八ツ小路 筋違門跡
○八ツ小路/八ツ広路(やつこうじ) 千代田区神田須田町1丁目
筋違見附の内側が八ツ広路で、ここから八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いていました。
通行量が多く、昼夜を問わず開門していました。火除地には、小菅村に移転するまで飢饉や水害などに備えた籾蔵がありました。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。神田川沿には、柳が植わっています。八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。筋違門に向かう行列が見えます。幕府の行事は描いてはいけないので、行列は短く描いて、将軍の寛永寺墓参は描いていませんと主張しているようです。

「江戸切絵図」
「昌平橋」と「筋違御門」が見えます。「下谷御成街道」が下谷広小路〜三橋へと続いています。

「江戸名所道化尽 十一 下谷御成道」(歌川広景)
下谷御成道の光景です。質屋「佐野屋」が見えます。子どもたちが水鉄砲で遊んでいたら、武士の顔面に鉄砲水がヒットしてしまいました。女性が謝っているようです。

「絵本江戸土産 筋違八ッ小路」(広重)
堤には柳が連なっています。

「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)
筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。
右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます。

「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違見附八辻」(楊洲周延 明治22(1889)年)
これを見た瞬間には、広重を知っている幕臣が、一応敬意を払って笠をとり、将軍の行列を錦絵に描いてはだめだぞと、これから注意をする場面かと思いました。
女性に優しく日陰をつくってもらっている杖をついているご老人は、行列は見ないでそっぽを向いており、「行列は見てない、こっちを見ている」と言い訳するつもりでしょう。楊洲周延の作品には登場しない犬が描かれているのも、広重を想起させます。
楊洲周延は、広重の「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重は安政5年に死去、安政4年の作品)を知っているはずですから、「広重さん、当時は将軍の寛永寺墓参帰りの行列を描けなくて残念でしたね」と語っているようです。(以上、直観だけの感想です)
さて、筋違見附八辻における七夕の光景です。柳原堤の向こう側には、赤い幟が多数ひらめいています。女性は日傘をさし、屋台では白玉水を売っています。暑さが伝わってきます。


「江戸名所道戯尽 三十四 筋違御門うち」(歌川広景)
筋違御門前の八ツ小路が描かれています。柳原堤と柳も見えます。
人相見が女性客に天眼鏡をかざしています。子どもはびっくり、通りがかりの人は振り返っています。

「北斎漫画」(北斎)の「天眼鏡」が元ネタですね。

「江戸名所図会 柳原堤」
太田道灌が、江戸城を造成した際、鬼門の守りのため、土手を築き、水に強い柳の木を植えました。
神田川下流の浅草御門から八ツ小路までの南岸に築かれたのが柳原堤です。

「柳原夜雨」(小林清親)
タイトル名と近景の柳、遠景の消防署から、柳原堤から、江戸時代は火除け地で広場だった八ツ小路を見渡した光景かと思います。あるいは神田川のもう少し下流にこのような広大な広場はあったのでしょうか。

「柳橋夜雨」(井上安治)
タイトルと内容が違っているような気がします。
師匠の小林清親と同様に、柳原堤から八ツ小路を見渡した光景ではないでしょうか。

○筋違門跡 千代田区神田須田町1-25JR神田万世橋ビル
筋違門跡の現在です。広場にモニュメントが建ち、説明パネルが時代を追って展示されています。路面にも歴史が架かれています。

<広瀬武夫および杉野杉野孫七兵曹長の銅像>
GHQの意向を受けて政府から出された通達を受け、東京都では審査委員会設けて検討、この像は戦犯銅像と決定し撤去されています。渡辺長男(広瀬武夫像)と朝倉文夫(杉野杉野孫七兵曹長像)の兄弟での合作でした。


「故広瀬海軍中佐及故杉野兵曹長銅像」(京浜所在銅像写真 諏訪堂 明治43年5月)

<筋違門(江戸時代)>
一番奥の「筋違門」のパネルです。





<筋違橋見附>(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)

