観正院・篠葉厳島神社(草加市弁天)
○観正院 草加市弁天6-7-24
「観正院」と「篠葉厳島神社」が並んで建っており、それぞれ越戸橋通りから長い参道が続きます。




(説明板)
「観正院 所在地 草加市弁天町
観正院は、新義真言宗豊山派に属する寺で、民を日の如く恵み光り照らし給うことを願い、山号を恵日山、院号を妙音院、寺号を東照寺と称し、慶長十年(一六〇五)法印俊賢の開山と伝えられている。
元和三年(一六一七)徳川家康が、東照大権と称されたことにより、東正寺と改称した。
その後、明治四十一年槐戸村(現八幡町)所在の光明山阿弥陀院観音寺と合併、二ヵ寺の山号、寺号の各一字をとり、恵光山観正院と称し、観音寺本尊を当寺に遷座安置したものである。
境内には、草加市指定文化財の寛文二年(一六六二)の地蔵(庚申)立像、延宝六年(一六七八)の地蔵(庚申)立像の二体が安置されている。
昭和六十一年三月 草加市教育委員会」

<地蔵堂>


<弁天の地蔵道標>
参道右に寺号標、左に地蔵道標があります。安永3(1774)年銘の寒念仏供養塔で道標となっています。


(正面) 頂部に地蔵坐像(蓮台)の浮彫、その下に「奉供養万人講寒念佛」と陰刻
(正面右) 「右 蒲生道」
(正面左) 「左リ 草加道」

(左面下部) 「是ヨリ右 二郷半道」

<庚申塔と馬頭観音>
参道から境内に入ってすぐ左手の塀の前に石塔が四基あります。

左から、
・庚申塔 延宝6(1678)年銘の庚申塔。

・馬頭観音塔 天保6(1835)年銘の馬頭観音塔。「石工 神流斎 青木宗義」

・庚申塔 文政6(1823)年銘の庚申文字塔。

・庚申塔 享保11(1726)年銘の青面金剛庚申塔。

<地蔵(庚申)立像> 草加市文化財
参道から境内に入ってすぐ右手に石仏群があります。

・寛文2(1662)根地蔵(庚申) 中央左
宝珠をもった左手損傷、頭部は後補かもとのこと。

右手衣 「申供養」

左手衣 「奉造立供養□□為二世安樂」

・延宝6(1678)年地蔵(庚申)立像 中央


光背右「奉造立庚申供養二世安樂攸」

(説明板)
「昭和五十六年一月三十一日指定
市指定有形文化財
寛文二年地蔵(庚申)立像
延宝六年地蔵(庚申)立像
草加市弁天六丁目七番二十四号 観正院
地蔵は六道を遊化して衆生を救済する菩薩であるが、のちに閻魔王の信仰と結びついて、その本地仏とされ、極楽往生を助けると信じられて、室町期には宗派に関係なく広く民間にひろまった。近世になると、火防・盗難除け・病気平癒・子育て等あらゆる庶民の願望を叶えてくれる仏として信仰され、地蔵像が造立されるようになった。
寛文二年(西暦一六六二年)の地蔵は、高さ九十五センチ、幅三十七センチ、厚さ二十六センチの丸彫り型で、頭部は後補のものであるかも知れず、宝珠を持った左手も損傷している。右腕の衣には、申供養寛文二年(西暦一六六二年)九月吉日、その右に宗清と彫ってある。この地蔵(庚申)立像は類例の少ない三例のうちの一例で、市内で最も古いものである。
延宝六年(西暦一六七八年)の地蔵は、高さ百四十二センチ、幅五十八センチ、厚さ三十二センチの光背型立像である。上部に(地蔵)の種字を彫り、向かって右に奉造立庚申供養二世安楽攸、左に延宝六戌午(西暦一六七八年)正月吉日篠葉村同行卅七人敬白とある。三十七人の結衆が、それぞれ庚申供養のために造立したものであることが理解できる。
この地蔵像は市内で二番目に古く、像容がすぐれている。
昭和五十六年三月 草加市教育委員会」

