太子堂八幡神社
〇太子堂八幡神社 世田谷区太子堂5-23-5
源頼義・義家(八幡太郎)が戦勝祈願、酒宴を催し休憩したと伝えられています。








(説明板)
「太子堂八幡神社略記
御 祭 神 誉田別命
大 祭 十月 第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二~六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征伐に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一~二番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器などこの地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記稿等を参照したものである。」

<出羽三山神社>
境内左手に「出羽三山神社・鹽竈神社」の合祀殿があります。





裏にはうさぎがいます。


<弁天社>
鳥居手前左手に弁天社。


<記念碑>
弁天社の右手に日露戦役の記念碑があります。

<太子堂稲荷神社>
<御神木>
稲荷神社の手前に御神木の案内があります。
社殿の奥に御神木の大楠があります。



源頼義・義家(八幡太郎)が戦勝祈願、酒宴を催し休憩したと伝えられています。








(説明板)
「太子堂八幡神社略記
御 祭 神 誉田別命
大 祭 十月 第二日曜日
社殿改築 昭和十二年八月十日
御由緒及此地の沿革
当社の鎮座年歴不詳なれど、旧当社別当円泉寺開基の縁起によれば、文禄年間(西暦一五九二~六年)創祀されたとあるが、平安時代後期源義家が父頼義と共に朝廷の命をうけ陸奥の安倍氏征伐に向う途中この地を通過するに際し、八幡神社に武運を祈ったと伝えられていることから少なくともこれより(文禄年間)以前に里人により石清水八幡宮の御分霊を勧請し村の守護神として祀った事はあきらかである。
太子堂の歴史の一頁を開いてきたものに鎌倉道がある。太子堂と若林の村境を通って八幡神社の西側から滝坂道を横切り下北沢と代田の境を通って鎌倉へ通ずる道で鎌倉道と呼ばれ古い時代には行きつく目的地の名を取って付けたようである。
此の鎌倉道の付近に義家は諸将兵に命じ駒を止め同勢を憩わし酒宴をはった、太子堂上本村一二一~二番地の辺を(五丁目)土器塚と云い、酒宴後の土器などこの地に埋めたのでそう呼んだのである。その塚に続く塚を同勢山と呼ぶのは、同勢を憩わした名残である。
真言宗豊山派円泉寺境内に聖徳太子像を安置し、それより太子の号をとりて部落の村名とした。
以上は、古老の伝承、武蔵風土記稿等を参照したものである。」

<出羽三山神社>
境内左手に「出羽三山神社・鹽竈神社」の合祀殿があります。





裏にはうさぎがいます。


<弁天社>
鳥居手前左手に弁天社。


<記念碑>
弁天社の右手に日露戦役の記念碑があります。

<太子堂稲荷神社>

<御神木>
稲荷神社の手前に御神木の案内があります。
社殿の奥に御神木の大楠があります。



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奥沢神社
〇奥沢神社 世田谷区奥沢5-22-1
藁の大蛇のインパクトが強いです。 「出羽三山 百番 道標」があります。



<奥沢神社>
(説明板)
「奥沢神社
祭神 誉田別命宇賀魂命
世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したと伝えられる。
例祭の九月十四日・十五日に、江戸中期より伝えられている「厄除の大蛇」の特殊神事が行われ、境内の「八幡小学校発祥之地」の碑は、かつて八幡小学校々舎があったからである。
社殿は昭和十五年に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。
昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会 」

(追加掲示)
「九月大祭の日程は変更しています
九月第二土曜日と翌日日曜日の二日間です
「厄除大蛇」は第二土曜日
午前十時~十二時半町内お錬り」

<奥沢神社の大蛇お練り行事>
(説明板)
「東京都指定無形民俗文化財(風俗習慣)
奥沢神社の大蛇お練り行事
伝 承 地 世田谷区奥沢地区
保持団体 奥沢神社氏子中
指 定 平成二十八年三月十一日
奥沢神社の大蛇お練り行事は、毎年九月第二土曜日に、氏子に担がれた藁製の大蛇が奥沢神社を出発し、半日かけて氏子町内を練り歩くもので、厄除けの大蛇として地域に親しまれています。
その由来は、江戸時代に疫病が流行した際、名主の夢枕に八幡様が現れ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させよ」とのお告げがあり、そこで藁蛇を巡行させると疫病が治ったので、村人はその藁蛇を神社の鳥居に掲げたといわれています。
藁蛇の長さは約九メートル、胴の直径は約二十五センチメートル、重さ約百五十キログラムで、祭の一週間前に約四十人が一日がかりで作り上げます。
「ワッショイ」と掛け声をあげ、まるで蛇が道を這うかのように左右に激しく大蛇を動かしながら担ぎます。その脇では、沿道の見物客や氏子に疫病除けの藁が配布されます。
厄除け等の祈願のために藁縄で編んだ蛇を祀る行事は都内に数例残っていますが、その蛇を担いで氏子町内を練り歩くのは都内ではここだけで、都民の生活文化の特色を示すものとして重要です。
平成二十九年三月 建設 東京都教育委員会 」

