山谷①  玉姫稲荷など

【清川2丁目】
 山谷は、清川2丁目がディープです。

○泪橋 台東区清川2丁目・日本堤2丁目 荒川区南千住2丁目・3丁目

 丹下拳闘倶楽部は、泪橋のたもとにありました。いろは会商店会にあった掲示です。

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<世界本店> 台東区日本堤2-29-13

 泪橋交差点の角の台東区側にあるのが「セブンイレブン 台東日本堤2丁目店(株式会社世界本店)」です。
 泪橋交差点には、かつて焼酎の売上が日本一の酒屋兼立ち飲み屋「世界本店」がありました。山谷では「野田屋」(廃業→マンション)と二分する名物的存在でした。
 平成4(1992)年2月にセブンイレブンのフランチャイズ店に転業しましたが、入口の扉にある「世界本店」の文字にその名残が残っています。

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○玉姫公園 台東区清川2-13

 公園内は青いテントであふれています。グランドは高い金網に覆われ、施錠され入れません。子どもの遊び場に程遠い状況の公園です。「あしたのジョー」では、何度も登場する公園です。

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○玉姫稲荷神社 台東区清川2-13-20

 浅草北部は、弾左衛門で知られる皮革産業が地場産業となっています。玉姫稲荷神社では、靴をはじめとする市が年2回あります。日本で唯一の靴の神社です。

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<こんこん靴市>(4月最終土日)
 玉姫稲荷神社境内と周辺で、近隣の靴関連業者が商売繁盛と地場産業の発展を目的として行う市です。この地の周辺には靴製造業者や靴問屋が多くあり、年末の資金集めとしての即売会として始まったこの靴市では、市価の2割から8割で最新デザインの靴や皮革製品が即売されます。また、期間中に、古靴供養が行われます。
 
<靴のめぐみ祭り市>(11月最終土日)
 玉姫稲荷神社の氏子の靴メーカーが靴のめぐみを感謝して行っています。古靴供養が行われ、「シンデレラの靴神輿」が登場します。特別企画として、「日本シューズベストドレッサー賞」の発表が行われます。

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<あしたのジョー>(※現在は撤去されています。)
 拝殿の両側の狛犬をすぎると(立派な狛犬です)、「あしたのジョー」の左手に白木葉子、右手に矢吹丈が控えています。

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<手水舎>
 竜から手水が流れ落ちてきますが、なんか怪しい。鉄分含んだ冷鉱泉?メタケイ酸で温泉該当?

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<「置きエサ禁止!」猫看板(台東保健所)>
 台東保健所は粋な看板をつくっています。

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○イトーヨーカ堂発祥の地 台東区清川2-5-3

 イトーヨーカ堂の母体は、大正9(1920)年に創業した「羊華堂洋品店」(浅草区浅草山谷町)です。

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<旧安田銀行>
 隣の建物は、旧安田銀行です。

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 「羊華堂洋品店」があった場所で営業していたイタリアン料理店「バール・アルテ」が閉店・解体となり、新たにビルが建ちました。 (左が旧安田銀行、右が新たなビル)

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【日本堤】
○山下清 生誕の地
 山下清は、1922年3月10日、東京府東京市浅草区田中町(現:台東区日本堤)で生まれました。

○湯どんぶり 栄湯  台東区日本堤1-4-5 03-3875-2885
 温泉銭湯です。こちらで記載済
 「地下タビの洗濯・乾燥は絶対にお断りします」

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(参考)
 山谷の飲食店
関連記事

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山谷堀①

山谷堀
 三の輪橋→日本堤橋→地方橋→地方新橋→紙洗橋→山谷堀橋→正法寺橋→吉野橋→聖天橋→今戸橋→山谷堀広場→山谷堀水門

<親柱>
 8カ所の親柱が残っていて、うち3カ所の親柱には来歴がありました(過去形)。山谷堀公園改造工事(第1~2期)2018年3月竣工により、地方橋から吉野橋まで、親柱がなくなって、新しい石におきかわっています。
 山谷堀公園の説明板には「橋台のみが昔の面影を残している。」と説明しているのに、昔の面影がなくなってしまいました。
 新しい石に来歴がはめこまれているので、元々の親柱は廃棄されたかな。 足立区郷土博物館の千住新橋の親柱が移設されて保存されているように、移設されたとは思えない。
 第3期の改造工事が、聖天橋から今戸橋まで、2019年度に始まります。
   
 以下は、既に撤去された親柱の記録です。

○三の輪橋跡 /荒川区南千住2-1/台東区三ノ輪2-15

 音無川は、三ノ輪橋を経て、思川と山谷堀に分かれます(現在は暗渠)。荒川区、台東区の両方にモニュメントがあります。
 慶応四年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けました。

<三ノ輪橋(音無川)>あらかわの史跡・文化財 荒川区南千住2-1

(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 三ノ輪橋(音無川)
 三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、 現在の日光街道と交叉するところに架けられた橋である。
 橋の長さは五間四尺(約十メートル)、幅三間(約六メートル)であったという。
 音無川は日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り常磐線ガード手前を右折、その右角は私立池谷小学校(明治二六年廃校)跡、そして現日光街道を横切り、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。
 明治四一年、三ノ輪が属する一六番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。
 現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所名として残されている。
   荒川区教育委員会 台東区教育委員会」

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<三の輪橋> 台東区三ノ輪2-15

(標柱)
「三の輪橋(みのわばし)
 かつて石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かっていた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となったため三の輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。
  平成18年3月 台東区教育委員会」

