長命寺④ 石燈籠と十三仏 閻魔十王 大猷院
長命寺④(①②③のうち)
○石燈籠と十三仏
<奉献石燈籠>
正面「奉献石燈籠」「武州谷原村」「大猷院殿 尊前」
慶安5(1652)年4月20日の造立です。
江戸名所図会に描かれており、当初からここにある燈籠と十三仏です。
3代将軍徳川家光を弔っていることと思います。






「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「江戸近郊道しるべ」に掲載されている「長命寺碑」には、「大猷院殿 石トウロウ」が記されています。


〇閻魔十王/身代わり閻魔
<閻魔十王>
五重塔の手前に閻魔大王が2基、こちらの五重塔と東に見える五重塔の間に閻魔大王が8基、全部で十基の閻魔大王の像が並びます。




<身代わり閻魔>
背中には、承応3(1654)年の銘が刻まれています。


○大猷院殿台霊供養塔
大猷院(徳川家光)の一周忌に増島重俊が建てています。
石碑「徳川家光公供養塔」(慶安5(1652)年4月20日)があり、
その先に「大猷院殿台霊供養塔」。
台石には「大猷院殿贈正一位大相國 慶安五年四月廿日敬白」と刻まれています。







○台徳院殿尊前
本堂の裏手に、「奉拜進」「台徳院殿尊前」(2代将軍秀忠)と刻まれた石塔があります。
上半分が損失しているかと思います。詳細不詳。






○石燈籠と十三仏
<奉献石燈籠>
正面「奉献石燈籠」「武州谷原村」「大猷院殿 尊前」
慶安5(1652)年4月20日の造立です。
江戸名所図会に描かれており、当初からここにある燈籠と十三仏です。
3代将軍徳川家光を弔っていることと思います。






「江戸近郊道しるべ」(村尾嘉陵)
「江戸近郊道しるべ」に掲載されている「長命寺碑」には、「大猷院殿 石トウロウ」が記されています。


〇閻魔十王/身代わり閻魔
<閻魔十王>
五重塔の手前に閻魔大王が2基、こちらの五重塔と東に見える五重塔の間に閻魔大王が8基、全部で十基の閻魔大王の像が並びます。




<身代わり閻魔>
背中には、承応3(1654)年の銘が刻まれています。


○大猷院殿台霊供養塔
大猷院(徳川家光)の一周忌に増島重俊が建てています。
石碑「徳川家光公供養塔」(慶安5(1652)年4月20日)があり、
その先に「大猷院殿台霊供養塔」。
台石には「大猷院殿贈正一位大相國 慶安五年四月廿日敬白」と刻まれています。







○台徳院殿尊前
本堂の裏手に、「奉拜進」「台徳院殿尊前」(2代将軍秀忠)と刻まれた石塔があります。
上半分が損失しているかと思います。詳細不詳。






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長命寺③ 御影堂/観音堂
長命寺③(①②④のうち)
〇御影堂(大師堂)
奥之院の御影堂の扉には、見事な彫刻が施されています。
階段下にも奉納物があります。







○観音堂






○参道両脇の奉献石燈籠
6代将軍徳川家宣と7代将軍徳川家継の奉献石燈籠がそれぞれ1基地あります。
<奉献石燈籠(有章院殿尊前)>左手
「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍徳川家継)
「従五位下~」
正徳6(1716)年の造立です。




<奉献石燈籠(文昭院殿尊前)>右手
「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
正徳2(1712)年10月14日の造立です。
「肥後國球麻城主 従五位下近江守藤原姓相良頼以」
相良頼以は人吉藩5代藩主。球麻城は人吉城の別名です。





<三鈷の松>
観音堂の傍に立つ「三鈷の松」



〇御影堂(大師堂)
奥之院の御影堂の扉には、見事な彫刻が施されています。
階段下にも奉納物があります。







○観音堂






○参道両脇の奉献石燈籠
6代将軍徳川家宣と7代将軍徳川家継の奉献石燈籠がそれぞれ1基地あります。
<奉献石燈籠(有章院殿尊前)>左手
「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍徳川家継)
「従五位下~」
正徳6(1716)年の造立です。




<奉献石燈籠(文昭院殿尊前)>右手
「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
正徳2(1712)年10月14日の造立です。
「肥後國球麻城主 従五位下近江守藤原姓相良頼以」
相良頼以は人吉藩5代藩主。球麻城は人吉城の別名です。





