浚明院殿尊前」(十代家治公)奉献石燈籠(天明6年)と、「常憲院殿尊前」(五代綱吉公)奉献石燈籠(寛永6年)があります。






<人形供養碑>
観音堂の裏手に「人形供養碑」があります。
人形供養碑の脇と背後に奉献石燈籠が3基あります。




<清水堂 花見図(江戸名所図会)>
「上野清水堂にて
鐘かけて しかもさかりの 桜かな 室井其角」

<観音堂>






(説明板)
「清水観音堂(国指定重要文化財) 台東区上野公園一番二十九号
清水観音堂は、寛永寺を開創した天海が京都清水寺を模して寛永八年(一六三一)に創建した。当初現在地より一○○メートル余り北方の摺鉢山上にあったが、元禄7年(一六九四)この地へ移築し、現在に至っている。堂宇は、桁行五間、梁間四間、単層入母屋造り、木瓦葺、とくに不忍池に臨む正面の舞台造りは、江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。
近年老朽化が目立ち、平成二年より全面的な解体・修復工事を実施、平成八年五月に完成した。この間、移築年代を元禄九年とする定説を覆す元禄七年の棟札が発見されるなど、さまざまな事実が明らかとなっている。
本尊は千手観音座像で、京都清水寺より奉安したもの。秘仏で平常は厨子内に安置するが、毎年二月初午の日にのみ開扉され、多くの参詣者が訪れる。
脇本尊の子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰をあつめ、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年九月二十五日には、奉納された人形を供養する行事がある。
平成十年三月 台東区教育委員会」

<清水の舞台からの眺望/月の松>
2013年12月17日除幕式で月の松が復活しています。足立区の造園職人によって3年がかりで満月を作ることに成功。






2本は輪にならずに失敗、1本は予備で少し離れたところにあるとのことですが、2本ある松の枝は輪になっておらず、該当の予備の松は見当たりませんでした。






<名所江戸百景(広重)>
「上野清水堂不忍ノ池」(安政3)

「上野山内月のまつ」(安政4)

<しのぶ川>
江戸時代から明治初期まで、不忍池から流れ出る忍川には、三橋が架かっていたことで有名でした。
こちらの「しのぶ川」碑の脇にある水源は、京成電鉄上野駅トンネル内の地下水で、不忍池に注いでいます。


<黒門の由来>
黒門は南千住の円通寺にありますが、復元された黒門が昭和39年にここに建てられましたが、朽ち果て撤去され、黒門の由来碑が残ります。




<清水観音堂舞台下>




<石階段>
石段の脇に「浚明院殿尊前」(十代家治公)石燈籠(天明6年)が複数基あります。







柵の向こうにも近寄れず誰の尊前か不明の石燈籠が3基あります。


<清水坂>
石段の脇に「浚明院殿尊前」(十代家治公)奉献石燈籠(天明6年)と、「常憲院殿尊前」(五代綱吉公)奉献石燈籠(寛永6年)があります。






<人形供養碑>
観音堂の裏手に「人形供養碑」があります。
人形供養碑の脇と背後に奉献石燈籠が3基あります。




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伊豆榮梅川亭
○伊豆榮梅川亭 台東区上野公園4-34 03-5685-2011
東照宮の不忍参道の階段を登りきった右手に江戸時代から続く鰻で老舗の伊豆栄梅川亭があります。
コロナ対策で、テイクアウトも始めています。
上野でお値段の頂点に立つ高級店で食べる度胸はないのですが、女将さんから声をかけられ、テイクアウトOKとのことで、店内に入りました。
伊豆栄梅川亭にあっては信じられないお値段の天ちらし900円(税込)を購入しました。
会計をしていただく方、紙袋に入れていただく方、複数の仲居さん方による対応で、「また、いらしてください!」と、お客がほとんど来ていない様子でした。
天ちらし弁当は、見た目にキレイで洒落ています。色々な天ぷらがご飯の上にちらしてあります。
冷たいご飯でも美味しい。今度は1500円の弁当を購入しようと思います。











