徳祥寺(戸田市美女木)
○徳祥寺 戸田市美女木7-4-1
「足立坂東三十三ヶ所霊場」16番、「足立百不動尊霊場」45番です。



(説明板)
「徳祥寺
真言宗智山派の寺院で、三宝山自性院と号します。江戸時代初期に真言宗醍醐派の定徳僧都の請願によって開山されたと伝えられています。本尊は聖観世音菩薩で、本堂には不動明王や弘法大師像なども安置されています。
「新編武蔵風土記稿」文政十一年(一八二八)に、「徳祥寺 新義真言宗村内円通寺門徒 三宝山ト号ス 本尊正観音を安ス 観音堂 正観音ナリ」とあります。このあたりは、元来、美女木村の三宝谷と称するので山号を三宝山といい、寺号は開基法印の定徳の一字をとって、徳祥寺と名付け、後西天皇の代に建立されたものといわれています。
徳祥寺は、三宝谷の観音様として知られ、宝永二年(一七〇五)に成立した足立坂東観音霊場の第十六番札所にあげられています。市指定文化財「千手観音供養絵図絵馬」は、文政五年(一八二二)に奉納されたものです。講の人たちが千手観音を囲んで観音経を唱えている様子を描いたもので、年号のある絵馬の中では市内で最も古いものです。
このほか、天保十三年(一八四二)の「源三位頼政の鵺退治の図」絵馬や、応永十二年(一四〇五)銘の板石塔婆、江戸時代の庚申塔などがあります。
平成二十年三月 戸田市教育委員会」

<石塔群>
参道右手に石塔群があります。


<出羽三山供養塔>
安政3(1856)年銘の出羽三山供養塔です。
「月山湯殿山羽黒山供養塔」
「天下泰平 國土安穏」
台石には牛が彫られています。





<庚申塔>
読み取れませんが、元禄14(1701)年銘のようです。

<庚申塔>
宝暦4(1754)年銘の庚申塔です。

<庚申塔>
宝暦11(1761)年銘の庚申塔です。



<如意輪観音坐像>
剥落が激しい座像です。

<馬頭観世音道標>
嘉永5(1852)年銘の馬頭観世音道標です。
(左面下部)「南 者やせ/江戸 道」
(右面下部)「北 与の 引又
東 王らび 道」



<庚申塔道標>
天保13年(1842)年銘の庚申塔道標です。
(左面)「南 者やせ/西 ひきまた/北 王らび みち」


<庚申塔>
宝暦9(1759)年の庚申塔です。邪鬼は腹を踏まれています。
左側面には、11名の女性の名前が刻まれています。



<庚申塔>
元治元(1864)年銘の「庚申神」と刻まれた庚申塔です。道標を兼ねています。
(左面)「南 者やせ道 一り」
(右面)「北者 引又道 二り
東者 王らび道」


<馬頭観音坐像>
享保16(1731)年銘の馬頭観音坐像です。

<板碑>
古い板碑です。

<萬霊供養塔>

<本堂>



「足立坂東三十三ヶ所霊場」16番、「足立百不動尊霊場」45番です。



(説明板)
「徳祥寺
真言宗智山派の寺院で、三宝山自性院と号します。江戸時代初期に真言宗醍醐派の定徳僧都の請願によって開山されたと伝えられています。本尊は聖観世音菩薩で、本堂には不動明王や弘法大師像なども安置されています。
「新編武蔵風土記稿」文政十一年(一八二八)に、「徳祥寺 新義真言宗村内円通寺門徒 三宝山ト号ス 本尊正観音を安ス 観音堂 正観音ナリ」とあります。このあたりは、元来、美女木村の三宝谷と称するので山号を三宝山といい、寺号は開基法印の定徳の一字をとって、徳祥寺と名付け、後西天皇の代に建立されたものといわれています。
徳祥寺は、三宝谷の観音様として知られ、宝永二年(一七〇五)に成立した足立坂東観音霊場の第十六番札所にあげられています。市指定文化財「千手観音供養絵図絵馬」は、文政五年(一八二二)に奉納されたものです。講の人たちが千手観音を囲んで観音経を唱えている様子を描いたもので、年号のある絵馬の中では市内で最も古いものです。
このほか、天保十三年(一八四二)の「源三位頼政の鵺退治の図」絵馬や、応永十二年(一四〇五)銘の板石塔婆、江戸時代の庚申塔などがあります。
平成二十年三月 戸田市教育委員会」