<出羽三山等供養塔>
地蔵(庚申)立像の左手に、天保11(1840)年銘の出羽三山等供養塔があります。


(正面) 「月山 湯殿山 羽黒山 西國坂東秩父 百番供養塔」


(左側面)「草加宿 石工青木宗義」

(右側面) 造立年月日と願主が刻まれています。

<板碑>
「普門品供養塔」と「宝篋印塔」の間の奥に「板碑」があります。


<庚申板碑>
墓地にある万治2(1659)年銘の庚申板碑です。




<大師堂>

<天水桶>
東京オリンピック(1964年)の聖火台を鋳造した鋳物師の鈴木文吾氏鋳造の「天水盤」です。「平成三年七月吉日」


<本堂/修行大師像>



○篠葉厳島神社 草加市弁天6-7
かつて宮沼があり、弁財天の尊像が見つかり宮沼弁財天が設けられました。明治元年に厳島神社と改められました。


<厳島神社記>
明治34年の建碑です。加藤政之助撰書。

<征清凱旋頌碑>
日清戦争の凱旋碑です。明治30年12月の建碑です。




<稲荷神社>


<大六天神社>



<社殿/本殿>
社殿前に安政2年銘の「御寶前」石塔があります。



「観正院」と「篠葉厳島神社」が並んで建っており、それぞれ越戸橋通りから長い参道が続きます。




(説明板)
「観正院 所在地 草加市弁天町
観正院は、新義真言宗豊山派に属する寺で、民を日の如く恵み光り照らし給うことを願い、山号を恵日山、院号を妙音院、寺号を東照寺と称し、慶長十年(一六〇五)法印俊賢の開山と伝えられている。
元和三年(一六一七)徳川家康が、東照大権と称されたことにより、東正寺と改称した。
その後、明治四十一年槐戸村(現八幡町)所在の光明山阿弥陀院観音寺と合併、二ヵ寺の山号、寺号の各一字をとり、恵光山観正院と称し、観音寺本尊を当寺に遷座安置したものである。
境内には、草加市指定文化財の寛文二年(一六六二)の地蔵(庚申)立像、延宝六年(一六七八)の地蔵(庚申)立像の二体が安置されている。
昭和六十一年三月 草加市教育委員会」

<地蔵堂>


<弁天の地蔵道標>
参道右に寺号標、左に地蔵道標があります。安永3(1774)年銘の寒念仏供養塔で道標となっています。


(正面) 頂部に地蔵坐像(蓮台)の浮彫、その下に「奉供養万人講寒念佛」と陰刻
(正面右) 「右 蒲生道」
(正面左) 「左リ 草加道」

(左面下部) 「是ヨリ右 二郷半道」

<庚申塔と馬頭観音>
参道から境内に入ってすぐ左手の塀の前に石塔が四基あります。

左から、
・庚申塔 延宝6(1678)年銘の庚申塔。

・馬頭観音塔 天保6(1835)年銘の馬頭観音塔。「石工 神流斎 青木宗義」

・庚申塔 文政6(1823)年銘の庚申文字塔。

・庚申塔 享保11(1726)年銘の青面金剛庚申塔。

<地蔵(庚申)立像> 草加市文化財
参道から境内に入ってすぐ右手に石仏群があります。

・寛文2(1662)根地蔵(庚申) 中央左
宝珠をもった左手損傷、頭部は後補かもとのこと。

右手衣 「申供養」

左手衣 「奉造立供養□□為二世安樂」

・延宝6(1678)年地蔵(庚申)立像 中央


光背右「奉造立庚申供養二世安樂攸」

(説明板)
「昭和五十六年一月三十一日指定
市指定有形文化財
寛文二年地蔵(庚申)立像
延宝六年地蔵(庚申)立像
草加市弁天六丁目七番二十四号 観正院
地蔵は六道を遊化して衆生を救済する菩薩であるが、のちに閻魔王の信仰と結びついて、その本地仏とされ、極楽往生を助けると信じられて、室町期には宗派に関係なく広く民間にひろまった。近世になると、火防・盗難除け・病気平癒・子育て等あらゆる庶民の願望を叶えてくれる仏として信仰され、地蔵像が造立されるようになった。
寛文二年(西暦一六六二年)の地蔵は、高さ九十五センチ、幅三十七センチ、厚さ二十六センチの丸彫り型で、頭部は後補のものであるかも知れず、宝珠を持った左手も損傷している。右腕の衣には、申供養寛文二年(西暦一六六二年)九月吉日、その右に宗清と彫ってある。この地蔵(庚申)立像は類例の少ない三例のうちの一例で、市内で最も古いものである。
延宝六年(西暦一六七八年)の地蔵は、高さ百四十二センチ、幅五十八センチ、厚さ三十二センチの光背型立像である。上部に(地蔵)の種字を彫り、向かって右に奉造立庚申供養二世安楽攸、左に延宝六戌午(西暦一六七八年)正月吉日篠葉村同行卅七人敬白とある。三十七人の結衆が、それぞれ庚申供養のために造立したものであることが理解できる。
この地蔵像は市内で二番目に古く、像容がすぐれている。
昭和五十六年三月 草加市教育委員会」

