正光寺(岩淵)
○正光寺 北区岩淵町32-11 HP
<山門/裏参道>


<世継橋>
山門左手の世継橋の親柱です。

<石橋十二ケ所供養塔>
山門右手の文政10(1827)年銘の石橋十二ケ所供養塔です。


<巡拝記念塔>
「西国秩父坂東 四国 出羽三山 巡拝紀念之塔」
大正8(1919)年の造立です。出羽三山とまとまっています。



<庚申塔>
嘉永3(1850)年銘の自然石庚申塔句碑です。
「月雪の奥ある花乃木曽路か南
嘉永三庚戌之春
さくら庵加湧居士 敬白」

<征清鎮台皇軍戦死追吊紀念>
明治28年銘の日清戦争戦没者慰霊碑です。隣りには「征清鎮台皇軍戦死追吊紀念地蔵尊」が並んでいます。





<題目塔/地蔵尊>

<水子地蔵尊>

<聖観世音菩薩立像>
明治3(1870)年造立の高さ3丈3尺(約10m)の聖観世音菩薩立像です。

<観音堂>

<本堂>

<池と観音像>
本堂の横に池と観音像。石燈籠は、享和3(1803)年銘です。





<閻魔堂>
境内の隅に「閻魔堂」の標石があります。かつて存在した閻魔堂の遺物のようです。

<山門/裏参道>


<世継橋>
山門左手の世継橋の親柱です。

<石橋十二ケ所供養塔>
山門右手の文政10(1827)年銘の石橋十二ケ所供養塔です。


<巡拝記念塔>
「西国秩父坂東 四国 出羽三山 巡拝紀念之塔」
大正8(1919)年の造立です。出羽三山とまとまっています。



<庚申塔>
嘉永3(1850)年銘の自然石庚申塔句碑です。
「月雪の奥ある花乃木曽路か南
嘉永三庚戌之春
さくら庵加湧居士 敬白」

<征清鎮台皇軍戦死追吊紀念>
明治28年銘の日清戦争戦没者慰霊碑です。隣りには「征清鎮台皇軍戦死追吊紀念地蔵尊」が並んでいます。





<題目塔/地蔵尊>

<水子地蔵尊>

<聖観世音菩薩立像>
明治3(1870)年造立の高さ3丈3尺(約10m)の聖観世音菩薩立像です。

<観音堂>

<本堂>

<池と観音像>
本堂の横に池と観音像。石燈籠は、享和3(1803)年銘です。





<閻魔堂>
境内の隅に「閻魔堂」の標石があります。かつて存在した閻魔堂の遺物のようです。

十条山地福寺
○十条山地福寺 北区中十条2-1-20
地福寺は、日光御成道に面していて、将軍の日光社参の際には、休憩所となっていました。
<山門>
山門は文化5(1803)年の造立です。



<地蔵>
王子の三地蔵の1つ、「鎌倉街道のお地蔵さま」(移設)と呼ばれていた石仏が山門脇の一番左に佇んでいます。この石仏は庚申塔でもあります(後述)。




<水琴仏>

<奉献石燈籠>
寛永寺徳川将軍霊廟への奉献石燈籠が二基あります。
・右は「常憲院殿 尊前」 四代将軍、徳川綱吉です。
・右は「有徳院殿 尊前」 八代将軍、徳川吉宗です。



<出羽三山供養塔>
出羽三山供養塔があります。年紀は確認せず。
「月山 湯殿山 羽黒山 大般若 供養塔
天下太平 國土安穏」
台石には「大乗院講中」とあります。先達大乗院はよく見るところですが、これは初めてみました。
大乗院の活動範囲を知りたいですね。


