長慶寺(芭蕉句塚跡・其角墓)
○長慶寺 江東区森下2-22-9
松尾芭蕉句塚跡(江東区文化財)があります。
<本堂>



<近代小学校発祥地> 江東区文化財
(碑文)
「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地」
「明治二年二月。明治政府ハ「府県施政順序」ヲ交付、「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ
明治三年六月二十八日。東京府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学第六校」ヲ設置。
明治四年十二月。文部省ハ小学第六校ヲ「文部省直轄小学校」トスルコトヲ布達
明治五年八月。政府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヨウニ」ト「学制」公布
明治六年五月。「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。
平成十五年五月吉日
深川小学校開校百三十周年記念 校友会
十代目 石幸刻」



【松尾芭蕉句塚ほか】
山門を入ると右手に手前から「宝晋斎其角墓」「芭蕉翁桃青居士」「玄峰嵐雪居士」と並んでいます。戦災で損傷したため、三基とも再建です。




<宝井其角墓>
一番右は、宝井其角の墓で「宝晋斎其角墓」とあります。

<松尾芭蕉句塚>
芭蕉が没した元禄7年(1694年)に芭蕉の門人たちが芭蕉の落歯・発句を埋めて句塚を建てました。
(表面)「芭蕉翁桃青居士」



(側面)「世にふるも更に宗祇の時雨哉 桃青」

<服部嵐雪>
一番左は、服部嵐雪の墓で「玄峰嵐雪居士」とあります。

「芭蕉翁句塚跡」(江東区文化財)「宝井其角の墓」
「芭蕉翁句塚跡」は、台座の一部が残っているだけです。「宝井其角の墓」の墓石は「角墓」の部分しか残っていません。

<釈迦十六善神像> 江東区文化財
山門前に、「釈迦十六善神像」の説明板があります。



<三界萬霊塔>

<地蔵>

<貞亨3(1686)年銘の供養塔>

<元禄16(1703)年銘の供養塔>

<その他>



<慰霊碑>
本堂前に慰霊碑があります。
松尾芭蕉句塚跡(江東区文化財)があります。
<本堂>



<近代小学校発祥地> 江東区文化財
(碑文)
「近代小学校発祥地 東京府小学第六校 深川小学校誕生之地」
「明治二年二月。明治政府ハ「府県施政順序」ヲ交付、「小学校ヲ設ケル事」ヲ命ズ
明治三年六月二十八日。東京府ハ深川森下長慶寺ニ「東京府小学第六校」ヲ設置。
明治四年十二月。文部省ハ小学第六校ヲ「文部省直轄小学校」トスルコトヲ布達
明治五年八月。政府ハ「邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナキヨウニ」ト「学制」公布
明治六年五月。「官立小学第六校」ヲ「第六中学区一番小学深川学校」ト命名。
平成十五年五月吉日
深川小学校開校百三十周年記念 校友会
十代目 石幸刻」