<三鈷の松>
観音堂の傍に立つ「三鈷の松」



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tag : 奉献石燈籠
長命寺② 奥之院参道
長命寺②(①③④のうち)
〇奥之院(東京都指定史跡)
(説明板)
「東京都指定史跡
東高野山奥之院 所在地 練馬区高野台二ー一○ー三
指 定 昭和三一年三月三日
長命寺は、縁記等によれば、小田原北条氏の臣であった増島重明が北条氏没落後隠棲し、慶算と号し高野山へ登り木食修行において弘法大師の木像を感得し、谷原に一院を営んだのを初めとします。重明の家督を継いだ増島重俊が、慶算阿闍梨の志を継いで、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造し、長谷寺小池坊の僧正秀算が長命寺と命名したものです。
奥之院は重俊が慶算の志を継ぎ、紀州高野山の弘法大師入定の地勢を模して整備したものです。御廟橋から奥之院(大師堂)に通ずる沿道の両側には多数の供養塔・灯籠・六地蔵尊・宝儀印塔・五百羅漢・水盤・姿見井戸などが配列されています。このように紀州高野山を模して造られたので東高野山と呼ばれています。この奥之院は規模等において高野山奥之院を凝縮したものですが、霊場にふさわしい雰囲気となっています。
長命寺は、たびたび火災にあり、多くの堂宇は明治以降の再建ですが、区内最古とされる梵鐘(慶安三年銘)や、芝居絵馬や石像などの多くの文化財が残されています。
平成二二年三月 建設 東京都教育委員会 」


<奥之院への参道>
奥之院への参道は、御廟橋を渡る参道と石燈籠が並ぶ参道の2つがあります。
江戸名所図会では、御廟橋を渡る参道のみ描かれていて、石燈籠が並ぶ現在の参道は、御影堂と観音堂を結ぶ回廊が描かれています。
<奥の院参道入り口(御廟橋経由)>
奥の院参道入口左手前に「右 東高野山道」と刻まれた道標が、右手前に「東かうや山おくのいん入口」と刻まれた石塔が建っています。



<出羽三山等供養塔>
参道の左側に立ち並ぶ三十数基のさまざまな石塔の中に、出羽三山供養塔があります。





正面「月山 湯殿山 羽黒山 四國 西國 秩父 坂東 拜禮供養塔」
天保3(1832)年の造立です。
右側面に願主、谷原村の個人です。






<出羽三山百番供養塔>
御廟橋の手前左手に3基の石塔があり、1基が出羽三山供養塔です。
正面「月山 湯殿山 羽黒 秩父 西國 坂東 百番順禮供養塔」
右側面「先祖代々一切聖霊為菩提」
正面台石「依田」
左側面 文化15(1818)年造立です。施主は江戸牛込横寺町の個人。







<右手の石塔>
参道入ってすぐの右手の石塔。

<御廟橋(みみょう)>
御廟橋の右手に石碑があります。嘉永7(1854)年の修復です。
御廟橋「みめ卯の者し」の振り仮名。北八講中。




(横から)

(振り返ってみたところ)

<石橋敷石供養>
橋の左手に石碑「石橋敷石供養」があります。
享和元(1801)年11月と刻まれています。
御廟橋を指すのか別の場所にあった石碑の移設なのか不詳。



〇霊場域
御廟橋を渡ると「霊場域」である奥之院です。
両側に六地蔵、、十基の宝篋印塔、三対の石燈籠。その後ろにも墓地が和に石塔が並んでいます






振り返って見たところです。
参道の最後に三対の石燈籠、その先に十基の宝篋印塔、その先に六地蔵が並んでいます。


<石燈籠>
「武州豊嶋郡谷原村」
「奉献石燈籠二基」(増上寺の燈籠は両基と銘されます)
「慶安五年~」
施主は増島八郎右衛門重俊と刻まれています。
増上寺からの移設燈籠が多い中、江戸名所図会にも描かれている当初から設置されている燈籠です。






<庚申供養塔>
橋越えて参道右手に5基の石塔が並びます。
道標を兼ねた庚申塔。安永5(1776)造立。
右側面「右 田中道」
左側面「左 石神井みち」


参道左手に庚申塔。元禄8(1695)年。

<辞世の句碑>
文久2年建立の辞世句碑。詳細不詳。

<双体道祖神>
不詳。

<姿見ノ井戸>
(説明石板)
「長命寺は江戸府内の十七番の大師霊場で四国十七番井戸寺とは関係が深く昔からこの井戸の水に顔が写れば長生きすると伝えられている」




枯れているのだろうと思いつつ、一応のぞいてみると、深いところで小さくなった水面に空が反射しています。

○奥之院参道の奉献石燈籠
こちらの参道は、江戸名所図会には描かれていない後からの参道です。
参道左手に立派な石燈籠1基。昭和54年に増島氏による奉納。
その石燈籠の後方に、浄徳院殿(綱吉嫡男徳松)墓碑があります。
参道の両脇には、元々増上寺霊廟にあった江戸時代の4対の石燈籠が並びます。
2対4基は「有章院殿尊前」、2対4基は「文昭院殿尊前」の奉献石燈籠です。
(正面から)

(反対側から)

<1組目>
・左の奉献石灯籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
「従五位下~守~」
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。





・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
「従五位下駿河守藤原姓新庄氏直祐」
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。




<2組目>
・左の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
「従五位下本庄宮内少輔藤原道章」
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。
この燈籠は燃えていないようです。
刻まれた文字もしっかりしており、奉献者もしっかりと読み取れます。




・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
奉献者は、刻部分の損傷激しく読み取れず。
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。



<3組目>
・左の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
「従五位下~以下読み取れず」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。



・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州三緑山」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
この燈籠は「三緑山」と刻まれています。三緑山とは増上寺です。
「従五位下松平但馬守源友著」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。
保存状態の良い燈籠です。