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<江戸切絵図>

 江戸切絵図に描かれている音無川と浄閑寺です。

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<かつての川筋>

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<旧町名由来案内 下町まちしるべ 台東区>

 三ノ輪児童遊園に、三ノ輪町の由来案内。慶応四年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けました。

(説明板)
「旧 三ノ輪町
 三ノ輪という地名は古く、江戸時代以前からあった。 この地は、奥東京湾に突き出た台地の先端部であることから水の鼻(みずのはな)といわれ、これがいつしか三ノ輪になったといわれる。
 延享二年(1745)、隅田川の宿場として形成した三ノ輪村原宿が原宿町として独立した。そして明治三年に下谷原宿町となり、同二十四年、下谷原宿町と三ノ輪村が合併して、旧三ノ輪町が誕生した。
 昭和初年まで、今は無い音無川にかかる三ノ輪橋があった。 慶応四年に水戸へ去る徳川慶喜は、この橋のたもとで山岡鉄舟らの見送りを受けた。
 今でも都電の停留所(荒川区)に、その名が残っている。」

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○日本堤橋

 「墨東綺譚」(永井荷風)によれば、日本堤橋は、吉原大門前と記されています。

<「墨東綺譚」(永井荷風)>
「古本屋の店は、山谷堀の流が地下の暗渠に接続するあたりから、大門前日本堤橋のたもとへ出やうとする薄暗い裏通りにある。裏道は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、 こなたは土管、地瓦、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示してゐるが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気な子家がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋、山谷橋、地方橋、髪洗橋などといふ橋の灯がわづかに道を照らすばかり。 堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。 この辺で夜も割合におそくまで灯をつけてゐる家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらゐのものであらう。」

 土手通りと花園通りのT字路のところに昔は道が突き抜けていて日本堤橋があったと想像しましたが、永井荷風は吉原大門前と記述しており、ここは違うようです?橋の跡の痕跡がありますが?

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○日本堤ポンプ所 台東区浅草5-73-12

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 小平市下水道課の下水道文化にまつわる講話「江戸の下水道」から抜粋します。
「江戸の町は、現在の東京からは想像もできないほどのたくさんの堀や川が流れ、これらが下水道幹線の役割を果たしていました。
 現在の下水道との関連をみると、たとえば、王子(現・北区)付近で石神井川から分岐し、中里(現・北区)・尾久・日暮里(現・荒川区)・根岸(現・台東区)を経て、三の輪(現・台東区)で山谷堀と思川とに分かれていた「音無川」の跡は、日暮里付近から三の輪付近までが「音無川幹線」になっています。
 三の輪付近で「分水堰」を超えた下水は、「山谷堀上流」跡につくられた「雨水渠」を通じて、日本堤ポンプ所へ入ります。日本堤ポンプ所には、「浅草新堀川」跡につくられた「元浅草幹線(雨水渠)」からの下水も入ってきます。
 日本堤ポンプ所から排水された下水は、「山谷堀下流」の跡につくられた「雨水渠」を通って隅田川に流し出されます。
 「分水堰」を超えない下水は、南千住(荒川区)付近から三河島処理場に繋がる幹線に合流して、三河島処理場で処理された後、隅田川に放流されます。」


○地方橋 左岸 東浅草2-7

 地面から突き出たコンクリートのマンホールが間隔を置いて続いています。

 地方橋来歴
 本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
 一 起工 昭和四年四月
 一 竣工 昭和四年八月
 一 工費 弐萬四百圓
   東京市

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○地方新橋 左岸 東浅草1-14-8
     
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<弐の湯> 台東区浅草5-72-2
 銭湯です。2018年12月31日閉店。銭湯がどんどん閉店していく。

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○紙洗橋 左岸 東浅草1-4-9 右岸 東浅草1-13-9

 紙洗橋来歴
 本橋ハ帝都復興事業トシテ改築シタルモノナリ
 一 起工 昭和四年七月
 一 竣功 昭和四年九月
 一 工費 壱萬弐千圓
      東京市

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<ひやかし>

 山谷堀周辺では浅草紙が生産されており、鼻紙や落とし紙として使用されました。山谷堀は「ひやかし」(紙漉きの工程)に使われました。
 「嬉遊笑覧」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)によれば(第9巻に記載)、「山谷にはすきかえしの紙を製する者多くそれが方言に紙のたねを水に漬けおきそのひやくる迄に廓中のにぎはひを見物して帰るより出たる詞といへりいかがあらん」と記されています。
 「ひやかし」の間、待ち時間に職人が近くの吉原を見物しに行き、登楼することはなく、「ひやかし」の言葉が生まれました。


<紙洗橋地蔵堂> 台東区東浅草1-4-6

 山谷堀公園右岸に地蔵が祀られています。

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<袖摺稲荷> 台東区浅草5-48-9

 紙洗橋交差点のすぐそば。ビルとビルの間の狭い隙間です。小西半右衛門が夢のお告げによりこの稲荷を祀ったとのこと。
 1853年の地図『今戸箕輪浅草繪圖』中、浅草田町一丁目と二町目の境に「袖スリイナリ」と記されています。

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○正岡子規『牡丹載せて今戸へ帰る小舟かな』 台東区東浅草1-4-2(紙洗橋と山谷堀橋との間)

 正岡子規の句に「豁然と牡丹伐りたる遊女かな」があり、両句からして、吉原の帰りですね。

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○山谷堀橋 左岸下流 浅草6-46-8 左岸上流 東浅草1-4