<旧万世橋駅(明治・大正時代)>




<交通博物館(昭和・平成時代)>



<万世橋駅のにぎわい>



「筋違通夜景」(井上安治)
筋違通の光線画です。

筋違見附の内側が八ツ広路で、ここから八方に道が通じていたことから八ツ小路、八辻小路の名が付いていました。
通行量が多く、昼夜を問わず開門していました。火除地には、小菅村に移転するまで飢饉や水害などに備えた籾蔵がありました。
「江戸名所図会 筋違八ツ小路」
神田川下流に筋違橋、その上流に昌平橋が見えます。神田川沿には、柳が植わっています。八ツ広路は、火除地を兼ねた広場となっています。火の見櫓が見えます。筋違門に向かう行列が見えます。幕府の行事は描いてはいけないので、行列は短く描いて、将軍の寛永寺墓参は描いていませんと主張しているようです。

「江戸切絵図」
「昌平橋」と「筋違御門」が見えます。「下谷御成街道」が下谷広小路〜三橋へと続いています。

「江戸名所道化尽 十一 下谷御成道」(歌川広景)
下谷御成道の光景です。質屋「佐野屋」が見えます。子どもたちが水鉄砲で遊んでいたら、武士の顔面に鉄砲水がヒットしてしまいました。女性が謝っているようです。

「絵本江戸土産 筋違八ッ小路」(広重)
堤には柳が連なっています。

「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重)
筋違御門を入って来た行列が、八ッ小路を横切っています。これを見た瞬間には、将軍の寛永寺への墓参帰りと思ってしまいますが、行列には多くの女性のお付が見えるので、輿の主は女性を主張しているようです。当時は幕府の行事を描くことは禁止されていたので、将軍の行列は描いていませんとの言い訳かもしれません。
右手には柳原堤、右手奥に神田明神が見えます。

「江戸風俗十二ヶ月之内 七月七夕筋違見附八辻」(楊洲周延 明治22(1889)年)
これを見た瞬間には、広重を知っている幕臣が、一応敬意を払って笠をとり、将軍の行列を錦絵に描いてはだめだぞと、これから注意をする場面かと思いました。
女性に優しく日陰をつくってもらっている杖をついているご老人は、行列は見ないでそっぽを向いており、「行列は見てない、こっちを見ている」と言い訳するつもりでしょう。楊洲周延の作品には登場しない犬が描かれているのも、広重を想起させます。
楊洲周延は、広重の「名所江戸百景 筋違内八ツ小路」(広重は安政5年に死去、安政4年の作品)を知っているはずですから、「広重さん、当時は将軍の寛永寺墓参帰りの行列を描けなくて残念でしたね」と語っているようです。(以上、直観だけの感想です)
さて、筋違見附八辻における七夕の光景です。柳原堤の向こう側には、赤い幟が多数ひらめいています。女性は日傘をさし、屋台では白玉水を売っています。暑さが伝わってきます。


「江戸名所道戯尽 三十四 筋違御門うち」(歌川広景)
筋違御門前の八ツ小路が描かれています。柳原堤と柳も見えます。
人相見が女性客に天眼鏡をかざしています。子どもはびっくり、通りがかりの人は振り返っています。

「北斎漫画」(北斎)の「天眼鏡」が元ネタですね。

「江戸名所図会 柳原堤」
太田道灌が、江戸城を造成した際、鬼門の守りのため、土手を築き、水に強い柳の木を植えました。
神田川下流の浅草御門から八ツ小路までの南岸に築かれたのが柳原堤です。

「柳原夜雨」(小林清親)
タイトル名と近景の柳、遠景の消防署から、柳原堤から、江戸時代は火除け地で広場だった八ツ小路を見渡した光景かと思います。あるいは神田川のもう少し下流にこのような広大な広場はあったのでしょうか。