<4組目>
・左の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
「信州小諸城主 従五位下牧野周防守康重」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。




・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠○○」「武州増上」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
「従五位下~」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。




<浄徳院殿(綱吉嫡男徳松)墓碑>
4対の燈籠の手前左手に、徳川綱吉嫡男徳松の墓碑があります。
墓碑は下半分だけで上半分が失われています(上半分には他の石碑が載っています)。
増上寺支院岳蓮社にあった墓所・墓碑ですが、昭和33年に、徳松墓所は増上寺の合祀塔へ改葬されています。
こちらの墓碑には「浄徳院殿霊岳崇心 大童子 神儀」と刻まれ、天和3(1683)年5月28日の銘です。
また、「従増上寺境内~」と刻まれています。
徳松は2歳で家督を継いで舘林藩主となり、5歳で夭逝しています。
「七五三」の祝いは、天和元(1681)年11月15日に徳松の健康を願ったのが始まりだとされています。







<千壽観世音>


<十二日講引導者像>


〇奥之院(東京都指定史跡)
(説明板)
「東京都指定史跡
東高野山奥之院 所在地 練馬区高野台二ー一○ー三
指 定 昭和三一年三月三日
長命寺は、縁記等によれば、小田原北条氏の臣であった増島重明が北条氏没落後隠棲し、慶算と号し高野山へ登り木食修行において弘法大師の木像を感得し、谷原に一院を営んだのを初めとします。重明の家督を継いだ増島重俊が、慶算阿闍梨の志を継いで、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造し、長谷寺小池坊の僧正秀算が長命寺と命名したものです。
奥之院は重俊が慶算の志を継ぎ、紀州高野山の弘法大師入定の地勢を模して整備したものです。御廟橋から奥之院(大師堂)に通ずる沿道の両側には多数の供養塔・灯籠・六地蔵尊・宝儀印塔・五百羅漢・水盤・姿見井戸などが配列されています。このように紀州高野山を模して造られたので東高野山と呼ばれています。この奥之院は規模等において高野山奥之院を凝縮したものですが、霊場にふさわしい雰囲気となっています。
長命寺は、たびたび火災にあり、多くの堂宇は明治以降の再建ですが、区内最古とされる梵鐘(慶安三年銘)や、芝居絵馬や石像などの多くの文化財が残されています。
平成二二年三月 建設 東京都教育委員会 」


<奥之院への参道>
奥之院への参道は、御廟橋を渡る参道と石燈籠が並ぶ参道の2つがあります。
江戸名所図会では、御廟橋を渡る参道のみ描かれていて、石燈籠が並ぶ現在の参道は、御影堂と観音堂を結ぶ回廊が描かれています。
<奥の院参道入り口(御廟橋経由)>
奥の院参道入口左手前に「右 東高野山道」と刻まれた道標が、右手前に「東かうや山おくのいん入口」と刻まれた石塔が建っています。



<出羽三山等供養塔>
参道の左側に立ち並ぶ三十数基のさまざまな石塔の中に、出羽三山供養塔があります。





正面「月山 湯殿山 羽黒山 四國 西國 秩父 坂東 拜禮供養塔」
天保3(1832)年の造立です。
右側面に願主、谷原村の個人です。






<出羽三山百番供養塔>
御廟橋の手前左手に3基の石塔があり、1基が出羽三山供養塔です。
正面「月山 湯殿山 羽黒 秩父 西國 坂東 百番順禮供養塔」
右側面「先祖代々一切聖霊為菩提」
正面台石「依田」
左側面 文化15(1818)年造立です。施主は江戸牛込横寺町の個人。







<右手の石塔>
参道入ってすぐの右手の石塔。

<御廟橋(みみょう)>
御廟橋の右手に石碑があります。嘉永7(1854)年の修復です。
御廟橋「みめ卯の者し」の振り仮名。北八講中。




(横から)

(振り返ってみたところ)

<石橋敷石供養>
橋の左手に石碑「石橋敷石供養」があります。
享和元(1801)年11月と刻まれています。
御廟橋を指すのか別の場所にあった石碑の移設なのか不詳。



〇霊場域
御廟橋を渡ると「霊場域」である奥之院です。
両側に六地蔵、、十基の宝篋印塔、三対の石燈籠。その後ろにも墓地が和に石塔が並んでいます






振り返って見たところです。
参道の最後に三対の石燈籠、その先に十基の宝篋印塔、その先に六地蔵が並んでいます。


<石燈籠>
「武州豊嶋郡谷原村」
「奉献石燈籠二基」(増上寺の燈籠は両基と銘されます)
「慶安五年~」
施主は増島八郎右衛門重俊と刻まれています。
増上寺からの移設燈籠が多い中、江戸名所図会にも描かれている当初から設置されている燈籠です。