【松尾芭蕉句塚ほか】
山門を入ると右手に手前から「宝晋斎其角墓」「芭蕉翁桃青居士」「玄峰嵐雪居士」と並んでいます。戦災で損傷したため、三基とも再建です。




<宝井其角墓>
一番右は、宝井其角の墓で「宝晋斎其角墓」とあります。

<松尾芭蕉句塚>
芭蕉が没した元禄7年(1694年)に芭蕉の門人たちが芭蕉の落歯・発句を埋めて句塚を建てました。
(表面)「芭蕉翁桃青居士」



(側面)「世にふるも更に宗祇の時雨哉 桃青」

<服部嵐雪>
一番左は、服部嵐雪の墓で「玄峰嵐雪居士」とあります。

「芭蕉翁句塚跡」(江東区文化財)「宝井其角の墓」
「芭蕉翁句塚跡」は、台座の一部が残っているだけです。「宝井其角の墓」の墓石は「角墓」の部分しか残っていません。

<釈迦十六善神像> 江東区文化財
山門前に、「釈迦十六善神像」の説明板があります。



<三界萬霊塔>

<地蔵>

<貞亨3(1686)年銘の供養塔>

<元禄16(1703)年銘の供養塔>

<その他>



<慰霊碑>
本堂前に慰霊碑があります。

隅田川 新大橋
○新大橋 中央区日本橋浜町2丁目~江東区新大橋1丁目
深川芭蕉庵に住んでいた芭蕉は新大橋の工事中
「初雪や かけかかりたる 橋の上」の句をよみ、また橋の完成をみて
「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。
上流右岸からの新大橋

下流右岸からの新大橋

下流左岸からの新大橋

新大橋から下流の清洲橋方面

東詰の橋名板

東詰の説明板「新大橋」

<新大橋橋柱>
プレートが3種類はめ込まれています。「新大橋の由来」「大はしあたけの夕立」「明治四十五年に架けられた新大橋」







(新大橋の由来)
「新大橋の由来
新大橋は、元禄6年(一六九三年)十二月七日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
両国橋が、万治二年(一六五九年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋架橋を喜んで次の句をよんだ。
初雪やかけがかりたる橋の上
有難やいただいて踏む橋の霜
以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治四十五年(一九一二年)七月十九日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
この鉄の橋は、関東大震災(一九二三年)および太平洋戦争の大空襲(一九四五年)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和五十二年三月二十七日、現在の橋に架けかえられた。
なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。」

「大はしあたけの夕立」(広重)
橋柱にはめられているプレートは、広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」です。
新大橋の向岸に幕府の御船蔵が見えます。「あたけ」とは「安宅」で、徳川将軍の「安宅丸」が係留されていたことからついた地名です。

○震災避難記念碑 中央区日本橋浜町2-57-7
隅田川テラスの壁の向こう側、新大橋の橋詰下に「震災避難記念碑」があります。
大正12年の大震災では、隅田川の多くの橋が焼け落ちる中、新大橋は大きな損壊もなく、橋上に避難した大勢の人々の命を救いました。
昭和8(1933)年建立の「避難記念碑」「人助けの橋のいわれ碑」「中央区説明板」が歴史を今に伝えています。
現橋は昭和52(1977)年に架け替えられています。
「避難記念」碑
昭和8年9月の建立です。巨大な石碑です。


「人助け橋のいわれ」碑
(碑文)
「人助け橋のいわれ
大正十二年(千九百二十三年)九月一日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引き受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。
なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて人災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。
(裏面) 東京都建設局 昭和五十二年三月二十七日」





○新大橋親柱 江東区新大橋1-2-1(新大橋東詰公園)
(江東区HPより引用)
「新大橋親柱
明治45年(1912)に、隅田川に架けられた新大橋の親柱です。昭和52年に橋が撤去され、翌年、現在の新大橋が、旧地から約200メートル上流に架けられた際、東詰南側に公園が設けられ、高欄とともに親柱が移設されました。オベリスク様の尖塔部分に取り付けられている電灯の支柱には、アールヌーボー調のデザインが施され、時代の雰囲気を感じることができます。また、こぶ出し仕上げとされた中心部分は、独特なアクセントとなっています。」
<親柱>
旧新大橋の移設された親柱です。





<高欄>
旧新大橋の移設された高欄です。


○御船蔵跡(再掲) 江東区新大橋1-2-1
新大橋親柱から、階段を下りると、「御船蔵跡」の石碑がひっそりと建っています。
(石碑文)
「御船蔵跡
はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和三十三年十月一日 江東区第十号」




○「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」公衆トイレ外壁(再掲) 江東区新大橋1-2-1
新大橋東詰南の公衆トイレ外壁に、広重の浮世絵が描かれています。
(説明板)
「大はしあたけの夕立
新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。」