 山谷堀橋来歴
 本橋ハ帝都復興事業トシテ新設シタルモノナリ
 一 起工 昭和四年五月
 一 竣功 昭和四年九月
 一 工費 壱萬九千四百圓
      東京市

<亀屋銘木店> 台東区浅草6-46-4
 山谷堀橋右岸の亀屋銘木店です。古い建物です。

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○正法寺橋 左岸 浅草6-45-12

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<正法寺> 台東区東浅草1-1-15

 正法寺橋を東に歩くと正法寺があります。正法寺は、地上9階建てのビルで、境内のない屋内霊園の寺院です。受付はホテルのフロントの雰囲気です。

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<合力稲荷神社> 台東区浅草6-42-8

 正法寺橋傍にあります。三ノ宮卯之助の「足持石」と彫られた力石があります。四代将軍徳川家綱の愛馬「荒波」を荒波馬頭として合祀しています。

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※三ノ宮卯之助「足持石」の力石について、新たに説明板が2つ設置されました。
  「台東区教育委員会」(2019年2月設置)「越谷市郷土研究会」(2020年2月設置)

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<説明板設置>
 三ノ宮卯之助の「足持石」と彫られた力石について、新たに説明板が2つ設置されています。
「台東区教育委員会」 2019年2月設置
(説明板)
「三ノ宮卯之助の力石
    台東区浅草六丁目四十二番八号 合力稲荷神社
 力石は、「力比べ 」や「 曲持ち」を行うときに用いられた石である。江戸時代には、神社の祭礼などで力と技を競った。 持ち上げた石には姓名などが刻まれ、寺社に奉納された。江戸時代後期には、職業的な力持ち力士による興行も行われるようになった。
 この力石は、江戸時代後期に奉納されたと推定される。高さ九三センチメートル、幅八○センチメートル、奥行き四八センチメートルの自然石である。石には、三ノ宮卯之助、足持石、数名の世話人の名が刻まれている。
 三ノ宮卯之助(一八○七~五四)は、現在の埼玉県越谷市三野宮に生まれ、力持ちを見世物とした一座を結成し、諸国を巡業した。 嘉永元(一八四八)年六月の「 力持番付」(山梨県立博物館蔵)には、当時の最高位である東の大関としてその名が記されており、卯之助の名が刻まれた力石は関東地方を中心に長野県、大阪府、兵庫県にも分布していることから、著名な人物であったと考えられる。卯之助は仰向けになり力石を足で差回す「曲持ち」や、馬一頭を乗せた小舟を持ち上げる技を得意としていたといわれ、「足持石」と刻まれているこの石も、足を使って持ち上げられたことが推測される。
 境内にある力石の由来は明かではないが、江戸時代の信仰や娯楽の一端を知ることができる資料として、地元の浅草馬三町会により大切に保存されている。
  平成三十一年二月  台東区教育委員会」

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「越谷市郷土研究会」 2020年2月設置

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「浅草馬三町会」 2018年2月設置
(説明板)
「浅草合力稲荷神社 (正一位合力稲荷大明神)
    稲荷本地仏十一面観音
    浅草六丁目四十二番地
御祭神 保食神(ウケモチノカミ)
創建  永禄年中(一五五六~)良法院護持
縁起  当社は永禄年中、山谷村百姓一同にて郷中鎮守として奉斎
御祭神は生活の基をなす食を司る神として御神威を発揚され、四百数十年に亘り庶民の信仰を集め尊栄を見守る

馬頭観音合祀  寛文三年(一六六三)四代将軍家綱日光社参の砌 御乗馬 名馬【荒波】千住宿にて死亡依って当社に於いて荒波馬頭として是を奉る
将軍の愛馬を祀る縁により敷地六十坪は除地となって年貢は免除となる
日本堤の土手下に有り「土手のお稲荷さん」として
江戸時代より現在に至るまで多くの人々に崇められる

境内には江戸時代随一の力持ち「三ノ宮卯之助の力石」が奉納されている
  平成三十年五月吉日  浅草馬三町会」

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<三村商店> 台東区浅草6-45-9

 正法寺橋右岸の三村商店です。古い建物です。

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<浅草山川町>

 俗に山谷堀・砂利場ともいい、砂利場がありました。万治3年江戸城普請の際、この地で工事用の砂利を採取したので、こう呼ばれました。砂利場は山谷堀沿の山川町と田町1丁目にありました。


○吉野橋 左岸 浅草7-10

 江戸切絵図では三谷橋と記され、上流の右岸に砂利場があり、その奥に西方寺が見えます。新鳥越橋とも呼ばれました。
 明治2(1869)年に浅草新鳥越町が浅草吉野町と改称したのに合わせ山谷橋から吉野橋となりました。
     
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<吉野町一・二・三丁目> 台東区の旧町名

「 この地は、正保二年(一六四五)、矢の倉建設のために収公された元鳥越町が、この地に移り、新鳥越町と称していた。
 その後、明治二年(一八六九)元鳥越町とまぎらわしい町名だったことから浅草吉野町と改称した。
※町名の由来は、この地が昔、浅茅が原と呼ばれる野原であったことから、「野」の字をとり、それに祝字の「吉」を冠して、吉野町と名付けたといわれる。
 本町の起立とともに、山谷堀に架かっていた山谷橋も吉野橋と改名された。
 明治五年(一八七二)、浅草吉野町は周辺の十六か寺と熱田神社を合併し町域を広げた。
 そして、昭和七年(一九三二)に、本町の北側を三分して浅草山谷一丁目、同清川一丁目、同石浜一丁目に割譲し、南側を新し浅草吉野町一・二・三丁目として、ここに発足した。
 昭和四十一年(一九六六)、住居表示制度の実施で、吉野町の名はなくなったが、現在は町域に吉野橋や吉野公園があり、その名を伝えている。」