<庚申供養塔>
橋越えて参道右手に5基の石塔が並びます。
道標を兼ねた庚申塔。安永5(1776)造立。
右側面「右 田中道」
左側面「左 石神井みち」


参道左手に庚申塔。元禄8(1695)年。

<辞世の句碑>
文久2年建立の辞世句碑。詳細不詳。

<双体道祖神>
不詳。

<姿見ノ井戸>
(説明石板)
「長命寺は江戸府内の十七番の大師霊場で四国十七番井戸寺とは関係が深く昔からこの井戸の水に顔が写れば長生きすると伝えられている」




枯れているのだろうと思いつつ、一応のぞいてみると、深いところで小さくなった水面に空が反射しています。

○奥之院参道の奉献石燈籠
こちらの参道は、江戸名所図会には描かれていない後からの参道です。
参道左手に立派な石燈籠1基。昭和54年に増島氏による奉納。
その石燈籠の後方に、浄徳院殿(綱吉嫡男徳松)墓碑があります。
参道の両脇には、元々増上寺霊廟にあった江戸時代の4対の石燈籠が並びます。
2対4基は「有章院殿尊前」、2対4基は「文昭院殿尊前」の奉献石燈籠です。
(正面から)

(反対側から)

<1組目>
・左の奉献石灯籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
「従五位下~守~」
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。





・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
「従五位下駿河守藤原姓新庄氏直祐」
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。




<2組目>
・左の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
「従五位下本庄宮内少輔藤原道章」
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。
この燈籠は燃えていないようです。
刻まれた文字もしっかりしており、奉献者もしっかりと読み取れます。




・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「有章院殿 尊前」(7代将軍家継)
奉献者は、刻部分の損傷激しく読み取れず。
正徳6(1716)年4月晦日の造立です。



<3組目>
・左の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
「従五位下~以下読み取れず」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。



・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州三緑山」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
この燈籠は「三緑山」と刻まれています。三緑山とは増上寺です。
「従五位下松平但馬守源友著」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。
保存状態の良い燈籠です。




<4組目>
・左の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠一基」「武州増上寺」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
「信州小諸城主 従五位下牧野周防守康重」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。




・右の奉献石燈籠
正面「奉献石燈籠○○」「武州増上」
「文昭院殿 尊前」(6代将軍徳川家宣)
「従五位下~」
正徳2(1712)年10月14日の造立です。




<浄徳院殿(綱吉嫡男徳松)墓碑>
4対の燈籠の手前左手に、徳川綱吉嫡男徳松の墓碑があります。
墓碑は下半分だけで上半分が失われています(上半分には他の石碑が載っています)。
増上寺支院岳蓮社にあった墓所・墓碑ですが、昭和33年に、徳松墓所は増上寺の合祀塔へ改葬されています。
こちらの墓碑には「浄徳院殿霊岳崇心 大童子 神儀」と刻まれ、天和3(1683)年5月28日の銘です。
また、「従増上寺境内~」と刻まれています。
徳松は2歳で家督を継いで舘林藩主となり、5歳で夭逝しています。
「七五三」の祝いは、天和元(1681)年11月15日に徳松の健康を願ったのが始まりだとされています。







<千壽観世音>


<十二日講引導者像>


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
長命寺① 南大門/仁王門 東参道 境内 本堂
〇東高野山 長命寺 練馬区高野台3-10-3
長命寺①(②③④のうち)
長命寺は、慶長18(1613)年に後北条氏の一族である増島重明(出家して慶算阿闍梨)によって弘法大師像を祀る庵を作ったのが始まりといわれています。重明の家督を継いだ増島重俊が、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造しました。
高野山奥の院を模して多くの石仏・石塔が作られており、「東高野山」とも称されます。江戸名所図会にも描かれています。
また、徳川家霊廟にあった石燈籠等が、確認できただけでも17基もありました。
2度行きましたが、石碑や燈籠の裏の記銘まで見ていくと蚊の絶好の攻撃対象となり、長袖を着ましたが、顔面マスクの周りを蚊に何カ所も刺されました。吊り下げ蚊取線香を買おうと思いました。
出羽三山供養塔は2基ありました。松尾芭蕉と水原秋櫻子の句碑がありました。他にも諸々多数。
<高野山>
高野山に昔行った時は、写真を撮っておらず、その時入手した写真集「霊場高野山」(高野町発行)の 「奥之院参道」と「御廟橋と奥之院」の写真の抜粋です。
本場は木々の太さが半端無かったです。



<江戸名所図会>
「練馬長命寺 新高野又ハ東高野山ともいへり」

(スポットを江戸名所図会より抜粋・拡大)
<本堂/東門>

<観音堂>

<奥之院参道>

<御廟橋>

<大師堂/石佛>

<長命寺の石燈籠など>
長命寺には、石燈籠が、文昭院7基、有章院5基、台徳院2基、大猷院1基、桂昌院1基ありました。
さらに大猷院供養塔1基、「台徳院殿尊前」と刻まれた半壊石塔1基、浄徳院(綱吉の長男徳松殿)の半壊墓碑があり、16基+3基=19基(大猷院2基は谷和原村、17基が増上寺境内からの移設)もあり意外でした。
<石燈籠の経緯>
明治となり、徳川氏の所領は明治政府の収めるところとなりましたが、明治2年、徳川氏の祖先の廟墓の地は、徳川宗家に返還されました。
戦後、徳川家は芝の霊廟を西武に売却、霊廟内の遺体は、1カ所にまとめて増上寺に改葬されました。
多かった時期は1000基あった燈籠は、西武球場建設予定地に集められ、西武第二球場建設に伴い、各地の寺院などへ譲渡されました。
○南大門/仁王門から本堂
<南大門>
正面に広目天と増長天、後面に持国天と多聞天。
南大門から正面の本堂まで、広くて長い参道が続きます。