<鳥居>
鳥居に大蛇を祀っています。目立ちますね。



<如意輪観音/出羽三山百番 道標>
天明6(1786)年。
正面:如意輪観音半跏坐像
「右 品川ミち」「左 めくろミち」


裏面:「羽黒山 湯殿山 月山 奉納 秩父 四国 坂東 百番供養塔」
「右 ふすまミち」「左 九ほんぶつ道」
道標を兼ねた「出羽三山 百番供養塔」です。順番が羽黒山が先に刻まれています。
彫がしっかりしていて、保存状態が良いです。







<狛犬>
雄々しい狛犬です。



<奥沢開発三百年記念碑>
300年記念事業として狛犬ならびに石燈籠を献納した記念碑です。
昭和37(1962)年。氏子中。

<拝殿>
拝殿内には「大蛇お練り行事」で使われた大蛇が納められています。
一年後に鳥居へ移されます。



<神楽殿>

<供養庚申塔/道標>
享保13(1728)年。
正面「奉供養庚申之塔」
右面「こ連より右江 九保ん仏道」
左面「これより左江 ぬま遍道」




<べんてん道>

「井戸?」
龍の口があるので、井戸口かな?

「子育延命地蔵尊」
享保20(1735)年11月。



「庚申塔など」
「享保3(1718)年8月」庚申塔
「南無大師遍照金剛」「下沼部村密蔵院現住廣照」「文政3年」
「安永8(1779)年10月」庚申塔







「八幡小学校発祥之地」

「奥沢弁才天社」







<南参道鳥居>

<日清・日露戦役紀念碑>
藁の大蛇のインパクトが強いです。 「出羽三山 百番 道標」があります。



<奥沢神社>
(説明板)
「奥沢神社
祭神 誉田別命宇賀魂命
世田谷城主吉良氏の家臣、大平氏が奥沢城を築くにあたり守護神として勧請したと伝えられる。
例祭の九月十四日・十五日に、江戸中期より伝えられている「厄除の大蛇」の特殊神事が行われ、境内の「八幡小学校発祥之地」の碑は、かつて八幡小学校々舎があったからである。
社殿は昭和十五年に完成し、尾州檜材を用い、室町期の様式を採用したもので、都内においても他に類を見ない。
昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会 」

(追加掲示)
「九月大祭の日程は変更しています
九月第二土曜日と翌日日曜日の二日間です
「厄除大蛇」は第二土曜日
午前十時~十二時半町内お錬り」

<奥沢神社の大蛇お練り行事>
(説明板)
「東京都指定無形民俗文化財(風俗習慣)
奥沢神社の大蛇お練り行事
伝 承 地 世田谷区奥沢地区
保持団体 奥沢神社氏子中
指 定 平成二十八年三月十一日
奥沢神社の大蛇お練り行事は、毎年九月第二土曜日に、氏子に担がれた藁製の大蛇が奥沢神社を出発し、半日かけて氏子町内を練り歩くもので、厄除けの大蛇として地域に親しまれています。
その由来は、江戸時代に疫病が流行した際、名主の夢枕に八幡様が現れ、「藁で作った大蛇を村人が担ぎ村内を巡行させよ」とのお告げがあり、そこで藁蛇を巡行させると疫病が治ったので、村人はその藁蛇を神社の鳥居に掲げたといわれています。
藁蛇の長さは約九メートル、胴の直径は約二十五センチメートル、重さ約百五十キログラムで、祭の一週間前に約四十人が一日がかりで作り上げます。
「ワッショイ」と掛け声をあげ、まるで蛇が道を這うかのように左右に激しく大蛇を動かしながら担ぎます。その脇では、沿道の見物客や氏子に疫病除けの藁が配布されます。
厄除け等の祈願のために藁縄で編んだ蛇を祀る行事は都内に数例残っていますが、その蛇を担いで氏子町内を練り歩くのは都内ではここだけで、都民の生活文化の特色を示すものとして重要です。
平成二十九年三月 建設 東京都教育委員会 」