○旧新大橋跡 江東区常盤1-6-8
○新大橋橋名板「志ん於ほはし」 江東区新大橋3-1-15
こちらで記載
深川芭蕉庵に住んでいた芭蕉は新大橋の工事中
「初雪や かけかかりたる 橋の上」の句をよみ、また橋の完成をみて
「ありがたや いただいて踏む 橋の霜」の句を詠みました。
上流右岸からの新大橋

下流右岸からの新大橋

下流左岸からの新大橋

新大橋から下流の清洲橋方面

東詰の橋名板

東詰の説明板「新大橋」

<新大橋橋柱>
プレートが3種類はめ込まれています。「新大橋の由来」「大はしあたけの夕立」「明治四十五年に架けられた新大橋」







(新大橋の由来)
「新大橋の由来
新大橋は、元禄6年(一六九三年)十二月七日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
両国橋が、万治二年(一六五九年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋架橋を喜んで次の句をよんだ。
初雪やかけがかりたる橋の上
有難やいただいて踏む橋の霜
以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治四十五年(一九一二年)七月十九日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
この鉄の橋は、関東大震災(一九二三年)および太平洋戦争の大空襲(一九四五年)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和五十二年三月二十七日、現在の橋に架けかえられた。
なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。」

「大はしあたけの夕立」(広重)
橋柱にはめられているプレートは、広重の浮世絵「大はしあたけの夕立」です。
新大橋の向岸に幕府の御船蔵が見えます。「あたけ」とは「安宅」で、徳川将軍の「安宅丸」が係留されていたことからついた地名です。

○震災避難記念碑 中央区日本橋浜町2-57-7
隅田川テラスの壁の向こう側、新大橋の橋詰下に「震災避難記念碑」があります。
大正12年の大震災では、隅田川の多くの橋が焼け落ちる中、新大橋は大きな損壊もなく、橋上に避難した大勢の人々の命を救いました。
昭和8(1933)年建立の「避難記念碑」「人助けの橋のいわれ碑」「中央区説明板」が歴史を今に伝えています。
現橋は昭和52(1977)年に架け替えられています。
「避難記念」碑
昭和8年9月の建立です。巨大な石碑です。


「人助け橋のいわれ」碑
(碑文)
「人助け橋のいわれ
大正十二年(千九百二十三年)九月一日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引き受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。
なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作、三村光、今給惣克巳、植木機禅、伊藤盛雄、浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて人災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。
(裏面) 東京都建設局 昭和五十二年三月二十七日」





○新大橋親柱 江東区新大橋1-2-1(新大橋東詰公園)
(江東区HPより引用)
「新大橋親柱
明治45年(1912)に、隅田川に架けられた新大橋の親柱です。昭和52年に橋が撤去され、翌年、現在の新大橋が、旧地から約200メートル上流に架けられた際、東詰南側に公園が設けられ、高欄とともに親柱が移設されました。オベリスク様の尖塔部分に取り付けられている電灯の支柱には、アールヌーボー調のデザインが施され、時代の雰囲気を感じることができます。また、こぶ出し仕上げとされた中心部分は、独特なアクセントとなっています。」
<親柱>
旧新大橋の移設された親柱です。





<高欄>
旧新大橋の移設された高欄です。


○御船蔵跡(再掲) 江東区新大橋1-2-1
新大橋親柱から、階段を下りると、「御船蔵跡」の石碑がひっそりと建っています。
(石碑文)
「御船蔵跡
はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和三十三年十月一日 江東区第十号」




○「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」公衆トイレ外壁(再掲) 江東区新大橋1-2-1
新大橋東詰南の公衆トイレ外壁に、広重の浮世絵が描かれています。
(説明板)
「大はしあたけの夕立
新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。」


○旧新大橋跡 江東区常盤1-6-8
○新大橋橋名板「志ん於ほはし」 江東区新大橋3-1-15
こちらで記載
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
妙泉寺 安宅丸御玉稲荷大明神
○常谷山 妙泉寺 江戸川区谷河内1-6-12
安宅丸の船玉(船の守護神)である安宅丸御玉稲荷大明神が、稲荷堂(八角堂)に祀られています。






