温泉ふるまい
〇塩原温泉古式湯まつり 9月29日
「温泉ふるまい」で5湯入湯
<参加チケット>
一番下の那須塩原市観光局で参加チケット入手。






1湯目 新湯 むじなの湯
毎年5月ごろに男女入れ替え。現在は左手男湯、右手女湯。
車に湯温計とりに行って測った人によると47.5℃だったとのこと。熱い。






2湯目 上塩原 まじま荘
露天風呂は川沿いで良いかけ流し。木々が邪魔して川はあまり見えないけど。






3湯目 上塩原 華の湯
ALSOKの運営になって変わりばえしたかなと思って行ってみたけど、かわりばえしなかった。
露天は塩素臭きつし、内湯は良い。
※「塩原温泉華の湯」は、赤字が続いていることが主な理由により、民間への施設譲渡公募のため2023年3月31日に休館です(下野新聞記事)。





4湯目 福渡 恵山荘
植木が多いのです。玄関に植木があるのは当たり前ですが、浴室内も植木がたくさん。
岩組にはバランスよく以前は植木が3つあったのが、4つに増えてる!窓際の4つは変わらず。
久しぶりにここの風呂に入りましたが、かけ流しのよい湯です。



5湯目 福渡 松楓楼 松屋
人数制限していたので、すかすかでのんびりできました。


分析書の申請者は福渡内湯組合。住所を見ると松屋内に事務所が置かれています。
以前は玉乃屋だったはずなので、ちょっと調べてみると、
2015年10月2日に任意団体の福渡内湯組合から一般社団法人化しています。
2015年は玉乃屋旅館が廃業した年です。
内湯組合の責任者は玉乃屋だったので、
玉乃屋が廃業して松屋に移って法人化したのでしょうね

※塩原温泉古式湯まつり 2020年9月27日(予定)
感染症対策として、規模を縮小して行うため、温泉ふるまい等は中止です。
「温泉ふるまい」で5湯入湯
<参加チケット>
一番下の那須塩原市観光局で参加チケット入手。






1湯目 新湯 むじなの湯
毎年5月ごろに男女入れ替え。現在は左手男湯、右手女湯。
車に湯温計とりに行って測った人によると47.5℃だったとのこと。熱い。






2湯目 上塩原 まじま荘
露天風呂は川沿いで良いかけ流し。木々が邪魔して川はあまり見えないけど。






3湯目 上塩原 華の湯
ALSOKの運営になって変わりばえしたかなと思って行ってみたけど、かわりばえしなかった。
露天は塩素臭きつし、内湯は良い。
※「塩原温泉華の湯」は、赤字が続いていることが主な理由により、民間への施設譲渡公募のため2023年3月31日に休館です(下野新聞記事)。





4湯目 福渡 恵山荘
植木が多いのです。玄関に植木があるのは当たり前ですが、浴室内も植木がたくさん。
岩組にはバランスよく以前は植木が3つあったのが、4つに増えてる!窓際の4つは変わらず。
久しぶりにここの風呂に入りましたが、かけ流しのよい湯です。



5湯目 福渡 松楓楼 松屋
人数制限していたので、すかすかでのんびりできました。


分析書の申請者は福渡内湯組合。住所を見ると松屋内に事務所が置かれています。
以前は玉乃屋だったはずなので、ちょっと調べてみると、
2015年10月2日に任意団体の福渡内湯組合から一般社団法人化しています。
2015年は玉乃屋旅館が廃業した年です。
内湯組合の責任者は玉乃屋だったので、
玉乃屋が廃業して松屋に移って法人化したのでしょうね

※塩原温泉古式湯まつり 2020年9月27日(予定)
感染症対策として、規模を縮小して行うため、温泉ふるまい等は中止です。
日比谷公園②
日比谷公園 探索
「江戸城史跡-日比谷公園-」の続き。
日比谷公園は内外からの寄贈品が多く展示されていて魅力は尽きない。
南極の石があったり、ムッソリーニ首相からの寄贈品があったり。















以下パソコンサイトまとめ
■日比谷公園概要
「桜田弁慶堀原」(小林清親)/「外桜田遠景」(井上安治)
現在の日比谷公園区域及びその周辺は 江戸時代は諸大名の屋敷がありましたが、明治4(1871)年に陸軍日比谷操練場が置かれます。明治18(1885)年から陸軍日比谷練兵場と名称を変えます。
小林清近が陸軍日比谷操練場を、井上安治が陸軍日比谷練兵場を描いています。