<南大門の裏>





<仁王門>
仁王門は寛文年間築で、練馬区指定有形文化財。多くのワラジが奉納されています。




<奉献石燈籠(桂昌院殿)一基>
仁王門の近くに石燈籠があります。
「桂昌院殿 尊前」
「増上寺」に「大和守吉田城主久世重之」が奉献。
宝永2(1705)年6月22日の銘。
燃え跡がありません。葵の紋に朱色が残っています。






○東参道から本堂へ
笹目通りに面して、東参道が続きます。




<弘法大師供養塔>
正面「弘法大師」左側面は道標になっています。
「左 しゃくじい 三宝寺」

<井戸/力石>
井戸と力石があります。



<奉献石燈籠(文昭院殿)>
東参道の終端に一対の大きな石灯籠があります。
両基とも「文昭院殿尊前」(徳川6代将軍家宣)石燈籠。
正徳2(1712)年10月14日の造立です。


左側の石燈籠
右側「奉獻石燈籠 一基」「武州 増上寺」
中央「文昭院殿 尊前」
左側「従五位下源姓井上氏~(筑後守政蔽と思います)」




右側の石燈籠
右側「奉獻石燈籠 一基」「武州 増上寺」
中央「文昭院殿 尊前」
左側「従五位下久留嶋伊豫守越智通政」





<奉拜進石燈籠(台徳院殿)>
東参道裏手、本坊に台徳院殿の石燈籠が2基あります。
「奉拜進」
「台徳院殿 尊前」
寛永9年7月24日の造立です。
両基とも、火袋が新しいので、継ぎ足されているのでしょう。
(右手)






(左手)
脇には力石があります。





<板碑>
板碑がズラリと並んでいます。
一基ずつ確認は全くしていませんが、年代によっては価値ある碑かも?

<浅草 光明講 紀念>
燈籠を越えると、「浅草 光明講紀念 大正拾年九月建之」の大きな碑。
光明講の碑は、埼玉でもよく見かけます。

<三界萬霊>
燈籠を越え、参道終わった左手に、大きな三界萬霊の塔があります。
仁王門から入ると参道上にあります。

〇境内
<永楽講>
仁王門をくぐると右手に永楽講の巨碑があります。



<梵鐘>
参道右手に鐘楼があり、周りに「十三佛の功徳」。
梵鐘は慶安3(1650)年の作です。
鐘楼の奉納石板にも永楽講が刻まれています。
奉納者多数、新吉原菊すしの名前も。





<台石>
台石がこの他にも多く転がっています。


<弘法大師御遠忌供養塔/大師像>
参道左手に弘法大師千百五十年御遠忌供養塔と大師像。

<子育て地蔵>
参道左手というか車道沿いに子育て地蔵。
裏手の窪みに祠があります。


<木遣塚>
参道左手に「木遣塚」と、その先奥之院入口横に「木遣地藏堂」があります。


<阿弥陀如来立像>
本堂正面に阿弥陀如来立像。台石に三界萬霊と刻まれています。



<狛犬>
香炉の上に狛犬がいます。

<奉納三波石 増島保平>
三波石が石碑としてあちこちで用いられています。
ひときわ大きな三波石が奉納されています。


<水原秋桜子の歌碑>
本堂の右手に水原秋桜子の歌碑があります。
「木々ぬらし石うかちつひに春の海 秋桜子」


<芭蕉の句碑>
本堂の左手に芭蕉句碑があります。
「芭蕉 父母のしきりにこひし雉子の聲」
安政6(1859)年3月の建立です。




<弘法大師供養塔>
奥之院入口の脇にお大きな弘法大師供養塔。
「弘法大師」「成田山「新栄講」と刻まれています。

<木遣地藏堂(六角堂)>
江戸消防記念会の第一区が建立、修復。
修復工事の説明板が、昭和46年、平成30年とあります。
新しい趣意書が掲げられています。
「木遣地藏堂修復工事趣意書 江戸消防記念会 第一區 平成三十年十月吉日」





<本堂(金堂)>



大きな手水石と寺紋の手水石、雨水桶は東京都浅草大日堂講納です。




(説明板)
「 長命寺
東高野山(旧谷原山)妙楽院長命寺は、真言宗豊山派の寺です。
慶長十八年(一六一三)後北条氏の一族である増島重明(慶算)が一院を開き、その志を継いで、弟の子、重俊が諸堂を建立、寛永十七年(一六四○)に大和(奈良県)長谷寺の秀算により「長命密寺」と号しました。
寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より九石五斗の御朱印を受け、府内八十八か所十七番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となりました。
●東京都指定文化財・練馬区登録文化財
「東高野山奥之院」境内西北部の霊場域
「板絵着色役者絵(双蝶々曲輪日記絵馬・鳥居清長画)」江戸時代(文化十一年/一八一四頃)
●練馬区指定文化財
「長命寺仁王門」江戸時代(十七世紀後半)
「長命寺の梵鐘」江戸時代(慶安三年/一六五○銘)
●練馬区登録文化財
「牛若丸・弁慶絵図」江戸時代
平成十二年十二月 練馬区教育委員会 」