(説明板)
「妙泉寺
妙泉寺は日蓮宗の寺院で、常谷山と号します。江戸時代には谷河内村に属しており、千葉県松戸市平賀にある本土寺の末寺でした。開基は名主をつとめていた長左衛門と伝えられ、正善院日喜上人によって寛永十一年(一六三四)に開かれました。弘化三年(一八四六)六月の火災では当寺が所蔵していた多くの記録が焼失し、安政の大地震及び大正六年の水害でも、被害にあいました。本堂は明治十五年に再建し、書院庫裡は昭和四十五年に新築されました。
境内には稲荷堂(八角堂)があり、安宅丸御玉稲荷大明神がまつられています。これは徳川三代将軍家光が建造した御座船・安宅丸に勧請した船玉で、同船が取り払いになった際、当寺がゆずり受けました。船玉とは、船中にまつる守護神のことを言います。
□松浦信正関係資料
(省略)
平成二十四年五月 江戸川区教育委員会」


<松浦信正写経塔>
左から2基目が「松浦信正写経塔」です。

<安宅丸稲荷堂>
稲荷堂ですが、狛犬がいます。手水鉢は、明和7(1770)年銘です。






<木彫り安宅丸>
扉には葵の紋があります。木彫りの安宅丸と遠景に富士山。安宅丸の船首に竜頭が見えます。





安宅丸の船玉(船の守護神)である安宅丸御玉稲荷大明神が、稲荷堂(八角堂)に祀られています。






(説明板)
「妙泉寺
妙泉寺は日蓮宗の寺院で、常谷山と号します。江戸時代には谷河内村に属しており、千葉県松戸市平賀にある本土寺の末寺でした。開基は名主をつとめていた長左衛門と伝えられ、正善院日喜上人によって寛永十一年(一六三四)に開かれました。弘化三年(一八四六)六月の火災では当寺が所蔵していた多くの記録が焼失し、安政の大地震及び大正六年の水害でも、被害にあいました。本堂は明治十五年に再建し、書院庫裡は昭和四十五年に新築されました。
境内には稲荷堂(八角堂)があり、安宅丸御玉稲荷大明神がまつられています。これは徳川三代将軍家光が建造した御座船・安宅丸に勧請した船玉で、同船が取り払いになった際、当寺がゆずり受けました。船玉とは、船中にまつる守護神のことを言います。
□松浦信正関係資料
(省略)
平成二十四年五月 江戸川区教育委員会」


<松浦信正写経塔>
左から2基目が「松浦信正写経塔」です。

<安宅丸稲荷堂>
稲荷堂ですが、狛犬がいます。手水鉢は、明和7(1770)年銘です。






<木彫り安宅丸>
扉には葵の紋があります。木彫りの安宅丸と遠景に富士山。安宅丸の船首に竜頭が見えます。






テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
御船蔵・安宅丸
○御船蔵 墨田区千歳1丁目~江東区新大橋1丁目
一の橋の南から、旧新大橋の手前にかけての一帯に、江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。広大な土地に十四棟の船蔵が並び、巨大な軍船「安宅丸」が船蔵の外に係留されていました。
「安宅丸」は、二代将軍秀忠が大御所時代の寛永8(1631)年に、御船手奉行の向井将監に造船を命じ、寛永11(1634)年に伊豆の伊東で完成しました。三代将軍家光は、翌寛永12年に品川沖で試乗したのち、御船蔵に係留されました。推進力に乏しく、戦闘より移動要塞だったようです。
天和2(1682)年、五代将軍綱吉の時に、安宅丸は解体されました。以後「天地丸」が幕府の最大鑑となります。
御船蔵跡は、明治2(1869)年に市街地に編入され、俗称を継いで深川安宅町とされました。
御船蔵と向かいあっていたのが、御船蔵前町で、御船蔵番人の官宅などがありました。
なお、北条氏が建造し、秀吉が持っていた安宅丸は、家康のものとなり、伊豆の下田に繋留されていたのを家光が江戸に取り寄せました。新旧2つの安宅丸があったことになります。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に見る「御舟蔵」です。一の橋にある「水戸殿石揚場」南から、旧新大橋手前にあった幕府の籾蔵まで、広大な御船蔵が見えます。