<出羽三山等供養塔>
地蔵(庚申)立像の左手に、天保11(1840)年銘の出羽三山等供養塔があります。


(正面) 「月山 湯殿山 羽黒山 西國坂東秩父 百番供養塔」


(左側面)「草加宿 石工青木宗義」

(右側面) 造立年月日と願主が刻まれています。

<板碑>
「普門品供養塔」と「宝篋印塔」の間の奥に「板碑」があります。


<庚申板碑>
墓地にある万治2(1659)年銘の庚申板碑です。




<大師堂>

<天水桶>
東京オリンピック(1964年)の聖火台を鋳造した鋳物師の鈴木文吾氏鋳造の「天水盤」です。「平成三年七月吉日」


<本堂/修行大師像>



○篠葉厳島神社 草加市弁天6-7
かつて宮沼があり、弁財天の尊像が見つかり宮沼弁財天が設けられました。明治元年に厳島神社と改められました。


<厳島神社記>
明治34年の建碑です。加藤政之助撰書。

<征清凱旋頌碑>
日清戦争の凱旋碑です。明治30年12月の建碑です。




<稲荷神社>


<大六天神社>



<社殿/本殿>
社殿前に安政2年銘の「御寶前」石塔があります。




南光院(草加市花栗)
○南光院 草加市花栗3-25-3
花栗は、江戸時代は武蔵国足立郡花栗村でした。明治22(1889)年、合併により安行村が成立、花栗村は安行村の大字花栗となります。昭和31(1956)年、安行村は川口市に編入され、大字花栗は川口市の大字安行花栗に改称。昭和32(1957)年、川口市から草加町に編入されました。




<石塔群>
山門の先、すぐ右手奥に石塔群があります。



<出羽三山供養塔>
左から、弘化4(1847)年銘の出羽三山供養塔です。
(正面) 「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」



(台石) 「講中」

(左側面)「天下和順 日月清明」

(右側面) 紀年と「大先達 大乗院」「武州足立郡花栗村」



<馬頭観世音>
2基目は、昭和4(1929)年銘の馬頭観世音塔です。


<不動明王道標>
3基目は、文化4(1807)年銘の不動明王道標です。
(正面) 不動明王坐像を陽刻、その下に「成田山」と陰刻。
(正面下右)「是ヨリ成田山江十六(欠損)」

(左側面) 紀年と右「是ヨリ鳩ケ谷一里半」、左「とねり一里半」

(右側面) 「願主 花栗村」

<普門品供養塔>
4基目は、宝暦7(1757)年銘の普門品供養塔です。


<庚申塔>
5基目は、寛延元(1748)年銘の庚申塔です。



(左側面) 造立年月日。

(右側面)「奉造立青面金剛」「講村中」

<弁天堂>
一番右の小社です。


<六地蔵>
参道右側の寛延3(1750)年銘の六地蔵です。



<観音堂>
「奉納 観音堂改築」とあるので、観音堂かと思います。

<水子地蔵尊>

<無縁塔/宝篋印塔>
右に無縁塔、左に宝篋印です。

<地蔵菩薩像/阿弥陀如来坐像>
参道左手、タブノキの大木の傍らに。地蔵菩薩像と阿弥陀如来坐像が並んでいます。
花栗は、江戸時代は武蔵国足立郡花栗村でした。明治22(1889)年、合併により安行村が成立、花栗村は安行村の大字花栗となります。昭和31(1956)年、安行村は川口市に編入され、大字花栗は川口市の大字安行花栗に改称。昭和32(1957)年、川口市から草加町に編入されました。




<石塔群>
山門の先、すぐ右手奥に石塔群があります。



<出羽三山供養塔>
左から、弘化4(1847)年銘の出羽三山供養塔です。
(正面) 「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」