「柳橋夜雨」(井上安治)
タイトルと内容が違っているような気がします。
師匠の小林清親と同様に、柳原堤から八ツ小路を見渡した光景ではないでしょうか。

○筋違門跡 千代田区神田須田町1-25JR神田万世橋ビル
筋違門跡の現在です。広場にモニュメントが建ち、説明パネルが時代を追って展示されています。路面にも歴史が架かれています。

<広瀬武夫および杉野杉野孫七兵曹長の銅像>
GHQの意向を受けて政府から出された通達を受け、東京都では審査委員会設けて検討、この像は戦犯銅像と決定し撤去されています。渡辺長男(広瀬武夫像)と朝倉文夫(杉野杉野孫七兵曹長像)の兄弟での合作でした。


「故広瀬海軍中佐及故杉野兵曹長銅像」(京浜所在銅像写真 諏訪堂 明治43年5月)

<筋違門(江戸時代)>
一番奥の「筋違門」のパネルです。





<筋違橋見附>(幕末・明治・大正回顧八十年史 東洋文化協会 昭和10年)

<旧万世橋駅(明治・大正時代)>




<交通博物館(昭和・平成時代)>



<万世橋駅のにぎわい>



「筋違通夜景」(井上安治)
筋違通の光線画です。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
上中里西方不動尊
○上中里西方不動尊 北区上中里1-47-34
蝉坂に面して石段を上がると「上中里西方不動尊」があります。
右に不動明王像(享保20(1735)年銘)と、左に摩利支天像の石仏を祀っています。
説明掲示によると、瀧があり行場となっていて、不動明王が置かれていたと考えられるとのこと、また、御嶽行心講の奉納とのこと。






<上中里七福神>
蝉坂に面して石段を上がると「上中里西方不動尊」があります。
右に不動明王像(享保20(1735)年銘)と、左に摩利支天像の石仏を祀っています。
説明掲示によると、瀧があり行場となっていて、不動明王が置かれていたと考えられるとのこと、また、御嶽行心講の奉納とのこと。






<上中里七福神>

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tag : 日光御成道
城官寺
○城官寺 北区上中里1-42-8
「城官寺」は、かつての平塚神社の別当で、寺号は、開祖の山川城官の名を採っています。将軍徳川家光の病を治して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、平塚神社ともども再興したとされます。
山川城官貞久と一族の墓があり、北区指定文化財となっています。また、徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡となっています。
<江戸名所図会>
「平塚明神社 鎧塚 別当城官寺」の中で、平塚明神社への参道途中右手に城官寺が描かれています。


<山門>
山門にかかげられた山号「平塚山」扁額は、内閣総理大臣田中角栄氏の揮毫です。







<寛永寺の奉献石燈籠>
「奉献石燈籠
武州東叡山
大猷院殿尊前
遠藤備前守
従五位下平常季」
郡上藩主、遠藤常友(常季とも名乗った)による慶安5(1652)年4月の奉献です。




<地蔵尊>

<庚申塔>
六臂の合掌像です。三猿が2組置かれています。


<水盤>
水盤にくまモンとピカチュウ。

<本殿>


<山川城官一族墓碑 附 山川家墓碑・記念碑> 北区指定文化財(令和2年6月9日)