<鳥居>
鳥居に大蛇を祀っています。目立ちますね。




<如意輪観音/出羽三山百番 道標>
天明6(1786)年。
正面:如意輪観音半跏坐像
「右 品川ミち」「左 めくろミち」


裏面:「羽黒山 湯殿山 月山 奉納 秩父 四国 坂東 百番供養塔」
「右 ふすまミち」「左 九ほんぶつ道」
道標を兼ねた「出羽三山 百番供養塔」です。順番が羽黒山が先に刻まれています。
彫がしっかりしていて、保存状態が良いです。







<狛犬>
雄々しい狛犬です。



<奥沢開発三百年記念碑>
300年記念事業として狛犬ならびに石燈籠を献納した記念碑です。
昭和37(1962)年。氏子中。

<拝殿>
拝殿内には「大蛇お練り行事」で使われた大蛇が納められています。
一年後に鳥居へ移されます。



<神楽殿>

<供養庚申塔/道標>
享保13(1728)年。
正面「奉供養庚申之塔」
右面「こ連より右江 九保ん仏道」
左面「これより左江 ぬま遍道」




<べんてん道>

「井戸?」
龍の口があるので、井戸口かな?

「子育延命地蔵尊」
享保20(1735)年11月。



「庚申塔など」
「享保3(1718)年8月」庚申塔
「南無大師遍照金剛」「下沼部村密蔵院現住廣照」「文政3年」
「安永8(1779)年10月」庚申塔







「八幡小学校発祥之地」

「奥沢弁才天社」







<南参道鳥居>

<日清・日露戦役紀念碑>

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出羽三山巡拝塔 円照寺/最勝寺(新宿区)
○円照寺 新宿区北新宿3-23-2
医光山円照寺といいます。
創建年代は不詳ですが、理源大師の弟子の貞崇僧都が安置した薬師堂を起源とし、天慶3(940)年、藤原秀郷が平将門征伐の際に一寺となしたと伝えられます。
慶長年中(1596-1615)に焼失した際には、春日局が施主となり再建されました。
当地は、地頭柏木右衛門佐頼秀の居館跡ともいわれ、右衛門桜が残されていましたが戦災で焼失しています。
<江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺>
鎧明神社の別当寺だった円照寺。江戸名所図会では、鎧明神社とともに円照寺が描かれています。


<江戸名所図会 柏木邑 右衛門桜>
挿絵に 「柏木恵ゑもんさくら」の看板が見えます。
本文の説明によると「當寺堂前にあり」とあります。

<参道>
参道入口左手に「柏木右衛門桜ゆかりの地」
右手に圓照寺の寺号標、見た瞬間、江戸時代の墓碑か、板碑型庚申塔かと思いました。




<梵鐘など>
梵鐘(寛政2(1790)年銘)は、新宿区文化財に指定されています。



<しだれ桜>
右衛門桜は戦災で焼けてしまい、樹齢1000年以上あると言われているしだれ桜を寺のシンボルにと、境内の真ん中に、福島の滝桜の苗分けが植樹されています。
他にも、境内には日本全国から多くの桜が植えられています。
(篠山副住職へのラジオ番組のインタビュー記事を参照しました。)


<本堂>
本堂には戦災を逃れた秘仏の薬師如来像が祀られています。



<無縁塔>
無縁塔があります。




<六地蔵>
無縁塔の脇には、六地蔵が2組あります(天保10(1839)年と年代不詳)。
二十三夜塔は栃木では多く見かけますが、都内では少ないかな、久しぶりに見ました。


「西國坂東秩父廻國供養」
享保18(1733)年。



「月山 湯殿山 羽黒山 坂東 西國 四國 秩父 88か所順拝」
文政9(1826)年。






<大雄山>の碑があります。

<『玉箒木』の囲碁の精>
碁石の精が現れたといわれる円照寺。
江戸の牛込に、囲碁の好きな清水昨庵という者がいた。
昨庵が柏木村円照寺を散歩していると、色白と色黒の2人組が話しかけてきた。
2人と馴染みとなった昨庵が名を尋ねると、色黒の者は山に住む「知玄(ちげん)」、
色白の者は海辺に住む「知白(ちはく)」と名乗り、それきり姿を消してしまった。
昨庵はこの後囲碁の名人となり、江戸中に敵が無くなったとある。
昨庵の出会った2人は、実は碁石の精だったということである。
(ウィキペディアより要約引用)
〇最勝寺 新宿区上落合3-4



