蓮花寺/蓮沼熊野神社
○蓮花寺 大田区西蒲田6-13-14
<山門>
山門の扁額は「福田山」です。寺号標「蓮花寺」。





<札所碑>
「玉川八十八ヶ所霊場第七十番札所」
「東海三十三観音霊場第十番札所」

<石造物>
山門前に石造物がまとまってあります。



<火除観世音菩薩/出羽三山供養塔>

左は天和3(1683)年銘の「火除観世音菩薩」です。本尊の「十一面観世音菩薩立像」の別称が「火除観世音菩薩」です。


右は出羽三山供養塔。安永7(1778)年銘の出羽三山供養塔です。
(正面) 「月山湯殿山羽黒山供養塔」


(左側面)「湯殿総講中」

(右側面)

<十一面観世音菩薩立像>
山門裏にある説明板「十一面観世音菩薩立像」です。
(説明板)
「大田区文化財
十一面観世音菩薩立像(非公開)
桧材一木造 素地、彫眼
像高九○・七センチ
造像の年代、作者等は不明であるが、鎌倉期の様式を示し、十三世紀中頃の慶派仏師による作品と考えられる。区内屈指の優作である。
寺の縁起によれば、当寺は寛弘年間(一○○四〜一一)に恵心僧都が草創し、嘉禄年間(一二二五〜二七)に至り荏原郡の地頭であった荏原兵部有治(蓮沼法師)によって中興されたと伝えられる。
この像は、天文年間(一五三二〜五五)の兵火にも焼失を免れたため、俗に火除観音と呼ばれて崇信された。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 」


<石造物>

<巡礼供養塔>
安永6(1777)年銘の巡礼供養塔です。
「西國坂東秩父順禮所 光明真言百万遍果誦」


<庚申塔>
享保5(1720)年銘の庚申塔です。



<その他>


<地蔵菩薩像>
享保13(1728)年銘の地蔵菩薩像です。


<巡礼供養塔>
寛延4(1751)年銘の順礼供養塔です。
「奉順禮秩父坂東西國四國」


<その他>


<本堂>




○蓮沼熊野神社 大田区西蒲田6-13-13
蓮沼熊野神社は蓮花寺に隣接してあります。


<稲荷神社>

<力石?>
力石らしきものが無造作に置かれていました。
<山門>
山門の扁額は「福田山」です。寺号標「蓮花寺」。





<札所碑>
「玉川八十八ヶ所霊場第七十番札所」
「東海三十三観音霊場第十番札所」

<石造物>
山門前に石造物がまとまってあります。



<火除観世音菩薩/出羽三山供養塔>

左は天和3(1683)年銘の「火除観世音菩薩」です。本尊の「十一面観世音菩薩立像」の別称が「火除観世音菩薩」です。


右は出羽三山供養塔。安永7(1778)年銘の出羽三山供養塔です。
(正面) 「月山湯殿山羽黒山供養塔」


(左側面)「湯殿総講中」

(右側面)

<十一面観世音菩薩立像>
山門裏にある説明板「十一面観世音菩薩立像」です。
(説明板)
「大田区文化財
十一面観世音菩薩立像(非公開)
桧材一木造 素地、彫眼
像高九○・七センチ
造像の年代、作者等は不明であるが、鎌倉期の様式を示し、十三世紀中頃の慶派仏師による作品と考えられる。区内屈指の優作である。
寺の縁起によれば、当寺は寛弘年間(一○○四〜一一)に恵心僧都が草創し、嘉禄年間(一二二五〜二七)に至り荏原郡の地頭であった荏原兵部有治(蓮沼法師)によって中興されたと伝えられる。
この像は、天文年間(一五三二〜五五)の兵火にも焼失を免れたため、俗に火除観音と呼ばれて崇信された。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会 」