(説明板)
「北区指定有形文化財(歴史資料)
山川城官一族墓碑 附 山川家墓碑・記念碑
北区上中里一ー四十二ー八 城官寺
山川家は、元は「石亀」姓を名乗っていましたが、初代貞久(生年不明ー寛永二○、城官・藤十郎とも) のときに家名を改めました。
貞久は、慶長十六年(一六一一)に召されて徳川家光の近習となり、病気で失明して後は検校にまで昇りました。
鍼術に秀でた医者であり、寛永九年(一六三二)五月には談伴衆となって将軍の身体の健康をみました。
「大猷院殿御実紀」寛永十一年条には、その特技をいかして家光の病気を癒し、平塚明神ならびに別当城官寺の再興のきっかけをつくったことが記されています。また、「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」下巻(北区指定有形文化財)も、平塚明神に立身を祈願した貞久が家光の病気を癒して検校にまで出世したことや、祈願成就を感謝して平塚明神を再興したことなどを伝えています。
ここ、城官寺には、こうした山川城官貞久とその一族の墓碑八基、および記念碑が、城官寺歴代住職の墓近くに安置されています。貞久の墓碑は、蓮華座の上に、光背をもつ地蔵菩薩立像が彫られた大型のもので、貞久生存中に建てられました。
①山川貞久逆修墓碑 山川家初代 寛永十五年(1638)正月
②山川貞久後室逆修墓碑 山川貞久後室 慶安四年(1651)七月
③山川貞則墓碑 山川家二代 元禄四年(1691)六月
④山川貞明墓碑 不詳 寛永五年(1708)六月
⑤山川貞清墓碑 山川家三代 正徳二年(1712)正月
⑥山川貞胤墓碑 山川家四代 享保十九年(1734)四月
⑦山川貞幹墓碑 山川家五代 推定 寛政二年(1790)
⑧真光院殿墓碑 不詳 天保四年(1833)
令和三年三月 北区教育委員会」
⑧真光院殿墓碑 ⑤山川貞清墓碑 ③山川貞則墓碑 ②山川貞久後室逆修墓碑

④山川貞明墓碑 ⑦山川貞幹墓碑 ⑥山川貞胤墓碑

当山開基山川検校城官一族墓

①山川貞久逆修墓碑


<北区説明板>




<北区教育委員会文化財指定書>(本堂に掲示)

<多紀家墓所 附 金保氏墓 5基>
現地説明板設置の平成24年から、平成26年に指定の変更が行われているので、東京都ホームページの解説を引用します(振り仮名は省略しました)。説明板と、ほぼ同じです。墓石配置図も掲載されており、わかりやすいです。
なお、金保元泰墓が池上本門寺にあります(こちらで記載)。
(解説文)
「多紀家墓所は、幕府の奥医師を歴任した多紀氏の墓所です。4代元燕までは兼康姓を名乗っていましたが、5代元孝の時に多紀に改姓しました。以後、6代元悳、10代元佶は法印、5代元孝、7代元簡、8代元胤、9代元昕は法眼に叙せられ、奥医師として徳川吉宗ら将軍の医事を勤めています。多紀氏はまた、5代元孝が創設した躋寿館(後の医学館)で医育事業に取り組んでいます。本家、向柳原多紀家のほかに、7代元簡の5男、元堅が分家し、2代元琰ともに法印となっています。分家は矢の倉多紀家と呼びます。
多紀家墓所は、5代元孝が墓域南端に明和3年(1766)頃埋葬され、以後の墓石は墓域を反時計回りに、墓域内を囲むように建てられています。矢の倉多紀家は安政5年(1858)に歿した元堅から同墓所に埋葬が始まり、向柳原多紀家の東側に接して墓域を形成しました。歴代の墓石が規則的に配置され、近世医官の墓所としては稀な規模を有しています。」





「城官寺」は、かつての平塚神社の別当で、寺号は、開祖の山川城官の名を採っています。将軍徳川家光の病を治して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、平塚神社ともども再興したとされます。
山川城官貞久と一族の墓があり、北区指定文化財となっています。また、徳川家の侍医・多紀桂山一族の墓があり、東京都指定史跡となっています。
<江戸名所図会>
「平塚明神社 鎧塚 別当城官寺」の中で、平塚明神社への参道途中右手に城官寺が描かれています。


<山門>
山門にかかげられた山号「平塚山」扁額は、内閣総理大臣田中角栄氏の揮毫です。







<寛永寺の奉献石燈籠>
「奉献石燈籠
武州東叡山
大猷院殿尊前
遠藤備前守
従五位下平常季」
郡上藩主、遠藤常友(常季とも名乗った)による慶安5(1652)年4月の奉献です。




<地蔵尊>

<庚申塔>
六臂の合掌像です。三猿が2組置かれています。


<水盤>
水盤にくまモンとピカチュウ。

<本殿>


<山川城官一族墓碑 附 山川家墓碑・記念碑> 北区指定文化財(令和2年6月9日)