○韻松亭 台東区上野公園4-59
明治8年創業の韻松亭でも、テイクアウトのお弁当を販売していました。

東照宮の不忍参道の階段を登りきった右手に江戸時代から続く鰻で老舗の伊豆栄梅川亭があります。
コロナ対策で、テイクアウトも始めています。
上野でお値段の頂点に立つ高級店で食べる度胸はないのですが、女将さんから声をかけられ、テイクアウトOKとのことで、店内に入りました。
伊豆栄梅川亭にあっては信じられないお値段の天ちらし900円(税込)を購入しました。
会計をしていただく方、紙袋に入れていただく方、複数の仲居さん方による対応で、「また、いらしてください!」と、お客がほとんど来ていない様子でした。
天ちらし弁当は、見た目にキレイで洒落ています。色々な天ぷらがご飯の上にちらしてあります。
冷たいご飯でも美味しい。今度は1500円の弁当を購入しようと思います。











○韻松亭 台東区上野公園4-59
明治8年創業の韻松亭でも、テイクアウトのお弁当を販売していました。


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寛永寺時鐘堂/上野大仏/寒松院
○寛永寺時鐘堂 台東区上野公園4-58
「精養軒」手前の崖に「時の鐘」があります。正午の鐘撞(かねつき)を、しばし聴きました。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉」





(説明文)
「時の鐘 台東区上野公園四番
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。
時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(一六二六)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内、浅草寺のほか、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天龍寺などにも置かれた。
初代の鐘は、寛文六年(一六六六)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明七年(一七七八)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には「天明七丁未」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
現在も鐘楼を守る人によって、朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。
なお、平成八年六月、環境庁の、「残したい日本の音風景一○○選」に選ばれた。
平成八年七月 台東区教育委員会 」

○上野大仏 台東区上野公園4-8
第二次大戦時に胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」と呼ばれ祈願されています。
お顔に触れてお参りできる珍しい大仏ですが、新型コロナの影響がここにも出ており、現在は以下掲示があるように、お顔に触れることはできません。
「新型コロナウィル感染拡大を防ぐ為、大仏に触れてお参りすることをご遠慮下さい。」(掲示)
寛永寺の絵師・関良雲の宝篋印塔があります。









○寒松院 台東区上野公園15-11
藤堂竹虎が創建した寒松院は東照宮の別当寺として開基されました。寺は現在地に移転してきています。


門右に「旧東照宮別当」石柱。

門左に「旧津藩主 藤堂高虎公開創之寺」石柱。

<東叡山寛永寺 其五(江戸名所図会)>
寒松院が描かれています。

<藤堂家墓所/藤堂高虎の墓>
上野動物園内に藤堂家墓所と藤堂高虎の墓があります(非公開)。
※新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、上野動物園は、12月26日から1月11日まで休園しています。

旧正門から墓所を垣間見る



閑々亭(茶室)

「精養軒」手前の崖に「時の鐘」があります。正午の鐘撞(かねつき)を、しばし聴きました。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉」





(説明文)
「時の鐘 台東区上野公園四番
花の雲 鐘は上野か 浅草か
芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。
時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永三年(一六二六)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、江戸の町の拡大に伴い、上野山内、浅草寺のほか、本所横川、芝切通し、市谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天龍寺などにも置かれた。
初代の鐘は、寛文六年(一六六六)の鋳造。銘に「願主柏木好古」とあったという。その後、天明七年(一七七八)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたものが、現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には「天明七丁未」、下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。
現在も鐘楼を守る人によって、朝夕六時と正午の三回、昔ながらの音色を響かせている。
なお、平成八年六月、環境庁の、「残したい日本の音風景一○○選」に選ばれた。
平成八年七月 台東区教育委員会 」

○上野大仏 台東区上野公園4-8
第二次大戦時に胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。胴体を失った顔面は「これ以上落ちない」という意味で「合格大仏」と呼ばれ祈願されています。
お顔に触れてお参りできる珍しい大仏ですが、新型コロナの影響がここにも出ており、現在は以下掲示があるように、お顔に触れることはできません。
「新型コロナウィル感染拡大を防ぐ為、大仏に触れてお参りすることをご遠慮下さい。」(掲示)
寛永寺の絵師・関良雲の宝篋印塔があります。









○寒松院 台東区上野公園15-11
藤堂竹虎が創建した寒松院は東照宮の別当寺として開基されました。寺は現在地に移転してきています。


門右に「旧東照宮別当」石柱。

門左に「旧津藩主 藤堂高虎公開創之寺」石柱。

<東叡山寛永寺 其五(江戸名所図会)>
寒松院が描かれています。

<藤堂家墓所/藤堂高虎の墓>
上野動物園内に藤堂家墓所と藤堂高虎の墓があります(非公開)。
※新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、上野動物園は、12月26日から1月11日まで休園しています。