○聖天橋 左岸 浅草7-10 右岸 浅草7-11

 待乳山聖天が近くです。

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<西方寺向かい刑場> 新鳥越町1丁目(現:浅草7丁目)

 聖天町の西方寺の向、日本堤上り口の新鳥越町1丁目に浅草鳥越刑場がありました。刑場は鳥越から新鳥越に移ってきました。その後、小塚原に移転します。

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<待乳山聖天> 台東区浅草7-4-1 03-3874-2030 ホームページ
 
  境内のあちこちに大根と巾着があります。詳細は別途記載します。

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<池波正太郎生誕地碑>

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○今戸橋 右岸 浅草7-11-12

 上流側は山谷堀公園、下流側は山谷堀広場に親柱が残ります。
       
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「東京名所 今戸有明楼/今戸橋雪」

  東京名所から2枚抜粋です。

(小林清親)
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(井上安治)
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○山谷堀広場 浅草7-1

 今戸橋から隅田川までは墨田公園の山谷堀広場となっています。今戸橋から地方橋までは山谷堀公園です。
  
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○竹屋の渡し跡碑 山谷堀広場

 三囲神社西鳥居下と待乳山聖天社を結ぶ「竹屋の渡し」は、もともとは待乳ノ渡しと呼ばれていました。
 墨堤の茶屋「都鳥」の女将が、対岸の今戸橋河口の船宿「「竹屋」に向かい、「竹やー」と舟を出してもらう呼びかけの美声が参詣客の評判となり「竹屋の渡し」が通り名となりました。竹屋は、西方寺に寄進しています。
 対岸にも墨田区が設置した竹屋の渡しの説明板があります。

「台東区の史跡・名所案内 竹屋の渡」(サイト改編により焼失)より
 竹屋は船宿で、西方寺に寄進しています。

「台東区の史跡・名所案内 竹屋の渡」より
「隅田川にあった渡し舟の一つ。山谷掘から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりとを結んでいた。
 明治四〇年刊『東京案内』には「竹屋の渡し」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家の渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」ともいわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることと由来する。
 「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわらに「竹屋のわたし」の名が見える。
 江戸時代、隅田川にのぞむ今戸や橋場は風光明媚な地として知られ、様々な文学や絵画の題材となり、その中には「竹屋の渡し」を描写したものも少なくない。
 昭和三年言問橋の架設にともない、渡し舟は廃止された。」

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○山谷堀水門

 山谷堀の隅田川への水門。山谷堀は暗渠となり、雨水渠となっています。

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○台東区立山谷堀公園 東浅草1-4-9、1-13-9、1-14-9、浅草6-45-12、6-46-8、7-10-6、7-11-12

 山谷堀は日本堤が築かれる前から存在しており、いつ頃掘られたのかはわかりません。山谷堀は、音無川を人工的に真っ直ぐにしているので大規模な工事だったはずです。はっきりしないというのはミステリーです。
 (参考) 山谷堀(築年不明) 日本堤(1620年) 新吉原(1657年)

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<洗たくや身体を洗うことはやめて下さい>
 公園の流れを路上生活者が洗濯場や浴場として利用したため、流水は中止となっています。
 「公園の流れやせせらぎ内での洗たく及び身体を洗うことはやめて下さい 公園課」

※2020年3月27日に山谷堀公園改造工事が竣工し、せせらぎはなくなりました。看板もなくなっています。ご当地らしい看板だったんですけれどもね。

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日本堤と隅田堤 土手通り

○日本堤と隅田(墨田)堤

<遠大なV字ダムー江戸を守る>

 荒川(隅田川)の洪水から江戸を守るため、浅草付近の右岸側に日本堤、左岸側に隅田(墨田)堤が築造されました。

 国土交通省のサイトの地図が日本堤の役割をわかりやすく示しているので引用します。
 https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00026.html

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 荒川左岸の熊谷堤・隅田堤と、右岸の日本堤で、V字ダムとして水をせき止め、上流は広域にわたり水があふれ遊水池となり、江戸を洪水から守ります。

 荒川左岸には、徳川家康公江戸入府以前に熊谷から向島まで堤防が築かれていたとされます。
 荒川右岸の下流に日本堤を築き、上流は、箕輪が武蔵野台地の先端であり台地を自然の堤防としました。
 日本堤の南端には待乳山があり、ここから浅草寺にかけては高台でした。

 三ノ輪橋より下流は自然の河川を人工的に直線に改修した水路です。
 その山谷堀の右岸に、1620(元和6)年、二代将軍秀忠が八十余州の大名に命じた「天下普請」で、待乳山聖天町から箕輪まで延長860m、高さ3m、土手上道幅7.2mの堤防が60余日で築かれました。

<荒川放水路の完成と日本堤取り壊し>
 遊水池に工場や住宅が増えてくると、ここを水浸しにできる状況ではなくなってきます。
 荒川放水路が1930(昭和5)年に完成、役割を終える日本堤は1927(昭和2)年に取り崩され、土手通りが建設されました。

<土手通り(日本堤跡)>
 関東大震災後「帝都復興院」総裁に就任した後藤新平のもと、新道路計画が立案されます。
 土手通りは、この復興道路の一環として開通しています。