長命寺①(②③④のうち)
長命寺は、慶長18(1613)年に後北条氏の一族である増島重明(出家して慶算阿闍梨)によって弘法大師像を祀る庵を作ったのが始まりといわれています。重明の家督を継いだ増島重俊が、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造しました。
高野山奥の院を模して多くの石仏・石塔が作られており、「東高野山」とも称されます。江戸名所図会にも描かれています。
また、徳川家霊廟にあった石燈籠等が、確認できただけでも17基もありました。
2度行きましたが、石碑や燈籠の裏の記銘まで見ていくと蚊の絶好の攻撃対象となり、長袖を着ましたが、顔面マスクの周りを蚊に何カ所も刺されました。吊り下げ蚊取線香を買おうと思いました。
出羽三山供養塔は2基ありました。松尾芭蕉と水原秋櫻子の句碑がありました。他にも諸々多数。
<高野山>
高野山に昔行った時は、写真を撮っておらず、その時入手した写真集「霊場高野山」(高野町発行)の 「奥之院参道」と「御廟橋と奥之院」の写真の抜粋です。
本場は木々の太さが半端無かったです。



<江戸名所図会>
「練馬長命寺 新高野又ハ東高野山ともいへり」

(スポットを江戸名所図会より抜粋・拡大)
<本堂/東門>

<観音堂>

<奥之院参道>

<御廟橋>

<大師堂/石佛>

<長命寺の石燈籠など>
長命寺には、石燈籠が、文昭院7基、有章院5基、台徳院2基、大猷院1基、桂昌院1基ありました。
さらに大猷院供養塔1基、「台徳院殿尊前」と刻まれた半壊石塔1基、浄徳院(綱吉の長男徳松殿)の半壊墓碑があり、16基+3基=19基(大猷院2基は谷和原村、17基が増上寺境内からの移設)もあり意外でした。
<石燈籠の経緯>
明治となり、徳川氏の所領は明治政府の収めるところとなりましたが、明治2年、徳川氏の祖先の廟墓の地は、徳川宗家に返還されました。
戦後、徳川家は芝の霊廟を西武に売却、霊廟内の遺体は、1カ所にまとめて増上寺に改葬されました。
多かった時期は1000基あった燈籠は、西武球場建設予定地に集められ、西武第二球場建設に伴い、各地の寺院などへ譲渡されました。
○南大門/仁王門から本堂
<南大門>
正面に広目天と増長天、後面に持国天と多聞天。
南大門から正面の本堂まで、広くて長い参道が続きます。









<南大門の裏>





<仁王門>
仁王門は寛文年間築で、練馬区指定有形文化財。多くのワラジが奉納されています。




<奉献石燈籠(桂昌院殿)一基>
仁王門の近くに石燈籠があります。
「桂昌院殿 尊前」
「増上寺」に「大和守吉田城主久世重之」が奉献。
宝永2(1705)年6月22日の銘。
燃え跡がありません。葵の紋に朱色が残っています。






○東参道から本堂へ
笹目通りに面して、東参道が続きます。




<弘法大師供養塔>
正面「弘法大師」左側面は道標になっています。
「左 しゃくじい 三宝寺」

<井戸/力石>
井戸と力石があります。



<奉献石燈籠(文昭院殿)>
東参道の終端に一対の大きな石灯籠があります。
両基とも「文昭院殿尊前」(徳川6代将軍家宣)石燈籠。
正徳2(1712)年10月14日の造立です。


左側の石燈籠
右側「奉獻石燈籠 一基」「武州 増上寺」
中央「文昭院殿 尊前」
左側「従五位下源姓井上氏~(筑後守政蔽と思います)」




右側の石燈籠
右側「奉獻石燈籠 一基」「武州 増上寺」
中央「文昭院殿 尊前」
左側「従五位下久留嶋伊豫守越智通政」





<奉拜進石燈籠(台徳院殿)>
東参道裏手、本坊に台徳院殿の石燈籠が2基あります。
「奉拜進」
「台徳院殿 尊前」
寛永9年7月24日の造立です。
両基とも、火袋が新しいので、継ぎ足されているのでしょう。
(右手)






(左手)
脇には力石があります。





<板碑>
板碑がズラリと並んでいます。
一基ずつ確認は全くしていませんが、年代によっては価値ある碑かも?