■開園当初のもの
○アーク灯
○水飲み(馬兼用)
○馬の水飲み
○小音楽堂裏の水飲み
○豪壮な水飲み
○華奢な水飲み
○三笠山
○草地広場/健康運動広場
○つつじ山
○第一花壇
○心字池と亀の噴水
○雲形池と鶴の噴水
○イチョウ並木
○東京市マンホール
■移転保存
○京橋の欄干柱
○松石
○首かけイチョウ
○烏帽子石
○牛込門 亀石
■内外からの寄贈
○石貨
○ルーパ・ロマーナ
○自由の鐘
○古代スカンジナビア碑銘譯(ひめいやく)
○ホセ・リサール像
○キリノ元フィリピン大統領顕彰碑
○石灯籠
○彫刻「自由」
○ペリカン噴水
○彫刻「キリンの仔」
○彫刻「豊穣」
○はにわ
○南極の石
■後から整備
○旧日比谷公園事務所
○ロックガーデン
○大噴水、第二花壇、にれの木広場
■植樹
○アメリカスズカケノキ
○オキナヤシ
○タイサンボク
○国際連合創設三十周年記念植樹
○かもめの広場/郷土の森
○日比谷公園開園100年植樹
○日比谷公園100周年記念植樹
○ハンカチの木
○ハナミズキの林
○ハナミズキ2世記念植樹
○ハナミズキ3世
○グリーンアドベンチャー
■設備
○売店
○自転車置場
○公衆電話
■建物
○日比谷公園1番1
○日比谷公園1番2
○日比谷公園1番3
○日比谷公園1番4
○日比谷公園1番5
○日比谷公園1番6
■日比谷公園外
○緑化道路
■夜景
「江戸城史跡-日比谷公園-」の続き。
日比谷公園は内外からの寄贈品が多く展示されていて魅力は尽きない。
南極の石があったり、ムッソリーニ首相からの寄贈品があったり。















以下パソコンサイトまとめ
■日比谷公園概要
「桜田弁慶堀原」(小林清親)/「外桜田遠景」(井上安治)
現在の日比谷公園区域及びその周辺は 江戸時代は諸大名の屋敷がありましたが、明治4(1871)年に陸軍日比谷操練場が置かれます。明治18(1885)年から陸軍日比谷練兵場と名称を変えます。
小林清近が陸軍日比谷操練場を、井上安治が陸軍日比谷練兵場を描いています。


■開園当初のもの
○アーク灯
○水飲み(馬兼用)
○馬の水飲み
○小音楽堂裏の水飲み
○豪壮な水飲み
○華奢な水飲み
○三笠山
○草地広場/健康運動広場
○つつじ山
○第一花壇
○心字池と亀の噴水
○雲形池と鶴の噴水
○イチョウ並木
○東京市マンホール
■移転保存
○京橋の欄干柱
○松石
○首かけイチョウ
○烏帽子石
○牛込門 亀石
■内外からの寄贈
○石貨
○ルーパ・ロマーナ
○自由の鐘
○古代スカンジナビア碑銘譯(ひめいやく)
○ホセ・リサール像
○キリノ元フィリピン大統領顕彰碑
○石灯籠
○彫刻「自由」
○ペリカン噴水
○彫刻「キリンの仔」
○彫刻「豊穣」
○はにわ
○南極の石
■後から整備
○旧日比谷公園事務所
○ロックガーデン
○大噴水、第二花壇、にれの木広場
■植樹
○アメリカスズカケノキ
○オキナヤシ
○タイサンボク
○国際連合創設三十周年記念植樹
○かもめの広場/郷土の森
○日比谷公園開園100年植樹
○日比谷公園100周年記念植樹
○ハンカチの木
○ハナミズキの林
○ハナミズキ2世記念植樹
○ハナミズキ3世
○グリーンアドベンチャー
■設備
○売店
○自転車置場
○公衆電話
■建物
○日比谷公園1番1
○日比谷公園1番2
○日比谷公園1番3
○日比谷公園1番4
○日比谷公園1番5
○日比谷公園1番6
■日比谷公園外
○緑化道路
■夜景
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テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
前野原温泉 さやの湯処
○前野原温泉 さやの湯処 板橋区前野町3-41-1 03-5916-3826
<特殊金属エクセル>
特殊金属エクセルが設置した日帰り温泉施設です。
この場所には昭和21(1946)年に建てられた創業者谷口周氏の邸宅と庭がありました。
建築家・降幡廣信氏と作庭家・小口基實氏の力添えにより、昭和の建物と庭石を活かした日帰り温泉施設に再生されています。