<巡拝供養塔>
巡拝供養塔が2基あります。
・「四國 西國 秩父 阪東 百十八霊場巡拝供養塔」
立派な巡拝供養塔です。


・「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 巡拝供養」
文化8(1811)年。





<三界萬霊塔/馬頭観世音/庚申塔など>




医光山円照寺といいます。
創建年代は不詳ですが、理源大師の弟子の貞崇僧都が安置した薬師堂を起源とし、天慶3(940)年、藤原秀郷が平将門征伐の際に一寺となしたと伝えられます。
慶長年中(1596-1615)に焼失した際には、春日局が施主となり再建されました。
当地は、地頭柏木右衛門佐頼秀の居館跡ともいわれ、右衛門桜が残されていましたが戦災で焼失しています。
<江戸名所図会 鎧明神社 圓照寺>
鎧明神社の別当寺だった円照寺。江戸名所図会では、鎧明神社とともに円照寺が描かれています。


<江戸名所図会 柏木邑 右衛門桜>
挿絵に 「柏木恵ゑもんさくら」の看板が見えます。
本文の説明によると「當寺堂前にあり」とあります。

<参道>
参道入口左手に「柏木右衛門桜ゆかりの地」
右手に圓照寺の寺号標、見た瞬間、江戸時代の墓碑か、板碑型庚申塔かと思いました。




<梵鐘など>
梵鐘(寛政2(1790)年銘)は、新宿区文化財に指定されています。



<しだれ桜>
右衛門桜は戦災で焼けてしまい、樹齢1000年以上あると言われているしだれ桜を寺のシンボルにと、境内の真ん中に、福島の滝桜の苗分けが植樹されています。
他にも、境内には日本全国から多くの桜が植えられています。
(篠山副住職へのラジオ番組のインタビュー記事を参照しました。)


<本堂>
本堂には戦災を逃れた秘仏の薬師如来像が祀られています。



<無縁塔>
無縁塔があります。




<六地蔵>
無縁塔の脇には、六地蔵が2組あります(天保10(1839)年と年代不詳)。
二十三夜塔は栃木では多く見かけますが、都内では少ないかな、久しぶりに見ました。



「西國坂東秩父廻國供養」
享保18(1733)年。



「月山 湯殿山 羽黒山 坂東 西國 四國 秩父 88か所順拝」
文政9(1826)年。






<大雄山>の碑があります。

<『玉箒木』の囲碁の精>
碁石の精が現れたといわれる円照寺。
江戸の牛込に、囲碁の好きな清水昨庵という者がいた。
昨庵が柏木村円照寺を散歩していると、色白と色黒の2人組が話しかけてきた。
2人と馴染みとなった昨庵が名を尋ねると、色黒の者は山に住む「知玄(ちげん)」、
色白の者は海辺に住む「知白(ちはく)」と名乗り、それきり姿を消してしまった。
昨庵はこの後囲碁の名人となり、江戸中に敵が無くなったとある。
昨庵の出会った2人は、実は碁石の精だったということである。
(ウィキペディアより要約引用)
〇最勝寺 新宿区上落合3-4



<巡拝供養塔>
巡拝供養塔が2基あります。
・「四國 西國 秩父 阪東 百十八霊場巡拝供養塔」
立派な巡拝供養塔です。


・「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 巡拝供養」
文化8(1811)年。





<三界萬霊塔/馬頭観世音/庚申塔など>




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成子天神社/成子富士
〇成子天神社 新宿区西新宿8-14-10 HP
<湯殿山>
成子富士塚の麓に「湯殿山碑」があります。湯殿山単独の碑です。
福島や栃木では湯殿山単独は一般的ですが、都内では珍しい。



「江戸切絵図」
江戸切絵図に「天満宮」と描かれています。近隣には「十二社権現」があります。

<表参道>
表参道から参内です。
参道途中には扁額と鬼瓦が置かれています。





<由緒>
(説明板)
「由緒 祭神 菅原道真公
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。
このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九○三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。
その後、徳川第三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災焼失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。」

