太子堂八幡神社
〇太子堂八幡神社 世田谷区太子堂5-23-5
源頼義・義家(八幡太郎)が戦勝祈願、酒宴を催し休憩したと伝えられています。








(説明板)
「太子堂八幡神社略記
御 祭 神 誉田別命
大 祭 十月 第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二~六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征伐に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一~二番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器などこの地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記稿等を参照したものである。」

<出羽三山神社>
境内左手に「出羽三山神社・鹽竈神社」の合祀殿があります。





裏にはうさぎがいます。


<弁天社>
鳥居手前左手に弁天社。


<記念碑>
弁天社の右手に日露戦役の記念碑があります。

<太子堂稲荷神社>
<御神木>
稲荷神社の手前に御神木の案内があります。
社殿の奥に御神木の大楠があります。



源頼義・義家(八幡太郎)が戦勝祈願、酒宴を催し休憩したと伝えられています。








(説明板)
「太子堂八幡神社略記
御 祭 神 誉田別命
大 祭 十月 第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二~六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征伐に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一~二番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器などこの地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記稿等を参照したものである。」

<出羽三山神社>
境内左手に「出羽三山神社・鹽竈神社」の合祀殿があります。





裏にはうさぎがいます。


<弁天社>
鳥居手前左手に弁天社。


<記念碑>
弁天社の右手に日露戦役の記念碑があります。

<太子堂稲荷神社>

<御神木>
稲荷神社の手前に御神木の案内があります。
社殿の奥に御神木の大楠があります。



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