【土手通りの店々と交差点】
 ドテのクスリヤを初め、土手の文字を冠する店名がみられます。

○ドテのクスリヤ森田薬局 台東区千束4-38-10
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○ますみ寿司 台東区千束4-38-12
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○堤や(どてや) 台東区千束4-37-12
 2012年オープンの新しい居酒屋。
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○吉原もん 台東区千束4-36-1 2014/7/11open 営業夜のみ ※閉店
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 ※閉店し2003年6月からビル解体です。
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○吉原土手 馬肉の千葉屋 台東区日本堤1-9-4
 吉原土手名物馬肉の千葉屋
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○とんかつ 美乃屋 台東区日本堤1-9-3
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○桜なべ中江 台東区日本堤1-9-2
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○土手の伊勢屋 台東区日本堤1-9-2
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○大むらそば店 台東区日本堤1-8-4 ※閉店
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○土手あつみや 台東区日本堤1-8-4
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○三ツ和モータース 台東区日本堤1-10-3
 土手裏にも古い家屋があります。
 日産自動車販売協力店会の会員之證が掲げられています。
 今となっては、自動車販売店には見えない販売店です。
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○鈴木銘木店(銘木の店鈴木) 台東区東浅草2-7-6
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○土手大嶋屋 台東区東浅草1-14-7
 土手・大嶋屋は、江戸文字揮毫の提灯の老舗(享保年間創業)。
 地方橋交差点にあります。
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○土手加藤材木店 台東区東浅草1-13-6
 創業は明治26年で古くはないです。
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【交差点】
○三ノ輪2丁目交差点
 明治通りと土手通りの分岐点。
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○日本堤1丁目交差点
 お歯黒どぶの西河岸への入り口。
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○吉原大門交差点
 仲之町通りへの入り口。
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○日本堤消防署横
 花園通りがお歯黒どぶの羅生門河岸への入り口。
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○地方橋交差点
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○紙洗橋交差点
 「ひやかし」の語源となった。
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コツ通り(南千住)

○コツ通り(山谷通り)

 南千住駅の西から、日光街道に続く「山谷通り」は、通称「コツ通り」と呼ばれ、コツ通り商店会(荒川区南千住5丁目)があります。
 言問橋と南千住を結ぶ東京都道464号言問橋南千住線の一部です。 全線はかつての日光街道で、通称「吉野通り」です。

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(コツ通りの名前を冠した整骨院)
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(大嶋屋提灯店)
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(仙成食堂は2019年1月閉店)
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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 日光道中
 日光道中は、日本橋を起点に日光を終点とする江戸時代の五街道の一つである。日光街道ともいう。地元では、周辺の古い地名「小塚原(こつかっぱら)」の略称を冠して「コツ通り」と呼ばれている。
 寛永元年(一六ニ四)、幕府により整備が始められ、全国的な主要幹線として多くの人馬が行き交った。区内では、現在の泪橋交差点から千住大橋までの道筋がこれに相当する。江戸の入口にあたり、日光道中の初宿である千住宿(下宿)が置かれた。
 明治六年(一八七三)からは国道陸羽街道と称し、主要幹線として機能したが、昭和二十七年(一九五ニ)の新道路法の施行により、特例都道第464号言問橋南千住線となった。
 なお、昭和三十七年以来、日光街道の名称は、国道四号線の宇都宮以南の東京都通称道路名として使われている。
  荒川区教育委員会」
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<「コツ」の名の由来?>
「コツ」の名の由来はなんでしょう?
○その1 「小塚原(こつかっぱら)を略した」
○その2 「小塚原刑場では火葬ではなく土葬したため人骨がむき出しだった」
○その3 「小塚原の田地にあった火葬寺(焼場)に因んだ」


<解体新書>

 杉田玄白(前野良沢、中川淳庵)の解体新書には、以下の記述があります。
 「時の町奉行曲淵甲斐守殿の家士得能万兵衛といふ男より手紙もて為知越せしは、「明日、手医師何某といへる者、千寿骨ヶ原にて腑分いたせるよしなり。 御望ならば、彼かたへ罷越れよかし」と言文おこしたり。」
 江戸のお役人の部下が、小塚原ではなく「千寿骨ヶ原」と表記しています。骨ケ原が通称だったようです。


<仕置場>

 仕置場の場所ですが、江戸切絵図で確認すると、大橋の手前が小塚原町で、仕置場は小塚原町ではなく、お隣の中村町にあります。小塚原町の飛び地だったようです。

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<火葬寺>

 火葬寺ですが、「荒川ふるさと文化館だより」等を参照すると、 浅草や下谷の寺院内にあった19か所の火屋(火葬施設)が、寛文九(1669)年に小塚原(小塚原町と中村町の入会地)に移転してできたのが火葬寺です。
 江戸時代の五三昧(5か所の火葬場)の中では、最大規模でした。

 さて、火葬寺は、中村町の裏手の田地にありましたが、現在の場所はどこか?
 「歩く地図でたどる日光街道」の作者が、調べているので、引用します。
 「⑥火葬場跡(南千住5丁目21.22)
 此宿往還より西之方壱町余引込、諸宗之火葬をいたし候寺院拾九ヶ寺有之」(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)小塚原町の飯盛女をひやかしに行く人は、火葬の骨に小塚原のコツを掛け合わせ「コツに行く」といった。“焼き場から往生させてコツへ連れ”の川柳がある。」(引用)

 火葬寺の現在の所在地は、荒川区立第二瑞光小学校の西、南千住5丁目21番地及び22番地となります。
 「落語大好き」のHP中「落語の中の言葉142「コツの若松屋」」には、小塚原と焼場の関係を知る上での記述があります。
 江戸時代の川柳「焼場からなぐれてこつの大一座」「焼場から往生させてこつヘ連れ」が引用されています。