「増補江戸大絵図」(表紙屋市良兵衛 天和2(1682)年)
安宅丸が解体された年の発行で、「あたか丸」が御船蔵の外に繋留されています。

「日本歴史図録 第7輯」(歴史参考図刊行会編)
明治7(1874)年撮影の御船蔵と天地丸の写真です。

「明治初年の御關船」(実写奠都五十年史 大正6年)
御船蔵と上総丸(上)及び国市丸(下)の写真です。解説「舊幕府御船蔵は深川一の橋南南大川端にあり明治初年之を廃す上は御船蔵と御関船上総丸下は御関船國市丸なり」

「東都隅田川両岸一覧」(鶴岡)
御船蔵部分の抜粋です。一の橋から先に、御船蔵が続きます。

「絵本隅田川両岸一覧」(北斎)
御船蔵が描かれている部分を複数枚繋げています。隅田川右岸の賑わいに対して対照的です。

「江戸名所百人美女 御船蔵前」(豊国・国久 東京都立図書館蔵)
こま絵に、御船蔵が一棟だけですが描かれています。御船蔵前の隅田川には、猪牙船や屋根船が見えます。


「千代田之御表 大川筋御成」(楊洲周延 明治30年)
楊洲周延は、江戸時代には描けなかった大奥や幕府の行事を描いています。こちらは徳川将軍の隅田川御成を描いています。漕ぎ手が5人、反対側にも5人で、合計10人でしょう。船尾に交替要員が見えます。 将軍は三階です。

○御船蔵跡 墨田区千歳1-5-13
御船蔵跡に説明板があります。ここは御船蔵の北端です。
(説明板)
「江戸の町 御船蔵跡 48
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の船蔵が 並んでいて、巨大な軍船「安宅丸」は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。
明暦三年(一六五七)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、川下の尾張屋敷との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。
墨田区」


○御船蔵跡 江東区新大橋1-2-1
新大橋親柱から、階段を下りると、「御船蔵跡」の石碑がひっそりと建っています。
(石碑文)
「御船蔵跡
はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和三十三年十月一日 江東区第十号」




<「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」公衆トイレ外壁> 江東区新大橋1-2-1
新大橋東詰南の公衆トイレ外壁に、広重の浮世絵が描かれています。
(説明板)
「大はしあたけの夕立
新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。」




○新大橋一丁目安宅丸由来碑 江東区新大橋1-5-4(新一公園)
マンション管理地の新一公園に「新大橋一丁目安宅丸由来碑」があります。碑陰は新しい安宅丸ではなく、古い安宅丸について記されています。
(碑表)
「新大橋一丁目安宅丸由来
題字 細田隆善 書」
(碑陰)
「新大橋一丁目と安宅丸の由来
新大橋一丁目の町名は住居表示町名変更により昭和四十六年四月一日深川新大橋一丁目を改めたものです。
同町は関東大震災後の区画整理により昭和九年六月十四日 従来の深川安宅町と深川新安宅町の一部を合併してつけられた町名です
新大橋一丁目一帯は江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵のあったところです そのためこの付近は昔から御船蔵と称されてきました ここには幕府最大の巨艦安宅丸がおかれていましたので明治二年七月御船蔵跡一帯の地域を安宅丸の威容をたたえて深川安宅町と称しました また深川新安宅町は隅田川の川添いの浅瀬を埋めたてて明治三十八年八月二十四日この町名をつけたものです 安宅丸は北条氏が造船したものでその動力は四百人の水夫が二百本のオールを交代で漕ぎ米四千石(一万俵)と多くの将兵軍馬を乗せることができる木造船として最大の軍船であったといわれています のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永十年(一六三三) 江戸に回航しこの御船蔵につながれました 延宝七年(一六七九)江戸絵図は安宅丸が画かれています そして巨艦安宅丸は補修管理が困難となり天和二年(一六八二)解体されました 幕末の頃には船蔵に三十八隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり一隻は政府に他は払いさげになったと記されています この付近は江戸時代初期から開発され江東区においてもつとも古い町の一つであります
江東史談会 会長 細田隆善記
新一公園開園を記念してこの町の由来を記す
昭和四十八年十月吉日
新大橋一丁目町会 町会長 坂田清」






