小梅堤~曳舟川

○小梅堤(こうめづづみ)

「江戸名所図会」

 源森川から曳舟川が北に伸びています。曳舟川の土手が小梅堤です。
 小梅堤は、向島の寺社に参詣する人々が通り、茶屋が立ち賑わいました。料亭「小倉庵」が有名で、記載されています。

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「名所江戸百景小梅堤」(広重)

 源森川から北に伸びる曳舟川と小梅堤が描かれています。
 曳舟川沿の小梅堤は、柴又帝釈天詣や水戸街道に出る旅人に利用されており、往来する人物が描かれています。一番手前に描かれている橋が八反目橋です。
 江戸幕府が万治2(1659)年に上水として開削し、その後、享保7(1722)年に上水としては利用されなくなりました。

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 上水として利用されていた時は、釣りは禁止でしたが、百景の小梅堤では釣り人が描かれています。

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「絵本江戸土産 小梅の堤」(広重)

「この辺總て北本庄といふ 吾妻橋より東にあたり させる勝地にあらずといへども 掘割の水の流れは一條の帯のごとく 農人廣野に耕すさま 筆にもをさをさ及ひなき風流閑静の土地なれば 世を避るの人 とくに住して老を養なふの便とす」

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「江戸高名会亭尽 本所小梅小倉庵」(広重)

 小倉庵は高級料亭で、建物が1棟ごとに独立して並んでいます。

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「江戸名所百人美女 小梅」(豊国・国久)

 湯あがりの美人は、小倉と書かれた浴衣を着ています。徳利の袴にも小倉とあります。

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「小梅曳舟通雪景」(小林清親)

 広重の名所江戸百景と同じく頭巾の女が描かれています。

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「小梅挽舟の雪」(井上安治)

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○曳舟川の由来碑 墨田区押上2-1-1とうきょうスカイツリー駅北交差点

 墨田区内の曳舟川通りにある曳舟川の痕跡が、曳き舟をかたどった「曳舟川の由来碑」です。ここは、曳舟川に架かる八反目橋があったところです。

(碑文)
「曳舟川の由来
 曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(一六五九年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。
 その後、享保七年(一七二二年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。
 この川が「曳舟川」と呼ばれるようになったのは、「サッパコ」と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。
 また、曳舟川には古くから多くの橋が架けられており、薬師橋、鶴土手橋、地蔵橋、庚申橋などの名前が文献に見られますが、この付近(小梅児童遊園)にも八反目橋が架けられていました。この辺りの小梅という地名は、元は梅香原と呼ばれる梅の木の多い地域だったことによるもので、八反目の名も八反梅(八○アールの梅林)から来ているとの説もあります。
 昭和二十九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三十年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。
 平成五年三月 墨田区」

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<曳舟川通り>

 とうきょうスカイツリー駅北交差点から、曳舟川通りを見たところです。ここがかつての曳舟川と小梅堤です。新四ツ木橋までほぼ直線の道路が続きます。

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 新四ツ木橋手前の道路標です。

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○小梅児童遊園 墨田区向島1-33-3

 曳舟川を埋め立てて造られたのが、小梅児童遊園です(1956(昭和31)年)。

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<おぼろけ>

 161本のポールが建てられたアート作品「おぼろけ」があります。

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(説明板)
「おぼろけ Oboroke 2011年制作
 敷地は東京スカイツリーの目先にあり足下には様々な人、物、建物が混在しています。その足下の風景を棒のフィルターでぼやかす事でどの場所でもない抽象化されたビュースポットをつくろうと考えました。また、墨田生まれの葛飾北斎は遠景に霧雨や雲を重ねて描く事で空間の奥行きを表現していました。おぼろけな風景の中で東京スカイツリーはよりクリアに浮かび上がり新たな鑑賞のかたちをつくりだします。」
(※ GTS観光アートプロジェクトとは、東京芸術大学(G)、台東区(T)、墨田区(S)の共催による地域連帯プロジェクト)