真向いのイオンスタイルは、工場だった場所です。


<館内>
館内案内図は、建築画家の大渕澄夫氏による画。
19世紀のホールクロックがあったりします。





<源泉名「板橋前野温泉」>
源泉名「板橋前野温泉」含よう素・ナトリウム・塩化物強塩温泉(高張性中性温泉)
知覚的試験:ほとんど無色透明、強塩味・鉄味を有す。また不随ガス(主にメタン)の湧出を認める。
成分総計27.97gの高張泉です。申請者「特殊金属エクセル」
露天風呂で温泉を使用、源泉掛け流し浴槽があるのが魅力です。
貯湯タンクを設置せず湯舟へ直投入なのも魅力です。


<源泉風呂>
1日の汲み上げ50㎥?の規制があり、投入量に見合う大きさの湯舟となっています。
露天風呂入口にある分析書では、加温表示。
源泉風呂脇の天然温泉利用証では、「露天風呂なので気温の低い日に、給湯管で熱交換により加温しています」と記載。(日本温泉協会 2011年2月1日)
当初は源泉温度が41.0℃、現在は源泉温度が36.9℃のため、常時加温のかけ流しです。
金気臭の濃厚なうぐいす色の濁り湯。


<露天風呂 つぼ湯 寝湯 足湯>
「加水、加温、循環ろ過、塩素」
除鉄、除マンガンもありなので、かけ流し風呂とは全然色が違います。
塩素と温泉成分が結合して糸状の湯花みたいなのが発生してクレーム対応で、除鉄、除マンガンするようになったそうで、大目にみてもよい気もします。源泉風呂の力強い鉄臭はありません。
露天風呂、寝湯は茶色に近い黄色。壺湯は透明なまっ黄色。
源泉風呂→露天風呂→足湯とオーバーフローしていきます。
寝湯の湯量が一般的な寝湯より湯量が多めです。

<清算>
館内の支払いは、靴ロッカーの鍵についているバーコードが財布代わりです。
退出は自動精算機(クレジットカード使用可)、バーコードで退館です。
<料金改定>
2009年10月1日から料金改定です。
平日 870円→890円 土日祝 1100円→1120円
回数カード750円→770円 有効期限なし
回数カードは有効期限がなくなっているので、購入しました。


<ブログ>
「特殊金属エクセル 経営者ブログ」に情報満載です。
谷口慈雨子常務(創業者のお孫さん)や支配人が様々な内容を記載されています。
完成に至るまでのこだわりから、一味違う温泉施設と感じます。
※お食事処 柿天舎については、こちらでレポ
<特殊金属エクセル>
特殊金属エクセルが設置した日帰り温泉施設です。
この場所には昭和21(1946)年に建てられた創業者谷口周氏の邸宅と庭がありました。
建築家・降幡廣信氏と作庭家・小口基實氏の力添えにより、昭和の建物と庭石を活かした日帰り温泉施設に再生されています。









真向いのイオンスタイルは、工場だった場所です。


<館内>
館内案内図は、建築画家の大渕澄夫氏による画。
19世紀のホールクロックがあったりします。





<源泉名「板橋前野温泉」>
源泉名「板橋前野温泉」含よう素・ナトリウム・塩化物強塩温泉(高張性中性温泉)
知覚的試験:ほとんど無色透明、強塩味・鉄味を有す。また不随ガス(主にメタン)の湧出を認める。
成分総計27.97gの高張泉です。申請者「特殊金属エクセル」
露天風呂で温泉を使用、源泉掛け流し浴槽があるのが魅力です。
貯湯タンクを設置せず湯舟へ直投入なのも魅力です。


<源泉風呂>
1日の汲み上げ50㎥?の規制があり、投入量に見合う大きさの湯舟となっています。
露天風呂入口にある分析書では、加温表示。
源泉風呂脇の天然温泉利用証では、「露天風呂なので気温の低い日に、給湯管で熱交換により加温しています」と記載。(日本温泉協会 2011年2月1日)
当初は源泉温度が41.0℃、現在は源泉温度が36.9℃のため、常時加温のかけ流しです。
金気臭の濃厚なうぐいす色の濁り湯。