<石塔群>
参道右手に石塔群があります。


<出羽三山供養塔>
安政3(1856)年銘の出羽三山供養塔です。
「月山湯殿山羽黒山供養塔」
「天下泰平 國土安穏」
台石には牛が彫られています。





<庚申塔>
読み取れませんが、元禄14(1701)年銘のようです。

<庚申塔>
宝暦4(1754)年銘の庚申塔です。

<庚申塔>
宝暦11(1761)年銘の庚申塔です。



<如意輪観音坐像>
剥落が激しい座像です。

<馬頭観世音道標>
嘉永5(1852)年銘の馬頭観世音道標です。
(左面下部)「南 者やせ/江戸 道」
(右面下部)「北 与の 引又
東 王らび 道」



<庚申塔道標>
天保13年(1842)年銘の庚申塔道標です。
(左面)「南 者やせ/西 ひきまた/北 王らび みち」


<庚申塔>
宝暦9(1759)年の庚申塔です。邪鬼は腹を踏まれています。
左側面には、11名の女性の名前が刻まれています。



<庚申塔>
元治元(1864)年銘の「庚申神」と刻まれた庚申塔です。道標を兼ねています。
(左面)「南 者やせ道 一り」
(右面)「北者 引又道 二り
東者 王らび道」


<馬頭観音坐像>
享保16(1731)年銘の馬頭観音坐像です。

<板碑>
古い板碑です。

<萬霊供養塔>

<本堂>




上戸田氷川神社
出羽三山信仰の東京巡りは、ほぼ行き尽くした感、埼玉は、戸田市→川口市→越谷市→その他の順に、順次アップ。
○上戸田氷川神社 戸田市上戸田3-20-11
<有形文化財>
「力石及び旧羽黒山句碑・石造物」が戸田市の有形文化財(歴史資料)に指定されました。2021年(令和3年)3月19日指定。
戸田市の文化財サイトより一部引用します。
<力石>
戸田市では現在19基の力石を確認でき、その内上戸田氷川神社には15基確認されています。銘文には「亀遊石」「大盤石」など石の名前を刻んだもの、「二十六貫目」のように石の重量を書くもの、「上戸田村」や「蔵前大地」「南新川」などの江戸の地名、「三ノ宮卯之助」「東助」などその石を持ち上げた人の名が残っています。
<羽黒山関係の石造物群>
羽黒山関連の石造物は芭蕉句碑、石碑、標柱、狛犬、水盤で構成されています。各石造物の銘文から江戸時代中期から後期にかけて「大根河岸」「石河岸」「南新川」「根津」など江戸町内・河岸場から多く奉納されたことがわかり、江戸時代の羽黒山の賑わいとともに、荒川を通じた戸田と江戸との交通・信仰の様相を知ることができる貴重な文化財です。
<上戸田氷川神社と羽黒社>
(説明板)
「上戸田氷川神社と羽黒社
上戸田氷川神社の創立は、縁起によると永徳二年(一三八二)と伝え、古くから旧上戸田村の鎮守として祀られてきました。
祭神は、素戔嗚命で、明治六年に村社となり、明治四十年に旧上戸田村にあった羽黒社道祖神社、山王社、稲荷社などを合祀しています。
境内には、寛政十年(一七九八)の銘がある石造の大鳥居や、延宝元年(一六七三)十月造立の市内で最も古い庚申塔があります。
羽黒社は合祀されていますが、以前はボートコース下流の水門の付近にあったと思われます。出羽三山信仰のひとつ羽黒山大権現を勧請したものです。この社は、天保年間(一八三〇ー)に刊行された『江戸名所図会』にも挿絵入りで賑わった様子が紹介されています。
また、「江戸日本橋」と銘のある手洗石や狛犬、当時の若者達が力自慢に差し上げた力石、文政七年(一八二四)の銘がある「涼しさやほの三日月の羽黒山」と刻まれた芭蕉の句碑などが移されています。
平成八年三月 戸田市教育委員会」



<大鳥居>
大鳥居は寛政10(1798)年の建立です。


<庚申塔>
大鳥居の右側に、庚申塔があります。庚申塔は延宝元(1673)年10月の建立で、戸田市内で最も古いものです。下に三猿と二鶏が彫られています。
隣の光明真言供養塔は文化13(1816)年の建立。