<四種の庚申塔>
四種の庚申塔の説明板があります。このような説明板には感謝します。
(説明板)
「四種の庚申塔
庚申信仰は、道教(中国)の三尸説を基として生まれ、これが日本に伝わるや、仏教、神道、民間信仰などと結びついて、ほぼ全国津々浦々にまで広まってゆきました。
当寺にも左の通り、四種の庚申塔がまつられており、郷土の人々の熱心な信仰振りをうかがわせています。
一.青面金剛立像
<本体・正面>
奉造立大青面金剛庚講
(日輪) (鶏) (見ざる)
(ウーン)(青面金剛)(邪鬼)(聞かざる)
(月輪) (鶏) (言わざる)
享保五庚子天霜月吉日同行八人
二.閻魔大王坐像
<本体・正面> <基壇・正面> <壇・側面>
(閻魔大王) 庚申 貞享二年三月
三.阿弥陀三尊種子文字庚申塔
<本体・正面>
(サ) 武刕豊嶋郡十条村
(キリーク) 奉供養庚申待現當二世安樂
(サフ) 承應二癸巳天七月吉日敬白
四.地蔵菩薩立像
<本体・正面> <基壇・正面> <基壇・右側面>
(地蔵菩薩)(蓮弁)(見ざる) 地蔵
(聞かざる) [三]
(言わざる) □
念佛
[一][切]
三夜□ □
<基壇・左側面>
寛保元辛酉歳
十月吉日
庚申」

<青面金剛立像(庚申塔)>
真新しい台石の上に建つ、享保5(1720)年銘の庚申塔です。

<閻魔大王坐像(庚申塔)>
裏の墓地入口にある、貞享2(1685)年銘の閻魔大王坐像の庚申塔です。台座に説明板「四種の庚申塔」があります。


<阿弥陀三尊種子文字庚申塔>
承応2(1653)銘の阿弥陀三尊種子文字庚申塔です。庚申塔としては古い時代のものです。

<地蔵菩薩立像(庚申塔)>
寛保元(1741)年銘の地蔵菩薩立像で、庚申塔です。基壇に三猿が見えます。


<慰音堂>
貞明皇后(大正天皇の皇后)像が祀られています。ハンセン病救援事業の草分けとなった貞明皇后の御事跡を永く世に遺すため平成12(2000)年に建立されました。


(説明板)
「貞明皇后像
貞明皇后御製
つれづれの友となりてもなぐさめよ
ゆくことかたきわれにかはりて
ハンセン病に対する偏見が社会に根強く残る昭和の初め、大正天皇の妃・貞明皇后は不運な病に見舞われた人々に深くお心を痛められ、温かい励ましのお言葉と共に多額のお見舞金を?々全国のハンセン病療養所にお贈りになられた。
後年、そうしたお見舞いが、一足の足袋を縫っては履き縫っては履くという陛下御自身の御暮らしをきびしく切り詰めた上でなされたものであることを知り、病者たちの感激は一入であった。(『全生今昔』「縫われた足袋」)
平成八年、らい予防法の廃止を機に、近代皇室によるハンセン病者救援事業の草分けとなった陛下の御事跡を永く世に遺すため、国立療養所多磨全生園内に「貞明皇后像建立委員会」を結成、財団法人・藤楓協会の御協力を得て製作の運びとなった。
完成されたお像は、広く一般の方々に御覧頂くため地福寺境内に一宇「慰音堂」を建立し、これにお納めることとした。
幾そ度御下賜給ひし皇后陛下の
ほつれ縢れるしろき足袋かも
お像は、全生園駐在布教師・三輪照峰師詠の右の歌をテーマに、縫いを重ねた足袋を時の林芳信園長にお譲り渡しになっているお姿を表現した。又、彫刻は同園療養者で元船大工・永見謙吉氏の勤刻である。
平成十二年三月吉日
国立療養所多磨全生園
貞明皇后像建立委員会」

<弘法大師一千五十年遠忌>

<ビルマの竪琴/東日本大震災供養碑>


<四国八十八ヶ所お砂踏み>

<太閤千代しだれ>

<郷土の語り部ーお寺の椎の木(樹齢三百年)>

<本堂>

地福寺は、日光御成道に面していて、将軍の日光社参の際には、休憩所となっていました。
<山門>
山門は文化5(1803)年の造立です。



<地蔵>
王子の三地蔵の1つ、「鎌倉街道のお地蔵さま」(移設)と呼ばれていた石仏が山門脇の一番左に佇んでいます。この石仏は庚申塔でもあります(後述)。




<水琴仏>

<奉献石燈籠>
寛永寺徳川将軍霊廟への奉献石燈籠が二基あります。
・右は「常憲院殿 尊前」 四代将軍、徳川綱吉です。
・右は「有徳院殿 尊前」 八代将軍、徳川吉宗です。