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○小梅一丁目町会神輿庫 墨田区向島1-31-8

 「小梅児童遊園」から、東武線高架橋をくぐるところに「小梅一丁目町会神輿庫」「小梅一丁目町会会館」があります。
 曳舟川の北十間川への落口の水門があった場所です。かつて水門橋と小梅橋がありました。

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○平和地蔵尊 墨田区向島1-32-8

 北十間川へ突き当る手前左手に「平和地蔵尊」があります。

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○小梅橋 墨田区向島1丁目〜墨田区吾妻橋3丁目

 小梅橋は、現在は北十間川に架かる橋です。老朽化に伴い新橋に架け替え、2020(令和2)年4月1日に開通しました。
 小梅橋から墨田側方向に、「小梅橋船着場」(墨田区向島1-23地先)があります。

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○浮世絵に見る曳舟

「名所江戸百景 四ツ木通用水引ふね」(広重)

 曳舟川で曳き舟が行えたのは、水路が真っすぐなこと、橋がないことでした。上水廃止後、亀有から四ツ木の間で曳き舟が行われました。
 この錦絵が描かれた場所は諸説ありますが、ここが亀有だとすれば、奥に見える橋が水戸街道で、その手前に船着き場があり、何艘かサツパコが停まっています。
 近景は、サツパコと曳き手で、サツパコ三艘のうち、二艘は女性が曳いています。
 遠景は、日光連山が見えます。川がカーブしているのは、奥行きを出すためのデフォルメです。

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(拡大)
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「絵本江戸土産 四ツ木通 引舟道」(広重)

「前に記せし掘割は その長きこと二里に餘り 末流新宿の川に入る 適ここを過るの旅客舟に乗て往還すれど 元来幅の狭きによりて その舟に縄を掛け陸にありてこれを引く 因て引舟道りと唱ふ 水竿を操り盧をおすより またその客は風雅なり」

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「江戸名所道外尽四十 四ツ木通りの引ふね」(歌川広景)

 土手で一服している物売りのキセルにもう一本別のキセルが引っかかっています。舟客が吸っていたキセルが、土手のキセルにからまって「サッパコ」の舟客は驚きの表情です。

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「東京小梅曳船夜図」(小林清親)

 明治9年の曳船の光景です。船は描かれていませんが、船をそれぞれ曳く男女が描かれています。男は咥え煙草でしょうか、煙草の煙が後ろにたなびいています。
 引き舟が行われたのは亀有と四ツ木の間ですが、明治初頭はタイトルにある小梅でも行われたのでしょうか?小梅辺りは橋が多く物理的に引き舟は厳しいと思います。
 川が曲線となっているのは、広重と同様デフォルメでしょう。

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幸田露伴住居跡 歌川豊広辞世の狂歌碑

○幸田露伴住居跡  墨田区東向島1-7-11露伴児童遊園

<カタツムリと「運命」>

 露伴児童遊園は、幸田露伴の旧居「向島蝸牛庵」跡にある公園です。
 「蝸牛庵」とは、転居を繰り返していた露伴が、殻を背負って移動するカタツムリに例えて名付けた庵号です。

 露伴は雨宮酒店の隠居所を借りて居を構えていましたが、明治41(1908)年に、自分で家を設計し「蝸牛庵」と名づけて住みました。関東大震災の影響で井戸の水が濁ってしまったため、大正13年小石川へ転居しました。