(台石) 「講中」

(左側面)「天下和順 日月清明」

(右側面) 紀年と「大先達 大乗院」「武州足立郡花栗村」



<馬頭観世音>
2基目は、昭和4(1929)年銘の馬頭観世音塔です。


<不動明王道標>
3基目は、文化4(1807)年銘の不動明王道標です。
(正面) 不動明王坐像を陽刻、その下に「成田山」と陰刻。
(正面下右)「是ヨリ成田山江十六(欠損)」

(左側面) 紀年と右「是ヨリ鳩ケ谷一里半」、左「とねり一里半」

(右側面) 「願主 花栗村」

<普門品供養塔>
4基目は、宝暦7(1757)年銘の普門品供養塔です。


<庚申塔>
5基目は、寛延元(1748)年銘の庚申塔です。



(左側面) 造立年月日。

(右側面)「奉造立青面金剛」「講村中」

<弁天堂>
一番右の小社です。


<六地蔵>
参道右側の寛延3(1750)年銘の六地蔵です。



<観音堂>
「奉納 観音堂改築」とあるので、観音堂かと思います。

<水子地蔵尊>

<無縁塔/宝篋印塔>
右に無縁塔、左に宝篋印です。

<地蔵菩薩像/阿弥陀如来坐像>
参道左手、タブノキの大木の傍らに。地蔵菩薩像と阿弥陀如来坐像が並んでいます。

tag : 出羽三山
真蔵院(草加市西町)
○真蔵院 草加市西町189
江戸時代は原島村(ばらじまむら)、明治22(1889)年合併により草加町が成立し、大字原島となります。昭和33(1958)年)草加市が成立し、大字原島から西町となります。
真蔵院は、武蔵国八十八ヶ所霊場39番です。
<参道/山門>




<地蔵尊>
山門手前左手に小堂があり、地蔵尊が祀られています。


<無縁塔>
参道左手に「無縁塔」。

<原嶋六地蔵尊>
覆屋に「原嶋六地蔵尊」。左手の傍に、文化9(1812)年銘の「法師浄念万生位」があります。


<大師堂>


<石塔三基>
参道左手の太子堂の裏に三基の石塔が並んでいます。


<出羽三山供養塔>
左は、天保14(1843)年銘の出羽三山供養塔です。

(正面)「月山 湯殿山 羽黒山 大権現供養塔」



(左側面)「天下泰平 國土安穏 五穀成就 萬民豊楽」

(右側面)紀年が刻まれ、「大先達 大乗院」


(台石左側面)「武州足立郡原嶌村」願主9人、世話人3人が刻まれています。

<庚申塔板碑>
中央の万治2(1659)年銘の板碑型庚申塔です。

<庚申塔板碑>
右の正徳2(1712)年銘の庚申塔です。

<本堂>



江戸時代は原島村(ばらじまむら)、明治22(1889)年合併により草加町が成立し、大字原島となります。昭和33(1958)年)草加市が成立し、大字原島から西町となります。
真蔵院は、武蔵国八十八ヶ所霊場39番です。
<参道/山門>