旧正門から墓所を垣間見る



閑々亭(茶室)

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上野東照宮(国重文)
○上野東照宮 台東区上野公園9-88 03-3822-3455
藤堂高虎は寛永4(1627)年その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社(後に東照宮)を創建しました。
現在は、徳川家康公・徳川吉宗公・徳川慶喜公を祀っています。


(説明板)
「上野東照宮 国指定重要文化財 台東区上野公園九番
藤堂高虎(一五五六~一六三○)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(一六二七)宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保二年(一六四五)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安四年(一六五一)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成二十一年三月 台東区教育委員会」

<お化け石燈籠> 台東区上野公園9-86
石鳥居の傍に「お化け石燈籠」があります。佐久間勝之が奉納した石灯籠です。
(説明板)
「お化け燈籠 台東区上野公園四番
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛末孟冬十七日
と刻印し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(一六三一)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ六・○六メートル、笠石の周囲三・六三メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
平成八年七月 台東区教育委員会 」




<大鳥居>(国重要文化財)
寛永10(1633)年の奉納で、鳥居の左の柱に「寛永十年酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれています。
大鳥居の石材には備前の御影石が使用されており、鳥居の右柱に「得鉅石於備前国迎茲南海運干當山」と刻まれています。
石鳥居の裏には「右石華表者七世祖考酒井忠世所奉建也 今茲蒙台命加琢磨奉再建之享保十九年甲寅十二月十七日 厩橋城主従四位下酒井雅樂頭源朝臣忠知」と刻まれています。







<上野東照宮積雪之図>(小林清親)
小林清親が描いた「上野東照宮」。昔も今も変わりません。

<東京名所 上野東照宮>(井上安治)
小林清親が描いた「上野東照宮」。

<不忍口鳥居/不忍参道>
不忍口鳥居は、1873(明治6)年、江戸城内紅葉山東照宮より移築されました。
鳥居正面左側に石柱があり、平面に几号水準点が刻まれています。








参道左に建つ「重建石燈碑記」




<大鳥居~水舎門>
参道に石燈籠が並びます。





<水舎門~参道>
水舎門を入ると石燈籠が両側にずらりと並んでいます。
燃えていないだけあって、保存状態は良いです。
200基以上も石燈籠があり、圧巻です。








<石燈籠一覧>




<五重塔> 国重要文化財
寛永16年(1639)に建立。上野動物園内にあります。
五重塔は、上野東照宮の一部として創建されましたが、明治の神仏分離により、寛永寺に譲渡された後、東京都に寄贈されました。




<句碑3基>
参道の行き止まり、右側に句碑が3基。
「乱世を酌まむ酌む友あまたあり 三柳」
「盃を挙げて天下は廻りもち 周魚」
「富貴には遠し年々牡丹見る 鉄之介」





<銅燈籠> 国重要文化財
社殿の前には銅燈籠が群をなして並んでいます。48基あります。
東照宮社殿が落慶した「慶安四年四月十七日」銘がほとんどですが、
寛永5(1628)年に奉納された銅燈籠が台東区教育員会説明板の裏にあります。
徳川家康十三回忌に「伊賀少将藤原朝臣高虎」(藤堂高虎)が奉納。
この銅燈籠だけ、台座が八角形ではなく円形です。



(説明文)
「 銅燈籠 台東区上野公園九番
東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永五年(一六二八)銘一基をはじめ、慶安四年(一六五一)正月十七日奉献二基、同年四月十七日奉献四十五基、同五年孟夏十七日奉献二基
となっている。慶安四年四月十七日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
平成八年七月 台東区教育委員会」

<銅燈籠配置図と一覧>









<狛犬他>
狛犬は比較的新しい奉納です。
大鈴は、1874(明治7)年に石工酒井八右衛門が寄進したもの。








<御三家銅燈籠>
社殿唐門の両脇には、御三家が奉献した銅燈籠があります。
紀州藩主徳川頼宣、水戸藩主徳川頼房、尾張藩主徳川光義となっています。








<唐門>
唐門には 「昇り龍」「降り龍」が彫刻されています。
本殿、幣殿、拝殿、唐門、透塀が、国の重要文化財に指定されています。










藤堂高虎は寛永4(1627)年その屋敷跡に、徳川家康を祭神とする上野東照社(後に東照宮)を創建しました。
現在は、徳川家康公・徳川吉宗公・徳川慶喜公を祀っています。