(説明板)
「北区指定有形文化財(歴史資料)
山川城官一族墓碑 附 山川家墓碑・記念碑
北区上中里一ー四十二ー八 城官寺
山川家は、元は「石亀」姓を名乗っていましたが、初代貞久(生年不明ー寛永二○、城官・藤十郎とも) のときに家名を改めました。
貞久は、慶長十六年(一六一一)に召されて徳川家光の近習となり、病気で失明して後は検校にまで昇りました。
鍼術に秀でた医者であり、寛永九年(一六三二)五月には談伴衆となって将軍の身体の健康をみました。
「大猷院殿御実紀」寛永十一年条には、その特技をいかして家光の病気を癒し、平塚明神ならびに別当城官寺の再興のきっかけをつくったことが記されています。また、「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」下巻(北区指定有形文化財)も、平塚明神に立身を祈願した貞久が家光の病気を癒して検校にまで出世したことや、祈願成就を感謝して平塚明神を再興したことなどを伝えています。
ここ、城官寺には、こうした山川城官貞久とその一族の墓碑八基、および記念碑が、城官寺歴代住職の墓近くに安置されています。貞久の墓碑は、蓮華座の上に、光背をもつ地蔵菩薩立像が彫られた大型のもので、貞久生存中に建てられました。
①山川貞久逆修墓碑 山川家初代 寛永十五年(1638)正月
②山川貞久後室逆修墓碑 山川貞久後室 慶安四年(1651)七月
③山川貞則墓碑 山川家二代 元禄四年(1691)六月
④山川貞明墓碑 不詳 寛永五年(1708)六月
⑤山川貞清墓碑 山川家三代 正徳二年(1712)正月
⑥山川貞胤墓碑 山川家四代 享保十九年(1734)四月
⑦山川貞幹墓碑 山川家五代 推定 寛政二年(1790)
⑧真光院殿墓碑 不詳 天保四年(1833)
令和三年三月 北区教育委員会」
⑧真光院殿墓碑 ⑤山川貞清墓碑 ③山川貞則墓碑 ②山川貞久後室逆修墓碑

④山川貞明墓碑 ⑦山川貞幹墓碑 ⑥山川貞胤墓碑

当山開基山川検校城官一族墓

①山川貞久逆修墓碑


<北区説明板>




<北区教育委員会文化財指定書>(本堂に掲示)

<多紀家墓所 附 金保氏墓 5基>
現地説明板設置の平成24年から、平成26年に指定の変更が行われているので、東京都ホームページの解説を引用します(振り仮名は省略しました)。説明板と、ほぼ同じです。墓石配置図も掲載されており、わかりやすいです。
なお、金保元泰墓が池上本門寺にあります(こちらで記載)。
(解説文)
「多紀家墓所は、幕府の奥医師を歴任した多紀氏の墓所です。4代元燕までは兼康姓を名乗っていましたが、5代元孝の時に多紀に改姓しました。以後、6代元悳、10代元佶は法印、5代元孝、7代元簡、8代元胤、9代元昕は法眼に叙せられ、奥医師として徳川吉宗ら将軍の医事を勤めています。多紀氏はまた、5代元孝が創設した躋寿館(後の医学館)で医育事業に取り組んでいます。本家、向柳原多紀家のほかに、7代元簡の5男、元堅が分家し、2代元琰ともに法印となっています。分家は矢の倉多紀家と呼びます。
多紀家墓所は、5代元孝が墓域南端に明和3年(1766)頃埋葬され、以後の墓石は墓域を反時計回りに、墓域内を囲むように建てられています。矢の倉多紀家は安政5年(1858)に歿した元堅から同墓所に埋葬が始まり、向柳原多紀家の東側に接して墓域を形成しました。歴代の墓石が規則的に配置され、近世医官の墓所としては稀な規模を有しています。」






テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
平塚神社
○平塚神社 北区上中里1-47-1
<社号塔>
社号塔が3基もあります。「郷社平塚神社」「平塚大明神」「平塚神社」




<参道>
参道は駐車場となっており、参道両脇は石碑ではなく車が並んでいます。一の鳥居を過ぎると、右脇に小さな門があり、途中ここをくぐって城官寺に行きました。拝殿手前に二の鳥居。




<境内社>
・石室神社(石神明神)
「豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。」


・御料稲荷神社、大門先・元稲荷神社



・菅原神社


<拝殿>
神社ですがお寺のような拝殿。狛犬は獅子の子落とし。ご祭神は、「八幡太郎 源義家命」「加茂次郎 源義綱命」「新羅三郎 源義光命」





本殿の後方の木々が甲冑塚古墳です。

拝殿の南脇に、石段参道があります。

「略縁起
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。」(平塚神社HPより引用)

<御神紋>
御神紋は「五本骨扇に月丸」です。
屋根、御輿庫、提灯、賽銭箱と、御神紋がいたるところで見られます。
源頼義の子で源義家の末弟・源義光の子孫である義光流源氏の一族である佐竹氏の家紋も同様です。
佐竹氏関連の寺社も同じ神紋を使用しています。
気になるのが、御輿庫や賽銭箱、屋根の「扇に月丸」の真ん中の丸が黄色ではなく赤く塗られています。
「扇に日の丸」と解釈される例もあるようです。
那須与一の扇の的は、赤地に黄色の日の丸だったので、黄色の日の丸もありますし。






(参考) 大鷲神社(花畑)の賽銭箱は月丸で黄色です。
(実はパンフレットは赤で、黄色と赤色が混在しています)

<甲冑塚古墳>
拝殿左手脇に柵が設けられ、立ち入りできなく非公開です。


<江戸名所図会>
「平塚明神社 鎧塚 別当城官寺」
挿絵の右に「本社」「よろひ塚」「くはんおん堂」。
挿絵の左に「此辺すべて平塚の城跡なり」と書かれています。
挿絵の下にある道には、左「王子道」、右「 道灌山道」と書かれています。


「八幡太郎義家兄弟奥州征伐凱陣のころ 武蔵国に入りたまい豊島某が住し平塚の城に逗留ありてありしに 鎧一領を賜わりけると 後 塚に築収めて城の鎮守とし平塚三所明神といつきまつりしも 実に武功のしからしむる故なるべし」

<平塚亭つるおか>

<社号塔>
社号塔が3基もあります。「郷社平塚神社」「平塚大明神」「平塚神社」




<参道>
参道は駐車場となっており、参道両脇は石碑ではなく車が並んでいます。一の鳥居を過ぎると、右脇に小さな門があり、途中ここをくぐって城官寺に行きました。拝殿手前に二の鳥居。




<境内社>
・石室神社(石神明神)
「豊島氏の後、平塚城主となった蘓坂兵庫頭秀次は平塚明神を篤く祀った。秀次はみまかりて社の外側に葬られるが、以降墳墓のあたりに毎年米が降るようになった。村の長老は秀次の石墳を石神明神と崇めた。石神明神は崇めれば必ず応えてくれ、水害や日照や疫病の除災に御神徳を顕したと伝えられる。」


・御料稲荷神社、大門先・元稲荷神社



・菅原神社


<拝殿>
神社ですがお寺のような拝殿。狛犬は獅子の子落とし。ご祭神は、「八幡太郎 源義家命」「加茂次郎 源義綱命」「新羅三郎 源義光命」





本殿の後方の木々が甲冑塚古墳です。

拝殿の南脇に、石段参道があります。

「略縁起
平塚神社の創立は平安後期元永年中といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得、将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たしました。その後家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願しました。将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復しました。家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らもたびたび参詣に訪れました。」(平塚神社HPより引用)