「安政午秋頃痢流行記 荼毘室(やきば)混雑の図」(安政5(1858)年 都立図書館蔵)
 安政5(1858)年のコレラの流行時の、火葬寺が荼毘を待つ棺桶であふれている様子が描かれています。解説の挿絵には、火葬寺へ向かう棺桶の列が続いています。
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<推論>

 小塚原町は、大橋(架設当初は小塚原橋とも呼ばれた)のたもとにあり、吉原より気安く飯盛女と遊べるため人気があった。

 近くには、江戸では最大規模の火葬場である火葬寺(現在の荒川区南千住5丁目21番地及び22番地)があり、江戸時代の川柳に「焼場から往生させてこつヘ連れ」「焼場からなぐれてこつの大一座」とあるように、 荼毘に付した後、葬礼帰りの人々が精進落ちと、小塚原の飯盛宿に登楼する実情もあった。

 小塚原と火葬寺のコツ(骨)を洒落て、小塚原に遊びに行くことを「コツに行く」と言っていた。

 仕置場は骨ケ原と呼ばれていたが、小塚原ではなく宿から離れた中村町にあった。
 仕置場が移ってきたのは、小塚原ができてからだいぶ後である。火葬寺は仕置場より以前にあった。

 コツ通りの由来を宿から離れた骨ケ原(仕置場)に求めるより、宿に近い火葬寺のコツに求めるほうが自然であり、これに小塚原の「こつ」とをもじって、小塚原の飯盛宿のことを「コツ」と通称しており、小塚原(コツ)の通りであるから、コツ通りと呼ばれていた。
 小塚原刑場が近くにあったもんだから、刑場に由来すると思っている人も多いようです。


○回向院 荒川区南千住5-33-13
 ※加筆したのでこちらに記載

○延命寺 荒川区南千住2-34-5
 ※加筆したのでこちらに記載


○泪橋 台東区清川2丁目・日本堤2丁目 荒川区南千住2丁目・3丁目

 コツ通りを線路ガード下をくぐると、泪橋交差点に出ます。罪人が牢を出て、仕置場へ連れて行かれる際に、ここの橋を渡り、家族が涙して別れを惜しんだと言われています。

<思川と涙橋> 荒川区南千住2-28-8

 荒川区側にある説明板です。

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(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
 思川と涙橋
 思川は南千住三丁目の東南部にあった堀。農業用水として使われていた音無川(石神井川用水)の支流で、明治通り北側に沿って流れ、橋場の渡しの北で隅田川に合流していた。源頼朝がこの川で馬を洗ったことから、古くは駒洗川と呼ばれていたという。文明十八年(一四八六)京都聖護院門跡の道興准后が思川を訪れ、「うき旅の道になかるる思ひ川涙の袖や水のみなかみ」(『廻國雑記』)と詠んだ。
 思川と小塚原縄手(日光道中)が交差する所に架かっていた橋が涙橋。泪橋とも書く。橋名の由来は、小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたからだとも伝える。
  荒川区教育委員会」

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「江戸名所図会 思河橋場渡」

 説明板に掲示されている「江戸名所図会 思河橋場渡」です。「思河」が描かれています。思川と奥州街道が交差している箇所がです。

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千住宿

千住宿

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東武北千住駅 歓迎パネル


○千住宿

 千住宿は、慶長9(1604)年に日本橋を起点として定められた五街道のうち、日光街道(奥州街道)の第一宿であり、江戸四宿の一つです。
 文禄3(1594)年、荒川(現隅田川)に千住大橋が架橋され、寛永2(1625)年の日光廟造営に伴い交通の要地として発展しました。
 万治元(1658)年に「掃部新田」、万治3(1660)年に千住大橋を越えて「小塚原町」「中村町」が加えられ宿場町は拡大しました。千住下宿(小塚原町・中村町)には飯盛旅籠が並び、新吉原や千住五か町から訴えられるほど飯盛旅籠は繁昌しました。
 享保年間(1716-36)以降、「やっちゃ場」で毎朝市が開かれ日本橋魚河岸と並んで賑わいました。
 また、川越と江戸を一晩で結び、旅客とともに米麦や薪炭、鮮魚を運んだ川越夜舟の中継地として水運で江戸の繁栄を支えました。
 小塚原には刑場があり、明和8(1771)年に杉田玄白や前野良沢らが刑死者の腑分けに立会った地として知られます。寛文7(1667)年本所の回向院が、牢死者や刑死者の供養のため回向院を開創しました。
 (国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所 千住」を要約及び加筆しました。)


○「千住」と「千寿」

 地名では「千住」ですが、千住地区の学校名には「千寿」の文字が使われています。
 嘉暦2(1327)年、荒井図書政次(源頼朝の元家臣)が荒川(隅田川)で千手観音を網で引きあげたことから、この地が「せんじゅ」と呼ぶようになったといわれています。千手観音は勝専寺に安置され、今に伝えられています(足立区文化財・非公開)。
 室町時代になり、8代将軍・足利義政の側室「千寿の前」の生地がこの地であったことから「千寿」と呼ぶようになりました。しかし、もともと千葉氏一族が住んでいたので「千葉住村」と言っており、慶長3(1598)年の検知の際に「千住」の郷と改めています。
 「千住」は千手観音と千葉氏に由来し、「千寿」は、最初に開校した学校が「千寿の前」の寿の字を使ったからということです。
 (千寿青葉中学校のサイト及び足立区のサイトを参照しました。)

【千住本宿】
○横山家/地漉紙問屋 足立区千住4-28-1

 浅草紙の生産は浅草から近郊農村の足立が主産地となりました。千住の地漉紙問屋の一つが横山家です。大川千住五丁目氷川神社に紙すきの歌碑がありますが、元は「千住北組五丁目鎮守八幡社」にありました(千住新橋下流の堤防辺り)。

