①几号水準点 奥州街道ほか

【几号水準点】(足立区、荒川区、台東区)

○五丁目大川町氷川神社 足立区千住大川町12-3

<紙すき碑>

 台座石に21軒の紙すき問屋名が刻まれていますが、台座石の縁取りを削って、永続連(紙すき同業組合)の文字の、続と連の間に几号が刻まれています。
 古碑や鳥居、皇居の門の石垣に刻まれる几号、昔の内務省の力を感じます。

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詳細はこちらで記載


○素盞雄神社 荒川区南千住6-60-1

<鳥居>
 鳥居に明瞭に几号水準点が刻まれています。鳥居が多くありますが、松葉屋半蔵の寄進した狛犬(文化5年)がるところの鳥居です。

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※詳細はこちらで記載


○円通寺 荒川区南千住1-59-11

<百観音碑>
  境内入ってすぐの左手に百観音碑があります。その台石に几号水準点が刻まれています。

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詳細はこちらで記載


○金杉三島神社玉垣石柱 台東区下谷3-7-5

「三島神社の横にある道路はかつては川。人々は川にかかる橋を渡って参拝し橋は「三島様の石橋」として親しまれていました。 明治の末期より、その石橋の一部を東参道の敷石として保存しております。」 (三島神社のホームページより引用)

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<几号水準点>
 三島神社北門の敷石に几号があります。水平配置です。「三島さま」の石橋も埋められています。三島神社のホームページに几号の写真と記載があります。

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(説明板)
「三島様の石橋跡
この横の道路は往昔より吉原土手に通ずる本通りで小高い土手であった頃三島神社に参詣するには石橋を渡ったのである。街が発展して土手がなくなった明治の末期よりその石橋を境内に敷き人々から親しまれた「三島様の石橋」を永く保存するものであります
(注)樋口一葉の「たけくらべ」に三島様の角をまがりてよりこれぞと見ゆる家もなく・・・・はこの道路で土手と小川が有った頃」

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<火除稲荷社>(旧ミサキ稲荷社)
 「境内には火除稲荷社(三島神社の地主神)が鎮座されています。 昔、徳川氏が上野山内の火難方位除けのために勧請したと伝えられており、古くはミサキ稲荷社と称していました。後に、この地が火除地と定められ、その際、火除稲荷と改称されましたが
その創建年代等、詳しくはわかっていません。」(三島神社説明)

 江戸切絵図に「ミサキイナリ」の記載があります。

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<雷井戸>
 神社では「不落(おちない)守」(1000円)を授与しています。

(説明板)
「三島神社の雷井戸
昔武蔵国の原野は雷が多く里人は常におそれていた。時たま時たま神社の境内に雷が落ちたので神主が雷をこの井戸にとじ込めた処雷は「井戸から出して呉れ」と哀願するので「二度と此地に落ちない」と約束のもとに許してやったと云う。
爾来此地に雷が落ちないと伝えられている。この井戸の発掘年代は不祥なるも相当な古井戸で危険防止の為に蓋をしてあるが現在も満満と水をたヽえて雷除の井戸として信仰されている。」

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○鳥越神社 台東区鳥越2-4-1

 鳥越神社は、徳川家康を合祀しています。社号標は、鳩山一郎書とあります。白鳥橋を渡り境内へ。都内の神社には多い、ラジオ体操会場となっています。

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<鳥越神社(説明板)>
 鳥越神社  台東区鳥越二丁目四番一号
 当神社は、白雉二年(六五一)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。
 社伝によると、日本武尊が、東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とする。後、永承年間(一○四六-五二)奥州の安部貞任らの乱(前九年の役)鎮定のため、この地を通った源頼義・義家父子は、名も知らぬ鳥が越えるのを見て、浅瀬を知り、大川(隅田川)を渡ったということから鳥越大明神と名づけた。以後、神社名には鳥越の名を用いるようになり、この辺りは鳥越の里と呼ばれるようになった。天児屋根命は、武蔵の国司になった藤原氏がその祖神として祀ったものとされる。また、徳川家康を祀っていた松平神社(現、蔵前四丁目十六番付近)は、関東大震災で焼失したため大正十四年に当社に合祀された。
 例大祭は、毎年六月九日前後の日曜。千貫神輿といわれる大神輿の渡御する「鳥越の夜祭」は盛大に賑い、また正月八日に正月の片付け物を燃やす行事「とんど焼き」も有名である。
  平成十一年三月  台東区教育委員会」