○安宅丸稲荷 江東区新大橋2-5-9
安宅丸が解体され埋められた地に御船塚が設けられ、その地に祀られたのが安宅丸稲荷です。現在地は移転先で、個人の庭にあります。外からの目線だと屋根と幟がようやく見えます。



一の橋の南から、旧新大橋の手前にかけての一帯に、江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。広大な土地に十四棟の船蔵が並び、巨大な軍船「安宅丸」が船蔵の外に係留されていました。
「安宅丸」は、二代将軍秀忠が大御所時代の寛永8(1631)年に、御船手奉行の向井将監に造船を命じ、寛永11(1634)年に伊豆の伊東で完成しました。三代将軍家光は、翌寛永12年に品川沖で試乗したのち、御船蔵に係留されました。推進力に乏しく、戦闘より移動要塞だったようです。
天和2(1682)年、五代将軍綱吉の時に、安宅丸は解体されました。以後「天地丸」が幕府の最大鑑となります。
御船蔵跡は、明治2(1869)年に市街地に編入され、俗称を継いで深川安宅町とされました。
御船蔵と向かいあっていたのが、御船蔵前町で、御船蔵番人の官宅などがありました。
なお、北条氏が建造し、秀吉が持っていた安宅丸は、家康のものとなり、伊豆の下田に繋留されていたのを家光が江戸に取り寄せました。新旧2つの安宅丸があったことになります。
「江戸切絵図」
江戸切絵図に見る「御舟蔵」です。一の橋にある「水戸殿石揚場」南から、旧新大橋手前にあった幕府の籾蔵まで、広大な御船蔵が見えます。

「増補江戸大絵図」(表紙屋市良兵衛 天和2(1682)年)
安宅丸が解体された年の発行で、「あたか丸」が御船蔵の外に繋留されています。

「日本歴史図録 第7輯」(歴史参考図刊行会編)
明治7(1874)年撮影の御船蔵と天地丸の写真です。

「明治初年の御關船」(実写奠都五十年史 大正6年)
御船蔵と上総丸(上)及び国市丸(下)の写真です。解説「舊幕府御船蔵は深川一の橋南南大川端にあり明治初年之を廃す上は御船蔵と御関船上総丸下は御関船國市丸なり」

「東都隅田川両岸一覧」(鶴岡)
御船蔵部分の抜粋です。一の橋から先に、御船蔵が続きます。

「絵本隅田川両岸一覧」(北斎)
御船蔵が描かれている部分を複数枚繋げています。隅田川右岸の賑わいに対して対照的です。

「江戸名所百人美女 御船蔵前」(豊国・国久 東京都立図書館蔵)
こま絵に、御船蔵が一棟だけですが描かれています。御船蔵前の隅田川には、猪牙船や屋根船が見えます。


「千代田之御表 大川筋御成」(楊洲周延 明治30年)
楊洲周延は、江戸時代には描けなかった大奥や幕府の行事を描いています。こちらは徳川将軍の隅田川御成を描いています。漕ぎ手が5人、反対側にも5人で、合計10人でしょう。船尾に交替要員が見えます。 将軍は三階です。

