五條天神社
○五條天神社 台東区上野公園4-17
<正岡子規句碑>
五條天神社と花園稲荷神社が並んであります。正岡子規の句碑が花園神社側の入口横、自動販売機の横にあります。2句が刻まれています。
「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて
秋風や 旅の浮世の 果て知らず 子規」
(背面)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟紫会建立」




<江戸名所図会 山下其二 五條天神祠>
江戸名所図会に五條天神祠が描かれています。左下です。

拡大。

<名所江戸百景 上野山した(広重)>
鳥居が見えます。

<五條天神社>



<一山霊神>
木曽御嶽神社の行者・一山を祀っています。
御神紋は、御嶽に丸に三つ引きです。
御嶽神社(大田区北嶺町37-20)については、記述済です。

<北園稲荷神社>


<江戸名所図会 忍岡稲荷社>
北園稲荷神社は、江戸時代は忍岡稲荷社として描かれています。

<正岡子規句碑>
五條天神社と花園稲荷神社が並んであります。正岡子規の句碑が花園神社側の入口横、自動販売機の横にあります。2句が刻まれています。
「みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて
秋風や 旅の浮世の 果て知らず 子規」
(背面)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟紫会建立」




<江戸名所図会 山下其二 五條天神祠>
江戸名所図会に五條天神祠が描かれています。左下です。

拡大。

<名所江戸百景 上野山した(広重)>
鳥居が見えます。

<五條天神社>



<一山霊神>
木曽御嶽神社の行者・一山を祀っています。
御神紋は、御嶽に丸に三つ引きです。
御嶽神社(大田区北嶺町37-20)については、記述済です。

<北園稲荷神社>


<江戸名所図会 忍岡稲荷社>
北園稲荷神社は、江戸時代は忍岡稲荷社として描かれています。

テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
羽二重団子本店 善性寺
○羽二重団子本店 荒川区東日暮里5-54-3 03-3891-2924
<正岡子規句碑>
羽二重団子本店脇に、正岡子規句碑があります。
「芋坂も 団子も月の ゆかりかな」




<羽二重団子本店>
文政2年創業。
田山花袋書があります。昭和4年(1920)中秋 録は花袋の号。
夏目漱石「我輩は猫である」でも、羽二重団子が登場します。





値段は高いのですが、落ち着いた甘さで、歴史を噛みしめて美味しい。




<店の歴史>
・江戸期より明治22年までの茅葺の店舗。伊藤晴雨画

・明治22年より昭和17年までの木造店舗。

・昭和7年より昭和46年までの木造店舗。

・昭和46年より昭和58年までの、木造との併設ビル。

・昭和58年より平成29年までのビル。

○善性寺 荒川区東日暮里5-41-14
羽二重団子の向かいに、善性寺があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
将軍橋と芋坂(善性寺)
善性寺は日蓮宗の寺院で、長亨元年(一四八七)の開創と伝える。寛文四年(一六六四)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(一七○四~一七一一)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂下には文政二年(一八一九)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
荒川区教育委員会」


<将軍橋>


<正岡子規句碑>
羽二重団子本店脇に、正岡子規句碑があります。
「芋坂も 団子も月の ゆかりかな」




<羽二重団子本店>
文政2年創業。
田山花袋書があります。昭和4年(1920)中秋 録は花袋の号。
夏目漱石「我輩は猫である」でも、羽二重団子が登場します。





値段は高いのですが、落ち着いた甘さで、歴史を噛みしめて美味しい。




<店の歴史>
・江戸期より明治22年までの茅葺の店舗。伊藤晴雨画

・明治22年より昭和17年までの木造店舗。

・昭和7年より昭和46年までの木造店舗。

・昭和46年より昭和58年までの、木造との併設ビル。

・昭和58年より平成29年までのビル。

○善性寺 荒川区東日暮里5-41-14
羽二重団子の向かいに、善性寺があります。
(説明板)
「あらかわの史跡・文化財
将軍橋と芋坂(善性寺)
善性寺は日蓮宗の寺院で、長亨元年(一四八七)の開創と伝える。寛文四年(一六六四)六代将軍徳川家宣の生母長昌院が葬られて以来、将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(一七○四~一七一一)、家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
善性寺の向い、芋坂下には文政二年(一八一九)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
芋坂も団子も月のゆかりかな 子規
荒川区教育委員会」