 墨堤通りと地蔵坂通りの間の一方通行路にあり、墨堤通りからは、鳩の街通りと一方通行路の入口が分かれています。

 露伴児童遊園には、露伴や蝸牛庵についての説明板、露伴の代表作の一つ『運命』の一部を引用した「幸田露伴文学碑」等が設置されています。

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<露伴児童遊園のこと> 

(碑文)
「露伴児童遊園のこと
ここは文豪幸田露伴が明治四十一年から大正十三年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治二十六年冬この寺島町かいわいに来住しそれから約三十年最も力の溢れた時期をこの地にすごし数々の名作を書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲、などしてよく庭で遊んだそうです。
このゆかりの地を永久に記念したいと露伴を思慕される地主の菅谷辰夫氏が区に寄贈されました。寺島の土地を愛し親しんだ幸田露伴の旧跡を子供たちの楽しい遊び場としていつまでも保存しようと児童遊園を造ったものです。
  昭和三十九年三月建立  墨田区」

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<幸田露伴文学碑>

(碑文)
 「 幸田露伴文学碑
  世おのづから數といふもの有りや。
 有りといへば有るが如く、
 無しと為せば無きにも似たり。
 洪水天に滔るも、禹の功これを治め、
 大旱地を焦せども、湯の徳これを濟へば、
 數有るが如くにして、而も數無きが如し。
            「運命」より」

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(碑陰)
 「文豪幸田露伴は、長くこの地に居住され、幾多の名作を残された。
  ここに向島時代の名作「運命」の冒頭の一節を刻み、その偉業を偲ぶものである。
  平成二年十二月吉日 墨田区 」

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<蝸牛庵物語>

「幸田露伴と向島」
 幸田露伴(慶応三年(一八六七)〜昭和二十二年(一九四七)は、明治・大正・昭和の三代にわたって、小説をはじめ評論や随筆、詩歌、考証研究などに幅広く活躍し、大きな足跡を残した文学者です。若き日の明治二十年代から、「風流仏」や「五重塔」などの名作を次々に発表し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と並び称されました。向島にはじめて住んだのは明治二十六年のことで、現在の白髭橋近くにいた父母や兄が、隅田川対岸の橋場へと転居したのにともない、そのあとに入ったのです。岐雲園と称されるこの家は、もと幕末の外国奉行だった岩瀬忠震が建てたもので、汐入の池や梨畑のある広い庭を持っていました。」

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「向島蝸牛庵」
 露伴が岐雲園に住んだのはわずか一年ほどでしたが、数年後の明治三十年にはふたたび向島へと戻り、当地よりほど近い、雨宮酒店の隠居所を借りて居を定めました。現在、博物館明治村に移築されているこの家では、のちに作家になる娘の幸田文が生まれています。
「蝸牛庵」とは露伴の家のことで、若いころから転居続きだった自分を、殻を背負って歩くかたつむり(蝸牛)に譬えたのが由来です。
生涯にわたって用いられた庵号で、特定の建物を指すわけではありませんので、区別のためにしばしば地名を冠して呼ばれます 。」

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「当地について」
  明治四十一年(一九○八)、露伴はみずからの設計で家を新築し、当地に移り住みました。短期間の居住におわった岐雲園をのぞけば、ここが第二の向島蝸牛庵にあたります。隣には割烹料亭「雲水」の庭が広がるすぐれた環境で、中国明代の靖難の変を題材にした歴史小説「運命」をはじめ、「幽情記」や「望樹帰」といった代表作がいくつも執筆されました。この家で少女時代をすごした幸田文は、当時の様子を「みそっかす」や「糞土の墻」に美しく描いています。しかし、関東大震災によって井戸水が濁ってしまったことなどから、大正十三年、一家は十六年あまりをすごしたこの地を離れ、小石川に移転していったのです。」

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<英文/資料説明>

 英文「Modern Author Koda Rohan and his“Snail Cottage”」の説明もあります。
 説明板の背景には明治村に移築された第一の蝸牛庵の写真がデザインされています。