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<松平神社>
 江戸切絵図を見ると、「松平山西福寺」の西に「御宮」とあります。関東大震災で罹災し鳥越神社に合祀された、徳川家康を祀った「松平神社」かと思われます。

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<鳥越神社石華表几号水準点>

 鳥越神社には鳥居が三つあり、西側の鳥居の左側に几号水準点が刻まれています。かなり明瞭で、保存状態が良いです。

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【付属予備点】

○台東区橋場 台東区橋場2-1-12株式会社伊勢金前歩道中央

 几号水準点ではなく付属予備点というものです。株式会社伊勢金前歩道中央にあります。 歩道反対側は、橋場不動尊。ここから600m南の社会教育会館前の歩道にも付属予備点があります。

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○台東区今戸 台東区今戸2-26-12今戸社会教育会館前歩道中央

 几号水準点ではなく付属予備点というものです。 歩道の舗装で、四角面が丸面に変貌しつつあります。ここから600m北の歩道中央にも付属予備点があります。

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葛飾北斎① 葛飾北斎墓

○葛飾北斎

「葛飾北斎肖像」
 宝暦10年9月23日~嘉永2年4月18日
 (1760年10月31日~1849年5月10日)

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「為一翁」渓斎英泉画(「戯作者考補遺」(木村黙老 国本出版社 昭和10年)に掲載 国立国会図書館蔵)


「北斎仮宅之図」(露木為一筆 国立国会図書館蔵)

 左にキセルを手にしている葛飾應為、右にこたつ布団をかぶって絵を描いている葛飾北斎。

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「富士三十六景 神奈川沖の富士」(浮世絵大鏡 荒井清七 荒井書店 大正15年)
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「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(葛飾北斎 風俗絵巻出版協会 昭11(19361)年)
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「吉原格子先之図」(葛飾應為 フリー素材)
 光と影のコントラストの美に圧倒されます。
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○遍照院 台東区浅草6-37-12

 葛飾北斎は、嘉永2(1849)年4月18日、浅草聖天町の遍照院境内にある長屋で三女の阿栄(葛飾應為)に看取られ亡くなります。
 なお、娘の葛飾應為も浮世絵師で、「吉原格子先之図」「夜桜美人図」は、光と影のコントラストの美に圧倒されます。

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○葛飾北斎墓(誓教寺) 台東区元浅草4-6-9

 葛飾北斎の墓と胸像が誓教寺境内にあります。
 この辺は旧新寺町で、神社・寺が密集していてわかりにくいですが 「葛飾北斎墓」 東京都教育委員会設置の案内板が出ています。
 正面の門は閉じていますが右手に通用門があってそこから入ります。

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(説明板)
「東京都指定旧跡 葛飾北斎墓
 所在地 台東区元浅草四の六の九
     誓教寺墓地内
 仮指定 大正一四年六月六日
 指定  昭和三○年三月二八日
 葛飾北斎(一七六○~一八四九)は江戸後期の浮世絵師で、葛飾流の祖です。宝暦一○年本所割下水に生まれ、鏡師中島伊勢の養子になりはじめ中島氏を名乗ります。一九歳の時に勝川春章の弟子になり、勝川春朗と改名します。役者絵や相撲絵を描きます。春章没後勝川を離れ、狩野派、漢画、土佐派、琳派、司馬江漢の洋風画・銅版画なども学びます。北斎は奇行に富んだ人で、居を九十三度、号を三十数度変えたとされます。肉筆画、版画などに手腕をふるい、特に風景は称賛されています。「富嶽三十六景」などが知られ、フランス印象派に影響を与えたといわれます。
  平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」

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 本堂正面左手に北斎の胸像があります。

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 右に「史跡 葛飾北斎翁墓 この億墓地内→」の案内板があり、狭い通路を進みます。

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 墓地に入ってすぐ左手に北斎翁墓(東京都指定旧跡)。
 墓標には「画狂老人卍墓」とあり、側面には辞世の句が刻まれています。
 「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」

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※歌川広重の墓については、こちらで記載
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弾左衛門/靴の歴史①