<石造物>

<巡礼供養塔>
安永6(1777)年銘の巡礼供養塔です。
「西國坂東秩父順禮所 光明真言百万遍果誦」


<庚申塔>
享保5(1720)年銘の庚申塔です。



<その他>


<地蔵菩薩像>
享保13(1728)年銘の地蔵菩薩像です。


<巡礼供養塔>
寛延4(1751)年銘の順礼供養塔です。
「奉順禮秩父坂東西國四國」


<その他>


<本堂>




○蓮沼熊野神社 大田区西蒲田6-13-13
蓮沼熊野神社は蓮花寺に隣接してあります。


<稲荷神社>

<力石?>
力石らしきものが無造作に置かれていました。

三輪里稲荷神社(こんにゃく稲荷)
〇三輪里稲荷神社(こんにゃく稲荷) 墨田区八広3-6-13
慶長19(1614)年、出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として御鎮座。
出羽三山関連の碑は特に見当たりませんでした。
(説明板)
「三輪里稻荷神社 ( こんにゃく稲荷 )
慶長十九年(一六一四)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稻荷大明神として御鎮座いたしました。通称「こんにゃくいなり」と呼ばれて人々の信仰を集めてまいりました。「こんにゃくいなり」のいわれは、初午の日に当社が 「こんにゃくの護符」を授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くとされることによります。
平成五年八月吉日 墨田区文化観光協会 」













○長命寺 墨田区向島5-4-4
→出羽三山の碑
慶長19(1614)年、出羽国湯殿山の大日坊長が大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稲荷大明神として御鎮座。
出羽三山関連の碑は特に見当たりませんでした。
(説明板)
「三輪里稻荷神社 ( こんにゃく稲荷 )
慶長十九年(一六一四)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊長が大畑村(八広、東墨田、立花の一部)の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し三輪里稻荷大明神として御鎮座いたしました。通称「こんにゃくいなり」と呼ばれて人々の信仰を集めてまいりました。「こんにゃくいなり」のいわれは、初午の日に当社が 「こんにゃくの護符」を授与され、これをいただき煎じて服用すれば、のどや風邪の病に効くとされることによります。
平成五年八月吉日 墨田区文化観光協会 」













○長命寺 墨田区向島5-4-4
→出羽三山の碑
テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
tag : 出羽三山
出羽三山供養塔 大田区路傍
○出羽三山観音百番供養塔 大田区南千束3-27-10
「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 百番巡礼供養塔」
道標も兼ねています。天明2(1882)年。
正面上部「月山 湯殿山 羽黒山」「秩父 西國 坂東」
右面(道路側)「右 いけかみミち 左 めくろ みち」
左面「右 くほんふつみち 左 志な加わミち」






「月山 湯殿山 羽黒山 秩父 西國 坂東 百番巡礼供養塔」
道標も兼ねています。天明2(1882)年。
正面上部「月山 湯殿山 羽黒山」「秩父 西國 坂東」
右面(道路側)「右 いけかみミち 左 めくろ みち」
左面「右 くほんふつみち 左 志な加わミち」






テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
富賀岡八幡宮@出羽三山碑2基
○富賀岡八幡宮(元八幡) 江東区南砂7-14-18
江戸時代は景勝地として賑わい、江戸名所図会や名所江戸百景に描かれています。
水害、戦災で被災していますが、古い石碑が多く残っています。









<砂村富岡元八幡宮(江戸名所図会)>
江戸名所図会に描かれています。
境内に、現在の場所とは反対側ですが、芭蕉句碑が描かれています。
(挿絵解説)
「洲崎弁天より十八丁あまり東の海浜にあり。深川八幡宮の旧地なりといへり。」


<名所江戸百景 砂むら元八まん>
「名所江戸百景 砂むら元八まん」(歌川広重 安政3年)
創建時は社前に海が拡がっていて、広重も元八幡に面する海を描いています。

<出羽三山碑(砂村講中奉納)>
江東区有形民俗文化財です。
「月山 湯殿山 羽黒山」と刻まれています。
(説明板)
「 出羽三山の碑 宮司 荒井八雲
出羽三山とは、羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の山として主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政二年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で、砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復三百余里(千キロメートル以上)を数え略一か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは三年に一度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ三十七センチ(糎)巾八十一センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。
平成十一年八月 所在地 江東区南砂七丁目十四ー十八」