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○歌川豊広辞世の狂歌碑 露伴児童遊園内

 「師祖豊広翁辞世
   死んでゆく地獄の沙汰はともかくも あとの始末は金次第なり
                         二世広重建之」

 歌川派の基礎を築いた浮世絵師、歌川豊広の辞世の句を刻んだ碑が幸田露伴児童遊園にあります。
 墨堤下に建立したとされる石碑で2度目の移設で現在地にあります。

 明治20(1887)年の歌川豊広60回忌に三世歌川広重が建立しています。

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tag : 向島幸田露伴

向島 旧邸通り ほか

向島 旧邸通り

 ○ 榎本武揚旧邸跡 (記載済
 ○ 依田學海旧居跡
 ○ 成島柳北の住居跡

向島 鳩の街通り

その他
 ○ 堀辰雄住居跡


○依田學海旧居跡 墨田区向島5-40(言問小学校)

(説明文)
「依田學海旧居跡 12
 佐倉藩士の家に生まれた學海は、藩校・成徳書院で漢学を学び、教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携っている。53歳で退官し、創作や文芸評論に力を注いだ。
 森鴎外の師としても知られ、『ヰタ・セクスアリス』の中では文淵先生として登場。向島の隅田川の土手を臨む須崎村142番地(向島5丁目、言問小学校のあたり)に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたことを書いている(実際は妾宅で、漢文の直しを乞いにきた鴎外は気がつかなかった)。
 鴎外が15歳頃の出会いだが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては『送森軍医遊伯林序』という漢詩を贈っている。
 向島百花園にもよく足を運び、明治15年に発行された『墨水二十四景記』には、百花園について記載している。同書は永井荷風著『墨東綺譚』の主人公が持って歩いていたことでも知られている。
 また、50年以上に亘って書き続けた日記『學海日記』には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料にもなっている。」

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〇成島柳北の住居跡 墨田区向島5-40(言問小学校)

(説明文)
「成島柳北の住居跡  所在 墨田区向島五丁目四十番 言問小学校
 成島柳北(一八三七~一八八四)は、幕府の儒者の家に生まれ、奥儒者として将軍徳川家定・家茂に仕えました。後に、騎兵奉行・外国奉行を歴任しました。
 明治維新後は、新政府の招きを固辞し、「朝野新聞」の主筆として、新聞条例や讒傍律を批判したことで知られました。
 明治十七年(一八八四)十一月、海棠園と呼ばれたこの場所で四八年の生涯を閉じました。初め、横川にある本法寺に葬られましたが、明治四二年(一九○九)に豊島区の雑司ヶ谷墓地に改葬されました。
 明治十八年、長命寺の境内に柳北の記念碑が建てられました。
  平成十三年三月  墨田区教育委員会 」

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○鳩の街通り

 かつての赤線地帯です。

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○堀辰雄住居跡 墨田区向島3-36-7

 墨田区すみだ福祉保健センターの一角に「堀辰雄住居跡」があります。

(説明板)
「堀辰雄住居跡  所在地 墨田区向島三丁目三十六番
 堀辰雄は明治三十七年(一九〇四)、麹町平河町(現在の千代田区平河町)に生まれました。二歳のとき、母に連れられ向島小梅町(現在の向島三丁目)に住む叔母の家に移りました。明治四十一年には母が彫金師上條松吉と結婚し、向島中ノ郷町三十二番地(現在のすみだ福祉保健センター所在地)で暮らしはじめます。新居は「曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家」でした。そこは辰雄にとって「とりとめのない幸福を今の私にまでまざまざと感じさせる」大切な場所であり、辰雄のための小さなブランコが吊るされていた無花果の木や日あたりのいい縁側などがあったと『幼年時代』に記しています。明治四十三年の大水で新小梅町二ノ四(現在の向島一丁目十六番)に移るまで、この地で過ごしました。
 牛島尋常小学校を経て、府立第三中学校(現在の都立両国高校)を卒業した辰雄は、後に室生犀星の紹介により、同校の先輩である芥川龍之介を知り文学的影響を受けます。
 関東大震災では九死に一生を得ますが、母を亡くしました。大正十三年(一九二四)四月に父松吉が隅田公園裏の新小梅町八番地(現在の向島1丁目七番)に住居を新築し、辰雄は結婚して軽井沢へ赴く昭和十三年(一九三八)まで父と共にそこで暮らしていました。辰雄は松吉を慕い、同年十二月に松吉が亡くなるまで、彼を実父と信じていたようです。
 人生の過半を向島で過ごした辰雄は、「墓畔の家」や『幼年時代』などの作品に、当時の墨堤や近隣の寺社の様子を記しています。昭和初期の文学の傑作として高い評価を受けた『聖家族』をはじめ、『風立ちぬ』『美しい村』など愛や生死をテーマとする代表作を残しました。
  平成二十三年二月  墨田区教育委員会」