「弾左衛門/靴の歴史①」

○弾左衛門

 長吏頭の矢野弾左衛門と、非人頭の車善七はそれぞれの階級の頂点として存在していました。 非人頭車善七との確執がありました。
 弾左衛門は、扶持は一万石、金融業も営み財力は五万石の大名並でした。皮革の取扱いの他、燈芯、ヒット商品の雪駄、勧進を仕切ってきました。
 斃牛馬(へいぎゅうば)勝手処置令により、皮革の専売権を失います。 13代最後の弾左衛門(弾内記、弾直樹)は、日本製靴業の端緒を開きます。
 (備考) 弾左衛門 明治元年(慶応4年)1月 弾内記と改名。
       明治3年12月 弾直樹と改名。


○靴の歴史

 明治3年、新政府の兵部大輔・大村益次郎の勧めで、旧佐倉藩士の西村勝三が「伊勢勝造靴場」を築地入船に設立します。その後、西村は明治35年の「日本製靴株式会社(現・リーガルコーポレーション)」設立に至ります。
 また、江戸の皮革産業を仕切っていた弾直樹が滝野川や浅草に靴産業の拠点を築き、大塚岩次郎が13歳で「大塚商会(現・大塚製靴株式会社)」を設立し、後に皇族や陸海軍の御用達となります。


○茶利革

<滝野川>(滝野川反射炉跡)

  弾直樹は明治3年9月、滝野川の幕府反射炉跡の地所、建物全部を「製革、製靴、伝習所及御用製造所」と認められ、明治4年2月アメリカの皮革技師、 チャールス・ヘニンガーを招きます。
  音無川の水を使って靴用の鞣し革が生まれ、チャーリーの名にちなんで茶利革と呼ばれます。
  現在は、醸造試験場跡地公園(北区滝野川2-6)及び赤レンガ酒造工場(酒類総合研究所東京事務所:平成27年7月10日広島事務所に移転)となっています。

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<音無の赤レンガ道> 北区滝野川

 赤レンガの旧醸造試験所入口側の道路は愛称「音無の赤レンガ道」として整備されています。旧醸造試験所は、国の重要文化財に指定されています。

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<橋場の靴工場>

 弾直樹は、西村勝三と同じく政府丘部省に軍靴を納めるため、滝野川から浅草橋場(江戸時代の銭貨鋳造機関、橋場銭座跡)に移転します(明治5年(1872)1月)。 この地は、東京都人権プラザとなっていましたが、移転・閉館となっています。

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<亀岡町自宅/弾製靴所>

 明治5年(1872)12月、製靴部門は亀岡町一丁目14番地(現:都立浅草高等学校内:今戸1-8-13)の自邸内を「弾製靴所」、製革部門は三井組の資本が入り地方橋場1373番地(現:東京ガス千住工場内)「弾・北岡組製革所」と改組、2分されます。


<日本橋尼店→鳥越町→浅草新町>

 徳川家康入国後、葭の生い茂っていた村(弾左衛門たちが居住、後の日本橋尼店)が鳥越町に移され、町屋が開かれました。日本橋尼店は「尼崎町」の俗称で、現在の中央区日本橋室町一丁目(日本橋三越本店があります)に当ります。
 鳥越町に移転した弾左衛門たちですが、幕府は鳥越の丘を切り崩して、入江を埋め立て幕府の御蔵を造るため、鳥越町からさらに移転を命じられ、この地へ移転しました。この地を新鳥越町とし「新町(しんちょう)」と呼んでいました。


<浅草新町 弾左衛門囲内 弾左衛門屋敷>

 弾左衛門屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた南北に長い広い区画で、周囲を塀と寺社で囲われていました。
 弾左衛門屋敷は、山谷堀の今戸橋と新鳥越橋(現在の吉野橋、江戸切絵図では三谷橋)の間に位置し、東京都立浅草高等学校の校庭が屋敷跡です。
 運動場の外の横の道路が囲内の中心通りで、その左右が囲内。中心通りは山谷堀に面して門があり、北に向かいます。