<地蔵尊>
山門手前左手に小堂があり、地蔵尊が祀られています。


<無縁塔>
参道左手に「無縁塔」。

<原嶋六地蔵尊>
覆屋に「原嶋六地蔵尊」。左手の傍に、文化9(1812)年銘の「法師浄念万生位」があります。


<大師堂>


<石塔三基>
参道左手の太子堂の裏に三基の石塔が並んでいます。


<出羽三山供養塔>
左は、天保14(1843)年銘の出羽三山供養塔です。

(正面)「月山 湯殿山 羽黒山 大権現供養塔」



(左側面)「天下泰平 國土安穏 五穀成就 萬民豊楽」

(右側面)紀年が刻まれ、「大先達 大乗院」


(台石左側面)「武州足立郡原嶌村」願主9人、世話人3人が刻まれています。

<庚申塔板碑>
中央の万治2(1659)年銘の板碑型庚申塔です。

<庚申塔板碑>
右の正徳2(1712)年銘の庚申塔です。

<本堂>



tag : 出羽三山
徳性寺(草加市新里町)
○徳性寺 草加市新里町691


【石塔群】
山門右手に石塔群があります。
門柱手前に「南阿弥陀佛」、門柱脇に、六地蔵、如意輪観音、出羽三山供養塔、普門品供養塔が並んでいます。



<南阿弥陀佛>
明治21(1888)年銘の「南阿弥陀佛」塔です。


<出羽三山供養塔>
文久2(1862)年銘の出羽三山供養塔です。


「月山 湯殿山 羽黒山 大権現」


右側面「天下泰平 日月清明 風雨順時 五穀豊穣」

左側面 紀年と「先達 大乗院宥尤書」



<普門品供養塔>
安政2(1855)年銘の「奉讀誦普門品供養塔」です。
両脇「天下泰平」「五穀成就」



<天水桶>
平成10(1998)年8月吉日銘の鈴木文吾作の天水桶です。鈴木文吾は東京オリンピック聖火台を作った川口鋳物師です。


<本堂>




【石塔群】
山門右手に石塔群があります。
門柱手前に「南阿弥陀佛」、門柱脇に、六地蔵、如意輪観音、出羽三山供養塔、普門品供養塔が並んでいます。



<南阿弥陀佛>
明治21(1888)年銘の「南阿弥陀佛」塔です。


<出羽三山供養塔>
文久2(1862)年銘の出羽三山供養塔です。


「月山 湯殿山 羽黒山 大権現」


右側面「天下泰平 日月清明 風雨順時 五穀豊穣」

左側面 紀年と「先達 大乗院宥尤書」



<普門品供養塔>
安政2(1855)年銘の「奉讀誦普門品供養塔」です。
両脇「天下泰平」「五穀成就」



<天水桶>
平成10(1998)年8月吉日銘の鈴木文吾作の天水桶です。鈴木文吾は東京オリンピック聖火台を作った川口鋳物師です。


<本堂>



tag : 出羽三山
清門稲荷神社(草加市清門)
○清門稲荷神社(田中稲荷神社) 草加市清門2-14-8
清門町集会所の奥に、清門稲荷神社(田中稲荷神社)があります。江戸時代には名主田中八右衛門氏の所有で、田中稲荷と呼ばれていました。
集会所の横を進むと「耕地整理紀念碑」があります。参道右手に手水舎、左手に石塔が並んでいます。





<石碑群>
参道左手に石碑群。


<笠付型庚申塔>
宝暦2(1752)年銘の庚申塔です。両脇の猿は内を向き、右と中央の猿は、片手で目、耳をふさいでいます。




<駒型庚申塔>
安永5(1776)年銘の庚申塔です。両脇の猿は内を向いています。左面「般若心経三万読誦」「滅罪生善 両願円満」と刻まれています。




<疱瘡神>
宝暦11(1761)年銘の「疱瘡守護神」石祠です。
左面「奉造立諸願成就所」「三密修行法印順海」




<出羽三山供養塔>
慶応元(1865)年銘の出羽三山供養塔です。
正面「月山 湯殿山 羽黒山 三所大権現」
左面「大先達 羽黒別当 正穏院」「清右衛門新田講中」







<不動明王>
文久3(1863)年銘の不動明王。道標を兼ねています。
正面「成田山 真大山 不動明王」




正面下部と右側面下部に地名と里程が刻まれ、道標となっています。
(中央)「東 成田へ 拾七里」
(同右)「南、王子へ 三里半/志里ん薬師 三十丁/前川観音へ 二里/鳩ヶ谷へ 壱里/川口善光寺へ 二り」、
(同左)「西 大宮へ 五里/い者つきへ 四里/志"おんじへ 五里」
(同左端)「北、大さ可”みへ 二り/こし可"や 一り十丁/吉川へ 二り半」
(右面)「東、西新井大師 二里/駒木すはへ 四里/千住へ 二里半/草加へ 壱里/か□山へ □道」
(「近世以前の土木・産業遺産」(岡山大学名誉教授馬場俊介)から引用)


<地蔵菩薩立像>
「昭和五十二年十二月建」の地蔵菩薩立像です。

<石祠弁財天宮>
宝暦11(1761)年銘の宇賀神と習合した琵琶を抱えた弁財天像です。台石に「巳待講中」とあります。
「願主 地主 赤山領清右衛門新田 田中八右衛門保泰」とあり、疱瘡神と不動明王にも刻まれている田中稲荷由来の名主です。