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○吉田家/絵馬屋 足立区千住4-15-8

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○名倉医院/接骨院 足立区千住5-22-1

 「どぶ板で名倉れましたと駕籠で来る」〔柳多留九七〕
 「名倉」は名倉医院、「殴られ」と「名倉れ」のシャレです。江戸時代の川柳にも詠まれた名倉医院。「名倉」といえは、接骨院の代名詞になるほどで全国の名倉接骨院の発祥地といえます。
 患者が宿泊して加療できるための加療宿は最後に残っていた金町屋が取り壊され、名残を留めるのは名倉医院以外は残っていません。

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○追分道標

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<千住4丁目と5丁目の間の道標>
 「北へ 旧日光道中」(左)、「東へ 旧水戸佐倉道」(右)
 この道標は新しく、江戸時代の道標は「足立区郷土博物館」の庭に移設・展示されています。現在の道標は5丁目24番地にありますが、本来の道標は4丁目30-1の角にありました。本来の道標には水戸海道と刻まれています。

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<Y字路の道標> 足立区千住5-20-14
 下妻道追分の道標が無くなっていたのが、復活しています。(2021年12月確認) 記載文字が異なるので新しく設置されたものでしょう。
 「左 旧日光道中」(左)、「右 旧下妻道」(右)
 旧下妻道を進むとすぐ右手に名倉医院があり、道は荒川土手に突き当たります。土手の先は虹の広場。日光道中を進むと、安養院の横を通り千住新橋の手前で土手に斜めに突き当たります。

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○安養院 足立区千住5-17-9

 荒綾八十八ヶ所霊場の第73番札所です。

(説明板)
「安養院
 当寺は鎌倉時代に北條時頼が創建し、北条氏政の祈願所であったとも伝わる。もと千住元町(小名金佛耕地)にあったという。山号を西林山、寺号を長福寺と称した。慶長三年(一五九八)、現在地に移り、後に寺号を安養院と改めた。
 本尊の銅像阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代制作と思われ、背面に宝永四年(一七○七)九月二十六日の修理銘がある。中世にさかのぼる仏像として足立区登録有形文化財(彫刻)になっている。
 その他、秘仏である地蔵菩薩立像・香木造の弘法大師坐像・密教用法具・真言密教の経典・古文書等が保存されている。
 中興開基第一世は真言宗の賢智上人で、北条の臣高梨氏の出身である。以来歴代の住職と檀家の努力で寺運栄え、江戸末期から明治初期にかけては真言密教の壇林となり、多くの仏弟子を世に送った。
 本堂は関東大震災で倒壊し、翌年の大正十三年、第二十二世良道僧正によって再建されたものである。
  平成二十七年三月  足立区教育委員会」

<かんかん地蔵尊>
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<芭蕉句碑>
 「ゆく春や 鳥なき魚の 目は泪」(昭和29年)の碑があります
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<樹齢500年前後の黒松>
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<大黒湯唐破風屋根(移築)>
 こちらで記載


○千住本氷川神社 足立区千住3-22

 一之鳥居には、「鯨岡兵輔謹書」の扁額が掲げられています。千住神社も鯨岡兵輔謹書でした。

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 手水鉢はセンサーで獅子の口から水が出ます。

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<千住本氷川神社旧社殿> 足立区文化財

 久須志神社、三峯神社、大黒天が祀られています。

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(説明板)
「千住本氷川神社旧社殿
 千住本氷川神社は、徳治二年(一三○七)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。
 千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治四十三(一九一○)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和四十五年に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。
 旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間(一・八メートル)余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒周りは二重橑となり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」
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<芭蕉句碑>

 旧社殿の脇に芭蕉の句碑があります。
 「春もやゝやけしきとゝのふ月と梅」
 芭蕉翁奥の細道旅立参百年記念に、平成3(1991)年に再建された碑です。文久3年(1863年)建立の旧碑は足立区立郷土博物館(大谷田)に保存されています。

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<ラジオ体操発祥之地>
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○金蔵寺/投込寺 足立区千住2-63

 金蔵寺は、荒綾八十八ヶ所霊場の第84番札所です。
 千住宿には、投げ込み寺が二か所ありました。一つが不動院で、もう一つが金蔵寺(こんぞうじ)です。

(説明板)
「金蔵寺
 当寺は真言宗豊山派で、氷川山地蔵院(または閻魔院ともいう)と号す。本尊は閻魔大王で、建武ニ年(一三三五)三月の創建という。
 金蔵寺の門を入ると左側にニメートルほどの無縁塔がある。これは天保八年(一八三七)に起こった大飢饉の餓死者の供養塔で、千住ニ丁目の名主永野長右衛門が世話人となり、天保九年(一八三八)に建てたものである。
 碑文によれば「…飢えで下民に食なし…この地に死せる者八百二十八人…三百七十人を金蔵寺に葬り…」とある。
 その塔と並んで建つ別の供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、この地で死んだ遊女の戒名が石に刻まれている。
 千住宿には、本陣・脇本陣のほかに五十五軒の旅籠屋があり、そのうち、食亮旅籠(遊女屋)が三十六軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られたその霊を慰めるための供養塔である。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」