<力石>
力石が2カ所に集められています。


<狛犬>



<手水鉢>
「文化13年9月」銘の手水鉢。
「浅草御門外 平右衛門町 石屋半七」
浅草御門は現在の浅草橋南詰にありました。浅草平右衛門町は現在の浅草橋1丁目。


<拝殿>



<羽黒山大権現>
拝殿の右側に、羽黒山大権現があります。
「羽黒山大権現」の大きな石塔は、享和2(1802)年6月の建立。
羽黒神社狛犬は、享和元(1801)年9月。
屋根囲いの中に「羽黒山大権現」








手水その1 享和元(1801)年12月。八丁堀の新川や日本橋の名前が見えます。
手水その2 もう一つは京橋講中奉納、嘉永7(1855)年。
手水その3 安永6年6月銘。






<芭蕉句碑>
「芭蕉句碑 涼しさや ほの三日月の 羽黒山」



<伏見稲荷>
拝殿の左側に伏見稲荷。二宮尊徳像があります。



<戸田川渡口羽黒権現宮(江戸名所図会)>

○上戸田氷川神社 戸田市上戸田3-20-11
<有形文化財>
「力石及び旧羽黒山句碑・石造物」が戸田市の有形文化財(歴史資料)に指定されました。2021年(令和3年)3月19日指定。
戸田市の文化財サイトより一部引用します。
<力石>
戸田市では現在19基の力石を確認でき、その内上戸田氷川神社には15基確認されています。銘文には「亀遊石」「大盤石」など石の名前を刻んだもの、「二十六貫目」のように石の重量を書くもの、「上戸田村」や「蔵前大地」「南新川」などの江戸の地名、「三ノ宮卯之助」「東助」などその石を持ち上げた人の名が残っています。
<羽黒山関係の石造物群>
羽黒山関連の石造物は芭蕉句碑、石碑、標柱、狛犬、水盤で構成されています。各石造物の銘文から江戸時代中期から後期にかけて「大根河岸」「石河岸」「南新川」「根津」など江戸町内・河岸場から多く奉納されたことがわかり、江戸時代の羽黒山の賑わいとともに、荒川を通じた戸田と江戸との交通・信仰の様相を知ることができる貴重な文化財です。
<上戸田氷川神社と羽黒社>
(説明板)
「上戸田氷川神社と羽黒社
上戸田氷川神社の創立は、縁起によると永徳二年(一三八二)と伝え、古くから旧上戸田村の鎮守として祀られてきました。
祭神は、素戔嗚命で、明治六年に村社となり、明治四十年に旧上戸田村にあった羽黒社道祖神社、山王社、稲荷社などを合祀しています。
境内には、寛政十年(一七九八)の銘がある石造の大鳥居や、延宝元年(一六七三)十月造立の市内で最も古い庚申塔があります。
羽黒社は合祀されていますが、以前はボートコース下流の水門の付近にあったと思われます。出羽三山信仰のひとつ羽黒山大権現を勧請したものです。この社は、天保年間(一八三〇ー)に刊行された『江戸名所図会』にも挿絵入りで賑わった様子が紹介されています。
また、「江戸日本橋」と銘のある手洗石や狛犬、当時の若者達が力自慢に差し上げた力石、文政七年(一八二四)の銘がある「涼しさやほの三日月の羽黒山」と刻まれた芭蕉の句碑などが移されています。
平成八年三月 戸田市教育委員会」



<大鳥居>
大鳥居は寛政10(1798)年の建立です。


<庚申塔>
大鳥居の右側に、庚申塔があります。庚申塔は延宝元(1673)年10月の建立で、戸田市内で最も古いものです。下に三猿と二鶏が彫られています。
隣の光明真言供養塔は文化13(1816)年の建立。



<力石>
力石が2カ所に集められています。


<狛犬>



<手水鉢>
「文化13年9月」銘の手水鉢。
「浅草御門外 平右衛門町 石屋半七」
浅草御門は現在の浅草橋南詰にありました。浅草平右衛門町は現在の浅草橋1丁目。


<拝殿>



<羽黒山大権現>
拝殿の右側に、羽黒山大権現があります。
「羽黒山大権現」の大きな石塔は、享和2(1802)年6月の建立。
羽黒神社狛犬は、享和元(1801)年9月。
屋根囲いの中に「羽黒山大権現」








手水その1 享和元(1801)年12月。八丁堀の新川や日本橋の名前が見えます。
手水その2 もう一つは京橋講中奉納、嘉永7(1855)年。
手水その3 安永6年6月銘。






<芭蕉句碑>
「芭蕉句碑 涼しさや ほの三日月の 羽黒山」



<伏見稲荷>
拝殿の左側に伏見稲荷。二宮尊徳像があります。



<戸田川渡口羽黒権現宮(江戸名所図会)>

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