<露天風呂 つぼ湯 寝湯 足湯>
「加水、加温、循環ろ過、塩素」
除鉄、除マンガンもありなので、かけ流し風呂とは全然色が違います。
塩素と温泉成分が結合して糸状の湯花みたいなのが発生してクレーム対応で、除鉄、除マンガンするようになったそうで、大目にみてもよい気もします。源泉風呂の力強い鉄臭はありません。
露天風呂、寝湯は茶色に近い黄色。壺湯は透明なまっ黄色。
源泉風呂→露天風呂→足湯とオーバーフローしていきます。
寝湯の湯量が一般的な寝湯より湯量が多めです。

<清算>
館内の支払いは、靴ロッカーの鍵についているバーコードが財布代わりです。
退出は自動精算機(クレジットカード使用可)、バーコードで退館です。
<料金改定>
2009年10月1日から料金改定です。
平日 870円→890円 土日祝 1100円→1120円
回数カード750円→770円 有効期限なし
回数カードは有効期限がなくなっているので、購入しました。


<ブログ>
「特殊金属エクセル 経営者ブログ」に情報満載です。
谷口慈雨子常務(創業者のお孫さん)や支配人が様々な内容を記載されています。
完成に至るまでのこだわりから、一味違う温泉施設と感じます。
※お食事処 柿天舎については、こちらでレポ
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tag : さやの湯処
お食事処 柿天舎
○お食事処 柿天舎 板橋区前野町3-41-1 03-5916-3826
前野原温泉 さやの湯処にある食事処。入館料が必要です。
食事処は柿天舎(してんしゃ)。柿天とは創業者の雅号です。
その建物と庭園は昭和の素材そのままに再生されています。
鈴虫の音色が心地よく、都内であることを忘れる別世界。
<枯山水庭園>





<柿天舎>













<枯山水庭園その2>






<10割蕎麦>
食事はセルフサービスです。
10割蕎麦の3たてです。しっかりつながっていてこしを感じます。
蕎麦粉は定期的に産地を入れかえていて、今回は、日本一早い北海道雨竜産の2019年秋新蕎麦でした。




<大地のめぐみ>
柿天舎で、野菜や果物を売っています。大地のめぐみから週4日の納品。
大地のめぐみの直営店(大きなかぶ板橋店 板橋区前野町3-50-6)が近くにあります。
茨城新聞に記事が掲載されています。
阿見の組合「大地のめぐみ」都内の直売所引き継ぐ 2019/8/21

前野原温泉 さやの湯処にある食事処。入館料が必要です。
食事処は柿天舎(してんしゃ)。柿天とは創業者の雅号です。
その建物と庭園は昭和の素材そのままに再生されています。
鈴虫の音色が心地よく、都内であることを忘れる別世界。
<枯山水庭園>





<柿天舎>













<枯山水庭園その2>






<10割蕎麦>
食事はセルフサービスです。
10割蕎麦の3たてです。しっかりつながっていてこしを感じます。
蕎麦粉は定期的に産地を入れかえていて、今回は、日本一早い北海道雨竜産の2019年秋新蕎麦でした。




<大地のめぐみ>
柿天舎で、野菜や果物を売っています。大地のめぐみから週4日の納品。
大地のめぐみの直営店(大きなかぶ板橋店 板橋区前野町3-50-6)が近くにあります。
茨城新聞に記事が掲載されています。
阿見の組合「大地のめぐみ」都内の直売所引き継ぐ 2019/8/21

霞が関跡 大岡越前守上屋敷
○霞が関跡碑 千代田区霞が関2-1-2
中央合同庁舎第2号館の桜田通り沿い側に「霞が関跡」碑が設置されています。
霞が関は、日本武尊が蝦夷に備えて関所を設けたという伝説によるとされ、この関が大和から雲霞を隔てた場所にあったから、または雲霞を隔てた遠方を望める地であることから霞が関と名付けられたといわています。
山手台地にあり、江戸城に接し、城を守る要所であることから、諸大名の屋敷地となりました。錦絵では坂を中心に描かれることが多いようです。(国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」を参照しました。)