<出羽三山供養塔>
出羽三山供養塔があります。年紀は確認せず。
「月山 湯殿山 羽黒山 大般若 供養塔
天下太平 國土安穏」
台石には「大乗院講中」とあります。先達大乗院はよく見るところですが、これは初めてみました。
大乗院の活動範囲を知りたいですね。


<四種の庚申塔>
四種の庚申塔の説明板があります。このような説明板には感謝します。
(説明板)
「四種の庚申塔
庚申信仰は、道教(中国)の三尸説を基として生まれ、これが日本に伝わるや、仏教、神道、民間信仰などと結びついて、ほぼ全国津々浦々にまで広まってゆきました。
当寺にも左の通り、四種の庚申塔がまつられており、郷土の人々の熱心な信仰振りをうかがわせています。
一.青面金剛立像
<本体・正面>
奉造立大青面金剛庚講
(日輪) (鶏) (見ざる)
(ウーン)(青面金剛)(邪鬼)(聞かざる)
(月輪) (鶏) (言わざる)
享保五庚子天霜月吉日同行八人
二.閻魔大王坐像
<本体・正面> <基壇・正面> <壇・側面>
(閻魔大王) 庚申 貞享二年三月
三.阿弥陀三尊種子文字庚申塔
<本体・正面>
(サ) 武刕豊嶋郡十条村
(キリーク) 奉供養庚申待現當二世安樂
(サフ) 承應二癸巳天七月吉日敬白
四.地蔵菩薩立像
<本体・正面> <基壇・正面> <基壇・右側面>
(地蔵菩薩)(蓮弁)(見ざる) 地蔵
(聞かざる) [三]
(言わざる) □
念佛
[一][切]
三夜□ □
<基壇・左側面>
寛保元辛酉歳
十月吉日
庚申」

<青面金剛立像(庚申塔)>
真新しい台石の上に建つ、享保5(1720)年銘の庚申塔です。

<閻魔大王坐像(庚申塔)>
裏の墓地入口にある、貞享2(1685)年銘の閻魔大王坐像の庚申塔です。台座に説明板「四種の庚申塔」があります。


<阿弥陀三尊種子文字庚申塔>
承応2(1653)銘の阿弥陀三尊種子文字庚申塔です。庚申塔としては古い時代のものです。

<地蔵菩薩立像(庚申塔)>
寛保元(1741)年銘の地蔵菩薩立像で、庚申塔です。基壇に三猿が見えます。


<慰音堂>
貞明皇后(大正天皇の皇后)像が祀られています。ハンセン病救援事業の草分けとなった貞明皇后の御事跡を永く世に遺すため平成12(2000)年に建立されました。


(説明板)
「貞明皇后像
貞明皇后御製
つれづれの友となりてもなぐさめよ
ゆくことかたきわれにかはりて
ハンセン病に対する偏見が社会に根強く残る昭和の初め、大正天皇の妃・貞明皇后は不運な病に見舞われた人々に深くお心を痛められ、温かい励ましのお言葉と共に多額のお見舞金を?々全国のハンセン病療養所にお贈りになられた。
後年、そうしたお見舞いが、一足の足袋を縫っては履き縫っては履くという陛下御自身の御暮らしをきびしく切り詰めた上でなされたものであることを知り、病者たちの感激は一入であった。(『全生今昔』「縫われた足袋」)
平成八年、らい予防法の廃止を機に、近代皇室によるハンセン病者救援事業の草分けとなった陛下の御事跡を永く世に遺すため、国立療養所多磨全生園内に「貞明皇后像建立委員会」を結成、財団法人・藤楓協会の御協力を得て製作の運びとなった。
完成されたお像は、広く一般の方々に御覧頂くため地福寺境内に一宇「慰音堂」を建立し、これにお納めることとした。
幾そ度御下賜給ひし皇后陛下の
ほつれ縢れるしろき足袋かも
お像は、全生園駐在布教師・三輪照峰師詠の右の歌をテーマに、縫いを重ねた足袋を時の林芳信園長にお譲り渡しになっているお姿を表現した。又、彫刻は同園療養者で元船大工・永見謙吉氏の勤刻である。
平成十二年三月吉日
国立療養所多磨全生園
貞明皇后像建立委員会」