<浅草 光明講 紀念>
燈籠を越えると、「浅草 光明講紀念 大正拾年九月建之」の大きな碑。
光明講の碑は、埼玉でもよく見かけます。

<三界萬霊>
燈籠を越え、参道終わった左手に、大きな三界萬霊の塔があります。
仁王門から入ると参道上にあります。

〇境内
<永楽講>
仁王門をくぐると右手に永楽講の巨碑があります。



<梵鐘>
参道右手に鐘楼があり、周りに「十三佛の功徳」。
梵鐘は慶安3(1650)年の作です。
鐘楼の奉納石板にも永楽講が刻まれています。
奉納者多数、新吉原菊すしの名前も。





<台石>
台石がこの他にも多く転がっています。



<弘法大師御遠忌供養塔/大師像>
参道左手に弘法大師千百五十年御遠忌供養塔と大師像。

<子育て地蔵>
参道左手というか車道沿いに子育て地蔵。
裏手の窪みに祠があります。


<木遣塚>
参道左手に「木遣塚」と、その先奥之院入口横に「木遣地藏堂」があります。


<阿弥陀如来立像>
本堂正面に阿弥陀如来立像。台石に三界萬霊と刻まれています。



<狛犬>
香炉の上に狛犬がいます。

<奉納三波石 増島保平>
三波石が石碑としてあちこちで用いられています。
ひときわ大きな三波石が奉納されています。


<水原秋桜子の歌碑>
本堂の右手に水原秋桜子の歌碑があります。
「木々ぬらし石うかちつひに春の海 秋桜子」


<芭蕉の句碑>
本堂の左手に芭蕉句碑があります。
「芭蕉 父母のしきりにこひし雉子の聲」
安政6(1859)年3月の建立です。




<弘法大師供養塔>
奥之院入口の脇にお大きな弘法大師供養塔。
「弘法大師」「成田山「新栄講」と刻まれています。

<木遣地藏堂(六角堂)>
江戸消防記念会の第一区が建立、修復。
修復工事の説明板が、昭和46年、平成30年とあります。
新しい趣意書が掲げられています。
「木遣地藏堂修復工事趣意書 江戸消防記念会 第一區 平成三十年十月吉日」





<本堂(金堂)>



大きな手水石と寺紋の手水石、雨水桶は東京都浅草大日堂講納です。




(説明板)
「 長命寺
東高野山(旧谷原山)妙楽院長命寺は、真言宗豊山派の寺です。
慶長十八年(一六一三)後北条氏の一族である増島重明(慶算)が一院を開き、その志を継いで、弟の子、重俊が諸堂を建立、寛永十七年(一六四○)に大和(奈良県)長谷寺の秀算により「長命密寺」と号しました。
寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より九石五斗の御朱印を受け、府内八十八か所十七番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となりました。
●東京都指定文化財・練馬区登録文化財
「東高野山奥之院」境内西北部の霊場域
「板絵着色役者絵(双蝶々曲輪日記絵馬・鳥居清長画)」江戸時代(文化十一年/一八一四頃)
●練馬区指定文化財
「長命寺仁王門」江戸時代(十七世紀後半)
「長命寺の梵鐘」江戸時代(慶安三年/一六五○銘)
●練馬区登録文化財
「牛若丸・弁慶絵図」江戸時代
平成十二年十二月 練馬区教育委員会 」

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
金乗院
〇金乗院 練馬区錦2-4-28






(説明板)
「金乗院
金乗院は、如意山金乗院萬徳寺といい、真言宗豊山派の寺院で本尊は愛染明王です。(豊島八十八ヶ所霊場第三十二番札所)『新編武蔵風土記稿』によると、開山僧は行栄、開基は木下大炊介とされ、寺の沿革によれば、御行栄が文禄年間(一五九二?六)に開いたと記されています。
墓地には下練馬村名主であった内田家や木下家の墓があります。
●練馬区指定有形文化財
「金乗院の御朱印状」平成九年(一九九七)三月登録
平成十四年(二○○二)二月指定
慶安二年(一六四九)の三代将軍家光から万延元年(一八六○)十四代家茂まで代替わりごとに将軍が寺領十八石九斗余を安堵した御朱印状九点です。(非公開)
●練馬区登録有形文化財
「金乗院山門」平成三一年(二○一九)二月登録
築後百年以上は経過していると考えられます。形式は薬医門、屋年は切妻造りで、桟瓦葺きです。区内に残る門では古く、梁などの装飾に江戸時代後期の特徴が残されています。
●練馬区登録天然記念物
「金乗院の大イチョウ」平成二四年(二○一二)一月登録
本堂前に生育する高さ一八m、目通り幹囲五m(区内最大)。
三代将軍家光のお手植えと伝えられているイチョウです。
令和元年(二○一九)十月 練馬区教育委員会 」

<巡礼供養塔>
墓地入口の両脇に出羽三山等巡礼供養塔が2基あります。

入口右:
観音菩薩坐像を乗せた巡礼供養塔です。文化8(1811)年。
正面「奉供養 月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東百番 為二世安樂也」
左側面「上板橋村」






入口左:
観音菩薩坐像を乗せた巡礼供養塔です。弘化2(1845)年。
正面「奉順礼 月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 新四國 八拾八ヶ所 百八拾八ヶ所供養塔」
左側面「南無大師遍照金剛 法界平等利益」。
台石の正面「上板橋村小竹」「二世為安樂也」





<三代将軍家光御朱印状碑>


<一石六地蔵尊> 練馬区指定登録文化財(平成5年)