○御船蔵跡 墨田区千歳1-5-13
御船蔵跡に説明板があります。ここは御船蔵の北端です。
(説明板)
「江戸の町 御船蔵跡 48
この辺りから新大橋にかけての一帯に江戸幕府の艦船を格納する御船蔵がありました。四千八百九十坪の広大な土地に大小十四棟の船蔵が 並んでいて、巨大な軍船「安宅丸」は船蔵の外に係留されていました。安宅丸の取壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれています。
明暦三年(一六五七)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、川下の尾張屋敷との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれています。
墨田区」


○御船蔵跡 江東区新大橋1-2-1
新大橋親柱から、階段を下りると、「御船蔵跡」の石碑がひっそりと建っています。
(石碑文)
「御船蔵跡
はじめ寛永九年この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航格納し天和二年にいたって解体したがのちにここを明治時代まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称しまたこの付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである
昭和三十三年十月一日 江東区第十号」




<「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」公衆トイレ外壁> 江東区新大橋1-2-1
新大橋東詰南の公衆トイレ外壁に、広重の浮世絵が描かれています。
(説明板)
「大はしあたけの夕立
新大橋は元禄六年(一六九三年)五代将軍綱吉の頃 架けられたのが最初である。
当時、両国橋が大橋と称していたので、この橋を新大橋としたという。
画題の「大はし」とは新大橋の「あたけ」とは対岸につないであった日本一の木造軍艦安宅丸に由来する地名のことである。」




○新大橋一丁目安宅丸由来碑 江東区新大橋1-5-4(新一公園)
マンション管理地の新一公園に「新大橋一丁目安宅丸由来碑」があります。碑陰は新しい安宅丸ではなく、古い安宅丸について記されています。
(碑表)
「新大橋一丁目安宅丸由来
題字 細田隆善 書」
(碑陰)
「新大橋一丁目と安宅丸の由来
新大橋一丁目の町名は住居表示町名変更により昭和四十六年四月一日深川新大橋一丁目を改めたものです。
同町は関東大震災後の区画整理により昭和九年六月十四日 従来の深川安宅町と深川新安宅町の一部を合併してつけられた町名です
新大橋一丁目一帯は江戸時代をとおして幕府の艦船を格納した船蔵のあったところです そのためこの付近は昔から御船蔵と称されてきました ここには幕府最大の巨艦安宅丸がおかれていましたので明治二年七月御船蔵跡一帯の地域を安宅丸の威容をたたえて深川安宅町と称しました また深川新安宅町は隅田川の川添いの浅瀬を埋めたてて明治三十八年八月二十四日この町名をつけたものです 安宅丸は北条氏が造船したものでその動力は四百人の水夫が二百本のオールを交代で漕ぎ米四千石(一万俵)と多くの将兵軍馬を乗せることができる木造船として最大の軍船であったといわれています のちに安宅丸は豊臣秀吉の手に渡りさらに豊臣氏亡後は徳川氏の取得するところとなって伊豆下田港におかれていましたが寛永十年(一六三三) 江戸に回航しこの御船蔵につながれました 延宝七年(一六七九)江戸絵図は安宅丸が画かれています そして巨艦安宅丸は補修管理が困難となり天和二年(一六八二)解体されました 幕末の頃には船蔵に三十八隻の艦船が格納されていましたが明治時代となり一隻は政府に他は払いさげになったと記されています この付近は江戸時代初期から開発され江東区においてもつとも古い町の一つであります
江東史談会 会長 細田隆善記
新一公園開園を記念してこの町の由来を記す
昭和四十八年十月吉日
新大橋一丁目町会 町会長 坂田清」






○安宅丸稲荷 江東区新大橋2-5-9
安宅丸が解体され埋められた地に御船塚が設けられ、その地に祀られたのが安宅丸稲荷です。現在地は移転先で、個人の庭にあります。外からの目線だと屋根と幟がようやく見えます。




テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
- カウンター