<弘法大師一千五十年遠忌>

<ビルマの竪琴/東日本大震災供養碑>


<四国八十八ヶ所お砂踏み>

<太閤千代しだれ>

<郷土の語り部ーお寺の椎の木(樹齢三百年)>

<本堂>


巡拝塔 岩淵路傍
〇巡拝塔 北区岩淵町22-17
巡拝塔(天保15(1844)年)と2基の庚申塔(道標を兼ねる)があります。
巡拝塔の正面は「奉順禮 西國 秩父 坂東 出羽三山 身延山 六阿弥陀」
六阿弥陀の巡拝も兼ねているのは初めて見ました。
台座正面に「右下村」
中央が折れて修復されています。









巡拝塔(天保15(1844)年)と2基の庚申塔(道標を兼ねる)があります。
巡拝塔の正面は「奉順禮 西國 秩父 坂東 出羽三山 身延山 六阿弥陀」
六阿弥陀の巡拝も兼ねているのは初めて見ました。
台座正面に「右下村」
中央が折れて修復されています。









テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
宝幢院@出羽三山供養塔
〇宝幢院 北区赤羽3-4-2





<出羽三山供養塔>
文政11(1828)年の出羽三山供養塔です。
正面には「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
側面には「東叡山御支配 先達 」




<宝幢院前の道標>
(説明板)
「宝幢院前の道標 宝幢院所在
門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文五年(一七四〇)一二月に了運という僧侶によって造立されたものです。
宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国富士道 板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩付道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から冨士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。
道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。
平成三年三月 北区教育委員会 」





<六地蔵>

<南無馬頭観世音(馬持講中)>
「馬持講中」による明治41年の建立です。

<阿弥陀如来線刻庚申塔>
庚申塔が2基並んでいます。
左 庚申塔 寛永16(1639)年。
中央に阿弥陀如来立像、下に2猿が描かれています。
下右に岩渕赤羽根村、下中央に宝幢院裕真。
北区最古の庚申塔です。
足立区にある正覚院の東京都区部最古の庚申塔(元和9(1623)と様式がとても似ています。
右 庚申塔 延宝8(1680)
地蔵菩薩立像。右脇「奉待庚申供養成就処」
3猿が刻まれています。

<庚申塔>
庚申塔が他にもあります。


<信州善光寺参拝記念 本堂落成記念碑 四国西国秩父坂東百八十八ケ所参拝>

<不明の碑>
文字が全く見えません、





<出羽三山供養塔>
文政11(1828)年の出羽三山供養塔です。
正面には「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
側面には「東叡山御支配 先達 」




<宝幢院前の道標>
(説明板)
「宝幢院前の道標 宝幢院所在
門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文五年(一七四〇)一二月に了運という僧侶によって造立されたものです。
宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国富士道 板橋道」・「南江戸道」と刻まれています。日光・岩付道は、岩淵宿から川口へと船で渡り、鳩ヶ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・家光の廟所のある日光に社参するための専用の街道としたので日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道や八王子から冨士山北麓の登山口へと向かう富士道へ通じていました。
道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。
平成三年三月 北区教育委員会 」





<六地蔵>

<南無馬頭観世音(馬持講中)>
「馬持講中」による明治41年の建立です。

<阿弥陀如来線刻庚申塔>
庚申塔が2基並んでいます。
左 庚申塔 寛永16(1639)年。
中央に阿弥陀如来立像、下に2猿が描かれています。
下右に岩渕赤羽根村、下中央に宝幢院裕真。
北区最古の庚申塔です。
足立区にある正覚院の東京都区部最古の庚申塔(元和9(1623)と様式がとても似ています。
右 庚申塔 延宝8(1680)
地蔵菩薩立像。右脇「奉待庚申供養成就処」
3猿が刻まれています。

<庚申塔>
庚申塔が他にもあります。


<信州善光寺参拝記念 本堂落成記念碑 四国西国秩父坂東百八十八ケ所参拝>

<不明の碑>
文字が全く見えません、

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