<将軍橋>


テーマ : 歴史・文化にふれる旅 - ジャンル : 旅行
下谷神社
○下谷神社 台東区東上野3-29-8
<正岡子規句碑>
「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉 子規」
(背面)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟皐月会建立」


<江戸名所図会 下谷稲荷明神社>
江戸名所図会に、下谷稲荷明神社が描かれています。

<下谷神社>





(説明板)
「下谷神社
台東区東上野三丁目二十九番八号
天平二年(七三○)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(一六二七)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(一六八○)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
「下谷神社」と改称したのは明治五年(一八七二)である。関東大震災の後、昭和三年(一九二八)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。
平成十六年三月 台東区教育委員会」

<西参道>

<寄席発祥之地>
「江戸時代寛政10年(1979)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。」 (TAITOおでかけナビより引用)


<三笑亭可楽墓>は、潮江院(台東区今戸)にあります。

<隆栄稲荷神社>
力石があります。


<正岡子規句碑>
「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉 子規」
(背面)
「平成十三年九月十九日
正岡子規没後百年記念
台東区俳句人連盟皐月会建立」


<江戸名所図会 下谷稲荷明神社>
江戸名所図会に、下谷稲荷明神社が描かれています。

<下谷神社>





(説明板)
「下谷神社
台東区東上野三丁目二十九番八号
天平二年(七三○)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(一六二七)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(一六八○)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
「下谷神社」と改称したのは明治五年(一八七二)である。関東大震災の後、昭和三年(一九二八)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。
平成十六年三月 台東区教育委員会」

<西参道>

<寄席発祥之地>
「江戸時代寛政10年(1979)に馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎(のちの三笑亭可楽)が、素人噺家として入場料をとって興行を行ったことが、寄席のはじまりだといわれています。」 (TAITOおでかけナビより引用)


<三笑亭可楽墓>は、潮江院(台東区今戸)にあります。

<隆栄稲荷神社>
力石があります。


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子規庵
○子規庵 台東区根岸2-5-11 03-3876-8218
(説明板)
「東京都指定史跡
子規庵
所在地 台東区根岸二丁目五番十一号
指 定 昭和三十五年四月一日
正岡子規(一八六七ー一九○二)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升、本名は常規、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。
子規はこの場所に明治二十七年(一八九四)二月から住み、同三十五年(一九○二)九月十九日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
昭和二十年(一九四五)戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、昭和二十五年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
史跡に指定されている土地の面積は四○五.六平方メートル。
平成十二年三月設置 東京都教育委員会 」












(説明板)
「東京都指定史跡
子規庵
所在地 台東区根岸二丁目五番十一号
指 定 昭和三十五年四月一日
正岡子規(一八六七ー一九○二)は俳人・歌人・随筆家。幼名は升、本名は常規、別号を獺祭書屋主人、竹の里人などといった。伊予国藤原新町(現・愛媛県松山市)に生まれ、俳句・短歌の革新を唱え、また写生文を提唱した。
新聞「日本」及び俳誌「ホトトギス」により活動、子規庵での句会には森鴎外、夏目漱石も訪れ、歌会には伊藤左千夫、長塚節等が参加、歌誌「アララギ」の源流となる。
著書には、俳論「俳諧大要」「俳人蕪村」、歌論「歌よみに与ふる書」、歌集「竹の里歌」、随筆「墨汁一滴」「病床六尺」「仰臥漫録」など多い。
子規はこの場所に明治二十七年(一八九四)二月から住み、同三十五年(一九○二)九月十九日病のため没す。母八重、妹律は子規没後もここに居住し、その後は子規の門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。
昭和二十年(一九四五)戦災によって平屋造りの家屋は焼失したが、昭和二十五年鼠骨らにより旧規の通り再建され現在に至っている。
史跡に指定されている土地の面積は四○五.六平方メートル。
平成十二年三月設置 東京都教育委員会 」












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元三島神社
○元三島神社 台東区根岸1-7-11
松山俳句教会建立の正岡子規句碑があります。
「根岸名所ノ内
木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前 子規」
(背面)
「平成十三年三月吉日
正岡子規没後百年祭記念
松山俳句協会建立
台東区俳句人連盟協力」






松山俳句教会建立の正岡子規句碑があります。
「根岸名所ノ内
木槿咲て 絵師の家問ふ 三嶋前 子規」
(背面)
「平成十三年三月吉日
正岡子規没後百年祭記念
松山俳句協会建立
台東区俳句人連盟協力」






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