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 金蔵寺の山門入ってすぐ左に供養塔があります。中央は台座に三猿が刻まれた阿弥陀如来庚申塔です。右端「無縁塔」が天保8(1837)年、大飢饉餓死者の供養塔です。
 左端「南無阿弥陀仏」が千住宿の旅籠の飯盛女(遊女)の供養塔です。この供養塔は明治14(1881)年再建ですが、 側面に「三界萬霊六親眷属七世父母大乗妙典六十六部・・・」と刻まれ、台石には大黒屋など旅籠屋名とその遊女の戒名が刻まれています。戒名の多くは「信女」ですが、「童女」「童子」もあります。明治5(1872)年の「娼妓解放令」の別名は「牛馬解き放ち令」、娼妓は牛馬と同じ扱いとされました。戒名のついた遊女の墓は、珍しいことになります。

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○不動院/投込寺 足立区千住1-2-2

 荒綾八十八ヶ所霊場の第60番札所です。

(説明板)
「不動院
 当寺の本尊は不動明王である。元弘二年(一三三ニ)秀天上人の開山という。
 もと吉祥院の末寺で、白幡八幡神社の別当と伝えられている。
 墓域に正面「南無阿弥陀仏」、右側面に「藝州」と大書した大きい供養塔がある。これは明治維新の際、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したものである。
 また、川魚料理人の人たちが、魚類の冥福を祈るために建立した包丁塚の碑がある。
 本寺は、千住宿の問屋場に近いところから宿場関係の人々の墓石が多い。明治九年(一八七六)六月二日、明治天皇東北巡幸のとき御休息所になった中田屋の墓、千住宿旅籠屋一同が万延元年(一八六○)に建てた遊女の無縁塔などがある。
  平成六年三月  東京都足立区教育委員会」

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<無縁塔>
 無縁塔が2基あります。

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<左の無縁塔>.
 左の無縁塔は、正面に大きく大塚屋と刻まれています(万延元(1860)年9月)。飯盛女の他、天保飢饉死者も葬られているようです。無縁塔の台石には、旅籠名とその主人名が刻まれています。

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<右の無縁塔>
 右の無縁塔の台石には、楼閣名が刻まれています。

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<庚申塔が3基>
 ・安永6(1777)年の庚申供養塔(左)
   正面「庚申供養塔」、左面「同所西耕地石橋七ヶ所掛之」。
   石橋供養塔を兼ねています。
 ・元禄15(1702)年の青面金剛の庚申塔(中央)
 ・文化11(1814)年の庚申塔(右)
   正面「庚申」、裏面「西耕地石橋供養塔」。
   石橋供養塔を兼ねています。

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<南無阿弥陀仏碑>
 明治維新の際、千住口から戊辰戦争に従軍した芸州藩の軍夫、従属者のうち、 千住近在から参加した者の戦死者を永代供養したもの。

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<包丁塚>
 昭和31(1956)年7月に、全川魚割烹野田屋東包丁会が建立しています。

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<豊川稲荷/地蔵堂>
 「豊川稲荷」と「地蔵堂」です。

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○千住宿問屋場・貫目改所跡 足立区千住1-4-15

(説明板)
「千住宿問屋場・貫目改所跡 千住一丁目4番
 旧日光街道の西側にあたるこの場所には、江戸時代に千住宿の問屋場と貫目改所が置かれていました。
 宿場は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。千住宿は、50人、50疋です。この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。問屋跡は元禄8年(1695)に設けられました。また、寛保3年(1743)に貫目改所が設けられ、荷物の重量検査のための秤が備えられました。馬に積める荷物には制限があり、40貫目(150kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。貫目改所は、ここを出ると宇都宮宿までありませんので、重い荷物を制限内と認めてもらえるよう、賄賂が飛び交ったとの話しもあります。
 江戸幕府は、江戸から全国各地への交通網を整備しました。なかでも五街道は重要で、道中奉行が直接管理しました。江戸日本橋を出て最初の宿場である、東海道品川宿、甲州道中内藤新宿、中山道板橋宿、日光・奥州道中千住宿は、江戸四宿と呼ばれています。地方と江戸の、文化や産品の結節点であると同時に、江戸人の遊興の地でもありました。旅に出る人を見送るのも四宿までです。千住宿は、日本橋から2里8丁(8.7km)ですから、江戸時代の人にとっては、気楽に出かけられる距離だったのでしょう。
 この場所は、問屋場・貫目改所跡として知られていましたが、平成12年(2000)、足立区教育委員会が発掘調査をしたところ、現在より1m程低い江戸時代の遺構面から、等間隔で並ぶ杭穴と礎石が見つかりました。分析の結果、この遺構は2棟の建物からなり、それぞれ問屋場跡と貫目改所跡であると推定されました。また、南東の小石を厚く敷いた部分は、荷さばき場跡と考えらます。
 この場所が、千住宿の重要な施設であったことを示すため、発掘調査で見つかった坑ア拿と礎石の一、さらに推定される問屋場・貫目改所・荷さばき場の範囲を表示しています。
  平成18年3月 足立区教育委員会」

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○足立区立郷土博物館 足立区大谷田5-20-1

<芭蕉句碑>
 解説板より
 「春も漸けしきととのふ月と梅 ばせを
 文久3年(1863)、千住三丁目本氷川神社境内に建てられた芭蕉句碑。
 千住は芭蕉奥の細道の旅立ちの地でもあり、蕉門の流れをくむ巣兆が住んでいたこともあって俳諧がさかんであり、千住連衆が活躍していた。枇杷園随筆、白雄夜話によれば、 芭蕉の自画讃で紅梅にこの句を讃しているという。
 本氷川神社に梅樹があって、芭蕉崇敬者らが建立したと考えられるが、真説は定かではない。
 風化が激しいため、平成3年年地元で新たに句碑を再建し、旧碑をここに保存した。

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<水戸海道道標>
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<千住新橋親柱>
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※千住宿について、こちらに作成・アップしました。
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