<鳴子ウリ>
(説明板)
「江戸・東京の農業 鳴子ウリ
成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。
記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615〜24)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。
マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。
元禄11年(1698)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。
鳴子ウリは長さ四寸(12cm)で、太さは元で一尺八寸(約5.4cm)、末で二寸(6cm)あまりの小型のウリで、外観は緑色で表面に細い緑のすじがあり、熟すと甘い香りとともに黄色く色づく。果肉は緑色で甘味に富んで、当時は甘い物が少なかったので水菓子として貴重な野菜でした。
平成9年JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年事業」

<楼門>
楼門には風神・雷神さまがおられます。



<撫牛/狛犬>
境内に入ると撫牛がお出迎え。次に狛犬(文政13(1830)年)。



<水神社>
井戸には三柱鳥居がかけられています。


<力石> 新宿区文化財
7個の力石があります。新宿区指定有形民俗文化財です。

(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
成子天神社の力石
所在地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
指定年月日 昭和六十一年八月一日
力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。
七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約一五〇キログラム)から五十八貫余(約二一八キログラム)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。
製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。
平成二十六年十二月 新宿区教育委員会」

<社殿>
「菅公一千年祭擧行之碑」と社殿。



<西参道>
表参道の反対側には西参道。西参道から入ってすぐ右手に成子富士塚があります。

<成子富士> 新宿区文化財
(説明板)
「新宿区登録文化財 史跡
成子天神社の富士塚
所 在 地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
登録年月日 平成ニ年六月一日
大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。
平成二十六年十ニ月 新宿区教育委員会」




浅間神社には、東日本大震災までは山頂に建っていた木花咲耶姫命の像。
富士塚入口右手に「成子富士浅間神社竣立記念碑」



中腹には浅間神社の小祠があります。山頂には子ども等は登頂禁止。山頂に小祠。




頂上から、夫婦公孫樹の雄木と社殿を見たところ。富士塚は12mの高さがあり、大きな塚です。


<湯殿山>
成子富士塚の麓に「湯殿山碑」があります。湯殿山単独の碑です。
福島や栃木では湯殿山単独は一般的ですが、都内では珍しい。



「江戸切絵図」
江戸切絵図に「天満宮」と描かれています。近隣には「十二社権現」があります。

<表参道>
表参道から参内です。
参道途中には扁額と鬼瓦が置かれています。





<由緒>
(説明板)
「由緒 祭神 菅原道真公
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。
このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九○三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。
その後、徳川第三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災焼失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。」

<鳴子ウリ>
(説明板)
「江戸・東京の農業 鳴子ウリ
成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。
記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615〜24)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。
マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。
元禄11年(1698)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。
鳴子ウリは長さ四寸(12cm)で、太さは元で一尺八寸(約5.4cm)、末で二寸(6cm)あまりの小型のウリで、外観は緑色で表面に細い緑のすじがあり、熟すと甘い香りとともに黄色く色づく。果肉は緑色で甘味に富んで、当時は甘い物が少なかったので水菓子として貴重な野菜でした。
平成9年JA東京グループ
農業協同組合法施行五十周年事業」

<楼門>
楼門には風神・雷神さまがおられます。



<撫牛/狛犬>
境内に入ると撫牛がお出迎え。次に狛犬(文政13(1830)年)。



<水神社>
井戸には三柱鳥居がかけられています。


<力石> 新宿区文化財
7個の力石があります。新宿区指定有形民俗文化財です。

(説明板)
「新宿区指定有形民俗文化財
成子天神社の力石
所在地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
指定年月日 昭和六十一年八月一日
力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。
七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約一五〇キログラム)から五十八貫余(約二一八キログラム)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。
製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。
平成二十六年十二月 新宿区教育委員会」

<社殿>
「菅公一千年祭擧行之碑」と社殿。



<西参道>
表参道の反対側には西参道。西参道から入ってすぐ右手に成子富士塚があります。

<成子富士> 新宿区文化財
(説明板)
「新宿区登録文化財 史跡
成子天神社の富士塚
所 在 地 新宿区西新宿八丁目十四番十号
登録年月日 平成ニ年六月一日
大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。
平成二十六年十ニ月 新宿区教育委員会」




浅間神社には、東日本大震災までは山頂に建っていた木花咲耶姫命の像。
富士塚入口右手に「成子富士浅間神社竣立記念碑」



中腹には浅間神社の小祠があります。山頂には子ども等は登頂禁止。山頂に小祠。




頂上から、夫婦公孫樹の雄木と社殿を見たところ。富士塚は12mの高さがあり、大きな塚です。


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