<出羽三山碑(村井鍋次郎奉納)>
江東区有形民俗文化財です。
「國幣小社出羽神社 官幣大社月山神社 國幣小社湯殿山神社」と刻まれています。
江東区文化財のサイトは写真が掲載されていないので確信が持てなかったのですが、裏面に奉納者「村井鍋次郎」と刻まれていたので、この碑です。



<弁財天石祠>
江東区有形民俗文化財です
弁財天石祠(寛政元年在銘)。

<浅間神社>
浅間神社石祠(明治29年在銘)は、江戸川区有形文化財です。
説明の石碑もあります。






<砂町の富士塚>
「注意 あぶない 落石あり、山え登らないこと」
登頂記念碑が並んでいます。
(説明板)
「砂村の富士信仰の象徴 江東区指定有形民俗文化財
砂町の富士塚
富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保四年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと三〇mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和八年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和三十七年(1962)現在地に移築されました。
塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
平成十八年二月 江東区教育委員会」










力石(文化財)も多くちりばめられています。砲弾もあります。
江東区のHPによると、力石9個は有形民俗文化財です。






<小御嶽神社・明治26年在銘>
富士塚の中腹にあります。
江東区有形民俗文化財です。

<囃子碑>
左から「はやし連」「江戸祭囃子」「砂村囃子」
砂村囃子は江東区指定無形民俗文化財です。


<力石>
富士塚に力石が埋められていましたが、ここにもまとまって力石があります。
8個の力石が江東区有形民俗文化財で、こちらは砂村稲荷神社から移転されたものです

<砂村新左衛門>
参道左手に、大きな石碑が2基あります。
左:「砂村新田開拓者 砂村新左衛門顕彰碑」
右:「石碑の由来」
「砂村新左衛門と越前スイセン」の説明板。
「元八幡旧蹟」の碑。





<芭蕉句碑・小柴暉雄書>
江東区有形文化財です。
「芭蕉 めにかかる 雲やしばしの 渡鳥」(文化2(1805)年)



<元八まん道道標 有扇亭石文在銘>
道標があります。江東区有形民俗文化財です。
中央は庚申塔(宝暦6年在銘)も有形民俗文化財。




<美辰・その女歌碑>
水屋の近くにある歌碑です。
(江東区教育委員会HP説明より)
「文政11~12年(1828~1829)に書かれた「寺社書上」砂村新田八幡宮の記事にこの歌碑のことが記されているので、この頃にはすでに歌碑があったことがわかります。歌碑はすり減っていて読みづらいところもありますが、表面には阿波国出身の美辰という号の人物が詠んだ和歌が、裏面には「その」という女性が詠んだ和歌が刻まれています。表と裏の和歌は対の関係にあると考えられますので、「その」は、美辰の妻か娘であろうと思われます。
なお、墨田区の吾嬬神社(墨田区立花1―1―15)には、美辰が75歳の時に作成した歌石があります。」
江戸時代は景勝地として賑わい、江戸名所図会や名所江戸百景に描かれています。
水害、戦災で被災していますが、古い石碑が多く残っています。









<砂村富岡元八幡宮(江戸名所図会)>
江戸名所図会に描かれています。
境内に、現在の場所とは反対側ですが、芭蕉句碑が描かれています。
(挿絵解説)
「洲崎弁天より十八丁あまり東の海浜にあり。深川八幡宮の旧地なりといへり。」