<その他>

<力石>
五基の力石と説明板があります。説明板には「田中稲荷神社」とあります。
(説明板)
「力石(ちからいし)
前にある石を、力石と言います。江戸時代から明治の頃、若者達が集まり、力試しや、力自慢に使用されました。その方法は、持ち上げる、肩に担ぐ、差し上げる、等です。
ここにある石の由来は明らかではないが、地元の有志の方の寄贈によるもので、昔の若者達の遊びの少なかった時代の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
田中稲荷神社」







<中道天満宮>
社殿と末社が昭和44年(1969)に改築の碑が建っています。「稲荷神社 天満宮社 改築記念碑」

石標柱には「中道天満宮」(昭和56(1981)年)とあります。

菅原道真公が祭られています。



<手水舎/狐/石標柱/社殿>
社殿前の石標柱は「清門稲荷大明神」です。
「平成二十三年六月吉日
正一位 清門稲荷大明神
清門町氏子中」




社殿内の扁額は「田中稲荷大明神」です。


清門町集会所の奥に、清門稲荷神社(田中稲荷神社)があります。江戸時代には名主田中八右衛門氏の所有で、田中稲荷と呼ばれていました。
集会所の横を進むと「耕地整理紀念碑」があります。参道右手に手水舎、左手に石塔が並んでいます。





<石碑群>
参道左手に石碑群。


<笠付型庚申塔>
宝暦2(1752)年銘の庚申塔です。両脇の猿は内を向き、右と中央の猿は、片手で目、耳をふさいでいます。




<駒型庚申塔>
安永5(1776)年銘の庚申塔です。両脇の猿は内を向いています。左面「般若心経三万読誦」「滅罪生善 両願円満」と刻まれています。




<疱瘡神>
宝暦11(1761)年銘の「疱瘡守護神」石祠です。
左面「奉造立諸願成就所」「三密修行法印順海」




<出羽三山供養塔>
慶応元(1865)年銘の出羽三山供養塔です。
正面「月山 湯殿山 羽黒山 三所大権現」
左面「大先達 羽黒別当 正穏院」「清右衛門新田講中」







<不動明王>
文久3(1863)年銘の不動明王。道標を兼ねています。
正面「成田山 真大山 不動明王」




正面下部と右側面下部に地名と里程が刻まれ、道標となっています。
(中央)「東 成田へ 拾七里」
(同右)「南、王子へ 三里半/志里ん薬師 三十丁/前川観音へ 二里/鳩ヶ谷へ 壱里/川口善光寺へ 二り」、
(同左)「西 大宮へ 五里/い者つきへ 四里/志"おんじへ 五里」
(同左端)「北、大さ可”みへ 二り/こし可"や 一り十丁/吉川へ 二り半」
(右面)「東、西新井大師 二里/駒木すはへ 四里/千住へ 二里半/草加へ 壱里/か□山へ □道」
(「近世以前の土木・産業遺産」(岡山大学名誉教授馬場俊介)から引用)


<地蔵菩薩立像>
「昭和五十二年十二月建」の地蔵菩薩立像です。

<石祠弁財天宮>
宝暦11(1761)年銘の宇賀神と習合した琵琶を抱えた弁財天像です。台石に「巳待講中」とあります。
「願主 地主 赤山領清右衛門新田 田中八右衛門保泰」とあり、疱瘡神と不動明王にも刻まれている田中稲荷由来の名主です。





<その他>

<力石>
五基の力石と説明板があります。説明板には「田中稲荷神社」とあります。
(説明板)
「力石(ちからいし)
前にある石を、力石と言います。江戸時代から明治の頃、若者達が集まり、力試しや、力自慢に使用されました。その方法は、持ち上げる、肩に担ぐ、差し上げる、等です。
ここにある石の由来は明らかではないが、地元の有志の方の寄贈によるもので、昔の若者達の遊びの少なかった時代の生活と娯楽の一端を知るうえで貴重な資料であると思われます。
田中稲荷神社」







<中道天満宮>
社殿と末社が昭和44年(1969)に改築の碑が建っています。「稲荷神社 天満宮社 改築記念碑」

石標柱には「中道天満宮」(昭和56(1981)年)とあります。

菅原道真公が祭られています。



<手水舎/狐/石標柱/社殿>
社殿前の石標柱は「清門稲荷大明神」です。
「平成二十三年六月吉日
正一位 清門稲荷大明神
清門町氏子中」




社殿内の扁額は「田中稲荷大明神」です。



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