<御神紋>
御神紋は「五本骨扇に月丸」です。
屋根、御輿庫、提灯、賽銭箱と、御神紋がいたるところで見られます。
源頼義の子で源義家の末弟・源義光の子孫である義光流源氏の一族である佐竹氏の家紋も同様です。
佐竹氏関連の寺社も同じ神紋を使用しています。
気になるのが、御輿庫や賽銭箱、屋根の「扇に月丸」の真ん中の丸が黄色ではなく赤く塗られています。
「扇に日の丸」と解釈される例もあるようです。
那須与一の扇の的は、赤地に黄色の日の丸だったので、黄色の日の丸もありますし。






(参考) 大鷲神社(花畑)の賽銭箱は月丸で黄色です。
(実はパンフレットは赤で、黄色と赤色が混在しています)

<甲冑塚古墳>
拝殿左手脇に柵が設けられ、立ち入りできなく非公開です。


<江戸名所図会>
「平塚明神社 鎧塚 別当城官寺」
挿絵の右に「本社」「よろひ塚」「くはんおん堂」。
挿絵の左に「此辺すべて平塚の城跡なり」と書かれています。
挿絵の下にある道には、左「王子道」、右「 道灌山道」と書かれています。


「八幡太郎義家兄弟奥州征伐凱陣のころ 武蔵国に入りたまい豊島某が住し平塚の城に逗留ありてありしに 鎧一領を賜わりけると 後 塚に築収めて城の鎮守とし平塚三所明神といつきまつりしも 実に武功のしからしむる故なるべし」

<平塚亭つるおか>


蝉坂 平塚城戦
○蝉坂 北区上中里1-47-1
上中里駅から平塚神社の参道に沿って、日光御成道に合流する坂道「蝉坂」があります。
太田道灌の平塚城攻めの攻坂が蝉坂に転訛との伝えもあるようです。
(蝉坂標柱)
「蝉坂
六阿弥陀道の途上でもある蝉坂という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌「新編武蔵風土記」上中里村の項に「平塚明神ノ傍ニアリ、登リ三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約五十四mから七十二m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の「東京府志料」では「或云攻坂ノ転訛ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和十八年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です。
平成七年三月 北区教育委員会」




○平塚城戦
「江戸名所図会 平塚城戦」
鎌倉大草紙に文明十年正月廿五日道灌 豊島勘解由左衛門が平塚の要害へ押寄責ければ 其暁没落して敵は猶九間城小机の城に籠とあるは此平塚の事なり」
太田道灌との戦に負け続けた豊島氏の最後の負け戦が文明10(1478)年の平塚城戦です。

攻める太田勢、「丸に桔梗」の紋が見えます。

弓矢で応戦する豊島勢、「九曜紋」と「丸にかたばみ」の紋が見えます。

○飛鳥の小径
上中里駅前にある「飛鳥の小径」案内板。江戸名所図会の挿絵を掲示しています。

上中里駅から平塚神社の参道に沿って、日光御成道に合流する坂道「蝉坂」があります。
太田道灌の平塚城攻めの攻坂が蝉坂に転訛との伝えもあるようです。
(蝉坂標柱)
「蝉坂
六阿弥陀道の途上でもある蝉坂という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌「新編武蔵風土記」上中里村の項に「平塚明神ノ傍ニアリ、登リ三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約五十四mから七十二m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の「東京府志料」では「或云攻坂ノ転訛ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和十八年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です。
平成七年三月 北区教育委員会」




○平塚城戦
「江戸名所図会 平塚城戦」
鎌倉大草紙に文明十年正月廿五日道灌 豊島勘解由左衛門が平塚の要害へ押寄責ければ 其暁没落して敵は猶九間城小机の城に籠とあるは此平塚の事なり」
太田道灌との戦に負け続けた豊島氏の最後の負け戦が文明10(1478)年の平塚城戦です。

攻める太田勢、「丸に桔梗」の紋が見えます。

弓矢で応戦する豊島勢、「九曜紋」と「丸にかたばみ」の紋が見えます。

○飛鳥の小径
上中里駅前にある「飛鳥の小径」案内板。江戸名所図会の挿絵を掲示しています。


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