(説明板)
「上野東照宮 国指定重要文化財 台東区上野公園九番
藤堂高虎(一五五六~一六三○)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(一六二七)宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは「東照社」と称していたが、正保二年(一六四五)に宮号宣下があり、それ以後家康を祭る神社を東照宮と呼ぶようになった。
現在の社殿は、慶安四年(一六五一)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。
唐門、透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠四十八基と合わせて国の重要文化財に指定されている。
平成二十一年三月 台東区教育委員会」

<お化け石燈籠> 台東区上野公園9-86
石鳥居の傍に「お化け石燈籠」があります。佐久間勝之が奉納した石灯籠です。
(説明板)
「お化け燈籠 台東区上野公園四番
佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、
奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之
東照大権現御宝前石燈籠
寛永八年辛末孟冬十七日
と刻印し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永八年(一六三一)当時、東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈籠などは、まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を寄進したのである。
勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで一万八千石を領した。
燈籠の大きさは、高さ六・○六メートル、笠石の周囲三・六三メートルと巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。同じ勝之の寄進した京都南禅寺・名古屋熱田神宮の大燈籠とともに、日本三大燈籠に数えられる。
平成八年七月 台東区教育委員会 」




<大鳥居>(国重要文化財)
寛永10(1633)年の奉納で、鳥居の左の柱に「寛永十年酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」と刻まれています。
大鳥居の石材には備前の御影石が使用されており、鳥居の右柱に「得鉅石於備前国迎茲南海運干當山」と刻まれています。
石鳥居の裏には「右石華表者七世祖考酒井忠世所奉建也 今茲蒙台命加琢磨奉再建之享保十九年甲寅十二月十七日 厩橋城主従四位下酒井雅樂頭源朝臣忠知」と刻まれています。







<上野東照宮積雪之図>(小林清親)
小林清親が描いた「上野東照宮」。昔も今も変わりません。

<東京名所 上野東照宮>(井上安治)
小林清親が描いた「上野東照宮」。

<不忍口鳥居/不忍参道>
不忍口鳥居は、1873(明治6)年、江戸城内紅葉山東照宮より移築されました。
鳥居正面左側に石柱があり、平面に几号水準点が刻まれています。








参道左に建つ「重建石燈碑記」




<大鳥居~水舎門>
参道に石燈籠が並びます。





<水舎門~参道>
水舎門を入ると石燈籠が両側にずらりと並んでいます。
燃えていないだけあって、保存状態は良いです。
200基以上も石燈籠があり、圧巻です。








<石燈籠一覧>




<五重塔> 国重要文化財
寛永16年(1639)に建立。上野動物園内にあります。
五重塔は、上野東照宮の一部として創建されましたが、明治の神仏分離により、寛永寺に譲渡された後、東京都に寄贈されました。




<句碑3基>
参道の行き止まり、右側に句碑が3基。
「乱世を酌まむ酌む友あまたあり 三柳」
「盃を挙げて天下は廻りもち 周魚」
「富貴には遠し年々牡丹見る 鉄之介」





<銅燈籠> 国重要文化財
社殿の前には銅燈籠が群をなして並んでいます。48基あります。
東照宮社殿が落慶した「慶安四年四月十七日」銘がほとんどですが、
寛永5(1628)年に奉納された銅燈籠が台東区教育員会説明板の裏にあります。
徳川家康十三回忌に「伊賀少将藤原朝臣高虎」(藤堂高虎)が奉納。
この銅燈籠だけ、台座が八角形ではなく円形です。



(説明文)
「 銅燈籠 台東区上野公園九番
東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。それによると、伊勢国(三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永五年(一六二八)銘一基をはじめ、慶安四年(一六五一)正月十七日奉献二基、同年四月十七日奉献四十五基、同五年孟夏十七日奉献二基
となっている。慶安四年四月十七日は東照宮社殿落慶の日。その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。
平成八年七月 台東区教育委員会」

<銅燈籠配置図と一覧>









<狛犬他>
狛犬は比較的新しい奉納です。
大鈴は、1874(明治7)年に石工酒井八右衛門が寄進したもの。








<御三家銅燈籠>
社殿唐門の両脇には、御三家が奉献した銅燈籠があります。
紀州藩主徳川頼宣、水戸藩主徳川頼房、尾張藩主徳川光義となっています。








<唐門>
唐門には 「昇り龍」「降り龍」が彫刻されています。
本殿、幣殿、拝殿、唐門、透塀が、国の重要文化財に指定されています。











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