(説明柱)
「霞が関跡
この辺りは、江戸時代、霞が関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっています。
霞が関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれていますが、正確な場所は分かっていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられています。
千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』という史料の「上古ハ荏原郡に属す今ハ豊嶋郡にあり。」という記述、『江戸名所図会』という史料の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり。」という記述から導きだされています。
また、名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されています。
平成十二年三月建替 千代田区教育委員会」
「江戸名所図会 霞ヶ関」
坂の下から描かれています。霞ヶ関坂の両側には、福岡藩黒田家と広島藩浅野家の大名屋敷がありました。現在は、外務省と総務省があります。

「名所江戸百景 霞かせき」(広重)
坂の上からです。江戸湾が見えます。空には凧が舞い、新年の霞ヶ関坂を描いています。

「江戸名所道戯尽 十五 霞が関の眺望」(歌川広景)
名所江戸百景と同様の構図で、坂の上から。江戸湾が見えます。
下肥を運ぶ馬が暴れて下肥をぶちまけています。武士は扇をあおいて鼻をつまんでいます。女性は袖で鼻を覆っています。
霞が関は諸大名の屋敷地だったので、ここでの下肥は高く買われたことでしょう。

「江都名所 かす美か世紀」(広重)
坂の上から。江戸湾が見えます。左手には大きな傘に入って歩く住吉踊りの踊り子、青竹売りが見えます。右手には三味線を持つ門付の女たち、しゃぼん玉売りが見えます。中央にはしゃぼん玉が飛んでいます。その下を大名の一行が坂を下りています。

「東都名所 東都霞ケ関山王祭諌込ノ図」(広重)
霞ヶ関坂を下る「山王祭」の「山車行列」が描かれています。

「東都名所 霞ケ関全図」(広重)
坂の下からです。富士山が見えます。霞ヶ関坂の右側が広島藩浅野家の上屋敷です。浅野家の屋敷には、将軍の息女が輿入れしたことを示す御住居門(赤門)が描かれています。

「絵本江戸土産 霞ケ関」(広重)
坂の下からです。挿絵には「外桜田黒田侯と浅野侯の間の坂をいふ この所古き名所にて歌どもあまたあり」と記されています。

「江戸名所百人美女 霞ケ関」
10代広島藩主浅野慶熾(よしてる)の正室利姫が描かれ、こま絵には霞ヶ関坂が描かれています。
利姫は、天保7(1836)年に田安徳川家当主斉荘の娘として江戸に生まれ、10歳の時に養子に入った慶臧(よしつぐ)と婚約します。
しかし14歳の時に慶臧が死去し、広島藩主浅野家の嫡男で利姫と同い年の慶熾に嫁ぎました。
安政5(1858)年、慶熾は広島藩主に就任しますが、半年で急死。利姫は23歳にして未亡人(寿操院)となりました。


「東都三十六景 霞ケ関雪中」(二代広重)
雪景の霞ヶ関坂が描かれています。

【大岡越前守上屋敷/燈籠と庭石】
○大岡越前守忠相 屋敷跡 千代田区霞が関1-1-3
弁護士会館の植栽の中に案内板があります。
「大岡越前守忠相 屋敷跡
名奉行として知られる大岡忠相(1667-1751)は徳川吉宗が八代将軍に就任した翌年(享保2年・1717)に江戸奉行に起用され、以後20年間その要職にあった。 宝暦元年(1751)12月、半年前に没した吉宗の後を追うようにして亡くなった。この地は晩年に忠相の上屋敷がおかれた場所である。」

○燈籠と庭石/由来碑
大岡越前守上屋敷に置かれていた2基の石灯籠、手水鉢、庭石が、法務省に移転保存されています。また、由来の石碑があります。
現在の弁護士会館(検察庁旧庁舎)に大岡越前守の屋敷があり、旧司法省建設の際に屋敷跡から移転されたものです。
「由来
この燈籠と庭石は、明治初年まで 外桜田の一画 現千代田区霞が関1ー1ー3に存した大岡越前守上屋敷に置かれていたもので 旧司法省庁舎建設(明治28年竣工)の際 その屋敷跡から現在地辺の司法大臣官舎裏庭へ移転されたと伝えられる。」
東京地検検事正・木村栄作氏が由来を書いた石碑が昭和61年1月27日に設置されたものです。
屋敷にあった燈籠と庭石が保存されていることに大岡越前守への敬意を感じます。
(法務省内にあるので、用事がないと入れません)




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