<弘法大師線刻>


<奉納金三拾両>
30円ではなく、三拾両と刻まれている古い奉納碑。

<大イチョウ>
(説明板)
「 金乗院の大イチョウ 平成24年1月登録
本堂前に生育する高さ18m、目通り幹囲5m(区内最大)、3代将軍家光のお手植えと伝えられているイチョウです。
平成24年3月 練馬区教育委員会 」



<大師堂ほか>




<不動明王/地蔵菩薩3体>




<人形供養塔>
駐車場にポツンとある「人形供養塔」
昭和30年12月、くるみ幼稚園一同。



<下練馬道>
(説明板)
「 下練馬道
この道は、旧下練馬村の今神・本村・重現・早淵など、村のほぼ中央を北東から南西へ走る幹線道の一つでした。
旧川越街道を板橋区上板橋一丁目(旧上板橋村字七軒家)付近でわかれ、練馬区に入ります。錦の金乗院を迂回して、須賀神社から開進第一小学校の南側を通り、中之橋で石神井川を渡ります。そこからはさらに練馬城址の東側(豊島園駅西側)を通って清戸道と交叉し、村の良弁塚前から鷺宮福蔵院方面へも通じています。
下練馬村北端の徳丸本村・脇村との境を川越街道が、南端の中新井村との境を清戸道が通り、両道を結ぶ位置に富士大山道があります。富士大山道は名前の示すとおり、主に信仰の道でした。それに対し、下練馬道は村の中心から近郷の村々へ通じる便利な生活の道でした。
平成二十八年八月 練馬区教育委員会 」









(説明板)
「金乗院
金乗院は、如意山金乗院萬徳寺といい、真言宗豊山派の寺院で本尊は愛染明王です。(豊島八十八ヶ所霊場第三十二番札所)『新編武蔵風土記稿』によると、開山僧は行栄、開基は木下大炊介とされ、寺の沿革によれば、御行栄が文禄年間(一五九二?六)に開いたと記されています。
墓地には下練馬村名主であった内田家や木下家の墓があります。
●練馬区指定有形文化財
「金乗院の御朱印状」平成九年(一九九七)三月登録
平成十四年(二○○二)二月指定
慶安二年(一六四九)の三代将軍家光から万延元年(一八六○)十四代家茂まで代替わりごとに将軍が寺領十八石九斗余を安堵した御朱印状九点です。(非公開)
●練馬区登録有形文化財
「金乗院山門」平成三一年(二○一九)二月登録
築後百年以上は経過していると考えられます。形式は薬医門、屋年は切妻造りで、桟瓦葺きです。区内に残る門では古く、梁などの装飾に江戸時代後期の特徴が残されています。
●練馬区登録天然記念物
「金乗院の大イチョウ」平成二四年(二○一二)一月登録
本堂前に生育する高さ一八m、目通り幹囲五m(区内最大)。
三代将軍家光のお手植えと伝えられているイチョウです。
令和元年(二○一九)十月 練馬区教育委員会 」

<巡礼供養塔>
墓地入口の両脇に出羽三山等巡礼供養塔が2基あります。

入口右:
観音菩薩坐像を乗せた巡礼供養塔です。文化8(1811)年。
正面「奉供養 月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東百番 為二世安樂也」
左側面「上板橋村」






入口左:
観音菩薩坐像を乗せた巡礼供養塔です。弘化2(1845)年。
正面「奉順礼 月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 新四國 八拾八ヶ所 百八拾八ヶ所供養塔」
左側面「南無大師遍照金剛 法界平等利益」。
台石の正面「上板橋村小竹」「二世為安樂也」





<三代将軍家光御朱印状碑>


<一石六地蔵尊> 練馬区指定登録文化財(平成5年)


<弘法大師線刻>


<奉納金三拾両>
30円ではなく、三拾両と刻まれている古い奉納碑。

<大イチョウ>
(説明板)
「 金乗院の大イチョウ 平成24年1月登録
本堂前に生育する高さ18m、目通り幹囲5m(区内最大)、3代将軍家光のお手植えと伝えられているイチョウです。
平成24年3月 練馬区教育委員会 」



<大師堂ほか>




<不動明王/地蔵菩薩3体>




<人形供養塔>
駐車場にポツンとある「人形供養塔」
昭和30年12月、くるみ幼稚園一同。



<下練馬道>
(説明板)
「 下練馬道
この道は、旧下練馬村の今神・本村・重現・早淵など、村のほぼ中央を北東から南西へ走る幹線道の一つでした。
旧川越街道を板橋区上板橋一丁目(旧上板橋村字七軒家)付近でわかれ、練馬区に入ります。錦の金乗院を迂回して、須賀神社から開進第一小学校の南側を通り、中之橋で石神井川を渡ります。そこからはさらに練馬城址の東側(豊島園駅西側)を通って清戸道と交叉し、村の良弁塚前から鷺宮福蔵院方面へも通じています。
下練馬村北端の徳丸本村・脇村との境を川越街道が、南端の中新井村との境を清戸道が通り、両道を結ぶ位置に富士大山道があります。富士大山道は名前の示すとおり、主に信仰の道でした。それに対し、下練馬道は村の中心から近郷の村々へ通じる便利な生活の道でした。
平成二十八年八月 練馬区教育委員会 」



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