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tag : 向島成島柳北

江戸名所図会 向島

○江戸名所図会等

「大川橋 吾妻橋とも名づく 隅田川両岸」

 大川橋は隅田川の5つの橋のうち、最後に架けられた橋です。下流から上流を俯瞰しており、筑波山が描かれています。

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 長命寺周辺を拡大。
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「牛御前宮 長命寺 隅田川東岸」

 画像加工で1枚にまとめています。

  「五元集
   是やみな 雨を聞く人 下すすみ  其角」

  長命寺部分には
  「釈迦堂」「奈木」「延寿椎」「本社」「地蔵」「こんせい神」「芭蕉庵」が記されています。

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「弘福禅寺」

 挿絵には 「木犀や 六尺四人 唐めかす  其角」 とあります。

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「三囲稲荷社」

 挿絵には
 「五元集
  早稲酒や きつね よい出す 姥がもと  其角」 とあります。

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「江都名所 隅田川はな盛」>(広重)

 江戸名所図会とは反対の、上流から下流を見た図です。下流に渡しの階段と、奥に大川橋が見えます。上流の長命寺辺りの桜が大きく描かれています。

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「江戸高名会亭尽 向島 大七」(広重)

 鯉料理は、向島の葛西太郎、大黒屋孫四郎などの料理茶屋が有名でした。
 大七(大国屋茶四郎)は、鯉料理で有名な店で、浴場がありました。風呂上がりの人が描かれています。

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「江戸高名会亭尽 三囲之景」(広重)

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「銀世界東十二景 隅田川両川岸一目の月」(広重)

 三囲神社の鳥居が描かれています。

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「江戸名所百人美女 墨水花台」(豊国・国久)

 こま絵に三囲稲荷の石鳥居が見えます。墨堤には桜が咲き、隅田川下流には吾妻橋が見えます。
 美女は狐が化けているのかも?歌川広景や昇齋一景だったら狐のシッポを付け足しているでしょうね。
 「早稲酒や きつね よい出す 姥がもと  其角」

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「江戸名所百人美女 三囲」(豊国・国久)

 こま絵に三囲稲荷の石燈籠と石鳥居が見えます。墨堤には桜が咲いています。

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「東京開化狂画名所 墨堤三囲社 野狐の愉快」(月岡芳年 明治14年 都立図書館蔵)

 墨堤の三囲社の鳥居前で狐の宴会です。酒を注ぐ女性にはシッポが出ています。
 其角の句に「早稲酒や きつね よい出す 姥がもと」があります。

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見番通り

○見番通り

<須崎会館> 墨田区向島5-4-1

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向嶋墨堤組合> 墨田区向島2-9-9
 
 「龍神」碑と、社があります。

 今年の墨堤さくらまつり(2020年3月25日(水)~4月6日(月))は、新型コロナウィルス対策のため、中止となりました。仕方ないですね。

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(説明板)
「向嶋墨堤組合
江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。
 伝統や文化の損失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかつての賑わいを取り戻していった。 粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも波及していった。
 向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄などの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。
 向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成24年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。」

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<すみだ郷土文化資料館> 墨田区向島2-3-5

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