 江戸切絵図では「穢多村 俗ニ新町ト云フ」と記されています。
 新町は、明治4年10月に亀岡町1丁目・2丁目・3丁目となります。
 稲川實氏(皮革産業資料館 副館長)「靴の歴史散歩」によれば、弾直樹の長男・謙之助氏は、明治42(1909)年に屋敷地(亀岡町1丁目14番)を明け渡し引っ越します。
 稲川氏の掲載地図では、山谷堀小学校と屋敷は併存しています。山谷堀小学校の開校(明治42年)は、大番頭石垣元七氏の地(亀岡町1丁目13番)となっています。なお、石垣元七氏が明治34年に逝去した時の住所は亀岡町3丁目となっています。大番頭石垣元七氏は、東京市収入役、東京市会議員となっています。
 山谷堀小学校が開設した時点で弾家の屋敷が消滅したとか、弾家が寄贈したとかの記述も見受けられますが、明治42年に山谷堀小学校が開設した時点で、開校地は大番頭の屋敷で、弾家の屋敷は残っていて、大正2年時点で、浅草区会議員八田浪之助氏が住んでいます。

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○皮革産業資料館 台東区橋場1-36-2 03-3872-6780

 皮革産業資料館は、台東区の地場産業である皮革産業に関する製品や書籍、文献を収蔵・展示する資料館として昭和56年(1981)に開館しました。 国内では唯一の皮革専門の資料館として貴重な存在です。 展示品の中には元大関小錦の靴や長島茂雄氏のスパイクシューズなどもあります。
 皮革産業資料館は、普段は閉まっていて、1階の事務室で見学を申し出ると、2階の資料館の鍵を開けて見学となります。2階から見るスカイツリーは、隅田川が映えてグッドビュースポットです。
 リーガルの祖、西村勝三の棚は、桜組造靴場など資料が色々ありますが、以前訪問した時は、弾左衛門の棚は写真1枚のみでしたが、写真もなくなり、ワインコルクの肖像画に置き換わっていました。

 一方で、副館長の稲川實氏の著作物は、靴産業に関して弾直樹について一番詳しいと思います。 「東京都立皮革技術センター」のサイトに、靴の歴史散歩(皮革産業資料館 稲川 實 副館長)が掲載されていましたが、ホームページ改編で、掲載資料が消えたのが残念です。

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○東京都人権プラザ展示室 台東区橋場1-1-6 2018(平成30)年3月31日廃止

 東京都人権プラザは、老朽化等のため平成29年2月16日に港区芝へ移転し、残っていた「分館」(台東区橋場1-1-6)も平成30年3月31日をもって廃止されました。現在は建物も取り壊されました。

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 以前の東京都人権プラザ展示室です。
 「東京都人権プラザの歴史」として弾直樹のコーナーがありました。 閉館した「東京都人権プラザ」は、弾直樹が起した皮革会社跡地(その前は橋場銭座)に建っていました。

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<橋場銭座>

 橋場銭座の資料を国会図書館蔵書から探したら、「大日本貨幣史」(大蔵省)に、橋場町鋳銭座ノ図がありました。

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○今戸神社 台東区今戸1-5-22

 今之津八幡神社に隣接地の白山神社を合祀し、今戸神社と改称(昭和12年7月)しています。
 源頼義・義家父子が、勅令によって奥州の安部貞任・宗任の討伐の折、鎌倉の鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今之津八幡の創建になります。
 白山神社は、浅草新町の守り神でした。白山神社の跡地は、痕跡は何もありません。

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<江戸名所図会 今戸八幡宮>

 江戸名所図会に今戸八幡宮が描かれています。

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<白山神社>

 探し当てたかつての弾左衛門屋敷の邸内社だった白山神社です。「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」(東京市公園課 1923)に掲載されていました。

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○本龍寺 台東区今戸1-6-18

 徳川が天下を取ると他家の「葵紋」の使用がはばかれるようになりました。 寺紋は、徳川氏の「徳川葵」とは違いますが「立葵」の紋です。弾左衛門の菩提寺で、矢野氏墓があります。

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【参考文献】
○「弾左衛門とその時代」 塩見鮮一郎 河出書房新社
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○「資料浅草弾左衛門」塩見鮮一郎 批評社 1996.12
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○「貧民の帝都」塩見鮮一郎 文春新書
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○「江戸の貧民」 塩見鮮一郎 文春新書 文藝春秋 2014.8
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○「江戸の弾左衛門―被差別民衆に君臨した“頭”」中尾健次 三一新書
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○「靴づくりの文化史」稲川實・山本芳美 現代書館 2011
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○「西洋靴事始め」稲川實 現代書館 2013
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次、「弾左衛門/靴の歴史②
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浅草文庫