<名所江戸百景 砂むら元八まん>
「名所江戸百景 砂むら元八まん」(歌川広重 安政3年)
創建時は社前に海が拡がっていて、広重も元八幡に面する海を描いています。

<出羽三山碑(砂村講中奉納)>
江東区有形民俗文化財です。
「月山 湯殿山 羽黒山」と刻まれています。
(説明板)
「 出羽三山の碑 宮司 荒井八雲
出羽三山とは、羽黒山、月山、湯殿山(いづれも山形県)の総称で江戸時代中頃から霊山・修験道の山として主に東北や関東の村々から多くの登拝者を集めている。この三山碑は文政二年(1819)砂村の講中によって造立されたものである。碑面中央下部にみえる「大先達智憲院」は湯殿山の山上衆徒の三先達の一人で、砂村地域は江戸時代この智憲院の支配下(檀那場)にあったと思われる。江戸から出羽まで往復三百余里(千キロメートル以上)を数え略一か月を要する行程であるにもかかわらず多くの信者を招聘し得たのは三年に一度の檀那廻り配札また宿泊施設への案内に奔走した御師たちの布教活動にあった。碑は高さ三十七センチ(糎)巾八十一センチ(糎)で安山岩(小松石)製である江東地区三山碑はこの富賀岡八幡宮のものだけである。
平成十一年八月 所在地 江東区南砂七丁目十四ー十八」







<出羽三山碑(村井鍋次郎奉納)>
江東区有形民俗文化財です。
「國幣小社出羽神社 官幣大社月山神社 國幣小社湯殿山神社」と刻まれています。
江東区文化財のサイトは写真が掲載されていないので確信が持てなかったのですが、裏面に奉納者「村井鍋次郎」と刻まれていたので、この碑です。



<弁財天石祠>
江東区有形民俗文化財です
弁財天石祠(寛政元年在銘)。

<浅間神社>
浅間神社石祠(明治29年在銘)は、江戸川区有形文化財です。
説明の石碑もあります。






<砂町の富士塚>
「注意 あぶない 落石あり、山え登らないこと」
登頂記念碑が並んでいます。
(説明板)
「砂村の富士信仰の象徴 江東区指定有形民俗文化財
砂町の富士塚
富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保四年(1833)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。
砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚に左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に登り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと三〇mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和八年(1933)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和三十七年(1962)現在地に移築されました。
塚に付随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
平成十八年二月 江東区教育委員会」










力石(文化財)も多くちりばめられています。砲弾もあります。
江東区のHPによると、力石9個は有形民俗文化財です。






<小御嶽神社・明治26年在銘>
富士塚の中腹にあります。
江東区有形民俗文化財です。

<囃子碑>
左から「はやし連」「江戸祭囃子」「砂村囃子」
砂村囃子は江東区指定無形民俗文化財です。


<力石>
富士塚に力石が埋められていましたが、ここにもまとまって力石があります。
8個の力石が江東区有形民俗文化財で、こちらは砂村稲荷神社から移転されたものです

<砂村新左衛門>
参道左手に、大きな石碑が2基あります。
左:「砂村新田開拓者 砂村新左衛門顕彰碑」
右:「石碑の由来」
「砂村新左衛門と越前スイセン」の説明板。
「元八幡旧蹟」の碑。





<芭蕉句碑・小柴暉雄書>
江東区有形文化財です。
「芭蕉 めにかかる 雲やしばしの 渡鳥」(文化2(1805)年)



<元八まん道道標 有扇亭石文在銘>
道標があります。江東区有形民俗文化財です。
中央は庚申塔(宝暦6年在銘)も有形民俗文化財。




<美辰・その女歌碑>
水屋の近くにある歌碑です。
(江東区教育委員会HP説明より)
「文政11~12年(1828~1829)に書かれた「寺社書上」砂村新田八幡宮の記事にこの歌碑のことが記されているので、この頃にはすでに歌碑があったことがわかります。歌碑はすり減っていて読みづらいところもありますが、表面には阿波国出身の美辰という号の人物が詠んだ和歌が、裏面には「その」という女性が詠んだ和歌が刻まれています。表と裏の和歌は対の関係にあると考えられますので、「その」は、美辰の妻か娘であろうと思われます。
なお、墨田区の吾嬬神社(墨田区立花1―1―15)には、美辰が75歳の時に作成した歌石があります。」

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