浅草文庫

○浅草文庫 砂利場 台東区浅草5丁目

 幕医、板坂卜斎が砂利場に日本最初の公共図書館「浅草文庫」を設けています。


○浅草文庫 台東区西浅草3-25-16台東区立中央図書館

 台東区立中央図書館に浅草文庫コーナーがあります。浅草文庫は昭和52(1977)年11月、浅草観光連盟によって設立されました。
 旧東京電力浅草サービスステーション内、平成12(2000)年からはテプコ浅草館内で、30余年にわたり閲覧・展示が行われてきました。
 平成23(2011)年、テプコ浅草館の閉館にともない、その図書資料が浅草観光連盟より台東区に寄贈されました。平成24(2012)年11月、台東区立中央図書館郷土・資料調査室内に浅草文庫コーナーが開設されました。 

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佐竹商店街/三味線堀跡

佐竹商店街 台東区台東3丁目・4丁目

 秋田の佐竹家の江戸での菩提寺は、橋場の総泉寺。佐竹家の上屋敷が御徒町にありました。佐竹商店街に寄ってみました。

○佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡 台東区台東2・3・4丁目

<説明板>
「佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡   台東区台東二・三・四丁目付近
 江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地である。藩主は佐竹氏で、二十万余石を領有した、東北地方屈指の外様大名であった。佐竹家上屋敷の当地開設年代は、『武鑑』からみて、元禄二年(一六八九)もしくは翌三年と考えられる。屋敷地は広大で、現在の台東三・四丁目東半分にわたっていた。
 佐竹家八代藩主佐竹義敦(号は曙山)は、日本初の本格的西洋医学書の翻訳書『解体新書』(安永三年[一七七四]刊)付図を描いた藩士小田野直武らとともに、洋風画の一派「秋田蘭画」の基礎を築いた。また天明年間(一七八一-八九)の狂歌師手柄岡持も藩士であり、当時の文化人がここを中心に活躍していたことがうかがわれる。
 明治になって佐竹家上屋敷や近隣の武家屋敷が撤去され、当地は野原となり、俗に佐竹っ原と呼ばれた。ここは見世物小屋が集中して賑わったが、明治時代半ばから民家が立ち並び、商店街として発展した。現在、「佐竹」の名は、「佐竹商店街」として継承されている。
  平成八年三月  台東区教育委員会」

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○三味線堀跡 台東区子島1-5

<説明板>
「三味線堀跡  台東区小島一丁目五番
 現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西端に南北に広がっていた。寛永7年(1630)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀とよばれた。 一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋三丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。
 不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。
 なお天明三年(1783)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだ狂歌をのこしている。
    三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景
 江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。 しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。
  平成十五年三月  台東区教育委員会」

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「江戸名所百人美女 三味せんぼり」(豊国・国久 安政5(1859)年)

 こま絵に「三味せんぼり」が描かれています。

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○佐竹商店街

 垂れ幕の掲示です。

 「樋口一葉は下谷御徒町に住んでいたことがある」 (明治十四年から三年、下谷御徒町(現・台東)に在住)

 「佐竹商店街は日本で2番目に古い商店街です」

 「のどの薬龍角散は秋田佐竹家の家伝薬だった」

 「江戸時代に御徒町で変化朝顔が盛んに栽培されていました」 (注:御徒町は、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒(徒士)が多く住んでいたことに由来します。)

 「佐竹に明治時代見世物の大仏があった」
 (※高村光雲作の大仏がありました。)

 「夏目漱石は台東区で小学生時代を過ごした」
 (※佐竹近くの寿町に住み戸田学校に通いました。蔵前小学校に「漱石学び始めの碑」があります。)

 「日本本で最初の洋風画を描いたのは秋田・佐竹家の藩主佐竹義敦です」

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<お休み処>
       
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<秋葉神社> 台東区台東4-21-23

 佐竹秋葉神社と通称されています。秋葉神社は、秋田佐竹藩上屋敷跡地に明治22(1989)年4月秋葉神社の分霊を勧請して創建したといいます。昭和5(1930)年に社殿を造営し火伏せの神として崇められています。

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○おかず横丁

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